ユキナDiary---第肆話 誰もが未来を惑う
そこは黒だった。
黒、という言葉に以外にしっくりとくるものは闇か漆黒、はたまた深淵であろう。
夜と表現をしないのは、ここがいつまでたっても眼が慣れず、見えないからである。
とはいえ、その言い方では少々語弊が生じる。本当のことを言えば、自分の手や体はそれこそ真昼のようにはっきりと見え、それ以外の周りの虚空は塗りつぶされたかのような黒である。とはいえ初めの頃は確かに恐怖や不安などがあったが暗所恐怖症でもないので今では慣れたものである。
だからいつものように前へ体を運ぶ。一歩足を踏み入れると、見えない筈の平坦な地面の感触を足裏で感じ取り、もう一方の足も進める。そういうことをほんの数十秒進めると、ふと前方の気配に気がついて立ち止まる。
人がいた。自分と同様、闇に呑まれないでハッキリと映っている。
その人物は、少女の姿をしていた。
しかしその容姿はまるでこの空間が彼女を目立たせるためという意図のもとで作りだされるんじゃないかと思うくらい、純白に包まれていた。
髪の色は透き通るような白で、身につけているワンピースも白。
しかし端正であろうと思われるその素顔だけは白皙の鬼面で隠されており、それも相まってその存在感は圧倒的で、か弱いという言葉とは無縁に思えた。
「さて、言わずとも分かっておるな?」
少し年老いた口調も相変わらずで、彼女は挑発するかのように片手で掛かってこいと招く。
それを見た彼、アスタは苦笑いで返す。
眼の使い手である彼に挑発をする少女はしかし、安堵感を感じさせない気配を纏っている。
「やれやれ、こっちも言わずともだが、今回は言わせてもらおう」
たとえ、少女の姿をしていようとも、眼の前に相手は少女とは似て非なる存在。
アスタは言葉の端を切る間に、髪の色を灼熱の粒子と共に紅く染め、その双眸も同じ色に変える。
それを認めた少女は、力強ささえも感じ取れる微笑みを見せる。その微笑みは凛々しさや美しさがあるが、彼はその笑顔に愛しさや可愛さなど微塵も感じ取れない、否、感じ取らない。
相手が不敵な笑みを送るなら、こっちは満面の――――鬼気迫る表情で迎える。
「今度こそその仮面、割らせてもらうぞ」
声と共に足を一歩前に踏み込み、同時に、自分の周囲に梵字のようなものが描かれた紋様の円陣が浮かび、彼に向って計五本の様々な剣が柄から飛び出す。
アスタはその中から眼の前にあった、たった一本の銀色の刀身を乗せる刀を手に取り、残りを控えさせると両手で柄を握り締め、中段の構えで相手を見据える。
それを見届けた少女は、いつの間にかその手に一つの刀を握っていた。
小柄な少女には似合わない、同じく銀色の刀身を乗せている大太刀である。
本来ならその重量に負けてふらついていそうなものだが、ご生憎そんなふざけた光景が見れることなどないし、第一その大太刀でさえも、彼女の存在感の前では添え物としてしか捉えることができなかった。
何遍も、その姿を見てきたが、いつも思う。
綺麗だな、ただその一言。
しかしそのことを一切声にせず、アスタは気力を足に回し、爆発的な勢いで前に飛び出す。
そして相手が小柄な少女だというのに関わらず、本気の打ち込みで攻める。しかし少女の方は常人を超えた身体能力で接近しているのに関わらず、その眼はしっかりとこっちを捉えてきていた。
「来い……そして打ち負かせてみせろ」
渾身の斬撃を打ち込む中、確かに少女の凛々しい声が、その耳に聞こえた。
「四千七百九十四戦中…………」
あれから二十分ほど経過した頃、視界の暗さから回復し、意識が鮮明になった頃に頭上から少女の声が聞こえた。
「四千七百九十四勝、私の勝ちだな」
誇らしげな声色を含めた口調で、そう告げる。
何故頭上で声が聞こえたのかを考えると、先程までの互いの激しい応酬にて繰り出したこちらの突きを少女は紙一重で避けると、懐に潜り込むとあろうことか繰り出した腕を首と顎で腕を挟み、そのまま引き込んで強制的に前転をさせる。
そして急いで起き上がって発見する数瞬には既に下突きの構えで来られ、危うく細い刀身で受け流す。
