ユキナDiary---第拾弐話 終幕 上 ―散り去る者たち―
肌に突き刺さる寒気の夜の中、男子一同は銭湯に辿り着いていた。
ユキナが利用していた頃と何一つ変わらず、近所の贔屓によって未だに残り続けている遺産であり、今日は聖夜前日だからかあまり人は来ていない。しかしそれはむしろ僥倖であり、その身包みを脱いだガシュナとラルモの体には今もなお大戦時の傷跡が残っていた。ラルモは背中だけなのだがガシュナは昔からの古傷もあり、眼の使い手だということを知っている辺り同じ年齢とは思えない過ごし方をしていたのは容易に汲み取れた。
一方、もちろんそれに対して看過できない沢木たちはそれについて訊くが、あらかじめ彼らが考えていた誤魔化しと、以前護熾にも似たようなことがあったためか大して気にせず、全員湯船に滞りなく足を運ぶことができた。
「いっっっやっほおーーーっ!」
身体を一通り洗い終えたラルモは楽しげな声と共に湯船の縁を蹴り、魚雷のように温水の中を突き進む。そしてそれに釣られ、馬鹿騒ぎがしたい年頃である沢木、木村、宮崎、ギバリも同じようにはしゃぎ始め、水の跳ねる音が浴場内に響く。
そんなはしゃぐ男達を見るように、壁側に護熾とガシュナが間二人分空けて湯に浸っていた。二人とも頭に水に濡らして畳んだタオルを乗せており、普段の彼らを知るものにとっては中々シュールな光景である。
「……そういやユキナを見て思ったんだが、お前らの眼の使い手の力って残ったままなのか?」
前を見据えたまま、護熾がガシュナに向かって話を切り出す。
「…………そうだな」
それに対し、同様に前を見据えたままガシュナがそう答える。
「貴様は力の根源が真理であったが故に無き今はただの人間だ。しかし俺達は力の根源が命そのものだからな。眼の使い手の力が無くなるのは死ぬか、またはソレに等しい絶望を受けた場合だ」
「……そうか」
護熾は短く頷き、ガシュナのほうも彼の返事を受け、そのまま口を紡ぐ。
かつて人間が怪物という異形なる存在と戦うために昔からの唯一の対抗力は、もうその役目を果たし、各々の身の内に静かに眠っている。しかしミルナのようにこれからの未来のために役立つ能力もある。当然、彼女の能力だけではない。
「……だが、完全に役目が終わったわけではない」
そう新たにガシュナから切り出し、そのまま続ける。
「現状、怪物という圧力から解放された街の中で、もしかしたらあらぬ野望を懐き、衝突を起こすところが出てくるかもしれん。俺たちの世界は今までの歴史では類を見ない多くの変動を露にし、時に混乱が起きるかもしれない。そんな時に俺たちみたいな抑止力が必要になってくる。当然、ワイトに対してもだがな」
今まさに、彼らの世界は長い戦いを経て、恐怖から解放された自由を謳歌している。
ただし、それは予期せぬ混乱も招くこともあり、全人類の共通の敵であった怪物が消えた今、その矛先は今や同じ人類に、彼の言う人間同士の衝突も有り得るかもしれないのだ。もしかしたら真理はそのことも踏まえたうえで、ある種の緩衝剤として眼の使い手を残したのは、彼らの戦いの動機は全て解消され、これ以上争いを望まないことを分かっていたが故なのかもしれない。
「……そうか、まあ起きなきゃ一番いいんだけどな」
「だが、こうしていられるのもまた事実だ。あの大戦からよもや全員『生きて』帰ってこれるなどと、予想はしなかった。結果的に最善で終えられたのは、結局貴様の働きによるものだな」
そう、もし仮にあの大戦で死ぬとしたら、自分だったのはずだ、とガシュナが暗にそう言ったのを護熾は何となくだが、分かった気がした。しかしそうさせなかったのは自分の嫁であるミルナであるし、そしてそのあとに参じた護熾のおかげでもある。だからこそ、護熾は次にガシュナの言った言葉を驚きもせず、素直に受けとれたのかもしれない。
「…………礼を言うぞ、海洞護熾」
「…………ああ」
いつか礼を言わないと言ったのは、もしかしたらこうした場面で言うつもりだったのかもしれない。しかし護熾は笑わず、その言葉を受け入れる。
同じ護りたい者を持つ男同士、この時ばかりは確かに、互いに認め合っていた。
此の世に生れ落ちてから、いや、再び生み落とされたのだと自覚し、最初に見たのは黒い背中だった。
黒い鎧に包んだその少年は、声色からまだあどけなさが抜けておらず、少年のまま長い時間を過ごしたのを窺わせた。そしてその少年が自身の主であり、そして自分の他にも多数の同胞たちがその場に居合わせていた。しかしそれでもその少年はまるで達観しきったように、まるで全てを諦めているかのように感情を持ち合わせていなかった。それは自身の怪物としての冷酷と残忍を結晶化し、能力に充てた『氷』よりも遥かに冷たく、深淵のように底無しの闇にでも囚われているようにも思えた。
それでもこの少年に長く仕えるうちに、一つの答えに辿り着く。
少年が少しだけ懐かしむような眼で、お前は優しいな、と呟いたのを聞いた。
それは確かに自身に向けられたものでもあったが、その中にはかつてその少年が昔感じたものも含まれていたのだ。だからこそ気付いた。少年の今の姿は最初に小さな、すぐにでも叶えられるような夢を壊され、それが歪んで今に至るのだ、と。
そして時がさらに流れ、少年の寿命の根源たる理の力が弱まると、今度は真理を求めて動き出すが、その行動や思考の中に焦りが垣間見えていた。もう、それだけにしか視線を向けていないその少年を、この時自分は救いたいと思った。この少年がもう一度自分を取り戻せるよう、かつて優しさに触れていたその頃のように。自身がもう一度異形なる者として生れ落ちたこの命を、この少年のために尽くすことを誓ったのだ。
だからこそ今回、自分は率先して大戦の火付け役を担うと同時に、実力のある眼の使い手を生かすことにも成功していた。
しかし自分を倒すことのできない実力のままでは、この大戦を終わらせることなどできない。
理が真に世界の調整を計るものならば、眼の前のこの男に何らかの変化を与える筈なのだが、どうやら思い過ごしだったようだ。このまま続けていても仕様がない。
ならば早々にこの戦いにも決着を付けなければならない。
それこそ全てが手遅れにならぬうちに――――
一体どれほどの攻撃を受けたか、アスタは憶えていない。
分かることは自身の手持ちである五本の剣のうち、四本がシュニーによって破壊され、修復も精製もされずに残る一振りのみとなっていることだけであろう。
敵の、シュニ―の攻撃はまさに猛吹雪の如く、自分はそれに攫われる木の葉も同然だった。結果が同じならば最後の剣など出さずに徒手で臨もうとしたものの、それで何かが変わるわけでもなく反撃一つさえシュニーは許さなかった。
シュニーの能力、それすなわち言葉にするならば『気力喰い』が妥当であろう。それは言葉通り、こちらの気力による攻撃をシュニーの気が『喰らい尽くす』形で弱体化させ、最終的に無力化させるという眼の使い手にとって天敵たる能力である。しかもシュニーの能力は本体から切り離されても継続するようで凍らされた右腕の気力と外部からの気力を完全に遮断し、実質破壊不可能という呪縛まで課しているのだ。だからこそ剣を奪われ、打ちのめされるその様は、かつて幾度の怪物の軍団をたった一人で壊滅させ、名前持を何度も討ち取った武人と言うには程遠く、無残で哀れな姿だった。
故郷を救うと、自分の愛する仲間や家族を救うと、ここで倒れるわけにはいかないと頭では解っていても、致命傷を避けようと身体を動かすだけでも精一杯だった。
勝てない。強すぎる。飛光より遥かに高い気で精製した剣を受け、それで奪い去ってしまう相手に勝てる方法などあるのだろうか。
だけど――――
「ぅ…………うォおおおおおおオおおお――――!!」
心が折れかけようと、膝まで折ることはなく、どうにか踏み止まったアスタは吠えると共に最後の一振りを精製する。それは高温の炎を模したかのような蒼き刀であり、アスタにとって一番手に馴染む得物である。柄をしっかり握り込み、防戦一方だった後退を無理やり前進させ、攻撃に転じる。
それを察したシュニ―は相手の剣撃に合わせ、腕のみで相手の縦斬りを受け止め、拮抗する。
相手の体表に刀身を置いているという致命的な状態にアスタは内心驚愕し、案の定氷が食らいつこうとする。が、斬るという性能に頼ったため刺す時とは違い、間一髪離すことに成功し、飛びずさって後退することに成功する。刀身の中ほどに氷がこびり付く形ではあるが、まだ剣としての機能は失っていない。
