ユキナDiary---第拾参話 終幕 下 ―アスタ・ラ・ビスタ―
とうとうユキナDiary-を締めるお話となります。そしてここで私は多くは語りません。本文が長いからです。そしてタイトルも駄洒落のつもりでやったわけではありませんのであしからず。それではどうぞっ!
それは一目惚れだったと、今なら言える。
初めて出会った時、何の警戒心もない、無邪気な微笑みは今も覚えている。波のかかった髪も、左目にした眼帯も、彼女の魅力に思えるほど、とにかく外見だけで真っ先に惚れたことを今でも覚えている。そして知れば知るほどに、天才と謳われたとは裏腹に愛らしさを覚え、ますますのめり込んでいった。
しかし女性との交流を続けていくうちに、彼女は将来を誓った相手が怪物の手によって殺められ、その仇討ちとしてこの一大プロジェクトを掲げていることを知らされた。それは同時に全霊を持って彼女に協力することと、自身の本当の気持ちを胸の奥に仕舞い込ませる要因になったが、それでも傍に居たいと思い、今日まで後輩にあたるストラスと共に彼女の右腕として在り続けたのだ。
かつてストラスはこんな零れ話を彼の口から聞いている。
『タバコより甘い飴、そんな飴より甘い、……恋って奴か? うわ、そんなこと考える俺気持ち悪。でもよく考えろ。相手は身亡人で年だってちょいと離れてる。だからあの人が俺に振り向いてくれる可能性を考えると…………計算不可だなこりゃ』
その後やっぱ忘れてくれ、そんで絶対言うなよと釘を刺したのは言うまでもない。
しかしそんな平穏な日々を霞ませる出来事が、この二人の眼の前にまざまざと見せ付けていた。
覗き込んだ二つの影に気がつき、ミョルニルは薄く眼を開けた。
「あ、…………トーマくん、に、ストラスくん……」
まるで霧でも掴むかのような危うい手つきで、二人の頬を指先で触れようとするが、既に眼の焦点があってないのか、掠りもせず再びその手が落ちそうになる。しかしその手は落ちず、代わりにトーマが受け止めて握りこむ。冷え切った指先は、既に体が死に始めていると有りのままに告げてくる事実に、トーマは嗚咽を引きそうになる。そもそも即死しなかったのが奇跡なのだ。しかしそれでも急所を貫かれ、施しようのない失血によって彼女は確実に死に向かっている。
「…………勝ったん、だね……」
「ああ、ああ…………あんたのおかげで、な」
嗚咽を抑え、トーマは声を出す。
どんなに心が軋みを上げ、悲鳴を上げ、砕けそうになろうとも、そんなものは後だ。今は彼女の言葉を聞き届けなければならない。
「でも……、あなたの眼…………」
「いいんだよ。そんなもんより、あんたの方が……」
「…………そうだね」
死を間近に控えても尚、彼女は微笑んでみせる。もう自分の容態がどういう状態なのかは彼女が一番良く知るものだ。だけどこの結果に彼女は後悔していない。だからこそ自身の末路を受け入れているのだろう。
「私のように、もう大切な人を失わないように、今日まで研究してきましたもん。これでようやく、あの人に顔向けができるわ…………長かった。もう、私のように泣かずに済む人が、増えればいいな」
「…………本気で、言ってんのか……?」
彼女のを握った手が、堪え切れず震えを伴い始める。
「ここに、いるじゃねえか……! あんたに涙を流す奴らが…………!」
その言葉にミョルニルは少し驚いた表情の後、再び微笑を向ける。
「そうね……失ったばかりじゃないのね…………だからこそ、あなたたちを護れて、良かった……」
ここで堪え切れなくなったストラスが近づき、ミョルニルのもう片方の手に掌を重ねる。
「師匠は結界を、先輩は眼の使い手という実績を作ってるんすから、自分はそれと同等のことを成し遂げたいッす。もっと今の時代に当てはまって、それでそこからさらに応用が利くような研究、それでお二人を仰天させてみるのが自分の夢です」
そう嗚咽を含ませた声で言い、重ねた手を握り込む。
「だから……だから! 師匠は休んで我々を見守っててください。これが、自分が、自分が……最後に送る、言葉です!」
「ストラス、くん」
「俺達は、今日まで、あんたに手を貸し続けた。あんたの力になりたいがためにだ。だけどな、俺はそれだけじゃねえんだよ―――、いつもドジばっかで―――傍から見ても危なげなあんただったけどな―――」
震え続ける声で、しかしトーマは伝えなければならない言葉を出すまでに、彼女との思い出が脳裏を過ぎる。初めて出会ってから今日に至る日まで、胸にしまい続けてきた想い、ここでようやく言葉にして彼女に伝える。
「それでも、俺はあんたが好きだった。好きな女性として。心の底から惚れてたんだよ―――!」
こんな結末でしか伝えられない言葉ではない筈だった。このまま胸にしまい続けていた方が良かった言葉だったかもしれない。しかしそれでもトーマは伝えられずにはいられなかった。隣に立つことはできないことは分かっていても、想い人の代わりにはなれないけど、それでも一人の男として、惚れていた事実を伝えておきたかったのだ。
その言葉にミョルニルは驚きもしないで、むしろ少し嬉しげに眼を瞑り、少しだけ息を吐く。
「そうだったんだ―――、だから私、幸せだったんだね…………」
まるで心地よく眠れたかのようにゆったりとリラックスした様子で再び眼を開け、それから自身の手をトーマの手から抜け出し、彼の頬を優しく撫でるようにする。
「ごめんなさいね―――、私は、その言葉に答えられそうにないの……」
自分は今でも好きな人が居るからなのか、自身が死ぬから応えられないのか、果たしてどっちの意味での言葉なのか、それとも両方なのか。ただ分かっているのは彼女はもう隣に居られないということだけだ。それは言葉ではなく握った手から消え失せていく体温が徐々に来たるべき死を宣告するかのように示している。
そして彼女は再び眼を瞑り、息を軽く吐く。
「トーマくん、ストラスくん…………私ね、本当に幸せだったよ―――…………」
後悔は、ない。この二人には既に託すものは全て託した。これからは彼らだけでも進むべき道は自ずと見出せるはずだ。ただ、この瞬間まで想いを寄せ、そして護る事ができなかった男はどうなるのであろうか。きっとどんな言葉を残そうと、彼は悔やみ、絶望するだろう。
だけどそれでも、二人に伝えるべき最後の言葉は決まっていた。
「二人とも、ありがとね…………これでようやく――――あの人の…………もと、に……――――」
まるで疲れきったかのように、口から言葉が紡がれなくなり総身から力が抜けていき、瞼を開けるのも億劫になっていく。そしてそれに何の抵抗もせず、受け入れるがままに瞼を閉じる。
そして無理な息継ぎが止み、小さかった鼓動が消えた。痛みを堪える必要がなくなったためか、安らいだ表情は傍から見れば本当に眠っているように見えるだろう。しかし彼女を囲う二人にはそれがどういう意味なのか、受け入れがたい事実であった。
「……おい、師匠……?」
トーマは恐る恐る小さく罅割れた声で呼びかけるが、当然返事はない。握った手はもうこれ以上冷たくなりようもないものだ。
「――――馬鹿、野郎…………」
握った手は振るえ、左眼からのみ熱い涙が頬を濡らす。
対面にいるストラスも堪えきれなくなったのか、嗚咽はやがて慟哭へといつの間にか変わっていた。
否定したところで彼女は帰ってこない。だからこそ、トーマは無理矢理この現実を受け入れる。
彼女は満足して逝ったのだ。それは彼女の最期の言葉が証明している。後悔もなく、自分達に全てを託し、彼女が今も尚愛し続けている彼の元へと旅立ったのだ。
ただ、残されたのは自分が彼女を護り切れず、逆に護られたという事実のみだ。
彼女が死ぬ羽目になったのは、結局のところ自分の力が及ばなかったからに過ぎない。その背けようのない現実は、眼の前の亡骸が突き付けてくる。
残された二人の弟子の戦いは、彼女という大切な存在を喪う形で、こうして幕を下ろしたのだった。
「アスタ…………」
「…………リー……ディア?」
一方、開眼状態を解かず、ここまで来た男は――――、眼の前で起こっている現実を前にして硬直していた。
シバが掠れた声で名前を呼び、アスタはシバの腕に抱かれた人物を言葉にできず、ようやく名前を呼んだといった様子であった。既にシバの腕にいるリーディアは名を呼んでも反応せず、傍から見ても事切れているのが見て取れた。
「なんだよ……、今頃来たって……おせえよ……」
アスタはそれでも足を動かし、近寄ろうとし、不意にシバが口にした言葉で足を止めた。
震える声で、シバは亡き妻の死に顔を見ながら、絶えず生気を失った双眸から涙を溢れさせ続ける。その声は慟哭の色もあるが、此処にアスタが来た事によって呪詛の色も交じり始めていた。
「お前だったら……、お前だったらこんなことにはならなかっただろうな…………俺は、護るどころか、助けることすら、できなかった!」
遅れた男に対し、彼ならできたこと、彼なら救えた可能性に、シバは完全に自暴自棄な言葉を吐き捨てるようにする。彼は全てを喪ってしまった。誰かに自分の無力さを、行き場のない怒りや悲しみをぶつけなければ自我を保つのも困難なのだ。それが例えアスタであっても、最早それを助長させる要素にしかなりえない。
その姿を、アスタは何も言えずにただ佇んでいる。
眼の前の男の悲劇は、自分にも同じく降りかかる可能性があったものであり、その姿は自分がそうなったであろうもう一つの結末そのものでもあった。だからこそ何も言えない。自分が紡ぐ言葉に、彼を救う意味など微塵もない。無意味だからではない、無言こそが彼に掛けることができる唯一の言葉であるからだ。
「最期に、泣くな、とか…………生きろ、とか…………そんなこと言われても、俺は、俺は一体―――」
だがシバのこの発言に、アスタは大凡それがリーディアの遺言であることを掴む。
ならばここでシバに掛けられる言葉は、彼女の遺した言葉に他ならない。
「…………そう、言われたんだろ? リーディアにそう、言われたんだろっ!?」
アスタの声に、シバは不意を突かれたかのように眼を丸くして彼の顔を見る。
「お前は今それすらも破ろうとしてんだぞ……! あいつの遺した言葉も護れねえでどうするつもりなんだよ!」
「…………お前に何が分かる、俺は、俺は全部失くしたんだぞ……!! 生きる意味も……! 護れなかった俺なんかに、何の価値があるってんだよ!!」
改めて自分の無力さに打ちひしがれた彼は喉から慟哭を遡らせる。
「……だったら、全部終わってから自分にケリをつけろ。それに、」
結局、自身の命運を決めるのはシバ自身の他ならない。生きる意味を失った彼には彼女の遺した言葉を護るか護らないかの二択しかない。
そう、これ以上の会話は無理だと悟ったアスタはそう伝えるように言う。
それに、もう一つの意味でもこれ以上の会話ができない状況になりつつあった。
「…………一つだけ、言うことがある」
アスタがここまで言い、不意に二人の頭上にまるで影が差したかのような重圧感が覆う。
