56日目 カウントダウン…2…
地面といえない大地から光が漏れていて、どこでもない空間に護熾は佇んでいた。
風もなく、温度もなく、音もなく、地面からあふれ出る光以外ないこの場所を、彼は知っている。
ここは眼の使い手のみ到達することが可能な空間であり、同時にここでしか眼の使い手としての高見を目指すことができない空間、それは"内なる理"と呼んだ。
護熾は慣れた様子でその空間をゆっくりと首を動かして確認した後、ジッとその場で待つ。
待つこと数分、ようやくこの空間にも変化が訪れる。
カツ、カツ、カツ、カツ、カツ
革靴が地面を叩いているような、乾いた反響音。
護熾はそれを聞き取ると、暗闇の中の音、つまりその方向に顔を動かし、その姿が見えるまで待っていた。
そして音が大きくなるにつれ、奥から出てきたのは相変わらず黒いサングラスを掛けている若い男、第二と自称する存在だった。
「よお、自分から俺を呼ぶなんて何か用でもあんのか? それとも訓練でもしてくれんのか?」
護熾がにやっとした不敵な顔でこちらに向かって歩いてくる第二を見据える。
第二も護熾と同じくにやっとした不敵な顔で、
「ああ、今回は訓練で呼んだ。前回の怪物退治は見事だったな、護熾」
少し嬉しそうに言う。
そして護熾の前に立つと顎に拳を当てて視線を落とし、悩み事でもするようにう~んと、唸り始めた。
う~ん。 護熾は頬をポリポリと掻く。
う~ん。 護熾はボリボリと後ろ頭を掻く。
う~ん。 護熾は怒りマークを額に浮かべながらボキボキと拳を鳴らす。
それはそれは長く時間がかかり、約一時間が経ったときに第二はようやくピンッと何かを閃いたように護熾に指さした。
「今回はそうだな~~……直線的な攻撃以外の柔軟な攻撃を鍛えるか?」
そう護熾に尋ねるように言った後、目の前で腕を構え、ファイティングポーズをとるとボクサーみたいに左右に小刻みにステップを披露し始める。
「よ~~し護熾、今回の訓練は俺に一発でもパンチを当てたら……――」
合格、でも当てられなかったらここから出さない! と今回決めた彼のメニューと条件を最後まで言おうとしたとき、突然目の前が真っ暗に染まる。
するとガシュッ! と景気のいい音が頭の中で響く。
そして顔面に痛みが走り、それからゆっくりと真っ暗な視界に灯りが戻る。
それが拳だと分かるのに、数秒を要した。
そして、殴った張本人の護熾はゆっくりと拳を引き戻し、その手を開くと人差し指を突き出し、言った。
「遅いわこらァ!! ……そしてあんたって何でそんなにウザいの!? バカなの!? アホなの!? 死ぬの!?」
苛ついた表情は絶え間ない暴言を連発し、それから先程殴った手を下ろし、相手の返事を待つ。
それを聞いていた第二のヒビの入ったサングラスはパキッといい、破片が足許に落ちて空間内に小さな音を響かせる。
それからしばらく、第二は普段見せることがないと思われた惚けた表情だったが、やがて何か切れたようにフッとほくそ笑み、一言告げる。
「……合格だ」
「え? 何? 訓練は?」
護熾はどうやら第二の言ったことを聞いていなかったようで第二のその長ったらしくうざったい態度に爆発し、勝手に体が動いて顔面にパンチを食らわすのに至ったのである。
第二は護熾が自分の話を聞いていなかったことに少々呆れていたが、やがて背を向けて奥へと歩き出した。
護熾は帰ろうとしている第二に手を伸ばす。
「ちょっ、お、おい!! 訓練は!? もう終わりなのか!? てめえ何のために俺を呼んだんだよ!? あんなに待たせやがってよお!?」