だが、たった一回の攻撃をして離脱するという行為さえ、今のアスタには厳しく、とうとう最大限解放が解除され、電撃とスパーク音が鳴りを潜めてしまう。体力的にも、気力的にも限界が近い証拠だった。
「…………まだ挑むか」
それを察したシュニーが、静かな声で言う。
「まだ私に挑むのか、アスタよ……!」
「俺は、ここで、死ぬわけには、いかねえんだよ! 絶対に!」
激しい息切れの中、アスタは血だらけになった顔で、しかしその双眸に宿った闘志はまだ消えていなかった。何度打ちのめされようと、何度前のめりに倒れそうになっても、彼が倒れなかった理由は恐らく彼自身ではなく他の者にあるのだろう。だからこそ、ああ、この男もまた救いたいのだと、シュニ―は理解した。だからこそあえて再び問う。
「……救いたい者がいるのだな、アスタ」
「…………そうだ」
通常、このような情報を眼の使い手が怪物に伝えるなど取り返しのつかない致命的なものであるにも関わらず、アスタは答えた。
「そうか、私にも家族はいるし、救いたい者がいる」
「…………」
ここでアスタも、ようやく眼の前の男が少なからず自身の似た目的を持っていることを理解する。
しかしだからと言ってこの戦いはどちらかが倒れるまで幕を下ろすことはないし、相手も同様であろう。だからこそアスタはもう一度柄を握り締め、さらなる覚悟を持って四度目の最大限解放を決行する。
電撃を纏い、スパーク音が鳴り響くと共に力が溢れ出る。しかし禁忌を越した四度目であるからか、体の内部で毛細血管等が破裂し、内出血が発生するが、そんな痛みなど、この覚悟の前では何の意味もなさない。これから先は本当の意味で血肉を削る最後の戦いだ。
一歩、また一歩とアスタは疾風迅雷の如くシュニーに迫る。
正真正銘の渾身の一撃を放つために。だからこそ、アスタは最大限解放から―――さらにもう一段階解放する要領で、自身に残された気力を絞り出す。その瞬間に具現化せしは僅かな輪郭を伴う清冷な衣。
自身の認識している力を全て防がれた今、この未知なる力に掛けるしかないと踏んだのだろう。
その瞬間、今までに感じたことのない気力に溢れ、シュニ―は三度目の驚愕を目の当りにする。
アスタはこの謎の気力が自身の刃に注がれていくのを直に感じながら、これだけの気力を持って一瞬でも良い、斬撃を持って斬りつければ勝てると確信していた。
そして確信と共に、アスタは雄叫びを上げる。
「オオオオオオオオォおおおオォぉオォォオ―――――!!」
一歩、また一歩踏み込み、そして眼の前に捉えたシュニーに向かった渾身の袈裟斬りを振るう。
骨が軋み、肉が潰れる感触がありながらも、アスタはそれが一瞬の出来事の筈なのにやけに長く感じた。これだけの気力を持って斬りつければ、気でコーティングされた刃はそれこそ凍った物に熱した包丁を入れるかのようにあっさりと斬れるはずなのだが、それだけの手ごたえがない。
それもそのはず、事実その刀身はシュニーに触れてすらいなかったのだから。
「…………ぅぁ」
ここでアスタは気がついた。
そもそも自分は斬りつけようと刀を握った腕さえ持ち上げていなかったのだ。まるで脱臼したかのような無気力さが肩を支配していた。それに、何だか右脇腹辺りが妙に湿っぽく感じたので、そちらに視線を向けると、氷の槍が刺さっており、刺さった先から自身のドス黒い液体が漏れ出ていた。
その槍の発生源は、紛れもなく自身の持つ刀の刀身からであった。それは最初にこの刀で斬り付けた時に貰った氷種に他ならなかった。
アスタはそれに対し、悔恨や後悔をするのではなく、つくづく眼の使い手殺しだなと思った。
「よくぞ、ここまで戦った」
眼の前に居るシュニーの称賛の声すら、今のアスタにはよく理解できていなかっただろう。
だからこそ、自身の胸板に押し当てられた相手の掌が何を意味するのか、それを回避することなどできなかった。
「……少し、眠っていくがよい」
そう言い、シュニ―は掌の先に向けて力を込めると氷が枝状に伸び、アスタの身体を捕える。
それはみるみる、まるで繭のように全身を包みこむと、それは氷塊となり、アスタの動き全てを封じる。最早瞬きすらしないその姿は、完全に沈黙していた。しかし死亡したわけでもなく、彼はこの状態でもちゃんと生きていた。
これはシュニーが最後に彼に対する優しさである。これ以上彼が動いてしまうと、いかに眼の使い手といえど気力の過度消費と出血多量で死に至ってしまう。しかし気を外部から遮断してしまうこの氷の中ならば自己治癒能力にのみに働いてくれるだろう。それでもおよそ一日も満たない時間ではあろうが、十分な時間であった。
「…………この時代の益荒男よ。お前は死ぬべきではない。だがお前の家族は助かるかどうか分からない。貴様は憎みもしよう、呪いもしよう。しかしその時は、再び私が貴様の前に立とう」
自身の限界の限界を引き出してなお、遂に刃が届かなかったこの男に、シュニ―は誓う。
故郷から遠くの別の街の上空にて、とうとう敗北を喫した眼の使い手は、しかしその結末に一言も発することなく透明な氷牢の中、人形のようにただこちらを見つめるのみであった。
相手が地面を蹴って踏み込む足音と気配を感じ取り、回避の体勢を取るが、肌から感じられる拳撃を感じてからの後悔を感じる暇もなく、右側の顔面に拳が直撃する。
頬に鉄球を受けたのも同然の威力で喰らい、トーマの身体がそこを支点にして左方向に面白いように半回転し、そのまま地面に叩きつけられる。しかし完全に飛ぶことのなかった少ない意識のみで、何とか片手で受け身を取ると即座に地を蹴って距離を取る。
気力による防御があったとはいえ、激痛が意識を所々引き裂くような錯覚に陥る中、それでも無理矢理銃口を先程自身が立っていた場所に向けると引き金を引き、弾丸サイズの飛光を放出する。
急所に命中なら一撃必殺も見込める威力であるが、弾丸は虚空を突き進んでいき、住宅の壁を穿っただけである。
その直後、意識を安定させたトーマは外した事を認識すると共に、自身の損傷を計る。
自身の損傷:肋骨が折れ、胸の中で何かがズレている違和感と、鉄の味が口の中に充満。
否、それでも問題なしと、彼は判断し、次に相手の現時点での戦略について考える。
相手の名前持、パルシはどういうわけか遠距離攻撃の雷やレーザーを自ら封じ、肉弾戦のみに絞ってきていた。しかしこれが現時点でトーマに苦戦を強いる要因に直結していた。まずは挙動を視覚的に消す『強化ステルス』に、これに加えて接近戦に持ち込むという戦術は遠距離戦で分があったトーマの優勢を気力で攻撃が直撃する瞬間に防御し続けると言う防戦一方の劣勢に転じさせていた。
『いいぜいいぜ~! やっぱこっちの方が文字通り手応えってもんがあるしな!』
不可視の姿を維持したパルシからの発生源不明の声を聞きながら、トーマは一つだけ断定する。
相手はどうやら自分が今までどうやって雷やレーザーなどを避け切っていたのか、そのカラクリに気が付いていないようだ。だからこそ肉弾戦に持ちこんできたのも頷ける。ステルス状態を維持しているのは自身の銃弾の威力を知っているからこそだ。しかしその上でも接近戦を選んでいるのは自身のポテンシャルに自信があるからだろう。
しかしこうした敵戦略情報を知ろうにも、それを打ち破る策は新たに思い付くわけでも変わるわけでもない。自らの一撃を相手の急所に叩きこむ。これがこの戦闘が始まってから変わらない彼の戦術だ。
と、不意に人間大の物体が接近する気配。
トーマはすぐさま後退するが、激しく空気が動いたことを感じ取ると銃を盾にして構えると、強烈な衝撃が下から斜め上へと奔る。相手パルシからの強烈な蹴り上げは、今まで拳撃のみであった分、比較にならないほどの威力を持っており、トーマの身体が簡単に空に向かって吹き飛ばされる。
トーマは自分が家々を一望できるほどまで飛ばされ、なおかつ自身の武具であった銃が粉々に砕かれたことを認識しながらも、蹴り上げによって発生した脳震盪が思うように身体を動かさせない。
その間にもパルシが接近し、さらに高度を稼ぐために拳を振り上げ、その拳撃が容赦なくトーマの背中に命中、さらに上昇し、その高度を保ったまま今度は真横に吹き飛ばす。まるでその様はシャチが獲物で遊ぶような光景に似ており、事実パルシは宿敵である眼の使い手を散々弄っていることに爽快感を身を持って感じていた。
