ユキナDiary--その前シリーズ ~千の夜を越えて(後編)~
さてさて後半です。そういえば皆様明けましておめでとうございます。初詣はどうでしたか? 私は初詣は何故かチャック全開で行き、そして帰ってからorzしたという痛い年の始まりでした。とりあえず投稿が遅くなりましたことをお詫びすると共に字数がひたすら多いので読むときはご注意ください。ではどうぞ。
瑠璃色の空に白い砂糖を零して散らしたような、幾多の星々がよく見える空であった。
しかし空気は冷たく感じず、生き物の気配などなくそれどころか全ての世界は静寂を保っていた。
その中で、静を突き崩す動が建物から建物に、あるいは何もない空中を蹴って速く移動していた。
それは小柄な少女で美しい艶の帯びた黒髪を持ち、その顔立ちは凛々しく可愛らしさを持っているが今は真剣な表情で真っ直ぐ前を見据えてとにかく速く走っていた。
そして、少女は突然、疾走しながらその姿を変えた。
一瞬だけ辺りを光らせたかと思えば、その髪は夕陽のようなオレンジ色をし、瞳もそれに負けないくらいの橙色に染まる。
それから少女は走りながら右手を軽く振るようにすると、それに沿って光の軌道が生まれ、握り拳を作るとその軌跡が瞬く間に日本刀となり、その銀色の刀身に彼女の色を煌めかせる。
それと同時に、少女の前方に黒い影が出現し、その黒さの中に白い刃を覗かせながら飛びかかってくる。
しかし少女は特に驚きもせず、相手が接近してくるのと同時に加速し、一体の胴体をぶち抜く。そしてそのまま半回転すると突き刺した刀身を引き抜きながらもう一体に対し、横斬りをお見舞いして真っ二つにする。
だがその二体を討ち倒したところで、影はどんどん彼女に襲いかかってくる。まるで黒塗りの矢を誰かが遠方から放ってきているような、そんな風にも思えた。
だが少女は次々に襲いかかる影を一番近い順から一撃必殺でどんどん倒していき、そしてようやく建物の屋上に降りたって区切りを付ける。
少女は少しだけ息を切らしていたがすぐに呼吸を整えると、ゆっくりと前を見据えた。
少し離れた向かい側にある建物の屋上辺りに、そこらの怪物とは少し違う気を感じ取ったからである。
そして少女、ユキナは相手の姿を捉え、オレンジ色のその両眼を僅かに細くした。
「ほぉ、やはり間近で見ると違うものだな」
その声は、ユキナが見ている前方の建物の屋上から響き、尚かつあまり動揺のない声色であった。
その姿は黒い皮膚に覆われており、二の腕や背中に少し生えたヒレなどはサメを思わせ、眼のない顔の口から覗いたノコギリ状の歯は根源的な恐怖を相手に見せつける。
その姿を見て、ユキナは気の量や姿形からある一つの答えが浮かんできた。その答えは―――
「知識持――――、ね」
「おやおやご名答だ。そう、俺はそこらの雑魚兵とは性能が上なんだよ」
ユキナが呟いた名称に、相手の知識持は嬉しそうに言う。
知識持とは、そこらの怪物よりも上位種でより戦闘に特化した能力を持つ怪物のことである。
しかもその特徴として普通の怪物達を部下として意のままに扱うことができ、集団で襲いかかってくると言う戦術はもちろん、待ち伏せをさせたり奇襲させたりと怪物達だけではとてもできないような戦術を組み込むいわば戦略家のポジションに当たる。
そう、高度な奇襲とならば、あの少年と別れる切っ掛けになったあれである。
そのことに気がついたユキナは睨み付けたままの表情であったが、僅かに奥歯を噛み締めた。
胸の内に生まれた僅かなら感情の揺らぎが、彼女に戦闘の構えをさせる。
「おっと、そうくるか。人間にしては若すぎるようだがとはいえ眼の使い手。まともに張り合うには代償が大きすぎる。だから、」
そう知識持は言い、ゆっくりと何かの合図のように右腕を空に向かって突き出す。
するとユキナと知識持の周りで何かがざわざわと集まってきているのかが分かり、彼女は辺りをゆっくり見渡すようにしてみる。
すると、―――――気の探索や視覚での確認の結果、約二十体ほどの怪物が周りの建物の屋上などに姿を現し、ぐるぐると獰猛な声で唸って獲物となる眼の使い手を睨んでいた。
「数をこうして集めさせて貰った。いくら眼の使い手と言えど、この数を相手するにはお前は経験が浅いだろうに」
「あなた、私を舐めすぎじゃない?」
「んん?」
しかしユキナはこの物量差にも動じず、むしろさらに闘志を湧き上がらせたようである。
その様子と発言から、知識持も意外だと思い少しだけ何か背筋に冷たいモノを感じる。
やはりそこらの異世界から派遣されてくる兵士などとはまったく異なる自分たちの天敵。
だが、こちらにはまだ隠し札がある。それを見せつければ……。
ただ、知識持もまったく策がないと言うことはなく、むしろ有利となる切り札を持っていた。
それは相手が守護者である限り、人間である限り、必ずや足を止めさせるモノなのだ。
だから相手が仕掛けてくる前に、知識持は自分の足下に横たわっていた"モノ"を掴んで持ち上げ、それをユキナに見せつけるようにする。
すると途端に、彼女の顔色が一変し、眼を大きく開いてそれを見た。
それは―――――――人、大人の女性と思われる、人。
「なっ…………!」
「ふっふっふ。確かにこの程度の数じゃあ眼の使い手を倒せない。だがこちとら知識持なんでね。こういった手段だってとれるんだよ」
そう言って知識持は持ち上げた女性に対し、品定めをするようにする。
「もう分かっているようだが、これは別に気力が高いわけでもないただの粗悪品だ。知能の低いこいつらが見向きもしない、又は捕まえても無意味な代物だ」