アスタはその発生源に向けて顔を上げ、シバも遅れて顔を上げると、その視線の先には上空に佇み、こちらを見下ろす一つの影が存在していた。
凱甲と衣を纏い、顔は口から上を黒い仮面で覆った人の姿をした何か。
その姿から遠慮なく発せられる気力は、超然たる量と質を兼ね備えているが、アスタは眼をそらさず直視したままでいる。
「……あいつは?」
「怪物みたいな気だが、全然違う…………おそらく大将だろうな」
そう告げ、アスタはその面持ちをより一層険しくする。
すると彼らの周辺の家々の屋根に火が灯ったかと思えば、上から押し広げられるように一瞬の間に周囲が紅蓮に染まる。おそらく延焼によって近くまで来ていた火の手が上空のその者の気力によって燃焼速度を加速させたのであろう。その影響で彼らと上空との間は陽炎によって歪むが、その中でアスタとその者は互いに睨み合ったままであった。
「……シバ、こっから逃げろ。あとは俺に任せろ」
「…………おい、お前、その姿」
シバが気づいた頃には、眼の前の紅蓮の男はその姿をさらに変えていた。
緋色の衣を纏い、時折雷撃を発するその姿は、従来の眼の使い手にはない容貌であり、何もかも失ったシバですら、その力強さに気圧される。
それに対し、力強さとは無縁にアスタはまるで新しい服でも見せるような軽い口調で言う。
「これか? まあ、分かりやすく言えば『第二解放』、とでも言っておくか」
そして再び上空に顔を向け、シバの見えないところでその表情は戦士の顔に変わり、冷たく硬い声で言う。
「これでどこまで行けるか分からねえが―――、俺がこの戦争を終わらせる。あいつが大将なのはほぼ間違いないだろうな」
戦争を止めるには、起こした張本人を仕留める他にない。
そう覚悟したアスタは、それと同時に胸に燃え上がる憎悪の炎を燃え上がらせていた。あの空に浮かび、まるでこちらを地に這う虫を見るかのようにしている人物こそがこの戦争の元凶であることはほぼ直感でそうあると確信していた。
だが、彼の者の元へ向かうまでに、幾重の障壁が立ちはだかるだろう。それは茨の道であり、まさに身を削ってまで進むのは明白だ。
そして行き着く自分の命運は、想像に難くは無かった。
しかし恐れることはなく、アスタはそのことを微笑みながらシバに言う。
「だから俺はきっと、…………死ぬだろうな」
「…………おい、お前、まさか」
最後に微笑んで見せたのは、彼なりの覚悟の表れであり、同時にシバにとってはさらなる不吉の顕れでもあった。だが制止の声を掛ける以前に、アスタは宙に一歩踏み入れ、そしてその両手に二つの刃を携える。一つは銀光を奏で、一つは高温の焔を象った蒼い刀。その二つの得物を携え、飛び立つために両膝を曲げて力を溜める。
「ユリアに伝えておいてくれ。俺は最後までだらしない奴だったけど、それでも最高に愛してるって。もちろん、ユキナも、って。じゃあ、行って来る!」
「おい、おい! アスタ!! アスタアァァあああああああああああああああああ!!」
この戦争を終わらせるために、遺言を残し、その身命を未来に捧げる目の前の男に、シバは吼えながら手を伸ばして止めようとするが、その手は虚しく空を掴み、紅蓮の友は空へと駆け上がった。
友の絶叫を無視し、アスタは飛ぶ。
両腕から気を刃に送り込み、渾身の一撃を見舞うために最大威力射程距離まで接近する。空に鎮座するその者は特に警戒した様子もなく、臨戦態勢すらとらない。その様子にアスタは疑問を持つが、それを塗り潰す憎悪が気力が乱れると忠告し、ありったけの気を刃に注ぎ込ませる。
どうやら相手は先制をこちらに譲る気らしい。ならば遠慮など要らない。失った悲しみを、怒りを、憎悪を、叩きつけてやる。
「…………その姿。従来の眼の使い手ではないな」
不意に若い声が、アスタの攻撃を思い留めさせた。
その声は一体誰からなのか、アスタは一瞬分からなかったが、それは今から叩き込む相手から発せられたことに気がついた時には驚きを禁じえなかった。
「今までにないほどの気力だが、…………妙だな、何故だが知っている気だ」
アスタの挙動など初めから眼中に無いのか、その者は彼から発せられる気に興味を懐いていた。
こちらに向けられた怒りや憎悪を込めた気の乱れすらノイズにすぎず、その中にある根本に存在する『もう一人』の気は、最早此処に来て無視できないものであった。
「その気、お前一人のものではないな。一体『誰』から受け継いだものなのだ?」
「…………そんなことを訊いて、」
「答えろ」
予期せぬ言葉に、アスタは口紡ぐと共に困惑する。
何故この状況で問いを投げるのか。さらには第二解放の秘密を初見で見抜いた未知なる相手に不安を胸に懐き始めていた。
ここは答えるべきなのか。先程までは憎悪に染まり、問答無用で攻撃を仕掛けた筈なのだが、予想外の出来事に今一歩詰め寄ることができていなかった。しかしそれこそが先程までになかった冷静さを取り戻す冷却剤となり、相手が名前持とも虚名持ともまったく違う未知の相手に対し、無計画な力技で挑もうとしていた自分を認識させることができていた。
ならば自身が前に一歩を踏み出す切っ掛けを得るために、アスタは敢えてこの問いに答えた。
「この気はな、ツバサっていう俺の師匠から貰った大切なものだ」
「!!」
あの白髪の少女の名を出した途端、その者が明らかに動揺したかのような挙動をした。
その予想外の反応に、アスタのほうも驚くが、同時にこの場において致命的な隙を見せた相手を見逃すはずが無く、前に踏み出すとともに全身全霊をもってありったけの気力を構えた刀に注ぎ込みながら宙を滑る様に接近する。注ぎこまれた気力は、第二解放とあってか、まともに受ければ虚名持ですら消し飛ばすほどの膨大な量で、しかもそれが二振りだ。
(どんな相手だろうが、決定的な隙を突けばッ――――――!)
通常通りの思考が伴っていれば避けざるを得ない選択肢しかとれないが、相手はそんな素振りを一切見せず、その場に留まったままであった。
およそ七歩ほどの距離を一瞬にして詰めたアスタはこの瞬間、取ったと確信を得ると共に、気力を伴った斬撃を上から挟み込むように振り下ろす。
瞬間、確かな手ごたえと共に下にまで一気に振り抜かれ、気の焔が吼える。
それは太刀筋通り相手を斬り裂くと共に血潮が湧き、アスタの視界が一瞬紅く染まる。
致命的な一撃、そう確信した瞬間、それは視界が晴れると共に驚愕へと変わった。
「…………ここまでおいでになったのですね、我が主よ」
落ち着いた、よく通る声がアスタとその者の間で発せられる。
何の前兆も脈絡も無く、この場に参じた銀髪の青年はアスタに背を向け、その者に対していつもと変わらぬ調子で話しかけていた。
しかしその背中は、アスタの第二解放の全力を受けた所為で抉れに抉れ、一目で致命傷と見て取れるのに、本人はまるで気にも留めないかのようにその者に言葉を紡ぐ。
「もう、良いですよ。これ以上事を荒げていても、何も変わりますまい」
「…………」
驚愕はアスタだけではなく、その者にも少なくとも与えていた。
確かに自身は油断とも言える一瞬の隙を曝け出したが、たかがその一撃を受けた程度では傷一つつかないほどにこの鎧の護りは絶対であり、それはシュニーも百も承知のはずだ。
そのあまりにも無謀な挙動にも当惑するが、今のその者には別の光景が瞳の奥で再現されていた。
「主の思惑はそのまま実現し、我々の目的は達成された。もう、軍勢を展開し続ける理由もありませぬ」
かつて、自身と一人の男を護るために、弓兵達の一団に勇敢に突っ込む白髪の少女。その身を盾にしてまでも護ろうとしたその姿は、決して忘れられない姿だ。その背中を見たのがその少女との別れであり、その光景は今、目の前居る銀髪の青年に重なる。
「…………何で、お前、出てきたんだよ―――」
渾身の一撃を振り下ろし、愕然としていたアスタの言葉に、シュニーは少しの間を空けて言う。
「…………このまま貴様が我が主に牙を剥いていたら、今度こそ全てが終わっていた。例え貴様の力が虚名持を上回ろうとも、勝てはしない。矛を収めよアスタ。この場は……、一旦……!」
静かに諭そうとするシュニーは、しかし堪えきれず咳き込み、口元を血染めにする。無理も無い。既に此処に来るまでに激闘していたシュニーは一度敗北し、弱った状態で二人の間に入ったのだ。弱った状態というのはアスタがそういう選択肢をとれるほどの実力差があったこそであり、逆に情けを掛けられる結果でもあった。しかしそれでも無理に身体を動かし、最早アスタの第二解放の攻撃を防げる手段など無く、身を挺して止める術しかなかったのだ。
アスタは思わず声を掛けようとするが、咳き込みながらもシュニーは右腕を横に広げて制止させる。
「我が主よ、分かりますか? ここにいる彼の者こそが、理の示した解であります。もうこれ以上、戦いを続ける意味はありません。ですから、これが最初で最期の私の『願い』です」
アスタの発言を制止させ、苦悶の表情を僅かに浮かべるシュニーであったが、それでも彼は自身の芯を貫き、今まで自分の主人であり続けた少年に言う。
「どうか、もうこの戦いから手を引いてください。この男にも手を出さずに、です。私はもう、あなた様の傍に控えることは儘なりませんが、願いはそれだけです」
「…………解せんな。その男は眼の使い手で、さらにそれを超えた力を持っている。見過すにはあまりにも気掛かりだ。去るなら余分な芽は摘み取るものだ。例えば、仮にその男に子がいるならば、それも含まれる」
シュニーが言いたいことはその者も分かっている。既に尋常ではない被害はこのワイトでも齎されており、あと数日でもすれば根絶やしにできるだろう。しかし眼の使い手が生まれ出るこの地において、新たな理が出てくる可能性が高いのもこの地にいる人間なのだ。ならばこそ手を引き、機が満ちるのは待つのが賢明であり、事実『最後』の眼の使い手であるアスタを屠るどころか子がいるならばそれすらもと言う。それを聞いてアスタは内心冷静でいられる筈が無い。愛すべき娘に手を掛けるつもりなら、このままシュニーの身体ごと奴を斬りつけるのも厭わないと思った矢先、
「だが、私はあえてお前の願い、受け入れよう」
自身の腹心はそれを止めてくれ、と希っている。どういう気まぐれか、その者はあっさりと聞き入れてしまった。アスタは緊迫した空気に一瞬、ようやく自身が先程まで息を止めていたことに気がつき、軽く息を吸う。
「ありがとう、主よ。最後に、我が主よ」
最期に礼を言う腹心は、安堵の表情でいた。この世に留まることができず、全身が解れ、崩れていく中、シュニーは最初の頃と変わらない口調で続ける。
「あなた様の過去に、一体何があったのかは察し得ないですが、それでも私は祈ります。いつかまたあなたが、望んだ世界を、―――」
そう言い、シュニーは手を伸ばすが、その手がどこかに触れる前にまるで砂のように指先から崩れていき、風に流されていく。限界が来たシュニーは指先から消えていく自身の体に対し、うっかり小石に躓いてその姿を見られてしまったかのように、自嘲するかのような苦笑をその者に見せる。