しかしその興とは逆に、手も足も出ない相手に対して飽きも生じ始めていた。
だからこそ、この遊びを終わらせるために彼はトーマをある場所へ傷めつけながら運んでいるのだ。
そしてその場所へと到達したパルシは両手で握り込んだ拳を振り下ろし、トーマを叩き落とす。
叩き落した場所、それは中央であった。
何故この名前持がこの場所まで侵入してきたかはトーマは大凡察するが、既に高度は城壁を越え、一般人がその高さから落下すれば足の骨や内臓などがスクランブルするほどのもので、眼の使い手と言えど、それ相応のダメージは覚悟しなければならなかった。
事実、トーマは地面に激突し、受け身などもし損ねたため体内で地震が起きたかのような錯覚に陥るほどダメージを負っていた。幸い、暫しの間休めばまだ立ち上がられるほどの気力はあるが、その回復までの時間に相手が放っておくわけがない。
「さて、お前をここまで運んできたのは単なる効率重視しただけのことだ」
羽毛のように軽やかに地に降り立ち、強化ステルスを解いてゆっくりと歩を進めるパルシはそう告げる。おそらくはストラスとミョルニルの奇計について、内容はどうあれ感知したがためにここまで来たのであろう。
彼の少し離れた後方では、悲鳴と喧騒が入り乱れた避難中の多くの人間が我先にへと奥へと引っ込もうとしている。通常ならばその音源を消し去るために彼はその能力を惜しまず虐殺に事を進めていたことだろう。しかし彼はそうすることもなく足先をトーマの方に向けている。
理由はパルシ自身も消費していることに他ならなかった。強化ステルスも長く維持したまま掛け続けるのには流石に骨が折れ、なおかつ雷やレーザ―などに使う気力など、その辺の人間に回す余裕などないのだ。
そう、彼は眼の使い手を殺害した後、今度こそこの街の最後の『希望』すら叩き潰すために体内に力を溜めているのだ。三度も電磁パルスを発生させるとは思っていなかったが、これで息の根を止める。だがその前に先程言ったように地面を羽虫のように這い、立ち上がろうとしているこのボロ雑巾から片づけなくてはならない。しかし相手は御覧の通り虫の息に近く、小突いただけでも絶えそうな身だ。能力を使うまでもない。ただ、ボロ雑巾と同様と化しているその眼の使い手は、満身創痍ながらもこちらを睨み付けた双眸には尚、浅紅色のよりも深い炯々とした闘気を宿らせていた。
「…………」
その視線、その絶望せずまだ挑む気でいるその姿に、パルシは忌々しげに眇めた眼で嫌悪感を示す。強化ステルスを解いたのは眼に見える恐怖によって絶望に憔悴する姿を拝むためであったが、ここまで追い込まれ、しかも自身はこの戦いの終止符を打つ直前であるにも関わらず、相手は絶望の色さえ見せることはない。何故眼の使い手と言うのは、かくもこう神経を逆撫でするのだろうか。
「…………忌々しくまだその眼で俺を見るか」
憎らしげに低く抑えた声で、パルシはそう零すとトーマに向けてゆっくりと歩み寄る。
戦う意志はあれど、思うように身体を動かせないのは明白だったのでその状態を信じながらパルシは片腕を伸ばし、トーマの胸倉を掴んで無理矢理引き起こすと、まるで眼球でも抉り取るかのように指三本を彼の右目に突き出す。
その怪訝な行動に、トーマはつい弱々しく呟いた。
「……何を、する気だ?」
「当然、その眼ん玉から脳まで焼き切ってやろうと思ってなァ!!」
そして指先に力を注ぎ込むと同時に、トーマは右目の視界が真っ白になったかと思いきや暗転、瞬間、火鉢でも刺されたかのように右目は激痛一色のみに染まる。
「があアアァァぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「はっはははははははははははははははは―――――――!!」
右目をマイクロ波と化した気力で焼かれ、眼球内の水分が沸騰する中、生きながらにしてその痛みを訴えるように叫びながらパルシの腕を掴むその姿は、彼にとって極上のショーを見てるかのように痛快であった。ここの奴らが何をしでかそうとしているのかは知らないが、所詮自分の能力で葬れるほどの脆弱な希望だ。だから今はこの屑の成りそこないを本物の屑に変えようと楽しむ時間はあるはずだ、と彼は認識していた。
それはほんの数秒前までは、という条件であればの話であったが。
打ち込まれた情報を基に、回線が送り、基盤に伝わり、装置がそれらを増幅して現象へと昇華させていく。出力は十全。指定範囲は打ち込まれた座標から円形に、街を囲んだ城壁すらも超えてその三倍の大きさで囲う。そして装置が稼働音で唸りを上げる中、それは遂に発動する。見えない波動が空に、大地に、湖に小石を投げ込んだかのように波紋のように広がって行き、カチリと音を立てて装置が安定化したことを知らせる。
装置は十分に稼働した。
しかしちゃんと効果を発揮しているかどうかは一般人には分からなかった。そもそも成功しているかどうかの結果を確認できるものの傍に彼らはいないのだから。しかし戦場でスコープ類と通信機器を不使用にされていた兵士達にはその効果が露骨に表れていた。それは不可視であるはずの、怪物たちの可視化であった。向うの背景が歪んで見えていた透明な輪郭が、黒い体毛を伴って姿を現し、突然のステルス解除に怪物たちは戸惑ったかのように蹈鞴を踏み始める。
兵士達の方も事前に聞かされていなかったため同じく戸惑っていたが、新たに視認というアドバンテージを獲得した彼らにとって、反撃の一発を撃ち込むという行動は間を置かずして行われた。
見えない波動が身体を突き抜けて行った瞬間、それを感じ取ったパルシはグルンと首を中央の建物に驚愕の表情を向ける。波動が身体を突きぬけた瞬間、隠したいた筈の己の身が無理矢理引きずり出されたかのような奇妙な違和感にその手を止め、さすがに彼も今何が起こったのか判断がついたのだろう。
「……野郎、予定変更だ」
事の重大さに焦燥を駆られたパルシは弄ぶのを止め、胸倉ではなく喉笛を掴む。それと同時に身体も再び強化ステルスによる透明化を始める。装置が発動している中、通常のステルスの上位の能力を得ている彼だからこそ、何の苦もなく発動しているのだろう。おそらく視認と言うアドバンテージを自身が覆すという魂胆からの再度の選択であり、不可視の状態で決着をつけようとしている。しかし身体が痙攣で動かないトーマに残された左眼には、姿は見えずとも相手の気配、気力、そして尚も自身を掴み腕の感触からまだ激痛を引き摺る意識の中、視認できていた。
「ご生憎だがこんな程度じゃ俺のは破れねえ。さあ死ね眼の使い手!」
完全に空気に溶け込んだその姿から発せられると共に、喉笛を掴んだ掌を帯電させる。捕えた状態からの零距離での雷かレーザー、どちらにしても外しようがない。
その百発百中であり、トーマの絶体絶命の危機に対し、二人のすぐそばに何かが転がってきた。
それを眼中に入れず、そのまま実行すればパルシの勝利は確定的だったのにも関わらず、優位な立場に居ると言う慢心からついそちらに眼をやる。
転がってきたのは奇妙な球形状の鋼でできた野球ボールほどの大きさの物体で、縦と横に切れ目が入った代物であった。
一瞬、この場に居た兵士の誰かが殺されそうになっている眼の使い手を救出しようと投げ込んだ手榴弾の類かと思ったが、それは少し正解である。彼の間違いとは、それは手榴弾でもないし兵士の誰かが投げ込んだものでもない。
では、残りの正解とは。
それを投げ入れたのは、眼の使い手に縁ある者であり、投げ込んだそれは名前持に有効打を及ぼすものである。つまりはトーマを救出する目的で投げたものだということだ。
「なんだぁこれは?」
「これは……結界装置……!」
トーマが知る限りでは、これは試作品で小型化した結界装置であるが効果は未知数であった。
パルシが予期せぬ介入に一瞬固まっている間、球形上の鋼玉の切れ目が展開し、一回り大きくなると先程の波動とは比べ物にならないほどの濃度の波動がそこから発生し、パルシとトーマの身体を突き抜ける。そして二人を覆う形でその場に小型の結界が展開される。トーマの方にはまったくと言ってもいいほどそれは無害であったが、パルシの方には盛大にその効果が顕著に表れていた。彼の全身を覆っていた強化ステルスは、強力になった波動に触れてその発生源である体表から引き剝がされる。
(ぬおっ! 何だこりゃぁ!! さっきのと同じみたいだが桁外れに強い!!)