では何故、と彼女の言葉を聞き取ったかのように、知識持は続ける。
「だからこういう利用法しかないんだよ。お前の足を止めるために。さあ武器を棄ててその状態を解くんだ。お前がそこから一歩でも動いたら、これの喉元をだな、分かるよな? まあせめて楽に殺すくらいのサービスはしてやるがな」
状況的には、ほぼ最悪な展開であった。
この町の人間達を守護するのが彼女の役目なのに、下手に動けばあの女性は本当に殺されてしまうであろう。知識持の厄介なところは怪物以上に獰猛で、狡猾で、しかも人間の心理を揺さぶる戦法ですら使ってくる。
(……どうする? この距離じゃあいくら私の足でも一足先に終わってしまう……しかしこのまま放っておいても事態は悪くなるばかり……)
敵の狙いはこちらの動きを完全に束縛することである。
しかし敵の思い通りに動いては、事態はさらに悪化するだけだ。
だったらどうする、大人しく従って殺されればいいの。
そんなわけにはいかない、じゃああの人間とこの町の人達の命を考えたら……。
そこまで考えて、彼女は首を横に振った。
自分で勝手に考えた天秤で量ってしまうなど眼の使い手として、守護者として失格である。
(命に大小の基準はない。だったら相手の要求を飲み込む振りをして、油断を突くしか方法がない)
ただこの方法ではリスクが高すぎる。もし相手の方が一瞬でもこちらの動きに気がつけばあの女性の命の保証はない。しかし、やるしかない。
そう思い、彼女は突然、日本刀を思いっきり真横に投げ捨てた。
真横に投げ捨てられた日本刀は激しく回転し、重力に負けながら建物の下の闇の中へと消えていって仕舞った。
それからさらに、髪の色も瞳の色も元の黒色に戻し、相手を見据えるようにする。
「……まさか素直に聞くとはな」
相手は想像していたこととズレが生じていたのか、少し驚いた様子でそう言う。
そんな驚いた様子も気にせず、ユキナは両手を高く上げて武装解除の意を示すようにする。
「これでいいんでしょ?」
目付きは今でも射殺しそうな眼光を失っていないが、武器も棄て、完全に無防備な状態である。
それを見届けた知識持は無造作に手に持っていた女性をその場に落とすようにし、ゆっくりと背中を向けながらただ一言だけ告げた。
「………………殺れ」
その瞬間、今まで縮めていたバネが弾け飛ぶように、周りに控えていた怪物達が大声で吠えながらユキナに対して一点集中で突進を開始する。
この黒い影達が動く様は、まるでこの夜空と相反する黒色の風のようであった。
彼らはずっと待っていた。あの少女が、武器を棄て、あの忌々しい姿に変化しないでそのままでいることを。しかもこちらは二十体以上もいる。兵力の差ではこちらが上。
そう思い、少女まであと十メートルほど迫ったときだった。
少女、ユキナの姿が―――――、一瞬で掻き消えた。
「ガァッ!?」
予想していた行動に反し、その場から姿を消したことに驚愕し、怪物達は足を止めようとする。
しかしその黒い集団のウチ、一体が突然、背中から謎の衝撃に襲われて激しく回転しながら吹き飛ばされる。
怪物達はその出来事に対して振り向こうとするが、今度は先程吹き飛ばされた一体よりさらに知識持に近い怪物が同様に振り向こうとしたためか脇腹当たりに衝撃を受け、同じく吹き飛ばされる。
そしてさらに一体、計三体が面白いように回転しながら吹き飛ぶ中、背を向けた知識持のいる建物の屋上フェンスをオレンジ色の軌跡ができたかと思えば、残像から実体へ、瞳と髪の色を再び変えたユキナが出現する。
(連中を足場にして、一気に加速して行く……!)
彼女は考えていた。どうやったら一気にあの知識持が行動を移す前に近づけるのかを。
それには普通に空中を走っているだけでは絶対に間に合わない。
だったら襲いかかってくるこの自分の数倍もの体積と体重を持つ怪物達を壁を蹴る要領で行き、連続でやれば通常よりも遙かに速力を稼げると考えたのだ。
しかも敵の知識持は油断したのか女性を地面において背を向けてすらいる。
これはまたとない絶好の機会……! そう思い投げ捨てたはずの刀をもう一度手元に戻し、フェンスに足をかけ、開眼で得られる力を足に全て注ぎ込む。そして飛び出し、両手を伸ばして地面に横たわる人質の許へ急ぎ――――
――――突然目の前に黒いナイフ状の物体が阻むように、自分の額を狙って伸びてきていた。
(え…………?)
それが確認できた瞬間、世界が自分を中心にゆっくり時間が流れたような錯覚を感じた。
目の前に現れたあの凶器は、まったくの予想外で、よく見れば知識持から無かったはずの蛇のような尾の先についているものであると確認できた。
だがそれを確認したところで、今更このスピードを殺したとしても、間に合わない。
『馬鹿め。お前の来るコースなんざ特定が簡単すぎんだよ。死ね』
ゆっくりと空間が流れる中、僅かに肩越しにこちらに顔を向けていた知識持の声がいやに聞こえた。
そう、彼女が何かしらの方法でこちらに来ることくらい分かっていた。自分の油断を見せつけるという餌を目の前にぶら下げながら。
これらの事態の原因は、彼女の実力不足と、彼女自身の経験のなさだ。
知識持という、まったく相手にしたことのない未知の頭脳を駆使する相手に対し、対策を持ち合わせていなかった彼女にとって今まさに致命傷となり得ていた。
今すぐ刀で弾き――――間に合わない。
蹴りか腕を犠牲に――――間に合わない。
刹那の中、あらゆる思考を展開させるがどれもこれも時間が足りない。
(ああ、…………死ぬのって、こんなに唐突なの?)