「では、暫しの間お暇を。また、いつか――――――」
そして一礼をしながら彼は消える。一夜の夢のように。世界に溶けて行くように。
最期まで、彼は怪物の本性など欠片も見せず、まるで一人の人間であったかのようにいた。そしてその存在が消えた今、その者は立ち尽くしたまま彼が消え入った虚空を仮面の奥から見つめていた。
「―――ふむ、消えたか」
胸の前で腕を軽く組み、見届けた後のその者の声は、普段と変わらない感情が削がれたものであった。
それから思い出したかのように、目先に居るアスタのほうに声を向ける。
「ということだ眼の使い手。既に私は目的を果たした。それに先程の下僕の懇願もある。最早これ以上この地で戦力の展開を維持しても無意味だ」
「……何で、そう決めたんだ?」
「なに、最後の願いを叶えるほどの働きをしたから、その対価を払っただけだ」
彼の目的は本来人類に、世界の理に対して揺さぶりを掛け、次なる理の兆しをその眼で確認するだけだったのだ。そのために世界中で戦争を起こし、さらに眼の使い手三人を『無力化』することにも成功していた。そして眼の前に残る最後の一人に理は必死の抵抗と言わんばかりに力を増大させ、後が無いことを窺わせていた。所詮、その者にとっては眼の使い手など次なる理、すなわち『真理』の出現の兆候を知らせる信号でしかないのだ。だからこそシュニーの願いを聞き入れるだけの余裕など、最初から余地があったのだ。そしてその信号は役目を終え、これ以上眺めている必要もなくなった。あとはこの地から軍勢を引かせるだけである。
「―――だが、結局、お前を残して立ち去るわけにはいかないな」
そのとき、アスタは初めて黒い鎧の男の声に感情らしきものを感じ取った。
それはたったの一呼吸だが、明らかに、何か忌々しげなものを含んだ声であった。
アスタは相手の言葉に対し臨戦態勢をとり、相手がどんな挙動に出ようと即座に反応できるようにする。
「しかし手を出すな、と言われているのもまた事実。私が直接手を下せなければ、他の怪物たちも出すわけには行かない。―――――ならば、こうすれば良い」
何か考え付いたのか、組んでいた腕を解くと片腕を軽く真上へと伸ばす。
それが何を意味するのか、しかし少なくとも何かしらの攻撃をする筈だと決め込んだアスタは回避行動をとれるよう身構える。
だが、腕を軽く上げただけでその者は微動だにせず、アスタは集中を保ったままも、疑問を感じざるを得なかった。
――――同時刻、交戦中の怪物達から光の紐が空に向かって出てきており、世界中で無数の紐状の光がある一点に向けて凄まじい速度で放たれたという報告が後に伝えられた。
次の瞬間、アスタは頭上にて押し潰されそうなほど重圧を感じ、真上に顔を向ける。
真上には曇天が隙間なく天を覆っているが、やがてそこに亀裂が入り光が差し込む。だが覗かせて出てきた全貌は太陽の光ではなく、人為的に生み出された光であった。やがて曇天は綺麗に円状に切り取られ、雲の向こうから光が降りてくる。その光は真下から見れば円状であったが、実際は球状であり、それが徐々にこちらに向かって降りてきていた。その光はワイト全体を照らし、暗い色の交じった夕陽色へと染め上げていく。
「―――あれは…………」
流石にアスタは言葉を失った。あれは一見恒星がこちらに向かって堕ちてきたのかと錯覚してしまうが、あの光は全て紛れも無い『気』そのものであった。今の彼ですらあれほどの量を出し尽くすことはできないであろう。それほどまでに馬鹿げた量であるのだ。
「今からあの巨光を以って、あの街を壊す」
その者の明確に宣言する。あの破壊の光を持って、あの街、つまりワイトを文字通り壊す、と。
なっ、とアスタは絶句するが、その者は気にせず続ける。
「止めるかどうかはお前の勝手だ。だが仮に止めるならば、相手をするのは我が下僕『全員』の気、即ち全ての怪物たちを同時に相手するのにも等しいぞ」
つまり、あの光は全世界中に展開していた怪物たちの、それこそクラス問わずに掻き集めた気なのであろう。それならばあの大きさにも納得がいく。直撃すれば都市は全壊とまではいかないだろうが、復興は不可能になるまで追い込まれるだろう。まさに怪物の頂点に君臨するものだけが行える暴挙である。
そしてその者の標的は今やワイト。アスタではない。だがアスタは眼の使い手として、そして愛する者達が集うこの地を護るためにあの破壊の光に立ち向かわなければならない。しかしいくら眼の使い手で、第二解放であろうとあの気力の塊を破壊し尽くすことは困難であった。
あれは見たままの巨大なエネルギーだ。しかも岩のようにあれは一つではなく、分かりやすく言うならば溶岩や熱湯のように何らかの外力を与えれば分散してしまいかねない不安定なものだ。無理矢理集めたからそうなのか、それともあえてそうしたのか、理由はともかくとして固唾を呑み込んで見上げたまま佇む。
喉が干上がり、両手に握った刀が震える。恐怖、未知なるモノに対してではなく圧倒的に巨大な攻撃に対してのソレは、すでに今日何度も味わった絶望に他ならなかった。
自分一人であれを止められるのか? 周りに被害も無しに? 可能なのか? しかしこのままでは全てが無に帰るし、ならば挑んでできるだけ被害を―――、
そこまで考えて、アスタはある一つの手を思いついた。
それは、あまりにも無謀で、しかしあの光はかなりの高度にある―――、やる価値は十分にあった。
「さあ、示すが良い。理の示した眼の使いの真価、ここで発揮してみせよ」
その者の言葉に、アスタは無言の一瞥を返すと、その場から飛び立ち、巨大な光に向かって一直線に進む。それを見届けたその者は、軽く手を振り背後に自身が戻るべき空間へと繋がる裂け目を作り出すと、
「躊躇わず進むか、何とも無謀で馬鹿な男か」
例え眼の使い手の上位の力を持ってようと、あれほどの強大な力の塊に挑む選択肢を取ったアスタに対し、その者は感心したかのような声色でそう言った。
理が定めたあの男ならば、もしかしたらあれを完璧に打ち破る方法があるのかもしれない。それを以ってして挑んだのならば納得がいく。
「……私が望む、世界か」
腹心の最期の言葉を反芻するようにその者は呟く。
「だがなシュニーよ。私は最早、止まることなどできないのだ」
最早結果は見るまでもない。そう結論付けたその者は、これ以上この場にいる必要はないと断じ、踵を返すとそのまま空間の裂目へと姿を消していった。
向かえば向かうほど、光に対していかに自身が小さいのかを痛感する。
接近するごとに全身を照らす光が強くなる。炙られたかのような熱さは無いが、それとは別の脅威が肌を舐める。まるで牙や爪、もしくは怪物に備わるありとあらゆるものがあの光には存在していた。紛れも無い、あの光は本当に全ての怪物の軍勢に等しいのだ。
だけどこちらには奥の手があった。正真正銘の最後の奥の手が。
しかし、果たしてそれは自分に何を齎すのか、分からぬ彼ではない。
「…………ユリア、ユキナ―――――――みんな」
無意識に、口から零れる言葉は、彼自身に残る最後の弱さであった。
今なら間に合うのでは? 引き返して仲間を全員連れ出して逃げることは、今の力を以ってすれば造作もないことであろう。しかしそれを、彼は許せるだろうか。他の地で戦っている隊長や隊員の願いを無碍にし、あまりに勝手な行動をした自分を。
『お前が望むその世界に、お前自身が含まれているか』
ふと、白髪の少女の言葉が胸中を過ぎる。その世界に俺はいるのか、いないのか。今はそれはいい。大事なのは眼の前の脅威を何とかすること。だったら何もかも出し切ってやる。自身の命を惜しんだら、これには絶対に勝てないのだから。含まれなくてもいい。望んだ世界になるのならば。
かの武人は百戦錬磨。眼の使い手にして、一人の心優しき父親。
天涯孤独の人生を歩み、やがて仲間を得、家族を得、己を鍛え上げ、多くの誉れを持つ者。
彼の覚悟が彼の弱さや甘えを押し退けた時、彼から発生する気力が迸り、僅かながらあのおぞましい巨光の落下速度が和らぐ。まるで一瞬、彼に気圧されたかのように、しかし緩めはしようとも立ちはだかるものが何であろうと呑み込もうとする巨光は飛び込んでくる彼を涼しげな顔で迎え撃つ。
決着をつけよう。
自分の妻が、娘が、そして仲間達が生きる未来を手にするために、その信念と誇りを貫くために、今紅蓮の武人は高らかに、全てを終わらせる言葉を謂った。
「最大限――――解放ッ!!」
アスタが光に衝突する直前、新たな紅蓮の光が瞬く間に膨れ上がり、落下するソレを正面から受け止める。
突如発生した強大な気に、少しの間は持ち堪えた巨光も、次には徐々にその灼熱の衝撃に耐え切れずその形を崩し始める。しかし零れ落ちる気を一片たりとも逃がすつもりはないのか、紅蓮の光はそれよりも早く膨張し、まるで受け皿のように広がって全ての気を受け止める。
上空に向かって加速した紅蓮の気は、それこそ巨光を構成する一つ一つの気を消滅させ、曇天ごと吹き飛ばしていった。
(――――ああ、これで…………―――)
最後の災厄に打ち勝ったことを総身で感じる中、紅蓮の光の中心に居るアスタは心の中で呟く。
そして、それと同時に自身の奥底から何か大切なものが吸い上げられ、消滅していく感覚もあった。
きっと自分がやった第二解放と最大限解放の組み合わせは、この領域に踏み込んで初めて分かる禁忌だったのだろう。
(これで―――――終わる……―――)
しかしそのときの彼は、良い夢でも見るかのように、紅蓮の光の中、静かに微笑みながら瞼を閉じた。
「……そうか」
巨光が消え去った後、中央にて経緯を聞き終えたトーマは眼の前で片膝を立てて座っている男に向かって言う。彼の右眼は既に応急処置を施されていたが、眼球を完全に破壊されたため治る見込みはないと説明を受けていた。
眼の前の男というのはシバのことであり、つい先程彼らの胸中に再び哀傷を刻み付けることになる事をここに運んできた者であった。
今、彼ら二人の後ろの部屋では、二人の亡骸が安置されていた(正確には、三人とも言うべきかもしれないが)。二人ともシートの上に乗せられ、身体の上に布が被せられており、顔のほうも同様に掛けられている状態である。出血などは拭き払われた後であり、顔のみであればその安らかな寝顔を拝むことは可能な状態であった。今や遺体安置所に持ち込んだところでこれだけのことはしてくれないしあちらは処理で手一杯だ。ならばこそ、いつも出会っていたこの研究室内に安置し、できるだけのことをしていたのだ。
ストラスの方はというと、今はユリアと共に後ろの部屋で最期の別れをしていることであろう。当然、彼女は突然の別れに号泣しているだろうし、その姿をこの二人は耐えることなどできるはずはなかった。
ユキナはというと今見せるには早いと判断し、然るべき時にと決められていたので別の部屋で待機させていた。