が、少女はそのまま地面に刀身を勢いよく突き立て、地面に足が突く前に、腕力で柄を軸にして少女とは思えない遠心力を得た回し蹴りを脇腹に喰らわせる。
アスタは肺から空気を絞られる感覚を覚えながらもそれを耐え凌ぐこと数瞬、その数瞬に腕を無理やり動かし、少女の仮面を割るべく刃先を突きだす。
直後、相手は眼にもとまらぬ速さで右手で刀を引き抜き、仮面に刃先が刺さる直前に突きを弾き、さらに左手であろうことかアスタの襟を掴むと自分の体を持ち上げるようにし、彼を軸にしてそのまま背中に回り込むとガラ空きの背中に蹴りを一つお見舞いする。
眼の使い手の身体能力についてこれる相手の蹴りだ。その威力は予想を上回る。
アスタは背中に強烈な衝撃を感じるとともにとうとう体勢を崩し、床の上を転がってしまう。
しかしそのまま転がるようにし、すぐさま受け身を取ろうとし―――――顔を上げて少女を視界に映す時には既に腕を思いっきり振りかぶっている体勢でおり、胸板に一撃、体が浮き上がるのを感じながら後方に数メートル飛ばされる。
そして地面に背中を強打させ、上下両側からの挟撃に視界が明滅し、思わず噎せているといつのまにか腹の上に乗っかった少女からの顔面に手堅い一撃、―――――終了の流れであった。
「…………また負けたのか」
「そうだ、お前は四千七百九十四敗、今日までに敗れた」
呟いた声に対し、少女の声は現実を示す。
アスタはそのまま殴られたはずの顔を手で触るが、特に出血や腫れは確認できない。そもそもこの空間では肉体的疲労や感覚はあるものの、肉体的損傷がないという奇妙な法則に縛られているのだ。
それに、相手となった少女は眼の使い手でもないのに関わらず身体能力は同等、むしろ上かと思うくらい力も速度も高いのでその辺も関与しているんではないかと思われる。
「まったく。そろそろ最大限解放で対抗してみるか? ん? その時は遠慮なく本気で相手をしてやるが?」
「……いや、まだ開眼状態であんたの仮面を割るまでやるつもりさ」
最初に彼女と出会ったのはおよそ十三年前。アスタが十歳のころだ。
突然この空間に連れてこられたかと思えば、この『少女』が眼の使い手としての基本だと言い、まだ開眼したての子供であるにも関わらず、叩き潰すレベルで無情容赦なしでボロ布にされたというにわかに信じられない対面であった。
私を倒したいか、憎いか、ならば私が教えることをその眼で覚え、その身に刻め。
今思えばすべての始まりと言っても過言ではない言葉なのだが当時は逃げ出そうとしたものである。
「そうか、しかし相変わらず動きが読めるな。何度も手合わせしたおかげで多少は良くなり、私の出した課題は達成できるまでの領域に入る。だが未だに気力の強化による力任せが見られるな」
彼女がアスタに課した最終目標は『仮面を割ってみせろ』であり、彼はこれを普通の開眼状態で成し遂げようと毎晩奮闘している。しかし今回まで完了直前まで腕を上げたものの、彼女にはまだまだ刃は届かなさそうである。
「んなこと言われたって、眼の使い手は気を扱うのが基本であり本質のはずなんだが」
「だからまだお前は青いのだ。気力強化は根底にある自身の身体能力の強化であり、身体能力の底上げが重要なのだ。無理矢理気力を消費しても残るものは体への多大な負担だ。今日も身を切って知ったであろう?」
「そうそう、あんたは今日のことについてなんか心当たりはねえのか?」
アスタは少女の素顔を知らないように、その名を知らなかった。何度も尋ねたことがあるが、好きに呼べばいいの一点張りだったので特定の呼び名では呼んでいなかった。
少女はそのことについて少し思案してみせるが、すぐに首を軽く横に振り、
「いや、私もあれは初めてだ。だから言えることは何もないな」
「……そうか」
彼女が知らないのならば、あの現象の解明はまだ先であろう。それほど彼女は眼の使い手のことについてよく知っているし、気という誰しもが持つ活力に理解もある。
「どちらにせよ、あれは危険だ。制御もままならぬまま使えば命を削ることにもなりかねん。お前が死ぬ分には構わんが―――」