ゆっくりとゼリーになったかのような空間を進む中、彼女は思う。
(もっと速く、もっと強かったら、こんなことにはならないのに……)
あと数cmのところで、額に黒ナイフの切っ先が付こうとしている。
(…………ゴメン)
自分でも何故かよく分からなかったが、最後に覚悟を決めた言葉がこれであった。
誰に対して、というのは様々な人に当たるであろう。
そうしているうちに、死期が迫ったのか、自分の周りが白く染まっていくような気がした。
ただ、さっきの言葉は自分が拒絶してしまった人達に対しての謝罪だと今は思っている。
では、何故か『今』が続いてこんなことを思えているのだろうか。
何で? と思っていようとも答えは返ってこなかったが、それはすぐに来た。
――――――そして、その永遠にまで引き延ばされた一瞬を破壊しに、彼が来る。
ほんの数分前、月光を背負えるほどの思われる高度に、彼は居た。
自分のすぐ真上には瑠璃色に染まった雲が浮かんでおり、見下ろせば人一人いない静寂を続ける見慣れた町が広がっている。
そして、自分の真下辺りでは、気を頼りに探した甲斐があってか彼女を見付けることができた。
しかし、彼女は怪物達に囲まれており、しかも人質を取られているせいか日本刀を捨て、開眼状態まで解いてしまっていた。
自分が見る限りでも、彼女には最大の危機が迫っていた。
それから今度はあの怪物達の集団の親玉だと思われる存在に顔を向けてみる。
彼女に何かを要求し、それがその通りになったことに驚いているのか、少し固まった状態であった。
そこでふと、自分が何をすればいいのかが唐突に浮かんだ。
今の、あの彼女の足の速さと知識持との距離では確実に人質の方は無事に済まないであろう。
ならばほんの一瞬でもいいから時間稼ぎができる方法を、今この頭の中で考えついた。
しかし果たして、それは自分たちにとってメリットに成りうるのであろうか。
もし失敗すれば、最悪な事態に掌を返すかも知れないのに。
っと、ここでその考えを途中で止めることにした。
(そんなに緊張すんじゃねえよ、俺……)
それから不意に怪物の親玉が彼女に対して背中を向けたことに気がつき、それに注目をする。
するとそいつは、確かに笑っていた。それは自分の思い通りにいったという浅はかな考えではなく、もっとその先にある、まるでわざと無防備を見せつけて誘い込んでいるような、そんな邪なる企みのようなモノが垣間見えた。
奴は背中を見せた、それを彼女が逃すはずがない。
しかしこのまま何もしなければ、彼女は死ぬかも知れない。
自分が動かなければ、彼女を助けられないかも知れない。
それは自分が人間であろうと化け物であろうと、関係は一切無い。
大切なのはその状況を理解し、今、動けることである。
(……そうと分かったら答えは一つだ)
例え自分の存在を否定しようとも、それで彼女が死ぬのはまったくもって問題外。
(やれるさ。俺にとってもっと怖いのは自分が人間じゃないことを言われることじゃない。もっと大切なモノがあるじゃないか)
今の自分には、死なない身体があって、今を変えられるかも知れない力を持っていて。
(…………行くぞ)
そう心に覚悟を決め、彼はその場から飛び降りた。
体重六十キロの物体が、自由落下により、どんどん勝手に加速して落ちていく。
それでも怖いとは思わなかった。こんな恐怖で彼女が救えるのならば、いくらでもやってやる。
そう思い、何故か笑いを噛み締める。別に可笑しくないのに、気でも狂い始めてんじゃねえのかと思ったりもした。でもそんなことは関係なく、身体は重力に引っ張られていく。
狙いはもちろん――――――彼女を生かす道のみ。
黒いナイフが眉間の間に刺さる直前だった。
ユキナは途中までまるで白光の中にでも飛び込んだかのような世界を両眼で見ていたが、突然その光景に黒や蒼に近い彩色が加わるとふと我に返り、目の前の凶器を見つめていた。
しかし直後、その凶器が何故か真横に向かってその姿を隠すようにいなくなった。
どうしてかは分からなかったが、いや違う――――何かに邪魔された?
そう思い、知識持が居るとされるところを横切ろうとし、顔を少しだけそちらに向けた。
そして、その美しい橙色の大きな両眼を見開くようにし、その光景に驚いた。
その両眼に映りしモノは―――――空から思いっきり知識持を踏みつける少年の姿。
「がァァァあッ!?」
突然、頭上から迫った強力な衝撃に知識持は驚愕の色を隠せず、その場で崩れ落ちるようにする。
一方、知識持の頭を見事に体重を乗せて践み飛ばした少年―――護熾は踏みつけた反動でまだ少し宙に残っていた。
(よっしゃ…………ユキナ、今のウチに!)
そんな彼の意志が伝わったのか、すぐ真横を通っていた彼女は地面に横たわっている彼女に両手を伸ばし、すぐさま抱き抱えるようにすると屋上の床を蹴り、すぐその場から脱出するようにする。
それから少し離れた隣の建造物の屋上に見事な着地を決め、すぐ女性を下ろすと振り向き、すぐさま叫んだ。
「カイドウ……!?」
まさか来るとは思っていなかったと言わんばかりに、そう叫んだ。
それから何故か、急に目頭が熱くなるような感覚に陥り、視界が少し曇る。
彼が、戻ってきてくれた。自分は否定したのに、助けに戻ってきてくれた。
どうして戻ってきたの、そう頭に思い浮かぶが、今はもっと大きな感情が流れ込んでくる。
しかし、束の間の喜びも、すぐに驚愕の一色に塗り変わっていく。
「え…………?」
そう、彼女は見てしまった。
宙に浮かぶ、自分が見たあの、人間を構成するはずのない結晶の欠片が、辺りに散っていたことを。
その欠片の出所は一つしかなかった。
「ちっ、くしょ……」
護熾は屋上に横たわった身体を動かそうと試みて、手に力を入れる。
しかし足を付けて立とうにも、立つことなどできはしなかった。
それも足を付けた途端、すぐにバランスを崩してまた横たわっている世界が視界に入ってくる。
原因は既に分かっていた。というか、そうなると予想はできていた。
自分は、あの知識持を蹴り飛ばし、彼女の人質の救出に助け船を出すことができた。それだけでも十分に成果を上げたと言えるであろう。
しかし、仮に死なない、致命傷の痛みを感じない身体だとしてもやはりそのリスクは返ってくるモノなのだ。
彼の身体は結晶でできた身体。強度はもちろん人間並み。それをかなり高い場所からパラシュートも無しの完全に無謀な質量落下攻撃は、身体を元の状態にしてはくれないのである。
そう、彼は既に―――――両足を無くしていた。
「……何だ、てめえは……変な身体しやがって」
立ち上がろうと藻掻いていたとき、目の前に黒い足が二本、立ちはだかった。
その事に気がつき、護熾はすぐに顔を見上げようとするがその前に、自分の右腕が掴まれ、軽々と持ち上げられてしまう。