パルシが内心驚愕する中、本来通常の装置の効果は通常のステルスを限定に無力化するだけであるが、この装置にいたっては怪物の気力に反応し拒絶するだけの効果を秘めており、パルシは強化ステルス、および掌に溜め込んだ気力に高濃度の結界が反応する。
効果を増強され、元々ステルス関連の気力に特化しているだけあって、パルシの強化ステルスで覆っていた全身の気力を放出する孔が一時的に塞がれ、結果、電子回路がショートしたように、掌と体表近くで支離滅裂に彼自身の気が彼の身に食らいついたのだ。
「あ? あ、あ、が、がああああああああああああ――――――!!」
全身の血管に針金を入れられ、一気に引き抜かれたに等しいその激痛に気づいた瞬間、怪訝そうな呻き声から一転、まさか今度は自分が叫び声を上げるとは思わなかったパルシは盛大に喉を振るわせながら手を離して踏鞴を踏む。他の名前持ちだったら精々火鉢に触れて火傷程度で済んだだろうが、生憎彼は掌と全身に高濃度の気力を纏っていたのだ。その上、体表で変換という性質も合い重なってその効果は何倍にも膨れ上がっていた。
投げ込まれた球状の装置の効果は一瞬で、それは出力に耐えられずすぐさま自己破損で機能を停止してしまい、使い捨てであったことを窺わせた。
その自爆とも言えるパルシの様を見て、トーマはようやく自身が今の危機を脱したということを理解し、憔悴しきった残された左眼で、眼の前の相手を見る。
だが、例え全身を焼かれようとも所詮体表程度の損傷ではパルシは止まらず、比較的浅い傷である左掌をこちらに向け、既に帯電を始めていた。例えどういう意図があろうと、眼の使い手さえ殺せば無意味になることを心得ているのだろう。
つくづく怪物はしぶといと、トーマは錆びた鉄のようになった身体で回避行動を取ろうとすると、もう一つの装置が彼の眼の前に転がり出て、即座に展開。今度は彼のみを包み込む小規模な結界が展開。それがパルシの直後に放ったレーザーを防ぐのかと思いきや、その場にいた両者の予想を超えた現象が起こる。レーザーは真っ直ぐにトーマに突き進み、通常ならば彼の胸部を貫いただろう。しかし直前に張られた結界はそのレーザーを防ぐのではなく、まるでトーマのいる空間のみをすり抜けるように命中寸前で一旦消え、それから彼の背後で再び何事もなかったように出現し、城壁を穿った。
互いに何が起こったのか分からぬまま、両者は受けたダメージもあって硬直状態に陥る。しかしトーマに展開されていた装置は不安定な状態での発動だったのかすぐに効果が切れ、それに感づいたパルシがすぐさま再び手を向けて帯電を始める。
今度こそまずいと思った矢先、三発ほどの発砲音が鳴り響き、うちパルシの側頭部に二発ほど被弾し、同時に電流が奔りスパークが彼の視界を遮る。そのおかげで照準が僅かに逸れ、かろうじて直撃を免れる。
「先輩!」
「トーマくん!!」
少し離れた場所から聞き覚えのある声が聞こえ、トーマはそちらに弱々しく顔を向ける。
すると二つの人影が自分のすぐそばまできていることに気がつき、その顔に見覚えがあった。見覚えのある顔、それはミョルニルとストラスであった。
二人とも手に研究所に配備されている個人防衛兵器なる銃器を携えており、ミョルニルの方はもう一つ先程それで発砲したであろう、いつか自慢げに言っていたワイヤレススタンガンに改造した拳銃を持っている。まさかその銃が自分ではなくトーマを救うことになるとは、誰も予想していなかっただろう。
もし、二人が来なければ既にトーマは屍と化していただろう。それを良しとしなかった二人は瀬戸際のところで救援に来たのだ。
「どうして……ここに……」
「あなた右眼が……! で、でもそんなことより一旦あなたは引かないと!」
改めて満身創痍のトーマの姿にミョルニルは狼狽しかけるが、自身の臆病を押し殺し、ストラスとともに彼の身体を引きずってその場から離脱する。
引きずられながらもトーマは二人がここにいるということは装置はちゃんと稼働し、彼らが使命を果たしたことを理解した。だが、負傷しているとはいえ、そこの名前持はまだ動けるし、この二人の手に負える相手ではないと分かっている以上、制止の声を掛けようとするが、干上がり涸れきった喉は震えてくれない。
「てめえらか…………」
くぐもった低い声が耳を這うようにして聞こえ、トーマは背筋が凍った。
パルシの双眸は既に、眼の使い手だけでなく自身にとって脆弱とも言えるこちらに来る人間二人を捉えていた。今の彼の目標はこの三人を最優先と判断しており、傷つき痛む身体を持ってすぐさまほぼ予備動作無しでその場から疾風のようにこちらに接近する。
トーマはパルシが新たに二人を標的にして動いた後に数瞬遅れて全身に残された力を総動員し、引きずられながら無理やり立ち上がると、皮肉にもその際に溢れ出た自身の血が喉を潤し、再び声が出る。
「逃げろ馬鹿野郎オオオオォォォオオオオ――――――――!!」
トーマが二人を振り払い、護る様に前に出るが、パルシはそれに合わせるかのように掌底を腹に叩き付け、逆に後方へと押し出してしまう。この場でもっと強力な攻撃をしなかったのは後からでも十分仕留められるほど弱っているのを知っているからだ。今の彼にとって標的のうちただの人間であるミョルニルとストラスが優先すべき方なのだ。
「トーマくん!!」
ミョルニルが叫び、すぐさま駆け寄ろうとするが、パルシがそれを許すはずもなく歩を進めるが、今度はストラスが彼の前に立ちはだかる。その表情は怪物の前に立つという恐怖を噛み殺したものであったが、後ろの二人に手を出させない覚悟も窺えた。ただ、パルシにとっては何の意味もない薄っぺら以下の壁にしか成り得ない。
ストラスは銃口を向けるが、パルシの椅子でも退かす様な仕草での横薙ぎの蹴りで真横に吹き飛ばされる。
「す、ストラスくん!!」
ストラスが吹っ飛び、ミョルニルの方もトーマを抱き起こした直後にそれを視認し、すぐさま懐から先程この名前持の動きを一時的に止めた小型装置を取りだし、それを投げつけるが、それが彼女にとって致命的な挙動であった。
パルシの双眸に映ったその小型装置が自分に一体何をもたらしたか忘れたわけではあるまい。
「てめえかぁ!! その奇妙な機械で俺の電磁パルスを防いだ奴はぁ!!」
都市停止能力を一度防ぎ、あまつさえ自身に傷を負わせた犯人を突き止めたパルシは両手を握り込むような奇妙な体勢を取る。すると次の瞬間、ミョルニルが確かに起動させた筈の装置は稼動しないまま事切れたかのように停止する。おそらく両手の中で小規模な電磁パルスを引き起こしたのだろう。閃光も音も発しない見えない無効化にミョルニルは戦慄を覚えるが、すぐに首を振って我を戻し、自作のスタンガンをトーマに握り込ませる。それから自身の懐の中で何かを弄くる様にしながら彼に訊ねる。
「…………トーマくん、あなた、あとどれくらい動ける?」
「…………十秒も持つか持たないか」
「眼の使い手のあなたなら、賭けをするには十分な時間ね」
「賭けって……おい、あんた……何する気だ……? …………まさか、」
名前持接近する中、ミョルニルは確かに何か覚悟を決めたかのような、普段より落ち着いた声で言う。この後のことを分かっていて託すかのように、トーマに全てを任せるように。そして何をする気なのか理解した途端、彼は怒号を上げるが、それは彼女がその場から離れ、すぐ眼の前まで来ていたパルシの前に立ちはだかった後だった。
「……後は、お願い!」
「死ね、人間が!!」
「やめ、やめろおおおおおおおおおおおおお!!」
トーマの雄叫びも虚しく、彼女は銃口をパルシに向け、発砲するが硬い外皮によって悉く弾かれる。
銃弾の中、パルシは右掌を帯電させながら接近すると同時に不可視の光、メーザーの剣を作り出し、彼女の胸部をそれで易々と突き破り、背中にまで達っせさせる。さながら透明な槍に刺された彼女は、その瞬間全身の力を抜かれたかのように膝を折り、項垂れる。持っていた銃が落ち、地面に二つの落下音が鳴る。しかし彼女は最後まで倒れず、自身を貫いた怪物の腕を両手で掴み、握力が続く限り放さないようにする。