冷酷な告知のあと、一間置いて、軽く息を吸うと、
「家族を悲しませるのだけは、男として最低な行為だ。護ると啖呵を切っておきながら、傷つけては何の意味もないからの」
「…………悲しむ顔は、見たくねえな」
妻と娘の笑っている顔が好きだし、今日みたいにたまに見せる怒り顔も好きだが泣く顔だけは見たくない。それだけは、やだなと思っていることを察したのか、少女は彼に背中を見せると、
「だから今日はもういい、寝ろ」
「ちょ、っと待ってくれ。俺はまだ……」
「気力の使いすぎてここですら立つことがままならぬへたれが何を言う」
そう言えば、顔面に一撃をもらってから、仰向けでのびたままに今更ながら気がつく。
体が動かず意識ははっきりしているこの状態のことを金縛りっていうんだっけか、などと呑気に思っていると少女の気配が感じ取れなくなり、周りの闇が自分を覆うかのように自分の姿さえも黒に染まると、意識は文字通り溶け込んでいった。
少女は彼がいなくなったこの空間に佇んでいた。
今日までに四千七百九十四戦、彼と戦ってきた。
本当に初めのころ、彼はただ泣き喚くだけであり、鍛えようも教え甲斐もなかった。彼にとっては気がつけば毎晩会って、その度に叩き潰してくる。そんな壁としか見てくれていなかったはずだ。
それらが少し続いた後、逃げ出そうとしても助けてくれる者がいない、駄々をこねようと答える者がいないことに気がついた時、立ち止まり、振り向いた。
彼は接近してくる少女に対し、叩き潰された怒りや憎悪、そして恐怖を力に変え、その手に宿ったものを思いっきり叩きつけてきた。
あれから既に十年以上経っている。
彼は、ずいぶん成長した。眼の使い手として。しかし人間的にはまだまだ若いということもあり、未熟なところもある。
しかし成長率が他の眼の使い手の比ではない。既に最大限解放も制限回数があるもののほぼ完璧に使いこなせている。
(……しかし、どういうことだ?)
そんな彼の成長を見守ってきた一人として、戦いの師として、思う。
(やつの『あれ』は、明らかに眼の使い手としての常識の枠をはみ出している。単なる気の過度消費による歪なイメージの具現化ではなかった。それに―――)
そこまで考えて、これは後日改めるべきだと判断すると、付けている鬼面を取る。
この顔を見せるには、まだ少し早い。
(とにかく今のやつにあれをさせるのに危険なのは変わりない。あのままでは単なる自滅を招くだけの愚劣極まりない術でしかない)
そして歩みを始め、少女は闇のさらなる深奥へと姿を消していった。
夜は長い。
しかしまだ深夜に入る前、灯を消した部屋の中で、二人はベットにいた。
そのうち女性の方はお腹に子を身籠っているが、寝る体勢は一般人と変わらない仰向けであり、大静脈が圧迫されて血行が悪くなり、血液が心臓に戻りにくくなり不快感がある、といった妊婦特有の症状とはまったく無縁そうであった。
「どうだい? 体の調子は?」
「大丈夫だ。普通に生活する分には何の支障もない。ただ、」
夫であるシバにそう訊かれ、リーディアは一言区切ると、
「やはり鍛錬を行えないというのは、些か不憫であると感じてしまうな。寝ればできるが、起きている間に復習できないのは歯痒くて仕方がない」
「本当に、根っこから真面目だよなお前はー。このまま母親になったときを考えると、子どもがグレないか心配になるな」
「むっ、それは暗喩に私の教育が厳しすぎるとでも言うのか?」
「今日俺とトーマにしたあれが不動の証拠なんですが」
「それはお前たちがだらしないからだ。男のくせに怠けるな。まあ今日はやりごたえがあったけどな」
彼女はそう言い、厳しさの中にある優しさを見せるかのように微笑んで見せる。
実際、彼女の指導はためにもなるし、特にシバに対しては互いに相手を知っていることもあってそれなりに前へは進めたと手ごたえを感じられた。研究に没頭していて体を動かしていなかったトーマは相変わらず具現化は苦手であるがしっかり練習していたし、得意分野である操気法の方も鈍ってはいなかったようである。