「……人間、なのか? どちらにしろよくも邪魔してくれたな!!」
そう言って眼のないノコギリ状の歯を覗かせている顔を近づけ、護熾にそう言う。
それは知識持の顔であり、あれだけ高さを稼いで両足を犠牲にした蹴りでさえ、少ししか傷を受けていないようにしか見えなかった。
しかし護熾は特に怯えも見せず、ただ睨み付けるような視線を相手に返すだけであった。
「しかしまあ、どうやらてめえもあの眼の使い手の仲間らしいしな。昼間みたときに一緒にいるのを見たからそうだろうな。だったらてめえは馬鹿な真似をしたな。わざわざ自分からあの眼の使い手にとってこれ以上ない釣り餌になるとはな!」
そう言って護熾の腕を掴んで宙づりにした状態で、ユキナのいる建物の方まで移動すると掴んだ腕を前に差し出し、屋上の外へと護熾の身体を吊すようにする。
一方、その様子を見ていたユキナは既に刀を構えていたが、両足を無くし、腕を掴まれて為す術のない彼を見て叫んだ。
「……!? カイドウ!!」
「もう一度聞けェ眼の使い手よ! こいつを殺されたくなかったら今度はその武具で自分の腕を切り落とせ! さあ! 早くしないともっと傷つくことになるぞ!」
知識持ちは先程よりもさらに確実に仕留められるよう、そして促すようにナイフの生えた尾を出し、それを宙づりになっている護熾の喉元まで運ぶ。
その光景を見たユキナはやめっ……! と声を掛けようとし、不意に彼の表情を見た。
喉元に大型のナイフを突きつけられているのにも関わらず彼は、怯えてなんかいなかった。ずっとこちらを、強い眼差しで見つめている。
絶対こいつの言うことを聞くんじゃない、そう伝えるかのように。
それから急に、彼は口を開くと大きな声で叫んだ。
「ユキナ!! やれ! 俺ごとやるんだ!」
「!?」
「なっ、てめえ何言ってやがる!?」
犬歯をむき出しにしながら叫ぶその唐突な要求に対し、彼女は明らかに驚き、戸惑う。
しかし、戦士としての本能が決着の機会だと背中を押し、唇を噛み締めながらも顔を伏せて刀を横に構えるようにする。
すると体を覆うようにしていたオーラがやがて中段に構えている刀の刀身に凝縮するように集まっていく。吹き出したオーラがすべて刀に集まったとき、銀色の刀身から太陽のように輝くオレンジ色の刀身が姿を現す。
これは、紛う事なき彼女のみが使える――――――疾火の構え。
「くっ……! お、おい! てめえらさっさと集まりやがれ! そしてあの眼の使い手を止めてこい!!」
ユキナの疾火に対し、焦燥の念を露わにした知識持は急いで周りにいる部下の怪物達を呼び寄せるようにする。その声で、周りで狼狽えていた怪物達は我に返り、大技を繰り出そうとしている少女に向かって突進を開始する。
「ユキナ……!! 急げ! 連中がお前目掛けて来るぞ! 早く!」
あの技を繰り出すにはそれ相応の時間が掛かることを知っている護熾は、彼女にさっさとするように声を上げて促すようにする。しかし彼女の方はいつまで経っても、放とうとはしなかった。
いや、放てないのだ。その理由は――――顔を上げた彼女の泣き崩れた表情にあった。
「……………………、いよ」
今、この瞬間でも放てるはずの、この戦いを終わらせる技を放てず、彼女は震えていた。
「できないよ!! やだ、やだよカイドウごと、倒すなんて―――!!」
「………………!」
ほんの気の迷いかも知れないが、彼女は躊躇していた。いや、躊躇せざる終えなかったのだ。
その言葉と行為を、彼はこの状況ながらも、嬉しいと思った。
彼女は既に、自分のことを化け物として見る目ではなく、人間として見ていてくれているのだ。
「………っ、早くするんだユキナ! てめえがやられたら、てめえが死ぬのだけは見たくねえんだよ!」
「やだよ……! そんな、こんなかたちで……」
彼女は結局、寂しいだけなのだ。
あの冷酷な性格も、彼女の優しさの裏返しなのだ。
本当の彼女は、とても優しくて、寂しがり屋で、一人で居るのが辛くて。
だからこそ、ずっと一緒に居てくれるかもしれない自分を、必死に助け出そうと考えている。
もっと別の結末で、もっと一緒にいたいから。
それだけ分かれば十分だった。
では後は、自分が後押しすればいい。そう、彼女がこの先を進めるよう、彼女が文字通り未来を切り開けるように。
ではその答えはどこにあるのか、と実はもう探すまでもなかった。
こんな目の前にあるコレが、どんなに素晴らしいモノであると思うのはコレが最初で最後であろう。
「かっ、はっ……! は、ははっ、何だ、来ないのか……! いいぞ! てめえら早くその小娘をやってしまえ!」
ユキナが疾火を繰り出すのに躊躇していることを確信したのか、知識持は先程の威勢を取り戻し、怪物達に命令を下す。怪物達の方も何もしないでずっと構えを解かない少女に対してまったく怯まず、死体に群がる肉食動物の如くどんどん距離を縮めていく。
もう、後がない。
このままでは彼女は連中の牙と爪の血糊に変えられてしまうであろう。
だからこそ、護熾は静かに、彼女に話しかけるような口調で言う。
「…………ユキナ、お前はここで立ち止まるべきじゃねえんだよ。お前には、お前を待っている奴が、たくさんいるんだからよ」
「でも、でも……!」
別にこの先どうなろうと自分はどうってことないと思う。
でも彼女は、涙を両頬に伝えるだけで、手元にある切り札を放とうとはしなかった。
「大丈夫。俺なら大丈夫だから。だからお前がこの先を行けるように、するからさ」
「…………? ね、ねえ、それってどういうことなの……?」
彼からの不思議な言葉に、彼女は泣きながらも顔を彼に向ける。
その彼は、微笑んでいた。まるでもう大丈夫だと言わんばかりに。
そこでようやく、彼女は気がついた。彼が何をしようとしているのかを。
しかし、それを制止するように声を掛けるよりも、――――彼の言葉が先に耳に届いた。
「――――――――――――――――じゃあな、」
そう言って彼は、微笑みながら、
喉元に突きつけられていた尻尾を左手で掴むと、
それで思いっきり――――――――右腕を切り落とした。
「なっ―――――――!!」
その行動に対し、予想外だったのか、知識持は口を開けて驚愕に染まる。
そして、その光景を見ていた彼女は、両目を大きく開け―――、
「あ、あ、あ、」
両目で捉えた彼を見ると、彼は背中から落ちながらこっちをしっかり見ており、それから託すようにこちらの顔を見た後、ソッと両目を閉じた。まるで満足してしまったかのような、もう本当にお別れだと言わんばかりに。
「いやああああああああああああァァァァァァァァ―――――――!!」
彼が右腕を切り落として建物の谷に吸い込まれるのを目撃した彼女は絶叫しながらも、それでも思いっきり横に構えた刀を一気に振り抜く。