怒りと疑問を含んだ声で呼び止めようとするが第二は歩きながら右手を顔の横に持ち上げ、パチンッと指を鳴らした。
すると護熾の足元が急になくなり、落とし穴みたいな穴ができ、光のない暗い穴へと護熾はヒューっと、吸い込まれるように落ちていった。
『てめえ~~~~~!! 次会ったら今度はそのサングラス完全に壊し……―――』
護熾の捨てぜりふを最後まで聞かず、第二はその穴から段々と遠ざかって行く。
そして穴は小さく閉じていき、やがて元通りになった。
第二は心の中で実は心底喜んでいた。
その喜びは若干の驚きを含んでいるが、護熾が開眼もせずに自分に触れたことが何よりも嬉しかった。
(護熾、お前はすごいよ。パンチの速度に反応できなかった。ほっといてもこの成長はすごい、まるで日光を浴びて育つ植物のようだな…………翠なだけにか…)
そして足をピタッと止め、今まで来た道を振り返るように顔を向ける。
その表情は、先程の笑みは消え、誰もが真剣だと伺えるような顔であった。
『でも、お前に何かの脅威が迫っている。気をつけろよ』
護熾に語りかけるように静かに呟く。
『その脅威がお前の運命をまた変えるかもしれないからな』
そして顔を再び前に戻し、奥へと歩き出すと、スッと姿を闇の中に消していった。
その空間はもう、誰もいない寂しい空間となった。
海洞家の二階へ上がる階段を誰かがドタドタと喧しく上り、部屋の扉を勢いよく開けた。そして部屋の中を見渡すと床に護熾が寝そべっているのを発見し、急いで駆け寄るとその場でしゃがみ込み、両手に拳を作ると、ポカポカと護熾を叩く。
「起きなさい、護熾~~~~~! お腹減った~~~~~~~!」
「う……う~ん……?」
所要時間五秒。護熾は叩かれたことに気づき、うっすらと目を開けて自分を叩いている人に向かって寝返りをうち、正体を確認した。
艶やかな髪、大きな瞳、小柄な身体。
ユキナがぷく~っと顔を膨らませて見下ろしていたことに気がついた護熾は時間を確認すべく机の上に視線を移す。
「ん? あ? もうこんな時間か……」
ユキナから視線を机の上に置いてある目覚まし時計に移し6:10と確認した護熾は欠伸をしながら体を起こし、ユキナの要望に応えるべく、ドアへと向かい始める。
「そうよ、それでいいのよ。今日はわたしが寝る番~~♪」
鼻歌交じりに今日は自分がベットで寝ることを口ずさみながらドアへ向かった護熾の背中を追いかけるように歩み出すユキナ。
彼の作るご飯はおいしい、それは居候生活で覚えた一日の中で最も嬉しいものなのだ。
そうユキナに格付けされているとは知らず、護熾は頭をボリボリ掻きながら、先程寝ている間に自分の身に起こったことについて思い出すと、
「くそっ、あのやろ~~」
そう、独り言をゴチながら、立ち上がり、ふらふらと階段を降りて台所へと向かった。
外では一人、暗い夜道を走っている女子生徒がいた。
今はまだ夏が過ぎた直後なのでこの時間でも町並みは既に暗くなっている。
そしてこの女子生徒が走っているコースは場所的には外灯が無いため、少し見通しが悪い。
親から『あなたは足が速いから、いざとなったら全力で叫びながら逃げなさいよね』と防犯ブザーを渡され、それは今ポッケに収まっている。
その女子生徒は七つ橋高校のジャージを羽織り、少し息を切らしながら走っていた。
(こう、走っていたら……海洞くんとバッタリ……ってことはないよね?)