「まあ、とにかく、お前に見てもらって無駄ではないっていうのは痛感したけどな」
「ふっふっふ。そういえば忘れていたな」
何故か含みのある言葉に、一瞬シバは何か良からぬ企みがあるのではと疑ったがどうも違うようだと判断する。
何故なら、彼女は頬を朱に染め、甘えてみせるかのように胸に軽く頭を小突いてきたからだ。いつもの彼女らしさはどこかへ消え、高鳴る鼓動を抑えつけながらも顔を見ると、それを機に彼女が言う。
「今日の指導代として、頭を……撫でてほしい、かも」
彼にだけ見せる、いつものような固い口調ではなく普通の女の子のような、柔い口調。
シバはそれに胸が疼くような、どうしようもない気持ちが湧きあがり、ゆっくり恐る恐る手を彼女の頭に伸ばし、置く。それからゆっくりと、感触を確かめるように動かすと、彼女は心地よさそうに眼を細める。
「相変わらず綺麗な髪をしてるな」
「ふふっ、ありがと。でもシバの髪の色もいいぞ」
「これが、か? 黒いだけじゃねえか」
「そこが良いのだ」
「理由になってねえし、第一、開眼しても変わらないんだぞ?」
口調が戻りつつある彼女に、シバはやや苦笑いで言う。
彼の開眼は何故か変身前後に変化がないという特徴があり、よくそれをアスタにからかわれたものである。そんな思い出を思い出してさらに苦笑いをした後、ふぅと溜息をつき、それから彼女の顔を見下ろすようにすると、
「みんな違う色なのに俺だけ変わらない開眼ってのは、どうも変だよな。でもそんな俺にもようやく、転機がきたみたいだ。一端の男から、ようやく親になるっていう変化がさ」
「…………」
彼女はそれを聞き入れた後、少し不満げな表情になる。
それに怪訝そうな表情になったシバに対し、彼女は言う。
「むっ、では私との出会いは変化がなかったのか?」
「ち、違うっ、そういう意味じゃなくて! もちろんお前との出会いは大変化だったさ。でもほら、俺達って物心付く前に親を亡くしてるだろ? つまりようやく俺達は本当の意味で家族になるんだ、そういうこと言いたいんだ」
そう必死に言うシバの言いたいことは分かったのか、リーディアは微笑んで見せる。
つまり、父親母親になるというもう眼の使い手という枠ではなく普通の人間として、俺達は家庭を築いて暮らしていけるんだということを言いたいそうである。
それがどれだけ幸福な光景なのか、アスタとユリアを見てみれば安易に想像できる辺り、もしかしたら自分たちは羨ましがっていたのではないかと改めて思い知らされるが、今は良い。
「そうだな、大凡言いたいことは分かった」
リーディアはそう言い、軽く下腹部を撫でるようにする。
そこに在るのは、名すらも付いていない小さな生命。
検査の結果、男の子だと判明しているが今は揺り籠の中で、まだ見ぬ未来を思い描いているかもしれない、小さな小さな二人の子供。
「両親のいない私たちにようやくできた命。楽しみで仕方ないな。この子が生まれてくるとき、この子は一体どんな経験、どんな人生を歩んでいくのか。そしてこの子が幸せに生きていけるように上手に誘導してあげるのが、親の役目かもしれんな」
その言葉の中に、彼女の覚悟がどれだけあるかなんて、考えるのが失礼なほど、堅い。
シバは彼女の決意に耳を傾けた後、少しだけ息を吐くと眼を瞑る。
瞼の裏は、相変わらず暗い。
しかしそれは自分の想像を映し出すスクリーンにもなる。
浮かぶのは、いつに日にか訪れるであろう、家族と共に歩む時間。いつに日にか起こるであろう喜怒哀楽の道。不安もある、しかしそれ以上に、魅力的な未来。
「…………そうだな。それにもしかしたら、その子も眼の使い手になるかもな」
「ふふっ、そしたら家族で鍛錬ができるな」
もしもの話で盛り上がる二人は、互いにもっと若い頃こうして話しあった楽しさを改めて思い出す。
互いに、あれから成長した。今では子供も妊娠して四カ月ほどになった。
会える日は、これからおよそ半年後である。
そう遠くない未来、思い描きながら、シバはふと思った。
(もしかして、リーディアは俺に強く、いや護ってほしいのか?)