「お前らも、よくやったな……」
「…………よせ、互いに今はどう言葉を掛け掛けられようが、どうにもならねえんだ」
互いに愛すべき存在を失った二人は、それ以上何も言葉を口にするつもりはなかった。
どちらも泣き疲れた表情をしており、あまり生気の篭もっていない眼をしていた。最早かつて眼の使い手であったことなど忘れたかのように、今他の眼の使い手が居れば彼ら二人のことを『普通』の人間とでしか感知されないであろう。それほどまでに彼らにとって、彼女達はかけがえの無い存在であり、その存在無き今、その力は不要とされ、どこかに消え失せてしまったのだ。
自分達は愛する人を護ることができなかった。
この事実だけが二人を徹底的に二人を打ちのめし、立ち直るには時間が必要であった。
しかしまだ全てが終わったわけではない。彼らにはまだ一つ、気掛かりが残っている。
(――――――――アスタ)
シバの言葉によれば、かの紅蓮の男は単身で敵の大将に挑みかかったのだ。
そして一悶着あった後、想像を絶する巨大な光が現れ、それに立ち向かった。
シバはもちろん、あの男は生きているだろうと、あれを壊して帰ってくるだろうと信じていたが、最後に聞き取った言葉以降、眩いばかりの閃光と爆発と共に、彼の姿も無くなっていた。
最後の言葉は小さくて全部は聞き取れなかったが、察するに『最大限解放』と叫んだのではないかと推測していた。あの眼の使い手を超え、さらにその能力を最大限に爆発させた結果、彼はこの街を護り抜いたのだ。
しかし今この場に居る彼らにそんな過程は要らない。いるのは結果。つまり彼の生還なのだ。
(頼む、お前まで死なれちゃ、立ち直れる気がしねえんだ)
二人の身近な人間を亡くし、これ以上増えようならそれこそ本当に気力がなくなってしまうだろう。それほどまでに心は追い詰められており、逆に彼のいつもの前向きな声さえすれば、救われるのではとさえ思っていた。
そこまで思い、後ろの部屋からドアが開く音が響き、二人とも後ろに少しだけ顔を向ける。
案の定、泣き終えたであろうユリアがストラスと共に出てきており、二人と眼が合った彼女は、ハッとなって口を開こうとしたが、次に何の言葉をかければいいか分からず狼狽しているようであった。
無理も無い。愛しい人間を無くした者に掛けられる言葉など普通は見つからないものだ。逆に安易に掛けようものなら、激高に駆られることだろう。だからこそ彼女は何も言えないし、無言こそが掛けられる唯一の言葉なのだ。
彼女から言えないのなら、無論、彼らから言うしかあるまい。
「ありがとう、ユリアさん」
「そっ、そんな――――私、は……」
「いいんだ。もう。―――ありがとう」
二人の男の声は、疲れきって涸れた声であった。しかしそれでも、仲の良かった彼女が別れを惜しんでくれているのだから、逝った二人は必ず満足であろう。だからこそ彼女らの代わりに、彼らは礼を言う。
「――――ごめんなさい」
だけどユリアはそれでも、狼狽するかのようにその大きな瞳から涙を零す。
彼女は分かっているのだ。自分は非力で何もしてあげられなかったのに、自分と娘で精一杯だったのに、力になれなくてそれでも泣いてしまってごめんなさい、と。
それを二人も分かっていた。彼女が謝る理由を。ほんと、どっかの嫁さんにしては、あまりにも出来過ぎだ、と彼らは思った。そしてその彼が帰ってきたとき、彼らの戦いは終わるのだ。
だからこそ待つ。待つしかない。この場に居る人間は、少なくとも彼の生還を待ち侘びている。
彼の気を感じられなくなった今、心臓を縛られているかのような苦しさと共に、彼らは彼の無事を祈る。
――――およそ二時間後。
戦場と化していたワイトでは、急速に静けさに支配されつつあった。
その者の撤退命令で怪物たちは次々と姿を消していき、城壁外で待機していた名前持や虚名持の集団も空間の裂目から自分達の領域に帰還していた。戦い続けていた兵士達は突如上空に現れた巨光に呆然とし、しかしそれをとある眼の使い手が止めた事実を見届け、そして姿を消した怪物たちが去ったこの地で、彼らはようやく何が残されたのかを認識することができた。
残されたのは大きく損壊した町並みや、失われた多くの命。それは日常ともいえる、平穏が崩れ去った世界であった。それを知って落涙を禁じえないもの、銃を取りこぼし、膝を付く者まで現れた。改めて、彼らは怪物という脅威を嫌というほどまで知らされたのだ。所詮、自分たちの営みなど奴等からすれば積み上げられた積み木を崩すも同然なのだ。
少なくとも、この地ワイトでは戦争は終わった。だが、これから先もこのような災厄に晒されるとなると、彼らの心には重油のような懸念がこびり付いたままであった。
まるで逢魔が時の魔物のようだ。突如現れ、滅茶苦茶にし、そして一方的に去る。まさに怪物たちにうってつけの言葉であった。
しかし絶望に包まれる中、上空を一つの影が横切る。
それを認めた兵士達は、その姿を見たとたん、黒一色に染まった心の中に一点、色のない光が灯る。そうだ。彼がいたから乗り越えられたんじゃないか。あの巨光からこの都市を、人々を護ってくれた勇敢な男が。あの男があの巨光を破った時、この地での戦いは急速に治まっていった。どういう事情であれ、それはこの戦いが終わる契機であったのは確かなのだと、生き残った兵士達は理解した。
英雄だ、――――兵士の一人がそう呟いた。
そう、そんなことをたった一人で成し遂げたのだから、そう呼んでも差し支えないであろう。たった一人であの巨光に立ち向かい、この街での戦争を終わらせた偉業を成し遂げた人物に、彼らは高らかに言う。
英雄だ、あんたは英雄だ! 俺たちの故郷を護ってくれた! 生き残れたのはあんたのおかげだ!
惜しみない賞賛は、彼らの本心から来る感謝であった。それは希望であり、彼らを支える光でもあった。
ただ、横切った影は彼らの賞賛は聞きしも留まらず、一直線にある地点へと向かっていた。
向かう先は、この都市の中心であり、彼の愛すべき家族が居る――――――中央である。
時々目元が霞む様な錯覚に陥るが、視界は良好だ。ちゃんと腕も足も動く。
ようやく、ここまで来た。あのドアの向こうに、あいつらがいる。
ああ、でも、俺にはわかる。別の部屋に、もう生きていない人間が、生きていた痕跡が分かる。
それでも、俺にはやるべきことがある。
だから―――――、そう思い、彼は取っ手に手を掛け、ドアを開ける。
「よう」
ドアを開けるなり、聞き慣れた声が室内に響く。
中に居たシバたちが顔を向けると、案の定、この戦いを終わらせてきた男がいた。
「……待たせたな」
「アスタ…………」
「アスタくん……」
「…………ああ、俺だ」
シバとユリアの声掛けに対し、アスタは低く短くそう答える。
二人の声には彼がここに無事戻れたという安堵の色があり、ストラスとトーマのほうもその表情に同じく僅かに安堵を見せる。
しかし立ち上がろうとする皆に、アスタは手を差し出して制止をするよう促す。
「……色々話したいことはあるが先ず、隣、いいか?」
「あ、ああ」
本来、ここで何もかもが無事でいれば彼は普段どおり陽気でユリアに抱擁をかましていることだろうが、今の彼にはそんな軽率な挙動を取ることはできなかった。彼は分かっているのだ。このすぐ隣の部屋に、共に戦い、そして散っていった勇ましき彼女らが居ることを。
無事だったのか、ここまで来るのにどういう経緯だったのか、そんな話をする前に、アスタは隣の部屋の前まで歩き、取っ手に手を掛けようとし―――代わりにトーマが手に掛ける。
「……トーマ、お前」
「俺が同伴する。片眼を無くした理由も兼ねてな」
そこまで言い、彼が先に部屋に入ったのでアスタのほうも付いて行く様に入る。
他のメンバーを残し、中に入ると二つの遺体が安置されており、顔に布が被せられている状態ではあるが、はみ出ている頭髪から誰なのかは容易であった。
「リーディア、せんせい…………」
既にリーディアの死を知っていたアスタにとって、ミョルニルも死亡していた事実に声を漏らす。彼も彼で覚悟はしていたのだろうが、それでもこうしてこの戦いで二人も友人が死亡していたことに、やはり動揺は隠せないのであろう。
「ああ、……師匠はな、俺が眼を潰されている時にストラスと一緒に助け出してくれたんだ。でも、戦っていた怪物が強くてな、師匠は身を挺して勝機をくれたんだよ。命を、捨ててまで、な」
トーマの声は、僅かに震えを伴いながら、その時の事を言う。それだけでもアスタは状況が手に取るように分かった。この男もまた、自身とは違い大切な人を亡くしたのだ。その心理的損失はシバと同様、眼の使い手の力を失うほどまでのものなのだ。言うなれば自身を殺してしまいかねない衝動に対し、眼の使い手の力が身代わりになった、といったほうが分かりやすいであろう。
「ほら、二人とも、満足気だろ」
トーマは近づき、そっと被せられた布を順にとっていく。するとミョルニルとリーディアの生前と変わらぬ安らかな寝顔が現れる。確かに二人はまるで疲れきって寝てしまったかのようであり、トーマの言葉にも頷ける。ただ、死んでいる事実なのは変わらず、アスタはトーマの前に出て彼女らの前に立つと冥福を祈るよう胸に手を当てる。トーマもその姿を認め、両瞼を閉じるようにする。
「――――――」
不意に、アスタが小さく何か言葉を漏らしたが、トーマは聞き取ることはできなかった。
おそらく彼なりの送る言葉であろうと踏んでいたトーマが眼を開けると、彼女らの顔に布を覆い終えたアスタがこちらを振り向いており、
「さて、戻ろう。色々話すことがあるからな」
「…………ああ」
アスタがここにきて、彼女らを見送ったことで、ここワイトでの彼らの戦争は幕を閉じた。それは彼らが望んでいたことでもあり、同時に多くを失ってきた。
だけどアスタにはまだやるべきことがある。だからこそトーマをつれてこの部屋から出る。そこで待つ家族や友人達に話さなければならないのだから。
「…………そうか、ユキナちゃんが」
座って聞き終えたシバが溜息を付き、手を組んで両肘を膝に置く。
部屋に戻った後、アスタ達は大戦の始まりからここでの戦いが終わるまでに知った情報を全て彼らに伝えていた。彼女らが死んだこと、シバとトーマの両名が眼の使い手としての『力』を失った事。そして最後に、彼の愛娘であるユキナが将来確実に眼の使い手になることと、その理由を話し終えたところであった。
もちろん、アスタにとっても、ユリアにとっても、この事実は受け入れ難いものであった。
「ユキナが、あの子が、眼の使い手になるなんて……」
「今回の戦いでワイトの住民は多く死んだだろう。それを切っ掛けに眼の使い手になる子供が必ず現れる。その子らと一緒に育つことになる。ただ、先程言ったように、あの子は原初の眼の使い手の子孫だ。必ずや、眼の使い手、『第二解放』を会得するまでに至る筈だ。だからトーマ」
「ああ」