その途端、刀身に宿っていたオレンジのオーラは刃先へと集まり、超高密度の生体エネルギーが飛ぶ斬撃となり、すぐ近くまで来ていた全怪物達に直撃する。
瞬間、怪物達は断末魔の声を上げることなく、為す術なく斬撃の中へと飲み込まれていき、一瞬にして塵へと姿を変えていった。
「ひっ――――!」
そしてその勢いは弱まること知らず、信じられない速度で知識持のいる建物を襲う。
知識持は小さな悲鳴と共に恐怖の顔色に染まっていたが、やがて容赦のない攻撃がその姿形を砕くようにし、押しつぶされ、塵になって流されていった。
そして、この町の命運を懸けた戦いは、呆気なく幕を閉じたのであった。
(…………ドウ、…………ドウ)
真っ暗になった世界なのに、何故かそんな声が聞こえた。
そういえば、と思い、随分重くなった瞼を開けてみると、一人の少女の顔が目に見えた。
「…………ん?」
「! カイドウ……!」
「…………よう、…………どうやら、無事みてえだな」
彼女は未だに開眼状態を解いておらず、人質に取られていた女性などほったらかして急いできたのであろう。しかし戦いが終わろうとも、その両眼は涙で揺れており、彼女は彼の左手を手に取る。
「……あーあ、随分ボロボロになっちまった」
「う、うん……ふふっ……そうだね……うん、そうだね…………カイドウ、ごめん。あなたに、あんなこと言っちゃって……」
「……ああ、もう気にしてねえよ」
そう言って彼は微笑んでみせる。
でも彼は両足と、右腕を失っており、傷口から結晶の欠片がこぼれ落ちている。その上あの高さから落ち、身体でそのまま受けたせいかところどころひび割れ、今にも砕け散りそうであった。
どうやらこの身体は、傷を負ったら治ってくれるらしいが、失ったモノまで再生がしてくれないようである。その所為か、徐々に身体に限界が迫ってきていることを身に染みて分かっていた。
「…………すまねえな、もう、無理みてえだ」
「カイドウ……」
彼女も薄々分かっていたのであろう。先程のように取り乱したりはせず、黙って彼を見つめる。
でも、人間一人を、この町を救えたとしても、彼を救えないのが悔しいのか、その両眼はまた涙で溢れ始める。
「……んだよ、泣くなよ……」
「……ねえ、消えないでよ。もう、いなくならないでよ…………もう、一人は嫌だから……」
左手を握りしめる彼女の力が僅かに強くなり、嗚咽を引くような声でそう言う。
そう、彼が居なくなれば、彼女はまた一人でこの町で過ごしていくのだ。
人と一緒に過ごす温かさと、楽しさを思い出した彼女にとって、それは残酷な未来。
「一人は、寂しいよ…………だから、ずっと一緒に……居てよ……」
「……やっぱり、寂しかったんだな」
でも、今からあと二年。つらいこともあるが、そこでようやく彼女が心を開くことを彼は知っている。
しかし、それを伝えることはできない。
もう、身体に限界は近づいてきていた。
でも、あのときみたいに死ぬワケじゃない。自分はただ、元の世界に戻るだけ。
それでも彼女は、泣いて自分を惜しんでくれている。
だからこそ、自分は伝えなくてはいけない――――彼女がまた笑顔を見せてくれるその日を願って。
「なあ、ユキナ……お前に、伝えたいことが一つあるんだ……」
「…………何?」
護熾は、握っていた彼女の手から左手を抜き出す。
その行為に彼女は涙目でありながらも不思議顔になり、彼の顔を見つめる。
それから護熾は、ゆっくりとその左手を――――彼女の頭に置くようにしてから―――言った。
「未来で、待ってるから」
そう言って、彼女が見守る中、――――身体は砕け、跡形もなく消えた。
「…………あれ? 私、何してたの?」
少年が姿を消した数十秒後、少女は我に返ったかのようにそう呟いた。
それから妙に緊張感を纏い、辺りを警戒するようにキョロキョロとする。自分は確か知識持を打ち倒し、そして何かとんでもなく重要なことがあったような気がしたが、イマイチ思い出せなかった。
しかも何故か自分が開眼状態でいることに驚き、周囲に警戒し、安全が確認できてから今の状態を解こうとしたときだった。
「…………え? コレって……」
ふと、彼女は自分の腰に見たことのないものが差し込まれていることに気がつき、それをマジマジと見る。
その視線の先の―――ベルトに差し込まれるようにしてそこに鎮座している蒼い鞘に収まっているもう一振りの刀を抜き取り、観察するようにそれを見つめる。
それを一通りやったあと、鞘から刀身を抜き出そうとしたが、まるで岩石に突き刺さっているかのように固く、開眼状態の腕力でも抜くことはできなかった。
「? 何これ? でもどっかで…………………あっ」
そこまで言い、彼女は思い出した。
「……これ、お父さんの、だよね?」
そう、これは自分が旅立つ前、自分の母親から貰ったモノであることに気がついた彼女は、それを愛しそうに撫でてからもう一度ベルトに差し込み、開眼状態を解いた。開眼を解くと同時に、ベルトもその蒼い刀も光の粒となって消え、そして彼女が走り出すと光の尾となって、空中に消えた。
彼女は走る。あと二年間の任務をこなすために。
でも今は、不思議と寂しい気持ちとかそういうのはなく、先に進めるような気がしていた。
そして彼女は、また独りで、人一人いない町へと身を投じていった。
突然現れた、自分の両親の思いが込められた遺品と一緒に、彼女は再び闇の中へと消えていった。
その様子を、誰かが遠くから見送っていた。
それは空中に胡座を掻きながら座り、彼女の小さな背中が見えなくなるまで見送っていた。
そして姿が見えなくなると、かったるそうに手をついて立ち上がり、呟くように言った。
「…………何で俺が、この世界に送ったんだ? …………なあ? 真理」
四肢もちゃんとあり、傷も完全になくなっていた護熾はそう告げると、途端、世界は闇に覆われるようになり、辺りが黒一色に染まる。それから数秒後に、穏やかな光が照らし出すよう、護熾の背後から声がした。
「少年、ゴ苦労デアッタ。汝ノ働キ、感謝スル」
「……どうして、こんなことしたんだよ?」
そう言いながら護熾はその場で振り返ってみる。
その振り返った先に、白くだが時折様々な色合いの光をみせる巨大な四角い物体がゆっくり回転しながらその場を浮遊している。
それは、世界の循環を司る理、前の名称では真理。そしてその超物質は、彼の求める答えを掲示する。
「アノ少女ハ、世界ニ重要ナ役割ヲ担ウ存在。シカシコノママデハ彼女ハ人トシテ、戦士トシテ成リ立タナイ」
「……? どういう意味だそれは?」
「アノ少女ハ本来、アソコデ死ヌ運命ヲ持タヌ者。ダガ少年、汝ニ会ウコトデ、ソレハ訪レタ」
「! お、おい何だその言い方は? まるで俺に会ったから、あいつが奴らの所為で死ぬ、みたいな感じのしゃべり方は!?」