だが、痛くも痒くも感じない脆弱な力では時間稼ぎにもなれず、パルシは腕を捻ってより深く、より致命的に彼女の命を刈り取る。そしてとうとう、掴まれていた腕からその細い指が外れ、次の瞬間、先ほどとは打って変わって楽しそうな高笑いをパルシは周辺に響かせた。
「はっははははははは!! どうだ眼の使い手ぇっ!! てめえに縁ある奴だったみてえだが今俺がこの手で殺してやったぞ!! あっははははははははははははは!!」
パルシは易々と彼女の体を少しだけ持ち上げ、左手で掴んで固定させるとメーザーを出すのを止め、次の標的を仕留めんと引き抜いてから手を離す。
「さーて、次はてめえだ眼の使い―――ごがぁっ!?」
が、引き抜いて彼女の身体が地面に落ちる前での間、それに合わせるかのように開いていた口に何か異物が突っ込まれる。何事かと眼の焦点を合わせると、いつの間にか立ち上がっていたトーマが自身の手ごと拳銃を自身の口腔内に捻じ込んでいるのだ。そしてもう片方の腕で、崩れ落ちるミョルニルの身体を支えている。
「てめえ……!」
その言葉を吐き出そうとしたが、代わりにトーマがそう低く抑えた声で呟く。激高からの震えなのか、カチャカチャと短い銃身にまでそれが伝わり、金属がパルシの歯に当たって音が響く。それと同時にその場から逃げられないように槍の如く足の甲を渾身の力で踏み付けられており、その場からの移動を禁じていることにパルシはようやく気がつく。
ただ、気づいたものはそれだけではない。
呼吸も同然に達するほどに抱かれた殺意は、今までパルシが感じたことないほどに充満しており、焼け爛れた隻眼という異様な容貌と自身が絶望的な状況に追い込まれていることが合い重なって、初めて背筋が凍るというものをその身をもって体感していた。
それを振り払うように、恐怖という理解したくも感じたくもないその感情から逃れるように、パルシは逃げられないなら迎撃すればいいと傷ついた右手も動員して両掌から攻撃をしようと向ける。
相手が引き金を引くまでの刹那、その前に決着を付けてやると帯電させ、相手の指先に力が掛けられる瞬間、再び見えない波動が二人を包み込んだときにはパルシは何が起こったのか分からなかった。
(て、手が……………………っ!! こ、これはまさか…………っ!?)
溜め込まれた気力が再び自身の両手に食らい付き、この場でできる攻撃手段を封じられる。
強化ステルスを使ったときほどのダメージはないものの、今この場においては致命的な隙である。
何が起こったのかと、動かせない首の代わりに眼だけを動かすと、足元に彼女が先ほど落とした銃と、そのすぐそばに見覚えのある鋼球型の装置が展開状態で転がっていた。
(こ、これは……! こ、こんなところで死ぬわけにはあああああああああああああ!!)
それはミョルニルがパルシの手に掛かる直前、銃とともに懐から零れ落とした小型装置であった。
おそらくこの名前持を討つ機会を得るには自身が身体を張ったこの方法しかなかったのを理解し、作動させた状態でパルシの前に立ったのだ。
(……師匠)
ミョルニルが何を思い、何を覚悟し、最後に弟子に何を託したのか、それを全うするためトーマは最後の悪足掻きのように噛み砕こうと藻掻くこの名前持に容赦なく引き金を引いた。
いかに体表が硬かろうが、体内にまでその強度を誇っていないと踏んでいた彼の予想は正しく、軟らかい咥内に自身の最大限の気力を込め、貫通力を特化させた弾丸サイズの飛光が突き進む。撃ち込んだ角度も上顎を経由する軌道だったため急所に確実に命中する。
命中した瞬間、貫通などと生易しいものではなく、半ばパルシの頭が爆発したかのように散り、その爆風でトーマも大きく後ろに吹き飛ばされる。そして地面に仰向けに倒れ、開眼状態も無意識に解けるが起き上がって再び眼をパルシに向けたときには、頭部から順に塵と化していく断末魔すら残さない名前持の哀れな最期の姿がそこに佇んでいた。
それからゆっくりと使命を果たした小さな拳銃を見下ろす。
小型の拳銃を使用したためか、たったのその一発で耐え切れず銃口がひしゃげ、先ほどの爆発の影響もあってか、手から細かい部品となって落ちる。その手は噛み砕こうとされた影響で皮膚があちらこちら破けて出血していたが、トーマは気にも留めなかった。
「……師匠」
絞るように声を零し、眼の前の塵を気にせずにその場に踏み入れ、力を使い果たした体を無理やり駆動させ、倒れた彼女の元へと向かう。だが、たかが四メートルにも満たないその距離を踏破するには彼は肉体的にも精神的にあまりにも消耗しすぎていた。
一歩一歩踏み入れるたびに、自身の奥底で致命的な何かが壊れていくのを感じる。
それと同時に視界がぼやけていく。これは、意識が朦朧としているのもあるが、もっと別の何かが物理的にぼやけさせている。それを涙だと自覚するにあたって、彼は認めたくない現実を受け入れ始めていると理解した。
もう分かっているのだ、彼女がどういう状態なのかも。
その絶望を確信へ変えるこの足取りに、一体何の意味があるのだろうか。いっその事わかっているのならば、このまま自分も倒れたほうが。
そう思い、彼の体が前のめりになり――――――否、倒れない。
自身の右脇に誰かが肩を貸してくれたためか、崩れ去る姿勢は寸前のところで安定性を得る。
「行きましょう、先輩」
顔を僅かに横に向けると、ストラスが自身の肩を貸してくれていた。
彼自身も名前持に蹴り飛ばされ、多少の怪我は負っているはずだが手を貸すくらいには軽傷だったのだろう。トーマは内心、それを安堵するとともに、彼が率先して彼女の許へ向かわず自分ところに来た理由を察し、しかし今度はそれでも弱音は吐かず、代わりに返事をした。
「……ああ」
まだ彼女に言ってない事があるんだ、と、彼はそれだけを活力とし、彼女の許へ向かう。
枯れ気味の草の匂いが鼻を擽る。強めの風が頬と髪を撫でる。
気がつけば、アスタは草原の中にいた。草原は黄昏を迎えた時刻なのか、蜜柑色に染まり、草は青さが抜け始め、夏から秋に変わっていることを示していた。突如戦場とは無縁な場所に降り立ち、アスタは怪訝な表情で辺りを見渡す。それと同時に自身の意識が鮮明なのと、傷は開いたままで血が衣服に染み込んだままだが、驚いたことに出血はなく痛みもない。まるで時間を止められたままのようなその不可思議な状態を考える前に、右方向に知った背中を見つけた。
純白の長髪と衣に身を包んだ小柄な少女は向こうを向いたまま佇んでいる。きっと両腕を胸の前で組んでいるであろう少女のその腰には納刀した鞘が掛けられており、その雄々しい背中は少女の遥か前方に沈む夕陽と草原に合い重なって一枚絵のような美しさがあった。
夕陽の中にいるようなその姿を眺めるようにしていると、むこうを向いたまま少女が後ろ手でこちらに来るように手招きをしたので、アスタは枯れ草を踏みながら彼女の許へ向かう。
彼女からおよそ二メートルほど離れたところまで進み、そこでアスタは立ち止まり、気づいた。
少女が見ていたのは、遠い山々に囲まれ、丘に形成された村であった。川が流れ、水車が動き、畑には収穫を待つ稲が群を成して成長している。
「随分と派手にやられたな、アスタよ」
こちらを向かず、あくまで視線を村に固定したまま、少女が言う。
アスタはそれに対し、反駁するわけでもなくただ黙って唇を噛んで紡ぐ。それから一つの疑問を聞くために少しだけ開き、声を出す。
「なあ、俺は、死んだのか?」
「半分正解、だな。今のお前は仮死状態のほうが近い」
そういってこちらに振り向いた少女の顔には、以前まで付けていた白皙の鬼面はない。代わりにあるのはアスタにとって愛する妻と娘に似すぎたその容貌だ。
「見てみろ。あの村は私がかつて治めていた村だ」
そういって指で指し示すその声色は、どこか楽しげで、懐かしさを含んだものだ。
こんな小柄な少女が一人で、村を治めていたなどという事実は言葉だけならば疑問を懐くが、アスタはそれが真実であることは前々から承知済みであった。
かつてこの少女が自分に告げた真実に偽りなければ、自分の祖先が生きていた時代のものであるのだ。