先程アスタは第二解放がどんなものかも伝えている。それは眼の使い手が、そして人類が怪物に挑む上での最高戦力になることは間違いなく、彼らが生きているうちに、再び大きな戦いがあることを容易に想像させる判断材料でもあった。
その中で、その者はアスタに子がいれば、それすらも屠ると明言している。ユキナは間違いなく眼の使い手になり、第二開放を会得する可能性が高い。そして原初の眼の使い手の血を引き継ぐ娘だ。もしかしたら未来での戦いにおいて、彼女は重要な鍵になる可能性も高いのだ。
話を一度区切り、アスタの声にトーマは軽く返事をする。それを見計らい、アスタは迷い無く、一つの決断を言い渡す。
「仮に異世界があったら、あの子が眼の使い手として一通りの力を宿したら、数年かそこら、そこにあの子を隠して欲しい」
「……! アスタ君、それはっ!」
これには珍しく、ユリアが反駁しかけ、半ば詰まったかのように押し黙る。押し黙った理由、それ即ち『あの』アスタが自ら提案したことだ。その判断の苦しさはユリアと同等であるだろうし、しかし最愛の愛娘を最悪の手から逃すためにそれを乗り越え、考え付いた最善の提案なのだ。
「……すまない。でも分かってくれユリア。俺はもう次はユキナを護ることはできないんだ」
分かりきっていた妻の反応に、夫の見せる苦渋に満ちた顔は今回の戦争で自身の力量を思い知らされた上でのものであると容易に汲み取れた。既に眼の使い手は彼のみ、たった一人では、愛娘ですら護れないのであろう。そんな彼の心情を察したのか、ユリアは押し黙ったまま一回だけ頷いた。彼女のほうも覚悟ができつつあるのであろう。しかし不意に次の声に、両者の判断がぐらつきそうになる。
「…………お父さん?」
沈黙に沈む部屋の中で、一際幼い声が通る。
全員が顔を向けると、寂しくなったのか、それともアスタの存在を感じ取ったのか、今や英雄と呼ばれてもなんら遜色の無い男の愛娘が、こちらを覗いており、大きな瞳でアスタを捉えていた。
「おお、ユキナ……!」
「お父さん、お父さん!」
娘の姿を認めるなり、アスタは走り寄ってくるユキナを抱擁で迎え、ユキナのほうも無事に帰ってきた父親に甘えるかのように小さな腕で精一杯抱きつく。それからユキナは母親であるユリアにも手を伸ばし、三人の抱擁を求める。それに何の抵抗もなく、ユリアも抱擁に加わる。
ああ、何て罪深い。アスタとユリアは胸中でそう思う。無邪気で、太陽のような笑顔を振舞うこの少女に対し、自分達は何という決断をしようとしているのだろうかと。しかしそれ以上に、この子を守りたいという二人の強い意志がある。それは二人の再認識であった。こんなに愛しい我が子を、喪うわけにはいかない、と。
シバは三人が抱き合うその光景を見て、それからすぐに視線を下に向ける。
あの光景は、今の自分には見る資格はない。見ていれば、己の無力さや抑えの利かない嫉妬で自他共に傷つけかねないからだ。それをそばで見ていたトーマは声を掛けようとして、ストラスが制止して首を横に振る。まだ、彼には時間が必要です、と訴えかけるような眼差しだった為、それを飲み込んで思い留まる。
「…………さて、ちょっと外まで付き合ってくれないか?」
不意にアスタがそう言い、全員の視線が彼に向く。
彼は軽く、本当に少し浮かべるくらいに微笑むようにして、少しだけ外の空気を吸いに行こうと言って同意を求める。それにはやがて、全員が頷くと彼はユキナを抱きかかえたまま部屋を出たのでそれに続くように彼らは出る。
ワイトの広場に出るとアスタが行なった影響か、曇天の中に晴天が入り混じりワイト全体に陽の光を降り注がせていた。そこは最早銃声や唸り声が聞こえることもなく、日常と何も変わらない状態がそこにあった。だが城壁を越えてみれば、今はまだ多くの傷跡を残したままである。これから復旧するのに一年も掛からないだろうが、この忌わしい記憶は後世にまで語り継がれることになろう。
「……お前のおかげで、終わったんだな」
「よせよ。俺はそんな……」
「いや、お前がいなきゃ、今頃俺はあの世でリーディアにこぴっどく叱られているだろうさ」
家族を喪い、錯乱していたシバは既にそういうことを言えるまでに立ち直っていた。ただ決して癒えることのない傷跡として残るであろうし、アスタもそれが眼に見えているかのように分かった。この男は一生、後悔し続けるであろうと。それは生涯決して払拭できるものではないし、トーマのほうもそれは同様であろう。
その中で、ユキナを抱えたままのアスタは皆から一歩抜け出るようにし、四歩ほど前まで出て止まる。
「だけどな、お前らにはまだやれることはある。後に現れるであろう、眼の使い手の子供達に対して、この先も生き抜けられるように教えなきゃなんねえんだぞ?」
英雄となった彼の背中は、雄々しかった。歴代の眼の使い手たちの頂点に立ち、この地での戦争をその手で終わらせた、紛れも無い英雄の背中。そして愛娘を抱き抱えるその姿は、父親その者だ。ただ、その言葉の端に滲み出る何かに、彼らは疑問を感じずにいられなかった。
「きっと世界は変わる。眼の使い手も。怪物たちも。決着のときは近い。遠くない未来、必ず起きる。だからお前らには、それを見届けて欲しい」
そう言い、娘の頬に顔を寄せ、ユキナのほうも髭のくすぐったさに無邪気に笑う。
だけど、その親子の触れ合いに、後ろにいる彼らは笑うことはできなかった。
「アスタ君……あなた」
先に不安そうに声を出したのは、ユリアであった。
先程から彼が述べる言葉に、決定的なものが欠けていることに対し、懸念が限界になったのであろう。アスタもユリアの声色に感づいたのか、ユキナに頬ずりするのを止め、今は愛娘の温もりを感じるかのように静止している。
その傍から見ても彼ならぬおかしな様子に、シバ、トーマ、ストラスも不安を感じざる終えなかった。
「…………」
背中に感じる彼らの視線に対し、アスタは黙ったままだったが、やがて、
「よーし、ユキナ! ちょっとお父さんと勝負をしよう!」
「しょうぶー? なになにっ!?」
突然、アスタはいつもの陽気な声でユキナを地面に下ろすと、一つの提案をする。その提案に対して少女は興味津々で聞き返す。
「もちろん、ユキナの好きな駆けっこだ。ゴールはあの建物の裏側までだ。だが今回は特別ルールとしてパパが十秒後に遅れてスタートするからユキナは急いで走るんだ。ユキナが勝ったら帰りに好きなおやつを買ってあげよう!」
「わーい! わかった! じゃあさっそくいくねっ!」
賭け事で、勝てば自身の好きなものを買ってもらえるという事に躍起になり、ユキナは早速その場から指定されたゴール地点まで一直線に走っていく。三歳なのでそれほど速くは無いが、それでも十秒以内には建物の角を曲がって姿を消してしまった。
そこまでアスタは十秒経っても走りだそうとする素振りなど見せず、愛娘の小さな背中を見守っていた。
「…………行ったか」
「アスタ、くん? どうして、あなたは……」
「ユリア、これを」
娘を見届けたアスタは、ユリアにいつの間にか手に持っていたあるものを差し出す。
それは眼が醒めるような蒼い鞘に収められた刀であった。刀ではあるが、まるで武具ではなく魔除けの宝具のような静謐さを持っており、刀にしてはあまり重くは無かった。
これを突然渡され、戸惑うように顔を上げたユリアは、そこでアスタの微笑を見る。
「それはユキナが、眼の使い手となって旅立つときが来たら渡してあげてくれ。パパ直伝の二つの仕掛け込みの名刀だ」
歯を見せて笑うアスタにユリアは不安を確信へと切り換えた。
先程から決定的に欠けている何か。それは紛れも無く『彼自身』に他ならなかった。彼が見据える未来には、全て自分が含まれていないのだ。まるで託すかのように、今までの全てが遺言のように。
「アスタくん、あなた―――――!」
ユリアが言い切る前に、アスタの抱擁のほうが早かった。力強く、しかし決して優しさを忘れないその抱擁は、まるで彼が別れを告げているかのように思えてならなかった。気づいて欲しくなかったと伝える僅かな震えは、逆にいつかはバレることを恐れていたことに他ならない。
「……ユリアは、気づいちまったみてえだな。そりゃそうだ。今までだって、俺の誤魔化しを見破ってきたのはお前が一番だもんな」
それを聞きながら、ユリアは彼が何を肯定したのか理解する。しかし、それは決して自分が納得し、受け入れられる筈がないものだったため、動揺するが、彼女が何かを言う前に、その場に居る全員に向けて、アスタは告げた。
「…………悪い。俺はもう、お前らと一緒にいられないみたいだ」
その声色に、動揺は無かった。その力強さに、その場に居た全員が凍りついた。
しかしそれに反駁するように、シバが堪えきれなくなった様子で零す様に言う。
「――――お、おい冗談だろ……? いつものお前の、手の込んだサプライズとかなんだろ……?」
まるで悪い夢の続きでも見ているかのように、シバは懐いた僅かな希望にすがりつくような気持ちで言うが、アスタの否定を示す首振りでその線は掻き消される。
「…………ちょっとあの光を壊すときにな、第二解放と最大限解放の合わせ技が祟ったのかさ、もうボロボロなんだよな。今こうしていられるのも奇跡みたいなもんでさ。……もう、走れねえんだよな」
それは彼にとって諸刃の剣だったのだろう。要するに眼の使い手でも第二解放時点で肉体という名の水槽は既に限界一杯であり、最大限解放はそれを無理矢理決壊させるトリガーだったのだろう。まさに一回限りの暴発に近いソレは、肉体にありとあらゆる過負荷を与えた。そして彼自身の気力も、その過負荷により著しく低下しており、本来ならおよそ一日生き延びることが出来るはずの時間を、ユリアに渡した刀に全てを注ぎ込んだのだ。すべては、愛する娘のため。故に最期に愛娘と走ることも許されなかったのだ。
「アスタ、くん……ダメだよ……やだよ…………!」
街を護り、仲間を護り、家族を護った彼に、ユリアは堪えきれず嗚咽を漏らす。流した涙で顔を濡らしながらも、彼を離さないように抱きしめ返す。だけど抱きしめ返したその身体は、既に以前の温かさはなかった。それは彼がどこか遠くに行ってしまうようで、ユリアは心のどこかで彼の死期を間近に感じ取っていた。
「……おい、冗談じゃねえぞ!」
背けようのない事実に、シバは耐え切れず半ば吼えるように言う。既に最愛の妻と子を亡くした彼から、さらに親友まで奪おうとしている終わった戦いに、彼は次に何かを言う前に、両眼から涙を溢れさせていた。
「ふざ、けんじゃねえぞ! この期に及んで、丸投げ、してんじゃねえぞお前っ!」
「それには同意だっ! お前の死なんか認められるかっ!」
これにはトーマですら慟哭に似た声色と共に、潤ませた片眼のみで彼を見つめる。認められるはずが無い。すべてが終わり、しかしそれでもその余韻で友を奪い去ろうとしている理不尽さに、叫ばずにいられる筈が無い。
しかしアスタはそれでも、この二人の言葉を心底嬉しそうに微笑んでいるだけだ。