他愛もない思い人との邂逅に期待してみるが、現実はそうはいかないと考えると、ため息をつく。
七つ橋高校1-2組、斉藤千鶴は陸上部なのでこういった部活動以外でも空いた時間を利用して自分を鍛え、来るべき大会の為に日々こうして決まったルートを走っているのだ。
その自宅から道路沿いを走り、途中で右に曲がって護熾が帽子を取ってくれた田んぼ道を抜け、今は学校の前を通ろうとしていた。
学校の校門前を走り抜けようとしたときにふと何かに気が付いたように立ち止まる。そして校舎を見上げるようにして見る。
(そういえばユキちゃんが来てからもう二ヶ月が経ったね)
彼女がやってきてから、クラスの元々の明るさがもっと際だつようになったと思う。
それに彼女、結構頭も良いし、運動能力も抜群で、尚かつ朗らかな性格をしている。
それによく、海洞くんと一緒にいて……
そこで一旦、少し悔しい気持ちが生まれていることに気がつくと首を振って、急いで誤魔化すように先程より速く走り出した。
校舎の上をしんと鳴り渡る星々が夏と秋の間にある夜空を覆っている。
その光景は自分がまるでホントにちっぽけだということを改めて思い知らされるほどの不思議な空間。
だが、そのすぐ側にあるのは……
「さて、ここから家まで切り返しね」
千鶴はそこから右にターンし、別のたんぼ道に向かって学校に背を向け、自宅に向けて走り出す。そしてその背中を見送っているのは学校と…………―――
西に新たに聳え立ち、三本に増えたシャボン玉液色の柱だった。
夜明けが近づいた七つ橋町に朝日がゆっくりと照らし始める。
護熾の部屋ではベットの方にユキナが布団に潜り、枕に頭を置いてスースー、と静かな寝息を立てている。
その横の窓際の方に護熾は地平線の彼方から顔を出した太陽を待ちわびてかのように眺めており、やがて立ち上がると町が眠りから覚める一足先に台所へと向かった。
それから三時間後、ユキナが起き、ベットから飛び降りると、パジャマから制服へと着替え、何もないと訴えるお腹のために1階のテーブルへと降りていった。
護熾はエプロンをしており、今朝のメニューは日本定番の焼き鮭とみそ汁らしく、鍋の火加減やフライパンなどを振るって、朝から忙しそうだった。ユキナは『昨日は出たの?』と、怪物が出たどうかを尋ね、『いや、出なかった』と、護熾は短く答え、皿に焼き鮭を盛りつけ、テーブルに運んでいった。今日一日が始まる。
1−2組の教室では護熾が退屈することはない。
なぜなら見てもいないサッカーの話をする宮崎やユキナの魅力について熱く語る木村、そして、
「いえ~~~海洞! おっはよ~~~~!!」
朝からハイテンションな沢木が席に座って眠そうにしている護熾の肩をどつき、前の席にいるユキナに挨拶をし、カバンを置いてから席に座る。
「おっはよ~~! 千鶴! ユキちゃん! そして今日も一人除いてテンションが高い男子共!!」
教室の引き戸を開けて入ってきた近藤は千鶴とユキナの名前を呼び、護熾達男子に挨拶をしたあと沢木の後ろの席の横にカバンを置き、ユキナと斉藤の間の位置に来ると、三人でおしゃべりを始める。徹夜で夜を通した護熾は頬杖をついて大あくびをするとそのまま机に突っ伏して一時間目のチャイムが鳴るまで寝ることにした。
「おいおい海洞! 寝るな寝るな! 眠いならしゃべって吹き飛ばそうぜ」
沢木が寝ている護熾の肩を揺さぶって起こそうと試みる。
護熾が鬱陶しそうに目を開けて沢木に振り向く。
「俺は眠いんだ。いろいろあってな。」
そう無愛想に言い、また机に突っ伏して寝始める。だがどこから入ったのか、蚊が教室内を飛び回り、やがて寝ている護熾の頭にピタッと降り立った。
すると護熾の頭にチョップが振り下ろされる。
ヒュッ、ゴン!
護熾は机に鼻をぶつけ、全身に電撃のようなものを感じ取ると鼻を押さえながら飛び上がり、涙目になりながら自分にチョップをした犯人を見る。
そこには席に座ったままこちらに身体を向け、手を手刀の形にし、蚊を潰したユキナがいた。
「いってええええぇぇぇ!! 何!? 俺なんかしたか!?」
「ち、違うの護熾! 蚊があなたの頭に来たから潰したのよ!」
「それだったら声を掛けてくれよ!! もう少しで鼻血が出るところじゃねえか!」
「何よ!! 人が親切にやってあげたっていうのに!!」
「親切じゃねえ! 攻撃だよさっきの!!」
「ユ、ユキちゃん……か、海洞君……落ち着いて……」
千鶴の呼びかけも虚しく、眠気が吹き飛んだ護熾と親切で蚊を潰したユキナの口喧嘩が1−2組の教室で壮絶に行われ、一時間目が始めるまでのおよそ約15分間、ケンカするほど仲が良いと思わせるくらいまで続いた。
その様子を第二の言っていた"脅威"が見ていた。
電柱から口喧嘩をする二人の様子を見ていた脅威は陰謀の塊のような獰猛な表情を浮かべるとその場から残像を残して姿を消す。
日常が"非日常"へと変わるときが来た。