と、するとこの村は―――、
「俺らの御先祖さんは、随分と立派な村を構えてたんだな」
「ふふん。私が胸を張って自慢に言えるうちの一つだがな、我が子孫よ」
そう、この眼の前の少女は、アスタの先祖であるというのだ。
アスタ自身はそれについて確信は持てないが、長いこと自身の子孫を見守ってきた少女が言うことなのだからまず間違いないのであろう。それだけならばまだそんなに驚愕することではないのだが、本当に驚かされた、というよりやっぱりかと納得せざる終えない事実がもう一つ。
「まあ、どっちかというと本当はユリアの先祖のほうが納得できるんだけどな」
それはユリアの先祖もこの少女だという事実だ。
どうやらアスタとユリアは互いに遠い血縁者であることを知らずして結ばれ、そしてユキナという子宝も得たということだ。
「ま、戯言はここまでにして、アスタよ。お前は剣を握るか否や?」
あまりに唐突な問いに、ついアスタは呆けた口調で返す。
「……な、何でだよ?」
「いいから答えろ。……っと、ふふん、それにお前の意思とは無関係に、お前の『気』は戦おうとしているぞ?」
何を言っているのか、と考える前に、アスタはすでに自身が刀を抜き、その柄を掴んでいる事実に気が付く。さらには身体からは紅蓮のオーラが取り巻くようにしており、火の粉のような気の残滓が辺りに散り、彼は自身がすでに開眼状態になっていたということに驚きを禁じ得なかった。
「分からぬか? まだお前は戦おうとしている。今の自分がどういう状態なのかも省みず、再びその手に刃を携える。お前が護りたいもの、お前が望む未来のために」
「そ、それは当然だ! ユリアとユキナ、シバにトーマにリーディアに博士にストラスだって! 全部救えるなら俺は――――」
「お前が望むその世界に、お前自身が含まれているか?」
まるで、この少女はアスタにそれ以上言葉を続けるのを止めさせる様に、急に半ば冷酷な声で言う。
「お前が言おうとしていることは分かる。だが、本当に行く気か? 今のお前は仮死状態。それに見ろ。ここはお前の身体とは無関係の意識の世界だからだが、その傷、その出血量では間違いなく死ぬぞ。お前を負かした名前持は情けで延命の選択を残したが、お前はソレを捨てるのだな?」
「……以前、あんたは家族を泣かせるやつは最低だと言った。確かにそうだ。でもな、あいつらに死なれると俺がたまらない、たまらないんだよ! だからもう、それしかねえんだよ俺には……!」
自分が生きる道より、自身の魂に等しい家族と仲間を救うことを希う男は、その手に再び刃を携えることを迷わず選ぶ。その双眸には確固たる意志が、覚悟が、どんな刃よりも鋭く尖り、貫き通していることを示す。
「それに、さっきから聞いてて思ったが、あんたは俺を行かせたくないような口振りだな?」
「…………戯けが、誰が好き好んで死んでほしいなどとほざくか」
少女が否定の言葉を言わなかったということは、少なからずアスタの身を案じているということだろう。アスタはそれを察してか、今までの固い表情が緩み、苦笑いでさらに続ける。
「そうだな。でも、もし本当に行かせたくないなら、ここに呼び出したりしないよな? それに剣を握るか握らないかの問いもしない。あんた、何を迷ってるんだ?」
「…………」
遠回しの肯定の裏に隠した意図について、今度は少女が押し黙る。
ここでようやく、アスタはこの少女が迷っていることを知る。そう、本当に行かせたくなければ、ここに意識を呼び出したりしない。しかし現に呼び出しているということは、何かあるということだ。
「そうだ」
そして少女は頷く。
「お前を行かせたくないという身勝手な思いとは別に、お前の意思を尊重したいという身勝手さもある。お前は既に答えを得ているのに、私は先ほどまで迷っていたのだ」
少女はこの瞬間まで自身の出す答えに煩悶していた。
しかし眼の前のこの男の覚悟を見せつけられ、また自身も覚悟を決めたのだ。
「前に私は言ったな。今度の私は本気を出すと。それにまだ私の名を告げてなかったな。今回限りで人称呼ばわりは卒業させてもらおう」
そう、今日までにこの少女が告げたのは自身がアスタとユリアの遠い祖先であること。そして始まりの眼の使い手であるということだ。確かにそれだけでも十分驚愕に足る事実なのだが、アスタはまだこの少女の名を聞いていなかった。
「私の名はツバサ。覚えておけよアスタよ」
「ツバサか、思ったより良い名前してんじゃねえか」
「それは褒め言葉として素直に受け取っておこう。そしてもう一つ、何故我々のような者が眼の使い手などと呼ばれるようになったのか、その理由がこれだ」
そして少女が全身に緩やかに力を流し、明らかに気の量が増大したことをアスタは感じ取る。
しかし少女に大きな変化は起きない。変化が起きたところを挙げるならば、それは瞳の部分だけだ。
その眼は夕陽のような穏やかな橙色、しかし時折アスタと同様、紅蓮の光が差し込む。少女の背後にある沈み続けたまま停止している夕陽と同じ色。かつて少女が全てを護る様にあるような夕陽に対し、こうありたいと願った姿なのだろう。
「最初の眼の使い手は、髪の色など変わらなかったのだ。ただ眼だけが、このように変わった。まあ眼の色が変わっているというのは教えられるまで気がつかなかったことなのだがな」
当時、鏡なんていう道具がなかったためか、その時の事を懐かしむようにツバサは微笑む。
アスタはその姿、その気を感じ、今改めて、この少女こそが原初の眼の使い手なのと痛感する。
「だが剣を交える前に一つ。アスタよ、お前にもう一つ告げなければならぬことがある」
「何だ?」
「お前の娘、ユキナのことだ」
突如娘の名が挙がったことに、内心動揺を隠せないアスタはその表情を当惑させる。
「通常、眼の使い手というのは人の心の渇望、すなわち怪物たちへの復讐心や仇する心を持ったものに発現しやすい。しかしこれも運命の悪戯か、お前の娘は共に私の血を引く親から生まれた存在。彼女の意思など関係なく、必ずや眼の使い手になる」
「……何だと……? ユキナが……? そんな、馬鹿な……!」
当惑はさらに加速し、アスタはここに来て新たに生まれた不安に押し潰されそうな錯覚を得る。
それだけはないと思っていた。それだけは決して有り得ないと。しかしそれは自分が勝手に決め付けた妄言に過ぎず、眼の前の少女はそれらを全て否定した。今この場でその事実を明かしたのは、先程の戦闘などを考えればこれは明らかにアスタにとって負の要素でしかないからだ。敗北を喫したとはいえ、今まで通り十全の力を発揮させるためのツバサの配慮であった。
「気持ちは分かるぞ。だがこれは変えられぬ事実。そして今からお前が成し遂げようとすることは、すなわち娘にもその災いの余韻を残すことになる。そう遠くない未来で、な。だからお前ができることを、残せるものを考えておけ」
「そんな、無茶苦茶な…………でもよ、ユキナが眼の使い手になるとして、俺はその未来を護る義務がある」
それでもアスタは自分がやることは何一つ変わらない。答えは得ているのだ。それは後に娘に影響するかもしれないリスクがあっても、今ワイトに戻れない方が遥かにリスクは上なのだ。だったら護れる力が欲しい、もっと強い力を、もっと自分に。アスタが願うのは、今この場においてただ一つなのだ。
「だから俺は行く。あんたを超えて、シュニーを超えて、自分を超える!」
「…………そうか、では私から最後の課題だ」
ツバサの表情は、凛々しく微笑んでいる。
それはつまり、ようやく彼女がアスタを対等の相手として、弟子ではなく一人前の戦士として認めた揺ぎ無い確信に他ならない。
「私を超えてみせよ! アスタよ!!」
「オォォォォオオオオオオオ―――――――ッ!!」
互いの踏み込みの一歩は同時。裂帛の声と共に、両雄が激突する。
正真正銘の互いに全力での命を賭した刃のぶつかり合いは、苛烈を極めていく。
互いに意志や信念、貫き通す我を持った武士達だが、この瞬間だけは確かに彼らは喜びを分かち合っていた。
そしてその喜びは束の間――――、