「あーあ、理の旦那はまっどろこしい言い方しかできねえのかよォ?」
すると不意に、別の箇所から声がし、護熾は一瞬ビクッとしながらもその声の方向に顔を向ける。
しかしその声に、護熾は聞き覚えがあった。しかもそれは自分が一番よく聞いている声である。
それとは同時に、生物としての本能の根源を揺さぶられるかのような、そんな恐怖心もじわじわと身体を舐め回してくるのが嫌に分かった。
「あのなァ、簡単に言えばあの小娘はあのまんまじゃ使いものになんねえんだよ。だけどてめえが奴と接触することで、切っ掛けを与えたんだよ」
そう黒い床をツカツカと音を立てながらこちらに近づき、そして真理の光に照らされてその姿をようやく現す。その人物に対し、護熾は警戒するように顔つきが険しくなり、睨み付けるような表情で言った。
「! お前…………」
「怖い顔すんじゃねえよ元相棒さんよ。別にてめえの命刈り取りに来たわけじゃねえんだからさァ」
護熾の前に姿を現したのは、黒いローブを纏った護熾の姿をした、―――『死』であった。
どうやらあの大戦を境に、彼から抜け出てまたこうして循環を司る役割を担っているのであろう。
しかし相変わらずの態度とその口調は衰えておらず、敵ではないが決して友好的でないことは目に見えていた。
「……そ、それでどうして俺がユキナに会わなきゃいけなかったんだ? それに、どうして俺に会ったからあいつが死にそうになったんだ?」
「んあァ? お前の耳は洞窟か? まあ旦那の言い方も悪いがもう少し頭使え」
そう呆れたように言い、やれやれと言った様子で話し始める。
「いいか、もう一度聞けよ? あのガキはずっと独りでいた。誰にも頼らず、誰とも交わらず。だが所詮人間、独りで居るのには限度がある。しかも真理がまだてめえの中にいた頃、力を発現するのにあと二年の年月が必要だった。つまり、最もあのガキと関わりの深いてめえを仮の身体にブチ込んで、送り込んだんだよ。こちらの狙いは思い通りで、奴は人との温もりを思い出し、より強力になった。それだけだ」
要は、今の彼女のままではあまりにも危険なので、成長を促すために護熾の意識だけ抜き、仮の身体に入れて過去に送り込んだようである。それは決して彼女のためではなく、その先の世界を救うための調整であることは目に見えていた。
「それと、何であのガキがてめえと出会って俺達が働きそうになったかというと、そういう風に仕込んだんだよ。でなきゃ、あのガキはあの先で、生き残れなかった。切っ掛けのためにまずはてめえを餌に使ったわけだ」
「! てめぇ……!」
「だから怖い顔すんじゃねえよ。これはどうしても必要な処置だ。お前だって考えれば分かんだろうが。あんなガキが独りで、孤独とやらを身に受けつつ耐えきれると思うのか? だからこそ、希望を与えた。それだけの話だってことを理解しやがれ」
話を纏めるとこうだ。
ユキナはこの先に起きる出来事や、第二次大戦では大きな鍵を握る存在である。
しかしそれに至るまでの彼女はまだあまりにも幼かった。そして幼いウチに、あまりの環境変化は確実に彼女の心を鎖してしまった。そう、透明な箱に閉じこもるように、誰とでも会えるが、誰とも心を通わせない状態に。
しかしそこに、彼女をよく知る人物、元理解者の護熾を送り込むことによって、彼の人間性ともしもの可能性をちらつかせたのだ。その結果、彼女は再び温もりを求めようと、孤独から逃げようとした。
しかし、それはあくまで真理の思惑で、彼女がこの先知識持と戦いを交えても勝てるほどの強さを手に入れさせる必要のために、わざと知識持に彼らを見付けさせた。
その結果、彼女はようやくと言っていいが分からないが、父親から譲り受けた力の一部を顕現化させることに成功し、知らない間に強化された。
しかしこれだけではなく、護熾という存在のおかげでようやく彼女は、透明な箱から外へと出てきたのだ。
振り出しに戻っているようで、しかしもう、彼女は立ち止まらず、進んでいく力を得た。
それは決して無駄なのではなく、小さいようで大きな違いがちゃんとそこに存在していた。
「そして気付けよ。あのガキは現世にいるのに名前持や知識持みたいな連中からあまり狙われてねえことによ。少なくとも理はお前の中に入っていてもあのガキの存在を薄めるくらいの役割はしてくれてたんだよ」
「! そういえば……」
確かに、彼女のような眼の使い手が現世で動いているというのに、その気を探知して襲撃を仕掛けてくる名前持はいなかったと思われる。何故ならもし存在が割れていたのなら、彼女はあの町で五年間も守護し続けることなど、ましてや存在すらしないはずだからである。彼女を見付けるには、実際に足を運ぶ怪物や知識持くらいであろう。
「まあ、所詮それも世界の秩序と循環を護るためにすぎない。理は全ての物質と命に平等を与える存在だ。んで、てめえはあのガキと出会って終了だ。ほれ、ただの一生命がこの場所にいること自体虫酸が走るんだよ」
「………………俺は、何もできてねえよ」
「あァ?」
不意に、護熾がそう声をもらしたので死は怪訝そうな表情をする。
それからその訳の分からない発言をした彼を見ると、右手に握った拳が少しだけ震えている。
「何にも、できてねえよ……! 結局、俺はあいつに辛い思いをさせちまったことに変わりないだろうが……」
「…………」
実際、彼女は既に彼と出会った記憶は未来の関係を配慮し理の手で消されてしまっていた。
しかしそれを知らない彼はそう言い、教える気は一切無い死は黙ってそれを聞く。
「…………結局、俺はあいつに辛い思いばっか、させてるだけじゃねえか……」
その言葉の意味は、彼が愛する少女に向けての無力感と、自分に対する絶望感であった。
彼女には、笑って生きて欲しい。でも自分はこの世界でも、結局彼女を泣かせてしまっているのだ。もう嬉しいこと以外で泣かせないと心に決めていたのに、それすら許されないのであろうか。
しかしここまで聞いていた死は、戯れ言だと言わんばかりの溜息を吐き、
「くっ、だらねー」
「なっ、てめえ―――」
「あのな。てめえのその言い分は自分自身がその立場になったことのねえ馬鹿丸出しの言い訳だ」
「へ?」
死からの言葉が意外だったので、護熾は眼を丸くして口を止める。
「あのガキはな――――あー、何で俺がこんな知能を上げるために身体能力を捨てた猿共に言い聞かせなきゃいけねえんだよ。なあ、理の旦那さんよォ。こいつに見せてくれねえか?」
「…………ヨカロウ、ソレガコノ少年ノ為ニナルナラバ」
死がそう言い、真理も何かを承諾したらしい声でそう言う。
「? おい、何の話――――――――」
そんな彼ら(?)の不可解な言動にもちろん護熾は突っかかろうとしたが、不意に前に出した一歩が地面を践まず、その場を空かした。そしてその踏み出した足に引きずり込まれるよう、身体も傾き、そして突然、身体が投げ出された。