「……ユキナちゃんを、向こうにやったのは、そのためだったんですか……?」
「…………、ああ、死ぬ瞬間だけは、見せてあげたくないしな。ストラス、トーマを頼んだぞ」
ストラスの問いに対して、アスタは肯定する。実に彼らしい配慮だといえるだろう。あの子に父親が死ぬ瞬間を見せるには、あまりに酷だ。
「……俺が死んだら、この戦いで死んでしまった人と一緒に埋葬してくれ。出遅れて護りきれなかった、せめての詫びだ。それに、そのほうが寂しくねえしな」
それは別の地で散ってしまった隊長たちの願いを全て護りきれなかった彼なりのケジメであった。
これで、大凡彼は自分が頼みたいことは全て伝えたつもりである。そしてそれを聞き届けてくれた全員に、素直に感謝の言葉を伝える。
「……最期に、お前らと話ができてよかった。俺が言いたいこと、渡したいもの、全て託したぞ」
「ああ、ああ。どうしてお前まで……、だけど、分かった。お前の言いたいことは分かった。なら約束しよう。お前の言うとおり、未来の眼の使い手達に尽力しよう」
涙を腕で拭い、シバは紅蓮の英雄に誓いを立てる。そのシバの眼に、かつての絶望は無い。彼は生きている以上、先の戦争で数多の嘆きを再び受けるかもしれない。だが彼は彼の約束に応えるべく、生きると誓ってくれたのだ。
もう、アスタは心の底で救われた気がした。しかし心残りがないと言われると、それはまだ少しばかりある。
「……ユリア」
抱きしめていた彼女の両肩に手を置き、体を離す。まだその大きな瞳を危ういほど潤わせてこちらを見上げている表情は、アスタがかつて見たくないと思っていたものだ。しかし逆に、彼女が自分をそれほどまでに惜しんでくれている証拠でもある。妻として、彼女はこの先もずっと、自分を愛してくれることだろう。何とも狂おしいほどに愛らしいんだと、彼は痛感するかのように胸の中で思う。
「……ユリアもユキナも、俺は死んでも、ずっと愛してる。ずっとずっとだ。俺が見守っている。だから、すまない。ユキナのことは、頼んだぞ」
「ええ、ええ……分かってる。あの子は私とあなたの子ですもの。必ず元気に育ちます。だから、もう……安心して、いいんですよ?」
「―――ああ、そうか―――もう、安心していいのか」
最愛の妻である、彼女が安心していいと告げてくれたのだ。もう、彼に心残りはない。自分が居ない未来に不安はあるが、自分の分まで彼女達は覚悟を背負うと誓ってくれた。そこに何の疑いが、何の懸念があるというのだろうか。
「――――本当に、幸せな人生だった」
生涯の始まりは孤独。しかしこの瞬間まで、彼が得てきた友と妻、そして子は何物にも代え難い光そのものだ。ボロボロに崩壊していくのを感じる肉体に、確かにその全てに染み込み、救われ、癒されていくのを感じながらアスタは眼を閉じた。
ご苦労であった―――
全てが認識できなくなる中、最後に彼は聞き覚えのある声でその言葉を聞いた。
―――数分後、いつになっても父親の来る気配に疑問を持ったのか、ユキナはゴール地点に指定された建物の裏から歩いてスタート地点である父親のもとへ戻ろうとしていた。
建物の角を曲がると、案の定、少し離れたところで母親の前にスタート地点から僅かにしか動いていない父親の姿を認める。ただ、父親はこちらに背中を見せ、向こう側に顔を向けていた。
「あれ? お父さん?」
父親の不審な姿に、ユキナは首を傾げたが、すぐに両親の元へ向かおうと駆け寄る。
しかし駆け寄ってみたものの、父親はこちらを向くことなくただずっと、城壁のほうに身体を向けたままだ。それに何だか周りの人たちの様子も変だ、っと幼き少女ながらも不穏な空気を感じ取る。
すると母親であるユリアが両膝を付いてユキナを抱き寄せる。その腕は震えており、同時にユキナの眼をアスタに向けないようにしていた。
「……お母さん―――?」
「ユキナ、大丈夫、大丈夫よ……」
何がどう、大丈夫なのかは真実を知らない少女は首を傾げるばかりだ。
「ねえ、お父さん何してるの? ずっと向こうを向いたままだよ?」
「――――お父さんはね、疲れちゃったの。だから今はそっとしてあげて。そっとよ」
「? だったら一緒にお家に帰ろうよ。ねえ、お父さん、お父さん!」
何も伝えられていない少女は、いつものように元気に父親を呼ぶ。こう呼べば、いつでも満面の笑みで温かに迎えてくれる父親は、幼き少女の声に反応を示すことは無かった。
既に、――――アスタは息を引き取っていた。
全身の肌は灰色かかっており、見た目どおり彼の肉体は既に灰になっていた。今、彼らの前で未だに雄々しい背中を見せているそれは、元アスタの肉体という灰の柱なのだ。
それに気がつかず、密かに遺志を託された少女は、賢明に父親を呼ぶ。その声だけが、静まり返った戦場の地にて、虚しく響き渡るだけであった。
欺くして、大戦は幕を閉じた。
彼の行為は歴史上から見れば単なる先延ばしに過ぎないかもしれない。本当の勝利は間近だったのに、彼は故郷で消えた。肉体も、紅蓮の衣も、全て灰になって消えた。唯一、彼の遺志だけが消えなかった。その遺志は少女に受け継がれ、明日への一歩となった。
―――静まり返る聖夜前日の夜。
海洞家ではたった今最後の入浴組が風呂から上がっていた。最後の入浴組みであるユキナ、ミルナ、近藤である。もはやチビッ子体型の女子と入るのが定番になりつつある近藤ではあるが、今は二人の少女の髪のブラッシングに勤しんでいた。
ユキナの黒髪は水に濡れたためかより艶やかになっており、ドライヤーで乾かした後も健在である。さらに髪を解かすと一切絡まることも無く、そのサラサラ具合に驚かされる。
ミルナの薄茶色の髪をドライヤーで乾かすとその温かな空気を含み、すぐにふんわりとした髪に戻る。まるで空気のような軽さを見て取れるその髪は、小さなお姫様のようである。
「ほーんとっ、二人とも良い髪してるわねー」
「う~」
ブラッシングしながら感心する近藤にその心地よさにユキナは唸る。ミルナのほうは先に済ませていたので先に行かせており、ユキナのブラッシングが済めば、入浴は終了である。
「ほい完了。行っていいわよユキちゃん」
「うん。ありがとね近藤さん」
湯冷えもしないようにちゃんと拭き取り、寝巻きを着こんで廊下に出たユキナは、ふと台所付近で何かしらの作業音を聞いたのでとりあえずそちらに行く。
そこでは既に先に入浴を済ませていたほかのメンバーが、テーブルの上にあるやけに大きな白い円形を二つ積み重ねたようなものに苺を乗せるのと生クリームを均等に塗る作業を行っていた。ソレは、今晩のメインイベントであるケーキに他ならなかった。彼女らは風呂に入るメンバー以外はこうして作業を後退でやっており、もうすぐ完成しようとしていた。
「あっ」
ふと、ユキナはあるものを発見するとそそくさとそちらに移動する。
「あ~いい湯だったわ~」
少し遅れて近藤がタオルを首に掛けながら台所に入る。
彼女も同様に完成しつつある巨大ケーキを発見すると、作業をしている千鶴に声を掛ける。
「おおー、どうやらもうすぐできそうだね」
「うん。それにしても海洞くん、よくこんな大きいの用意できたよね」
「そりゃ、全員の中で一番気合入ってるのあいつだしね。って、ちょっとユキちゃんっ!?」
すると近藤が驚いた声を上げ、その原因の元へ向かう。
彼女が見た光景はテーブルの横で、何か赤い実を食べているユキナの姿であった。緑のヘタが付き、白いゴマのような種が実についているソレは苺の他にならず、彼女は美味しそうに一粒食べていたのだ。
「こら! いくらユキちゃんでもそれは流石に―――」
「ん? これは食べてもいいやつだよー?」
「え? って、あ、ほんとだ」
見ると、苺の入ったパックには護熾の文字で『つまみ食い用』と書かれたメモ用紙が貼られており、すでにほかの女子も食べたのか、その数は減っていた。
「海洞くんが盛り付け分に必要のないのをあらかじめ計っていてね。食べててくれってさ」
「でもつまみ食い用って書かれてあるあたり、あからまさにユキちゃん意識してるわよね」
「んー?」
二人の話を聞きながら、ユキナは首を傾げているだけであった。しかし次の瞬間、まるでピンと何かに反応したかのように背筋を伸ばす。
「ど、どうしたのユキちゃん?」
「どうやらみんな帰ってきたみたいだよ」
すると玄関からドアの開く音が聞こえ、男子たちの『寒みーっ!』と喧しい声が響き渡る。ユキナの言うとおり、どうやら銭湯に行っていた男子一行が帰ってきたようである。
「あらら、うるさい野郎共が帰ってきたわけね。そいじゃあ、ちゃっちゃとケーキを食べる準備でもしましょうかね」
「はーい賛成ー」
再び全員が揃ったので、本日最後のイベントであるケーキを食すため、彼女らは皿やらフォーク、飲み物の準備のために各自動き始めた。
完全に外が冷え込む中、いよいよ海洞家にてケーキを食べる本日最後のメインイベントが始まっていた。誰もがおおーっと歓声を上げるほどのボリュームのあるケーキは、切るとその中身も護熾らしく凝ったものであった。苺のクリームケーキをベースにしてあるのでスポンジの間にクリームとカットした苺が入っているのだが、そこにさらにプリンを入れており、飲み物は冬の寒さに効く温かい紅茶でシンプルながらも美味い組み合わせで文句を言う人間など一人も居なかった。
「いやー、こんなクリスマス、また来年もやりてえもんだなー」
ケーキを半ば食べ終えた沢木が、既に名残惜しそうな遠い目でそう語る。声に出さずとも他のメンバーもそうであろう。大人数でやるクリスマスパーティーという大イベントという年に一回しかない催しものは彼らの学生生活の中で良き思い出として残り続けるだろう。
「まあ、全員都合が付けばの話だがな」
護熾はそう言いつつ、フォークでケーキをつつく。
「お前なぁ~、もう少しこう、感慨深げにな」
「うっせえ。少し疲れてんだから容赦しろよ」
「あんたら毎年同じやりとりしてるわね」
近藤の話に、思わず護熾も沢木もキョトンとした表情になる。どうやら中学からの付き合いで、毎年自分達が同じやり取りをやっていることに気がつかなかったと言わんばかりである。
「ま、私は可愛いユキちゃんやみんなに会えればいいけどね~」
そう言いつつユキナやミルナの頭を撫で、彼女達は嬉しそうに唸る。
「それに、話によるとユキちゃん親子は少しの間ここにいるみたいだしねー」
「なぬっ!? そんな話きいてねえぞっ!?」
思わぬ情報に沢木が再び食い掛かり、護熾はこちらに顔を突き出した彼の顔を掴む。今回の冬休みにて、時間が少し空いたユキナとユリアは少しの間だけこちらに滞在する話になっているのだ。ただ、現世組みの男子から見れば一時的とはいえ彼女と同棲するというアドバンテージは嫉妬の対象に他ならない。
「海洞てめえ! 彼女持ちになった途端にえらく楽しみやがってよォ!」
「そうだぞ! しかもあのお母さんと一緒か!? 羨ましくて仕方ねえよこんちきしょうが!」
「爆発だ! 俺は爆発を要求する!」