妊娠が判明した日から、彼女の指導は厳しいものになっている。
それはもしかしたら彼女が頼ってきているのではと考えられる。
眼の使い手の実力としては、彼女の方が能力も合わさって上である。
しかし鍛錬ができない以上、身近にいるシバを鍛えているのであろう。それは裏を返せばシバにもまだ伸びる余地があると示しているわけであり、同時に頼られるだけの信頼もあるということだ。
(…………なんというか、……やるしかねえよな)
天が強ければ、地も強くなる。
そんな例えを考え付いて苦笑するしかできないが、光と影、天と地は相容れない関係だ。
しかし、自分たちは相容れているのだから、今度は自分が彼女、いや二人を護れるだけの強さが欲しい。それを思うと、あの男がどれだけ羨ましいか、その思いに至るまでは簡単だった。
(いや、俺はこいつとその子と、あいつらを護れるだけの力があれば、いいんだ)
勝手な考えであまりに自己中心的だが、自分の世界を護りたいと願うのは人間の性だ。
だからこそ、今よりも、その子が生まれるまで護れるだけの力を。
(強くなりたい)
そう思いを募らせながら、腕の中にいる彼女を少しだけ抱きしめ、彼女もまた、彼が抱きしめてきたことに反応してもっと身を寄せる。
そして、
「おやすみ、シバっち」
「ああ、お休み、リーディア」
二人は眠る。変わらない明日が待っていることを願いながら。
そして思い描く未来への一歩を踏み出すために、二人は今日より強くなるために、それぞれの師の許へその身を埋没させていった。
夜の中央は繁華街や商街に比べると驚くほど静寂に身を沈めている。
その中で研究所区域では既に運営時間が過ぎ、ほとんどの施設が消灯される中、ほんの一部の部屋だけが灯りが付いているのか、カーテンの隙間からわずかにその光を零している。
研究所の一番端にある部屋、ここでは主に収集したデータの閲覧や編集作業に使われる場所であり、今し方一人の利用者が使用しているところであった。
こんな時間に一人でいる男はトーマであった。
「さーて、もうちょいだ」
今日の装置の試運転で得られたデータをもとに修正個所を吟味し、次へと繋げる作業の終盤の中、そうつぶやく。それと今回アスタのあの状態について何度も映像や気力測定データを見直したが、やはり何がどうなっているのか見当も付かない。今のところ保留として置き、この作業を終えるべく保存作業に移る。
と、その時背後からドアの開く音がし、それに気がついたトーマは振り向く。
「あら? 誰かいると思ったら、あなただったのね」
「……師匠」
トーマが見た先には、丁度ドアを閉めているミョルニルがおり、彼女はこちらに来る。
そしてトーマの座っている椅子の近くまでくるとパソコンの画面を少しだけ覗き込むようにする。
「まあ、トーマったらまだお仕事してたの?」
「仕事というほどやってないし、趣味の範囲内だな」
「でもそうやっていつも助けてくれるものね。ほんといい部下を持ったものねー」
誤魔化しの混じった言葉に彼女はそれも含めて微笑んで見せる。
彼はその微笑みを見て、少しばつが悪そうに頭を掻くと振りかえってパソコンに向き直る。
「あらあら? 照れちゃったのかしら」
「るせえ。それよりあんたまだ帰ってなかったのか」
「帰ろうと思ったら誰かさんがここにいたからね」
どうやら暇になったので遊びに来た、そう解釈もできる彼女の言い分にトーマは意地悪そうな笑みを向ける。
「あんたの危うさは夜が一番上昇率高いのにそのお守りをしろっつうーのか?」
「むー、これでも最近は気を付けてるんだよ? 痴漢対策に仕事の合間に作った自作の防犯アイテムとか持ってるし」
「いやいやそういうことじゃなくてだな。ってか、仕事の合間に何作ってんだあんた」
「見てみたい? えーと、確か……はいはいこれ! じゃーん!」
彼女は持っていたカバンから出したのは拳銃を改造したスタンガンであった。
「これなんか電磁気学と電気工学から作ったワイヤレス型のスタンガンなんだけど従来のものより厚手の服に対応できるように電圧を高めてあるの」
大凡軍の装備担当からもらったか自己負担で購入したかのどっちかだろうが女性にも握りやすいタイプの拳銃使用しており、なおかつ小口径で低速、低威力の弾を扱うものなので反動も少ない。ただし実弾を使用した場合なので今回は扱いやすいという構造から採用したのであろう。