つまり、唐突にできた穴に落ちたと言うことである。
「なっ―――!? ちょっ、これはどういう―――!?」
「なーに、てめえには言葉じゃなくて実際体験してもらうだけだ」
穴に落ちる最中、おそらくこちらを覗き込んで居るであろう死の言葉が頭上から振ってくる。
護熾はその身に風を受けながらも何とか仰向けになり、落ちてきた穴の方に顔を向ける。
「お、おい!? さっきからワケ分かんないこといいやがって!」
『あァ? 別にこれはてめえが望んだことだ。精々それ見てさっさと元の世界に帰りやがりな。てめえのお迎えは、まだ先なんだからよォ』
落ちてきた穴との距離もだんだん離れていき、死の声も遠くなっていき、最後にその言葉を聞き終えると辺りは完全に黒一色に塗りつぶされ、光など一切どこにもなかった。
それから護熾は、身体がまだ落下しているという感覚がいつの間にか無くなっていることに気がつき、自分がどこかに立っているという感覚に切り替わっていることに気がつき、辺りを見渡すようにした。
「…………どう、なってやがんだ?」
その答えを示してくれるモノなど、どこにも、誰からもなかった。
しかもここに降り立ってから、妙に空間が絡みついてくるような錯覚を覚え、とてもじゃないが心地悪い気分にさせられる。それはかつて、自分が死んでから歩いてきた真の夜の道と同じようであった。
しかしそこに、変化をもたらすかのようにこちらに近寄ってくる足音が聞こえてきた。
護熾はその音にすぐさま気づき、すぐ後ろに身体を向け、警戒するように身構える。
すると音が聞こえた方向から、見慣れた人物がこちらに駆け寄っているのが見えた。
「なっ―――――! 何で……?」
もちろん、それに対して護熾は唖然とした様子で居た。
だって、こちらに駆け寄ってくるのは、艶やかで綺麗な髪を持ち、小さい身体で磨いた黒曜石のような大きな瞳を持ち、可愛らしい笑顔でこちらに迫ってくる――――ユキナの姿がそこにあった。
「護熾―――――♪」
「おわっとっ!」
すぐ側までやってきたユキナはピョンとその場で飛びつくようにし、護熾のお腹に抱きつくようにする。一方、護熾の方はお腹に抱きついてきた反動で少しだけバランスを崩しながらも何とか立て直し、すぐに顔を見下ろして少女の姿を確認する。
「ゆ、ユキナ?」
「ん? そうだよ護熾。終わったんだよ。全部終わったんだよ!」
「え? 何か話が噛み合わないんだが……」
彼女は紛れもなく、ユキナであった。しかしユキナではあったが、先程から何か彼女は意味が分からないことを言っている。それに対して護熾は完全に混乱しており、何が終わったのかさえ状況が掴めていなかった。それに対してユキナは身体を離し、ぷくっと頬を膨らませてみせる。
「む~どうしたの護熾? 戦いは終わったし、ガシュナもラルモも先行っちゃったよ!」
「え? あいつらここに来てんのか?」
「何さっきから寝ぼけたこと言ってんのよ。もしかしてあれ? 戦いで思いっきり蹴られたから記憶でも吹っ飛んだの? とにかく行くよ」
「ちょっ、って、おっととっ」
まるで状況が飲み込めていない彼に対し、ユキナはやや怒りながらも彼の手を引っぱるようにする。護熾は彼女に手を引かれるがままに足を動かし始め、先程から彼女が何を言っているかについて言及してみせる。
「ちょ、っとユキナさん!? 俺何がなんだか……」
「とにかく急いで行くよ! このあとみんなでお泊まりがあるんだから」
(え? お泊まり…………?)
意気揚々と自分の手を引く彼女のこの言葉に対し、ようやく護熾は何かしらの違和感を感じ取ることができた。お泊まり、とは今月に入ってからやったティアラを交えたお泊まりではないことは様子を見て明らかに分かっていた。それに、そのお泊まりの前に確かにそう言った出来事があったのを彼は思い出していた。
ここで言う彼女のお泊まりとは、宿泊学習のこと。
そして、その宿泊学習はある一件によって取り消しが行なわれてしまい、生徒達をガッカリさせたものであった。
そう、それが潰れた理由は、その騒動の原因の中心にいた彼はすぐに分かった。
さらに、ガシュナとラルモもいるということから間違いはないであろう。
そう、だからこそ――――――――力を失った彼は、反応ができなかった。
意気揚々と歩く彼女の胸を―――――黒い閃光が穿つ瞬間を。
「あ――――――――――――――――」
「え………………………………………?」
両者はそれぞれ一言口から呟き、完全に凍り付いた。
やがて光線が消えると彼女の胸と背中から噴水のように血が吹き出て、辺りを染める。
そして貫かれた衝撃で彼女は眼を見開き、それからすぐに口の中で湧き上がった液体を、吐き出し、赤い花を作って、姿勢を崩す。
その瞬間に、貫いた閃光が壁に直撃し、轟音を空間内に響かせる。
それから彼女はゆっくりと崩れ落ち、地面に膝を付け、それから背中から倒れる。
そして何度か地面の上を跳ねたあと、もう一度鮮血を口から吐き出した。
「ユキナァァァァァァァァァァァァアアアアアアアア!!」
ふと、信じられない光景に対して彼は我に返り、無意識のうちに彼女に駆け寄っていた。
そして急いで頭を支えるように持つと、腕の中でぐったりとしているユキナに呼びかけるようにする。
「おい! おい! おい!! しっかりしろ!!」
「あ、…………ぅ……」
思いっきり貫かれたせいで、その小さな身体に対し、残酷なまでにも胸の中心を思いっきり抉り去るような傷が彼女にできており、肺を思いっきり損傷したせいで呼吸が上手くできていなかった。それに傷からは出血が遠慮無く止まらず、紅い水たまりをその場で広げていく。
「あ、……ご、おき……」
「ゆ、ユキナ! ユキナ!」
完全に冷静さを無くした護熾は、ここが本来とは違う世界なのを忘れ、必死に彼女に呼びかけるようにする。しかし、確実に彼女の息づかいは弱くなっていき、徐々に体温が失われていくのが手に取るように分かった。
「ぅ……わ、たし……死ぬの…………?」
「違う! 大丈夫だ! こんな怪我くらい、すぐに!」
咄嗟に出た言葉がそれであったが、残念ながら彼には彼女を救う術など万に一つもなかった。
どうしてこんなことになったのか、彼はそのことに対し、ただただ無力感にうちひがれる。
するとふと、彼女は何かを求めるように手を伸ばしてきていた。護熾はそれをすぐに受け取り、軽く握るようにする。
「ご、おき……?」
「…………! ここだ、ここにいるぞ!」
「わたし…………死にたく…………死にたく、ないよう……」
「――――――!!」
彼女は自分で分かってしまったのであろう。この傷では、助からないことを。