「うるせえ黙れお前ら! だったらお前らもなればいいじゃねえかよ!」
「「「それができねえからお前に八つ当たりしてんだよ!!」」」
「八つ当たりすんじゃねーよ!」
あっというまに居間は騒がしくなり、男子達に護熾のアイアンクローが炸裂する様子に、ガシュナは鬱陶しげに、その他は傍観や楽しげに見守る。
「元気よねー男の子は」
「そう? いつもの光景だよ?」
「ふふっ、じゃあ今年も無事終えられそうってことね」
「んー、そうなのかも」
同じく見ていたユキナとユリアはそんな会話をする。ユキナが納得している間、ユリアはかつて昔を思い出すかのように見ていた。学生時代の頃、変わらずにじゃれ合っていた光景は、あれから月日が流れていたことを痛感させられる。しかし喪ったばかりではないと思っていると、急に気配のようなものを感じ取ったのでそちらに顔を向けると、カーテンの掛かった窓に行く付く。
「あ、雪……」
見るとカーテンの隙間から、深々と白い粒がゆっくりと地面に吸い込まれるかのように天から降ってきており、幻想的なそれは、かつて自身の夫が今隣に居る娘に付けた名の由来なのだと改めさせる。
ふと、その窓に何かが反射していることに気がつく。それは今の居間の様子を映しており、しかし一つだけ明らかに集団から外れている人影のようなものを見つける。
その正体を知るべく、顔を戻すと、――――声を出すのも忘れて驚いた。
護熾達がいる居間の向こうで、台所の方に壁に寄りかかってこちらを見ている人物が居る。
それはユリアに見つけられると、悪戯な笑みを浮べ、まるでグラスを掲げるような仕草をする。
『楽しんでるかい?』
そこにはかつてワイトの英雄と呼ばれた紅蓮の武人、アスタがいた。そして聞き覚えのある声で、彼は言った。しかし彼は一切口を開かず、ユリアの耳に直接話したかのようであった。
「ん? お母さんどうしたの?」
ふと、隣に居るユキナの掛声でユリアは我に返り、顔を彼女に向け、
「ほら、あそこにアス―――」
指をさして再び顔を向けると、そこには既に跡形も無くただの台所があるだけであった。
「? 何かあったの?」
「…………いえ、私の思い違いだったのかもね」
そう言い、静かに眼を閉じたユリアであったが、その表情はどこか嬉しげであった。護熾の話から以前、アスタはまだ自分達を見守ってくれているという。もしかしたら彼の気紛れで、わざわざこちらに一瞬だけ来たのかもしれない。しかもクリスマスということで、グラスを掲げたようなジェスチャーをしていたが、そもそもあなたお酒飲めないじゃないですかという突っ込みどころを残していなくなった。しかしそれはとても彼らしく、当時と変わらない彼の微笑みは、既に安堵しているかのようであった。
一方、ユリアの謎の微笑みに、ユキナのほうは困惑していたが、それに気がついた彼女はとりあえず頭を撫でるようにする。
「うー、とりあえず、何かいいことでもあったの?」
「ふふっ、そうね。とても、ね?」
これをサンタが持ってきた奇跡というのならば、それはユリアにとって最大のプレゼントだ。ユリアの嬉しげな表情に、やがてユキナも共感したのか、互いに微笑むようにする。
いつもの光景と予期せぬプレゼントがある中、楽しげな時間は過ぎて行った。
午後十一時。
遊び、話し疲れた彼らは就寝の準備を始める。女子はいつもの和室にて収まるが、男子一行は流石に多いので護熾の部屋を解禁し、どうにか収めていた。因みにユリアは護熾から彼の父親である武の部屋を使ってもらっている。
「そーれっ! 芋虫アタッーーーークっ!」
「うおーい。近藤に怒られるぞ」
「おっとと、そうだった。悪い悪い」
早速、二階の護熾の自室では寝袋を着込んだ沢木が同じく寝袋を着込んだ宮崎にゴロゴロアタックを仕掛けていた。現世組の男子は布団の関係上、家から寝袋を持ってきているのでスペースの都合は解消できていたが、こう喧しく動かれては、下の女子達に怒られてしまう。
「さーて、じゃあ俺たち男子達だけになったことだし、ちょいちょい俺らだけの話でもしよーぜっ!」
「おおっ、そりゃ面白えかもなっ!」
沢木の提案に、ラルモが喰い付く。他にも木村、宮崎、ギバリも賛成し、護熾はあまり乗り気でなかったが時間が少々あるので参加する。この意見には流石に無碍にするのは中々難しいと判断したのか、あのガシュナですら無言の肯定を示した。
「はい、じゃあ早速海洞から。木ノ宮さんとの馴れ初めを話せ」
「何だその罰ゲームみたいなノリは」
「うるせえっ。リア充共の話を参考にして、俺らもバラ色の学生生活を歩めるようにするためだ!」
「そういう欲丸出しな時点で失敗しそうなもんだが……まあいい。俺があいつと会ったときには――――」
実際、護熾が沢木達に話す事は半分事実で、半分嘘である。何せ真実を話すと彼らに真実を話すことになるので(そもそも信じられるわけが無いので)こうする他ないのだが。とにかくそれらしく話しこむしかなかった。
本格的に話し疲れ、全員が寝静まった午前零時半。
二階では寝袋に入った三人が綺麗に横並びの芋虫状態で寝ており、反対側の布団では三枚敷かれた状態で毛布に包まった三人が寝ている、と言いたいところであったが、そのうち二つが空きの状態であった。
そんな中、月夜に照らされた海洞家の屋根にて、少女が一人寝巻き姿で降り立っていた。場所は海洞家の屋根ではあるが、此処は似て非なる場所、結界内であり、当然雪や冬の寒さとは無縁であり、人工的に作り出された満月が、外の寒さを象徴しているかのようであった。そしてそこには先客がおり、やってきた少女によお、と声を掛けていた。
「お前も、眠れなかったのか?」
「……ラルモがここにいたから」
先客であるラルモは屋根の上で寝そべっており、その気配に気がついたアルティが駆けつけた、というところである。それに対して少し申し訳なさそうに、ラルモはここにいる理由を話す。
「あー、すまん起こしてか? いや、なんつーか、今日は楽しかったんでな。だから何か、このまま寝ちまうのも勿体ねえ気がして、ここでちょっと興奮を治めてたとこだ」
遠足前の子供の逆バージョン、と言ったところであろう。収まらぬ興奮の余韻を静めるためにこの場にいるわけであったが、それが逆に静かに寝ているであろう彼女を起こしてしまったのは誤算であった。しかし彼女はそんなことは気にしないし、もっと簡素な理由でこちらに来ていた。
アルティはラルモの話を聞き、大方納得すると彼のすぐ横に座り、寄り添う。そのことにまだ照れが残るラルモは驚きながらも、やがて顔を空に見上げる。
「ああ、本当に、今日は月が綺麗だな」
「うん。本当は雪が降ってるけどね」
「ああ、だけどたまには、こういうのもいいよなっ」
そうラルモが笑って見せると、アルティも微笑む。二人が寝るにはもう少しだけ、この月の綺麗な夜を共に楽しむ必要があった。その時間を二人で過ごせるというのは、思わぬ願いでもあった。
水を流す音が聞こえ、一回のトイレからガシュナが出てきていた。
(……茶を少し飲み過ぎたか)
思えば、日中良く茶の類を飲んでいたので本来なら眠っているところを、尿意がそれを妨げてしまっていた。しかし出すものは出したのであとは戻って寝れば丸く収まると考え、二階へ戻ろうと暗い廊下を足を踏み入れたときだった。
前方に何かが床をこすりながらこちらに近づいてくる接近音がし、ガシュナは立ち止まる。
こんな時間に一体、もしかしたら自分と同じような用事で来たのではないかと冷静に構えていると、先程明かりのついたトイレに居たためか、突如お腹の辺りを抱きしめられたため思わぬ不意打ちに身体を硬直させた。
しかし、
「ふにゃぁー、ガシュナー」
「み、ミルナかっ」
声と共に見下ろしてみると、寝ぼけ眼のミルナがガシュナに抱きついており、手には先程の床をこする音の原因であろう毛布が掴まれていた。
「どうして、お前が」
「ん~? だってガシュナの、気配がしたからぁ」
眠そうな口調はしかし、ガシュナに会いたいという彼女の小さな希望のもとに来た結果であり、ガシュナに抱きついて安心したためか、そのまま彼女は眠りに落ちてしまった。
流石にこれにはガシュナも迷った。本来ならば彼女が寝ているはずの和室に連れて行くのが一番であるが、それで他の皆を起こしてしまうのは気が引けるし、逆に二階に連れて行ったらそれはそれで問題があるので、とりあえず小さな彼女を毛布ごと抱き上げると居間の方へ移動する。
居間の方は暖房を切ってあるため肌寒くはあるが、そこには使われていないソファーがあるのでとりあえず彼女をそこに寝かせ、縁のほうを自分が寝るようにして彼女の落下を抑え、毛布を二人で被るようにする。成り行きでこうなってしまったのは仕方が無いが、こうしたかったと言われると満更でもないのがガシュナの正直な感想である。
ともかく、すっかり寝入ってしまった彼女の寝顔を見ながら、彼は思う。
(やれやれ。しかし、温かいものだな)
彼女の温もりは、冬の寒さもあいまって心地よかった。そうしてガシュナはミルナの柔らかな髪を数回撫でた後、彼女の眠気に引き込まれるように自らも眠りに落ちていった。
もうすぐ深夜一時近くになろうとしていた頃、二階の護熾のベットで何かがもぞもぞと布団と毛布の間を這うようにして移動していた。すると、行き着いた空間に妙なスペースが空いていることに気がつき、そこに誘導されるかのように進めていくと、いきなり自身の身体が抱きしめられる。
『やれやれ、やっぱ来たか』
『あ、護熾』
ベットに侵入していた少女、ユキナを抱き上げた護熾は予想済みだったかのように、彼女の行動力に若干あきれるように小さく呟く。前回のお泊りの際は気がつかぬうちに彼女と枕を共にしていたが、今回はたとえ周りに男子がいようとも来るだろうと予想していた彼は、こうして彼女専用空きスペースを作るようにして今の今まで待っていたのだ。
その事実が嬉しいのか、彼女は早速護熾の胸に収まるとすりすりと頭を擦る。
『うっふふ~ん。なーんだ、護熾も期待してたのね』
『期待っつーか、まあなんだ。お前の行動が分かりやすいからあらかじめ対策をだな』
『でも、どこか嬉しそうだよ』
『…………』
ユキナにそう言われ、護熾は無言であったが、まるで誤魔化すかのように彼女の頭を撫でる。彼女は彼氏に撫でられたことに対し素直に喜び、ゴロゴロと喉をいつもより音は抑えているが嬉しそうに鳴らす。
『まあとにかくだ。来ちまったからには仕方ねえからさっさと寝るぞ』
『うん、じゃあ護熾、おやすみ』
『ああ、おやすみ、ユキナ』
そうして互いに身を寄せ合い、彼らは眠りに付く。互いの温もりに包まれた今、冬の寒さなどまったく意に介さず、幸せな時を刻んでいく。
こうして、海洞家は穏やかな眠りに包まれた。
早朝、午前五時を過ぎた頃であった。
不意に朝の思った以上の寒波に、ソファーで寝ていたミルナは寒気を感じ、身体を震わせたあとその余韻で眼が覚める。
(……? あれ? ―――――って!?)