気がつくと、ツバサは独りになっていた。あの紅蓮の男はもうこの場にはいない。
ツバサの開眼状態は既に解けており、無傷であったが腰に合った鞘と刀は無く、その面持ちはいつもの凛々しさは抜け、見た目どおりの弱々しい少女のものであった。それは彼が生きている間には決して見せることはないであろう、表に出た彼女の弱さであった。
結局、自分は彼を再び戦場に送り出した。それがどういうことになるのか、互いに承知してなお、ツバサは言い知れぬ罪悪感に見舞われる。これで良かったのか、自分はとんでもない間違いを犯したのでは、と自身を疑うが、やがてこの湧き上がる思いはそれとは違うと確信する。
これは、近しい人間を亡くした時の悲しみに近いものだ。
そうとも、彼とは十数年も共に過ごしてきたのだ。その関係は師弟であり、しかし先程は対等の戦士として認め、否、もう家族といっても可笑しくないほどの関係ではないのだろうか。その家族であった男がどういう末路を辿るのか、それが分からぬ彼女ではない。
「うっ…………」
抑えきれぬ嗚咽が漏れる。
もう自分はこの場で信じて待つ他ないのだ。彼の師匠として、対等の好敵手として、そして家族として。
「……そうだな、この涙は私のものではない。もう一人の我が子孫のものだ」
そう自分に言い聞かせ、ならばこそと涙は出さず、彼女は待った。
彼が自身の望み全てを叶えることを願い、少女は風が撫でる夕陽の草原の中、佇む。
背後で何かが軋み割れる音を耳にしたときは、聞き間違いかと疑った。
シュニーは先刻、眼の使い手を空中で凍結固定し、仮死状態にしたうえでこの場を立ち去ろうとした時だった。頭の中では自身の氷は今の眼の使い手では決して破れる強度でも能力でもなく、尚且つ身体を動かすのでさえ致命的なダメージの上乗せにしか成り得ないほどの状態のはずだと、自身の実力と能力への信頼、そして覆されるはずのない現実として認識していたはずだ。
しかし耳が捉えた不可解な音源を確認すべく、首は既にそちらへと捻っていた。
そして眼が捉えた光景は、砕け散っていく氷片を辺りにばら撒き、こちらに再び刃を振るう紅蓮の気を纏う男の姿であった。シュニーは唖然とする中、咄嗟に左腕を顔の前にあげ、防御する。振り下ろされた刃は腕の硬度に負けてその場に留まるが、シュニーは氷牢から抜け出た眼の前の男を凝視する。その表情は未だに驚愕の色を残しており、アスタはそれを見て言う。
「悪いな。あんたは情けを掛けたつもりかもしれねえが、それじゃあ意味ないんだ。俺はワイトに行くぜ」
「……死ぬつもりか! その身体で……!」
ようやく零したシュニーの言葉は、怪物という立場を超えた懸念の言葉であった。しかしその懸念の言葉はそのとおりであり、氷牢をぶち破ったとはいえアスタの傷は薄く塞がって出血量を抑えた程度でしかない。一度戦闘を行えば、間違いなく開くであろうその傷は枷になるはずだ。だが、この男はそんな些細なことで止まる男ではない。
「だったら死ぬ前に、そこを退かさせてもらう!!」
そして力任せに上から押し潰すように柄を握りこみ、シュニーが耐え切れず下がることを余儀なくされる。とても消耗しきった筈の体力で押せるものではないと分かっている以上、シュニーは益々眼の前の男の力の根源に見当がつかず混乱する。一体どこからこの力を得ているのか、例え自身の負傷を度外視したものでも空元気ではない確かな重みが存在している。
そう考えているうちにも、まるで死角に入り込んだかのような錯覚を起こさせる速度でアスタが真正面から突っ込んでくる。それに対し、今度は冷静に対処すべく眼の使い手全ての弱点になりえる氷の鎧を体表に張り巡らせ、相手の得物を奪い去る算段で望む。
しかし次の瞬間、上段に構えていたはずのアスタの刀は既に下段に持ち変えられており、その体勢で後方へと下がっていた。シュニーから見れば飛び込んできたかと思えばまるで逆再生される映像のように後ろに戻る無茶苦茶な機動を行ったように見えていたことであろう。
やはり最後の得物を無くすのには躊躇したか、とシュニーは相手の戦術面における分析からそのように考え、やはり氷を割って出たのは単なる幾つもの偶然による結果なのではと疑惑を懐き始めたときだった。
不意に右胸から真下の腹にまで一線を引いたかのような鋭い痛みが奔り、鮮血が吹き出る。何事かと顔を向けると、感じた痛みと同様に右胸から真下に向かって明らかに斬られた事による傷が存在していた。
「う……おっ……!」
突如発生したダメージに苦悶の声を漏らす。一体何が起きたのか、その答えを得ようと、傷口を手で押さえ、氷による自己治癒を図りながら前方の相手を見る。
ただ、その回復の時間を今度はアスタが稼がせるはずも無く、彼が顔を上げたときには既に刀を逆袈裟斬りの体勢で懐に潜り込んでおり、斜め下から斜め上へ一閃が奔る。それに伴って新たな斬り傷を受けると共に彼は後方へと下がり、どうにか攻撃の終盤の傷を浅くさせる。
そこで今度は攻撃をまともに受けたとはいえ、シュニーは気づく。斬撃が重いのではない。その刀に込められた気の量が尋常じゃなく多く、重いことに。
「そうか……! だが解せぬ。一体、どこからそのような力を……!」
続けざまに損傷を負い、激痛による痛みの中、シュニーは訊く。
彼が理解したダメージの原因は、ようするに、気の量が異常に多く、それらを一度に刃に宿らせてぶつけているからシュニーの気力食いの処理能力を上回っているだけのことだ。それが急に自身に刃が届くようになった理由であり、至極単純なことだった。だがそれを理解したとはいえ、先程までのアスタにそこまでの気内蔵量は無かった筈であり、しかも一度に扱える量にも限度があった。それなのに今の彼はその事実を全て裏切り、再び刀を握って立っている。
「……簡単な話だ」
眼の前の男はそう言い、右手に刀を持ち替え、左掌を見つめるようにする。
「これは俺だけの気じゃないってことだ。ある眼の使い手から譲り受けた、大切なもんだ。俺を信頼して、全てを託してくれた」
もうシュニーなど、他者の気力感知能力ではそれは既にアスタの気として捉えているだろう。しかしアスタはまだ感じる。自分の気力として換わりつつあるが、あの少女の気の残滓は微かに残っている。初代の眼の使い手の力を譲り受けた、それが現在の彼の力の正体である。
眼の使い手が眼の使い手に力の譲渡を行うなど前代未聞であり、しかも片方はこの世に存在していないのはシュニーの知るところでもないし、もちろんそんな事情を知らない。それでも今の事実を呑み込み始めていた。どちらにせよ、再び立ち上がったこの男は自身の想像を遥かに超えた戦士であると、本気で望んでいかなければならないと、そう覚悟を確固たるものにしていた。
一方、掌を見つめていたアスタはふと、この少女の気の残滓に覚えがあった。それと同時にここにきて一つの疑問が解消され、そしてそれがここでの突破口だということを半ば本能のように即座に理解していた。そう、前々から自分は知っていたではないか。この気の感じ、この包容さを。最大限開放のさらに先にあったのは、彼女の気だったのだ。だからこそ、自分の気力でないのは当然であり、そして今ならそれを成し得られると。
最大限開放の必要は無い。自分は希うだけで良い。
「時間が惜しい。突破させてもらう!」
「むっ……!」
そしてアスタが再び接近し、片手に握った刀を振るう。シュニーも氷の剣を手に持って迎撃に出る。その身の鎧が効かない以上、相手の攻撃に緩急をもたらす為の手段として持ち出したのだろう。至近距離まで接近したアスタの刀は、その氷の剣によって一度阻まれる。だが、シュニーはその瞬間、眼を疑うような光景を眼にする。
互いに鍔迫り合いの状態にて、変化は起きていた。
刀を握ったアスタの右腕を覆うように、緋色の衣が巻きついていた。そしてアスタは鍔迫り合いの状態を解消すべく、一度氷の剣を振り払うようにする。その瞬間、腕から肩へ、まるで侵食するかのように緋色の衣が覆っていく。そしてそのまま左腕へ、背中へ、衣は彼の全身を包み込む勢いで伸び、その身を緋色に染め上げていく。