そう言った知識を踏まえてトーマは保存作業を終えてシャットダウンをした後に、その自作スタンガンを受け取って眺めていたが、とあることに気がつく。
「夏には正当防衛になりそうだな。それにバッテリー型から電池式にしたのはいいけど中身入ってないし」
「え!? あらやだ!? 買うの忘れた!」
電源がなければ別の使用法でスタンさせなきゃいけんな。
そんなことを思いながらもトーマはおまけにと追撃を加えてみせる。
「それにあんたの腕で命中させられるかどうかも疑問点だな」
「そ、そこはサイトに工夫をしたり、三点バーストとかいって一度に三発出るようにしてるから大丈夫だと思う」
「サイトはともかくとして何故三点バーストにしたんだ。あんたは相手を殺したいのか」
スタンガンとは一発で効果を発揮できるように作られているがこれは先程言われた通り出力も従来と少々違っており、さらにそれを一回引き金を引くごとに三発も出るようにしてしまうのは些か問題である。というか返り討ちの範疇を超えてしまうので些かどころではない。そういった用途が目的ならわざわざ改造せずに実弾を使えばいい。
「うー、ついつい余計な機能まで付けちゃうのが私の悪い癖ね」
何度も見てきた自分の悪癖に溜息をつきながら返してもらった役に立たない防犯アイテムをしまい込む。
「そうだな。変に強化する方向に持っていくのは悪い癖だ」
「そこはもっと優しくフォローとかしてくれればいいのに。あなたはいつもストレートよね。そんなんだからあなただけ結婚できてないんでしょうに」
「余計な御世話だ」
馴染み深い友人たちが全員結婚し、しかも子供までもうけているというのに彼だけ未だに浮いた話がない。しかし本人は特に気にしている様子もないのでそれはそれでミョルニルの一つの悩みだったりする。
「あなたの恋人は研究心なのかしらねー」
「…………」
「…………もしかして図星だったりする?」
「嫌いならこの仕事をやってはいないな」
「ちょっとー! 私は割と本気で心配してるのよー!」
言い回しによる彼の心境を察した彼女は両拳を軽く振りまわす仕草をする。
そんな子供のような振る舞いをする彼女を見ながら、彼は思う。
(それともう一つ、気になっていることがあるからこの仕事に就いてんだよ)
自分の頭の中でも直接的な言葉にしないのは、やはり捻くれている性格のせいであろう。
「とりあえず用事は済んだからとっとと送っていくぞ」
「えーっ!? もうちょっとお話してもいいでしょーっ!」
「話し疲れて危険度が上昇したあんたに付き合わされる身を考えてくれ。送る間に話は聞いてやるからな、な?」
「むー、年下の人に子供扱いされている現実って…………はっ!? それは裏を返せば私はまだまだ若いという見解にもとれるわね!」
そういう風に良い方向にベクトルを持っていけるのが今までの経験から弾き出されたスキルなのであろう。トーマはやれやれと首を軽く横に振り、気の抜けた声で彼女に向かって肯定する。
「ああ、若いな。無鉄砲な発言辺りが」
「ちょっとどういう意味なのよそれは~!?」
皮肉満載な部下の発言に頬を膨らませて怒る。
それを苦笑いで、しかしやはり楽しげにあしらう彼の真意に彼女は気付かない。否、気付かされない。
そんな彼女の罵詈雑言を聞きながら、トーマは簡単な後片づけをすませると帰宅準備をするよう促す。
外はさらに黒く染まった真夜中になっており、遠くの繁華街からの喧騒が静かに響いてくる。
空を見上げれば、群青色の星々が控えめに、しかしハッキリと感じ取れる存在感を醸し出している。
だからこそ、この場の周りの静けさは一層深く感じられる。
中央の西大門の出入り口を抜けたすぐよこの防壁に、二人はいた。
「静かねー。この時間だとこんな風に静かなのねー」
「そりゃ、いつもは深夜過ぎてからだからな。むしろ騒がしいんじゃないのか?」
「んー。ちょっと違うわねー。いつもは疲れてから出ているけど、今日はそこまで忙しくなかったから感覚が安定しているのね」
仕事柄、次の実験や計画、資料作成に頭を悩ませているのでこういった帰路でもそればっかりに集中してしまうのでこのような光景や雰囲気を改めて感じているのであろう。