背後に気配がし、寝返りがてら振り向くと、穏やかな寝顔で眠っているガシュナがいた。ガシュナはミルナの身体を支えるように腰に手を回しており、できるだけ彼女が寒くないように配慮して寝ていた。
そういえば昨晩、ガシュナの気を感じて抜け出たような。そんなおぼろげな記憶はあるものの、ミルナはそっと彼の胸に顔を埋める様にする。
(…………あったかぁい―――)
まだ起きるまでには時間がある。ならばこそ、この至福の時間を味わうべく、彼女は穏やかな眠りをする夫の傍に身を寄せ合っていた。
既に時間は七時半を過ぎ、テーブルの上には朝食の時間を迎えていた。朝食を作るために早起きの習慣がある護熾、ユリア、ミルナ、アルティ、千鶴の五人が調理に参加し、トーストとベーコンエッグ、野菜スープにサラダと時間が掛からずシンプルながらも温かい朝食を用意していた。
(あー、今朝は寒かったせいか、ちょっとだるいな)
護熾はそんなことを思いながらも、席に着き、全員がこれでついたことになったので食事の挨拶をする。
「そんじゃあ、いただきます!」
「「「「いただきまーすっ!」」」」
「っと、その前にちょっと待ったぁ!」
クリスマスの朝、朝食が始まろうとする中、近藤が食事の始まりを手で制する。
それに対し、全員がまるであらかじめ分かっていたかのように食器を手に取らずに待ち構えており、食器を手にとって食べようとしていたユキナは困惑したかのように慌ててテーブルの上に置く。
「こほん、ユキちゃん、今日何の日だか知ってる?」
「え、え? 今日はクリスマスでしょ?」
「ふっふーん。まだ少し寝ぼけてるのかな? ほーら海洞言ってやんなさいよー!」
「ああ、うん」
近藤にバトンタッチをされ、軽く咳払いした後、隣に居るユキナに言う。
「ユキナ、誕生日、おめでとう」
「えっ…………」
まったくの想定外の言葉に、ユキナはその場で固まる。そしてどういうことなのかキョロキョロと辺りを見渡し、母親であるユリアに眼で説明を求める。
「ユキナ、今日はあなたの十六歳の誕生日なんですよ」
「私の、誕生日」
「そうよ。だから海洞は気合が入ってたのよねー」
今まで意識してなかったことだったので、彼女は戸惑う。しかしだとすると、集まってきた皆は知っていたのではと、改めて周りを見てみるとそれが切っ掛けになったのか、全員拍手喝采で迎える。
「おめでとう」
「誕生日おめでとうユキちゃん!」
「十六歳おめでとう!」
「ユキナおめでとう!」
「どーだ! 全員グルのサプライズだぜ!」
拍手喝采の中、ユキナはようやく全てを飲み込む。
知らず知らずに彼らは自分の誕生日を祝うためにこうして来てくれたのだ。そして、その中でも一番の働きをしていたのは紛れも無く隣に居る彼なのだ。
「ユキナ、左手、出してみ」
「え、うん、って、あ――――」
そしてその彼に言われるままに左手を差し出すと、その薬指に何かが填め込まれる。
それは指輪であった。ただ婚約指輪のように宝石が付いているわけではなく、結婚指輪のようにシンプルなデザインである。これに対して驚いて顔を上げると、護熾は照れくさそうに自身の左手を上げる。そこには同様に薬指に指輪が嵌っており、ユキナとお揃いになっていた。
昨日の晩、護熾はユリアからこの指輪を渡された際、これが何なのかを聞いていた。
指輪の名は『最愛の指輪』。何と、あのアスタの遺品であるというのだ。これは大戦前、彼が結婚五周年を記念して注文したものであり、大戦後にその存在が明らかになったものである。しかも指輪には仕掛けがあり、二つで一つの別の指輪にもなる。この意味は子供を現しており、当時のことを考えればユキナもちゃんと含まれていることを示している。最愛の人として認める、永遠にそばにいることを誓う意味が込められた、記念と約束の指輪なのだ。
「これがまあ、俺からのプレゼント、っていうことになるけど、どうだ?」
「…………」
全員によるサプライズパーティー。そして最愛の彼氏からの最高の贈り物。
それらを実感するに当たり、ユキナは暫しの間黙っていたが―――やがてその頬に一滴の涙が零れ落ちる。その危うい様子に周りは駆け寄るような姿勢をとるが、護熾は顔を覗き込むようにして様子を尋ねる。
「おっとと、大丈夫か、ユキナ?」
「うん、うん、違うの、これは、嬉しすぎて、もう…………護熾、大好き!」
そこにはもう泣き顔は無く、周囲の事など気にせず、ユキナは護熾の首に手を回して抱き付く。護熾もそれを受け止め、何の抵抗も無く抱き締める。途端、周りから囃し立てる様な指笛や拍手喝采が再び巻き起こる。
「あーもうっ、何遍も言ってやるよ! 爆発しろ!」
「これがリア充が畜生が! でもめでてえから拍手してやんよ!」
「くっそ、味な演出しやがって憎い野郎だぜお前はよう!」
彼女無し組みの男子達も愚痴を交えるがこればかりは祝わざるを得ないのか、精一杯二人を祝福する。
そんな目出度い出来事から朝は始まり、全員で朝食を取る、そんな流れになるはずであったが―――、
「ほい、三八.三度。完全に風邪だな」
ラルモが手に取った体温計を見てそう告げる。ここは二階の護熾の自室であり、全員がこの場に来ていた。そしてベットの上には濡れタオルを額に乗せられた護熾が不機嫌そうな表情で寝ていた。よく見ると、いつもより頬が赤くなっており、傍から見ても熱があるように見えた。
「どうしてこうなったんだ……」
「そりゃあんた、一番はりきり過ぎたってことでしょうに」
どうも護熾自身、知らず知らずに疲労がたまっておりこうして風邪を引いてしまったのだろう。それほどまでにユキナのことを思っての行動の数々が裏目に出るとは、と本人も考えていなかったようである。イアルの呆れ顔に対し、護熾は反駁したかったが、どうもそれほどの気力はないようである。すると護熾の顔の真横から、ひょっこりとユキナが顔を出すと顎を縁に載せて言う。
「ふっふっふ、あの護熾が風邪引くなんてねー」
「あら? そのカイドウが倒れたとき、ガチ泣きで大慌てしたのは誰でしたっけー?」
「むー! あの時は驚いたんだから仕方ないの!」
ユキナとの抱擁で周りから拍手喝采の中、突然護熾が椅子から転げ落ちるというアクシデントに見舞われたため全員が大慌て、ユキナにいたっては前々からのトラウマもあって嬉し泣きから号泣に変わるという事態に陥ったが、今は風邪だと分かり落ち着くに至っていた。
「やれやれね。じゃ、落ち着いたことだし、プレゼントも渡せたし、そろそろ帰るわよあんた達」
現世組と異世界組ももちろん、ユキナに渡すためのプレゼントはあったので今はそれを護熾の自室に置いておく事にし、彼らは帰る支度をする。
「あー、悪いなお前ら。俺が風邪引いちまったばかりに悪い終わり方させちまって」
「いいわよ。別に悪くも無かったしね。じゃあユキちゃん海洞じゃあねー!」
「うん、あ、海洞くん、どうか今日はゆっくり休んでね」
「ちくしょー。あいつはこれから木ノ宮さんに看病プレイをしてもらうのか」
「そういえばそうだな。うわ、どう転がり込んでもリア充ってことかよ」
「とりあえずあばよ海洞。風邪治せよ!」
現世組は別れの挨拶をすると帰るために一階へと向かう。
「ほい、んじゃあ俺らも戻るとするか」
「うん」
「ふん、そうだな。戻るぞミルナ」
「はい、あ、護熾さん、どうか身体を温かくして消化の良いものを食べて寝ててくださいね!」
「じゃ、私らも戻るよ」
「おう。んじゃあ元気でなカイドウはん!」
「同じく、また会いましょうカイドウさん!」
続いて異世界組も別れの挨拶をし、護熾の自室を後にする。
「では、見送りは私と一樹君たちで見送りしましょうかね」
「うん!」
「はーい」
ユリアの提案に、既に腰にプレゼントで貰った変身ベルトを付けた一樹と絵里が了承し、この場を後にする。そしてこの部屋はユキナと護熾の二人っきりである。
うーん、と風邪に悩まされる護熾を少しの間だけユキナは看ていたが、やがてあることを思いついたのか、もぞもぞとベットの上の布団に潜り込む。そして枕のほうに顔を出すと丁度護熾と眼が合う。
「って、お前―――」
「んー? こうした方が護熾が眠りやすいと思って。うわー、あったか~い」
「お前が楽しみたいだけだろうが。でも―――」
でも、小さな身体でこちらに寄り添う彼女の温もりは、安らかな眠気を誘ってくる。すると彼女のほうも護熾の温もりで眠くなってきたのか、その大きな瞳が閉じかかっていた。
やがて、二人は寄り添うように、互いの身体に触れながらも、その眠気に誘われるまま、意識を落としていった。
護熾とユキナ達の友人を見送った後、ユリアは様子を見るために再び二回へと上がり、ドアを開けた向こうの光景を見て、ソッと微笑む。見ると二人とも寝ており、ユキナに至ってはベットの中にまで入り込んで寄り添うようにして寝ていた。しかしそれが功を奏したのか、一緒に寝ている護熾の寝顔は病気とは無縁の穏やかな表情だ。
「ふふっ、二人とも、気持ちよさそうに寝てらっしゃいますね」
それをユリアは近くに勉強机の椅子に座り、見守るようにする。
今この瞬間の幸せが永遠であって欲しいと願わずに入られないその光景は、大きな犠牲を伴ってようやく手にした、かげがえのない『彼ら』が手に入れたかったものである。
「アスタくん。ほら、ようやく私達にも、平和が戻ったよ」
もう隣には居ない彼はしかし、どこかで肯定するために笑っていることだろう。
そんな彼らに見守られながら、護熾とユキナは眠る。楽しい日々の中にある楽しい夢を見るために。
そんな彼らを見守りながら、ユリアは自然に起きるのを待つために、その穏やかに眠る顔を眺める。
これにて物語は終了とする。
英雄アスタが遺して行ったものは、今眠る彼らの日常へと繋がる未来という名の原液であった。そしてそれは少女と、少年と、そして他の子供たちが受け継ぎ、やがては自身の意思に変え、未来を創ったのだ。そう、今日までに至るまでの戦いは、ここでようやく大団円を迎えたのだ。
彼らの日常は今日もまた続いていく。この先に何かあるだろうが、彼らは必ず幸せになる。
それはかの紅蓮の武人が望んだことでもあるし、彼らが望んでいるものでもある。
これは、一人の武人の物語。
そして、その物語が終わった後は、少女と少年が紡ぐ物語の始まりである。
いやー長かった。とうとうユキナDiary-(色々直してないですが)これにて完結でございます。とりあえずアスタが一体何をしたのかを補完する形で締めました今回は、最後に私がどうしてもユキナDiary―内で語りたかったお話でございます。ただそれに二年以上も費やしたという愚公極まりないお馬鹿な遅筆で読者の方々に大変な迷惑をお掛けしました。そのことについても私は深く反省しております。
とにかく完結できたということで長く付き合ってきたこの作品ですが、いやまあ、本当に多くのことを学んだりしましたよ(主に悪い意味で)。
ですが、個人的には忘れられない作品となったのは確かです。始まりが高校二年生から、そして現在は二十歳を越えた大人でございますよ皆さん! よくもまあこんなに続けたものかと思いますが、それも今日を持って彼らには静かに眠ってもらいましょう。本当に、お疲れ様でした。
さて、次回からどうしますというとですとね……どうしましょうかね?(笑)
いやあの、実は既に次回作のほうは知っている方は知っていると思いますが、十話くらいリメイクして待機させている状態です。ですが投稿するとなると完結には今作以上の時間が掛かるというか、ぶっちゃっけ学校が忙しくなるので前みたいに一年で一応完結、というほど早く終えられなくなるという懸念があります。しかし個人的にはどうにか出したいな、という思いです。せっかくあるんですし、無駄にはしたくないですから。
ともかくまあ、そんなことを楽しく悩みながらもユキナDiary-は今回をもって完結させていただきます。もしかしたら気紛れで追加することもあるかもしれませんが、これにて完全終了とさせていただきます。ここまで読んでいただいた読者様には貴重な時間を削ってまでこんな作品を読んでいただけたのは感謝感激極まりないものでございます。
それでは次回作でお会いできるなら、また会いましょう。それでは! でわでわ~