そして弾いた余韻で互いに僅かに距離を取った後、眼の前の男は―――変わっていた。
全身を緋色のコート状の衣に包み、体の周辺には時折火花のようなスパークが散る。そしてその右腰には、かつて彼が保有していたどの剣でもない新たな刀が鞘に納められた状態で掛かっていた。
まるで紅蓮と稲妻を模したその容貌は既に、シュニーの疑問や懸念を霞ませ杞憂に終わらせるほどのものであった。
最大限開放の特徴と共通している部分があるが、前者には限定された時間にて戦う必死さが付きまっていたが、今の姿にはそんなものはなく、むしろここにきて最も落ち着いているように見て取れた。
そして最大の違いがその姿から発している気力だ。
確かに彼は他の眼の使い手から譲り受けた力があると言っていたが、果たしてその姿は二人分の気力であるにしては膨大すぎる量であった。
もはや、常識の範疇に収まらない。彼は従来の眼の使い手の歴史を塗り替え、まさに進化を遂げたのだ。道理で、自分の気力喰いはこの圧倒的な気力の前に負け、突破されるわけだ。
そしてアスタがその場から掻き消えるようにし、その膨大な気力をもってしてシュニーに突進を仕掛ける。
「……なるほど、今の貴様のその姿はまさしく、理が示し、託した解か。眼の使い手は新たな力の領域に足を踏み入れ、そして同時に我々にとって見過ごせない厭忌を懐かせるものにまで昇華した。それが何を意味するか、分からぬ貴様ではないな?」
最早この場に留める事はできないと悟ったシュニーは最後に問う。
しかし相手はそれに答えることは無く、シュニーも氷の剣を握りこちらも前へ体を弾く様に踏み出す。理が示した答え、そしてこの男の意志を知るために、彼は決死の覚悟で望む。
追われる者に対し、追う者を演じていたヨークスは廃墟と化した住宅街の道路にてその足を止めていた。別段彼は追っていた眼の使い手を捕らえたわけでも見失ったわけでもない。ただ単に既に彼の興味の対象としての価値が無くなったから、その場で佇んでいるだけである。むしろその価値を無駄にしたのは、ひとえに彼自身の所為であった。
「…………やれやれ、少し、遊びすぎましたかな?」
自身に対して呆れの溜息を禁じ得ない中、その右手を眺めるようにする。
右手は血にまみれており、その多さを示すように、未だにその手から滴り落ちて道路に小さな紅い花をいくつも咲かせていた。
寸前のところで救出した子供は後から来た兵士達に渡し、シバは中央に向かって街中を駆けていた。
中央に向かっているのは先程立ち寄った避難シェルターが空だったからであり、尚且つ内部の空調設備や生命線たる水道や電気が送られていない状態から中央に移動した可能性が高いと判断したが故である。
しかし道中、アスファルトが大きく抉れ、家々の屋根が燃えているという光景は、シバの胸中を騒がせる。この惨劇に巻き込まれていないことを願いつつ、ふと彼は進めていた足を止めた。
前方の十字路に紅い斑点が途切れ途切れに横切っているのが見え、そこまで駆け寄り、同時に足を引きずった痕跡も分かり、左から右へと誰かが通ったことを示していた。
そしてそちらに顔を向けると、遠くで誰かが停め捨てられた車体の側面に寄り掛るように蹲っていた。遠目でははっきり分からないが髪の長さから女性だと疑えた。ただ髪の色はオレンジ色であり、その姿を見るなり、シバは自分の中の奥底が冷え切る感覚を得た。その姿には見覚えがあり、見間違えるはずも無いのだ。
「…………っ!」
シバは思わず名を叫ぶ前に、その身体がそこへ向かっていた。
そしてそばまで寄り、抱き起こす。身じろぎもしないほどの冷たい体温と消え入りそうな呼吸。そして彼女の総身と車体にまで付着している血と、その鼻につく血生臭さにシバは一瞬身体が硬直した。言葉が出なかった。出るはずが無かった。自身が予想していなかったのと、彼女の状態は既に彼の理解を超えていたのだ。
「……シ……バ…………?」
彼女は、リーディアは抱き起こされたことに気がつき、閉じかけていた瞼が薄く開き、彼の顔を朧げながらも認めた。
そこでようやく、金縛りから解けたようにシバの喉に震えが戻る。
「どうして…………」
身体が震え、喉元に息を詰まらせながらも、彼は言う。
「どうして、お前が……! なんで、なんでこんなことに……!」
「ごめん、ね…………」
彼女の口から出たのは、いつもの凛々しさの無い弱々しい謝罪の言葉だった。
それから千切れそうな糸で操られた人形のように、右手を自身のお腹の上にのせ、摩るようにしながら言う。
「わたし……わたしどころかこの子も護れなかった…………もう、この子……動かないの……ごめん……ごめんね……」
自身の傷の深さを自覚できている以上、同時にお腹の子供は助からないことは分かっているのだ。リーディアはそう、自身が死ぬことよりもシバにお腹の子供を死なせてしまったことを詫びる。
だがシバは耐え切れず、叫ぶ。
「違う、違う……! 俺が、俺が遅かったから!! 俺がお前のそばにいてやれば、こんな、こんなことには!!」
「…………それは、違う。むしろ……、シバっちがここにいなくて……よかった……そしたらみんな、死んでたから…………」
まるでそれだけが唯一の救いであったと言わんばかりに、彼女は小さく微笑んだ。
しかしそれは男にとってはあまりにも残酷であった。自分の手が届かず、しかも気づくことなく家族を護り切ることなどまったくできず、むしろ共に死んだほうが救われたかもしれない。しかしそれを察したのか、リーディアは静かに言う。
「だめだよ。死のうなんて思っちゃだめ……。お願いだから……生きて…………」
「どうして…………! お前たちを喪って、俺に何の意味が…………」
「シバっちまで死んだら…………それこそ本当に意味がなくなる……」
家族を護りきれなかった事実は、一生彼は自分を責め、背負って生きていくことだろう。自分を許せもせず、悔恨し、自身を殺しかねないだろう。だけどそれでも、リーディアには彼だけでも生きて欲しかった。ふと、温かい雫が首元に落ちたのに気がつき、リーディアは左手を弱々しくもシバの頬に寄せる。
「今は、泣いては、だめだよ…………」
「これが、泣かずにいられるか!! 俺は、俺は一体……!」
「…………ねえ、シバッち…………今も、私を、この子も、愛してる……?」
呼吸がさらに浅くなり、自身の死を間近に悟ったのであろう。そうリーディアは最後に確かめるように、シバに訊ねる。シバは彼女の手を握り、頬を涙で濡らし、声を嗚咽で潰しながらも、ハッキリとした声で答える。
「ああ、愛してる。愛してるとも。だから、もう……」
「…………ふふっ、ありがと。私も……それにきっとこの子も……――――――」
愛してるよ―――――
それ以上の言葉はなく、もうどんな言葉を並べたとしても全てが手遅れであった。
彼の腕の中にあるのは、二つの消え入った命を示す冷たさだけであった。
それは不可避な現実であり、シバは暫し信じられず受け入れられなかった。
「なあ、おい…………リー、ディア……?」
恐る恐る声をかけても、もう返事は無い。あるはずがない。腕の中の冷え切った体温がそう告げているのに、彼はそれを否定するように名を呼び続ける。
「おい、リーディア、リーディア! リーディア!!」
抑え続けていた涙が、いまここで限界を超え、溢れ、彼の頬を濡らす。
「リーディア! リーディア! ああ、ああ…………あぁアああああああああああああああああああああっ!!」
彼を支えていた何かが、奥底で今、確実に砕けた。
それは彼の世界そのものであり、その世界が崩壊していくように、彼は泣き叫ぶ。孤独になった彼は、その腕に抱いた亡骸を見下ろしながら、ただ泣く。
そして一つの人影が自身に暗さを与えていることに気がつき、彼は顔を上げる。
そこに立っていたのは、遠くの地で戦っている筈の――――――紅蓮の武人の姿であった。
いよいよ次回にて、このお話にも決着を付けられそうです。何だか長々とやって来ましたが、結末を知るこのお話の最後を、どうか心待ちにしておいてください。それでは次回でまた! ではではー。