「…………なるほどなー」
「あ、興味なさそうな声。そこはまだまだお若いですね、なんていう気のきいた一言を入れるところなのよ!」
「そう言われたいという願望の裏側を安易に伝えるその言い方はどうかと思うがな」
「何よ! これでもまだ二十代後半! 十分若いんだから! お姫様な年でも十分通じると思うの!」
「へいへい。それじゃそのお若いお姫様を安全に届けるのがここにいる騎士の役目でいいのかい?」
「そうね。んじゃ、よろしくね白衣の騎士さん♪ でもあなたはどちらかというと銃士さんよね?」
「細かい設定変更はいいから。いくぞ」
そう言って彼は徐に手を差し出す。
その差し出した手の意味を、彼女は理解すると少し照れながら、遠慮がちに握る。
そして二人は歩きだす。暗い夜道を気を付けながら、二人は静かに歩く。
「うふふ、あの人が見たら、なんて思うのかしらね」
「………………」
彼女のその発言に彼は僅かに苦い表情を出す。
それを気配と雰囲気で感じ取ったのか、自分の無責任な発言に詫びを入れる。
「あ、ご、ごめんね。気を悪くした?」
「…………いや、むしろあんたが大丈夫なのかどうかだが」
「…………そうね」
彼女は一言言い、間を空けてから続けた。
「こう言うとなんだけど、懐かしい、って思ったの」
「……懐かしい?」
トーマがそう言うと彼女はうん、と返事をし、
「あの人がいなくなくなってから、ずっと頑張って、ようやく夢が叶いそうになって、よく考えたら研究女になっててデートとかそんなことしてなかったからね。こうして手をつないでると、昔を思い出したようでなんか嬉しかったの」
ただ懐かしむように、彼女は微笑んで言う。
『あの頃』の悲しみは、既に越えてきた。だからこそこうして笑ったり懐かしんだりできるのだ。
一方、彼女の悲しみの原因を知っている一人として、そして彼女が自分に対して弱みを見せてくれるその優越感と、嫉妬に似た邪な感情があったことに気がつき、彼は静かに驚いていた。
「……? どうしたの? 難しい顔なんてしちゃって」
「! い、いや……なんでもない。たださっきよろしくない評価を下された俺で懐かしさを感じるのも変だと思ってな」
「むっ、確かにそうだけど。それはそれ。そういえばさりげない気遣いは得意なのよねー。あなた顔はいいんだからもっとそう言ったところを伸ばしていけばモテるのにね」
「再三言うが余計な御世話だ」
「そうね。今は私を護ってくれる騎士さんだもんね」
女性の憧れそうな側近のポジション、騎士の役目を引き受けている彼は、そんな彼女の微笑みを見て、それから前へ歩みだす。彼女も引かれる手に従って、前へ歩きだす。夜になって少し冷えた風が体を叩くものの、つながった手はそれを打ち消すほど温かい。
(やれやれ、彼女にとって俺はまだまだ懐かしむ切っ掛けにしかなれんのかね……)
前へ見据える目は、決して横には向けなかった。向ければ彼女は反応して、何かを尋ねるだろう。
しかし今は、それをされるのは困るし、話すことはできない。否、話したくない。
自分の内に秘めるこの思いは、まだまだ伝えてはいけない内容だと彼は思う。
(だけど今あるこの居場所が、いや、隣にいられるのが、いいんだ)
彼は行く。彼女を護る騎士の役目を引き受けて。
しかし彼はその先の、自分が望む立場を考え、思い上がりだと止める。
考えるのはこれが終わってからでいい、だからこの時間だけは、誰にも渡さない、譲れない。
彼は行く。彼女を連れて。明日また出会うために、何気ないいつもの日常を送るために。
だけど、願わずにはいられない。この願いだけは、胸の中で言葉にした。
いつに日か、本当に彼女の隣に立てる、騎士になれることを
なーんか若者の恋愛表現みたいになってしまった今回のお話でした。まあこう言った間延びした光景だけで済ませるのはいつものことですし、これからのための溜めですからね(←親父ギャグではない
さて、いよいよ次回から変化が訪れます。訪れさせる予定です(汗
これからどうなっていくのか、既に結果を知っているけどどうなるか分からない、そんな矛盾したテーマで送れたならどんなにいいんだろう、という願望を醸しみだしながら次回もまたよろしくお願いいたします。
それでは! ではでは~