その弱々しく放った言葉は、確実に護熾の心のうちを抉るようにしてきた。
心が、胸が、あまりにも痛いと、彼の中で悲鳴を上げる。
「で、でも――――ごおきが無事で…………よかった」
「――!! 何、馬鹿言ってんだよ!! なあ、頼む、死ぬなよ、死なないでくれよ……」
それでも彼女は、何故か彼が無事だったことに満足しているようであった。
護熾の方はそれが許せず、両手で彼女の手を握るようにする。しかし自分の体温で温めても、彼女の死に向かう冷たさがそれを上回るようにして吸収してしまう。
「ごおきの手…………温かい……」
「なぁ…………お願いだ…………死ぬなよ……」
彼女の失われつつある命を見送りながら、護熾は肩を振るわせながら顔を伏せていた。
そして、彼女の頬に、ほんのり温かい一滴の雫が落ちる。
それが何なのか、彼女はそこまで思考を巡らせることはもうできなかった。
ただ、この少年がそばにいてくれたことを、最期を看取ってくれたこを心地よく思いながら、ソッと眼を閉じ始める。
「お、おい……ゆ、ユキナ……?」
「ごめん…………眠く、なってきちゃった…………」
傷があまりにも深いせいで痛覚はぶっ飛び、血があまりにも多く流れたせいであろう。彼女はそう弱々しく呟き、そして完全に両の瞼は閉じられる。
「……ご、おき……今まで、ありがとね」
「言うなよ……そんなこと、言ってんじゃねえよ……」
顔を伏せている彼からは、何故か頬に伝う雫が流れていた。
「…………ご、おき……わたし……あなたに…………言わなきゃ、いけないことが……」
「なん…………だよ?」
「うん………………ご、おき…………私…………ごおきのこと――――ううん、やっぱ、何でも、ないや…………――――――――」
そう彼女は、
微笑みながらそう言い、
最期に少しだけ深く息を吸い込むと―――――――――動かなくなった。
「………………なぁおい…………それ言って…………最期にそれを言うのは……卑怯じゃねえのか……?」
そう、腕に抱いた彼女の抜け殻を抱き締めながら、震える声で護熾は言う。
しかし彼女は返事をせず、動くことは今後一切なかった。さっきまで、耳元で弱々しくしてた、呼吸音も、もうないことを。体温も、無くなっていたことを。
「返事が…………まだなのに…………さっさと逝きやがって…………ちくしょ……ちくしょぅ……」
彼女が何を伝えようとしていたのかは、もう察しは付いていた。
歯を食いしばりながら見下ろしてみると、まるで眠っているかのように眼を閉じて、微笑んでいる表情の少女の顔があった。
そして、確かめるように、その首に手を回して引き寄せ、ひしっと強く胸に抱きしめる。
温度も、呼吸も、その瞳を開くことも、なかった。
もう、彼女は、一切動くことはなかった。
「何だよ、…………何だよこれ……どうしてお前が死ななきゃいけねえんだよ……やめろよ、こんな冗談は…………返事しろよ…………なあ、頼むよ………………馬鹿、野郎…………!」」
こんな終わりを見るためにここにいるのではない。
しかし冷たくなった彼女を揺さ振っても、こちらが顔を合わせると喋ってくれたくれた少女はもう、いない。
「あぁ…………あぁあぁ…………ちくしょ…………ちくしょう!!」
大切な人が、死んだ。
その事実を理解したとき、彼は叫んだ。
「――――――――――――――――――!!」
それは、まったく声になってなどいなかった。しかしとにかく彼は、叫んでいた。
今ここで起こっていた出来事を頭の中から消し去るように、彼は叫び続ける。
「―――――――――――――――――――――――――――――――!!」
どうして彼女が死ぬことになったのか、まったく分からない。
しかし彼にとって、最大で、最悪の恐怖を叩き付けられ、頭がどうにかなりそうであった。
大切な彼女を失った彼は、天を仰ぎ、ずっとずっと叫んでいた。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――!!」
喉が二度と使い物になるんじゃないかという勢いで彼が叫び続ける。
すると彼が気づかないうちにだんだんと、この空間に変化が起きていた。
まずは彼の腕の中で眠る少女の亡骸が砕ける。
それから、それを中心に今度は空間自体がボロボロになっていき、黒い色から逆に白い世界がまるでカードを裏返したかのように出てくる。
そして叫び続ける彼の音無き声を受け取りながら全てを―――――白紙に変えていった。
午前5時26分。
窓は部屋の温度と外の気温差によって露ができており、その外からは早朝に活動を始めた小鳥たちの鳴き声が響き渡る。
陽はまったく昇っておらず、深夜と変わらない暗さを誇る中、ある家の二階の一室では突然飛び起きるような音が聞こえた。
「……………………!」
ベットから上体を勢いよく起こし、冬の季節にもかかわらず全身に汗を掻きながら起きた護熾は、眼を見開いて息を切らしたかのように呼吸を乱していた。心臓がもうこれ以上ないほどドクドクと大きな音を立てて鳴っており、彼は自分の胸に手を当てて呼吸を整えるようにする。
「…………帰って……来たのか……?」
あの悪夢のような体験から、どうやら自分は元の世界に戻って来れたらしい。
とりあえずその点では安心し、確信する。
では次に、と自分の隣で寝ているはずの少女の方に顔を向ける。
いつもなら隣に小さな膨らみができており、寒いのが苦手なためか呼吸は大丈夫なのかと言いたくなるくらい顔まで毛布に埋めて寝ている彼女が居るはずである。
しかし、――――――――そんな膨らみもなく、何もなかった。
「ゆ、ユキナ…………?」
それを見て、護熾は背筋が嫌にヒンヤリとしたのを感じた。
それから急いで布団を捲ってみても、身体を丸めて小さくして寝ている彼女の姿など、なかった。
「おい……冗談、だろ…………?」
頭に浮かび上がったのは、彼女の冷たくなった姿。
でもあれは夢の筈で、でも何故彼女がいないのか、彼女の死に様を見て冷静さを欠いた彼の思考は徐々に混乱を生み出していた。
その時だった―――――――。
キイイィ。
突然ドアの開く音が聞こえたので、護熾はバッとそちらに顔を向けると、眼を大きく見開いて驚いた。
「ゆ、ユキナ…………?」
「あれ? 護熾、起きてたの?」
そこには、胸を撃ち抜かれて死んだ姿ではなく、ちゃんと生きている彼女の姿がそこにあった。
一方、彼女はこんな早朝に彼が起きていたことに驚きながらも、ドアを閉めて寒い部屋の中へと進み、彼が居るベットの前まで来る。
「ユキナ…………だよ、な……?」
「? どうしたの護熾? 私は別にトイレに行ってただけだよ?」
不思議顔で首を傾げる彼女は、紛れもなく、あれから二年経って成長した彼女であった。
あれから二年、ずっと一人で、でもここまで生き延びて、ようやく自分のところで落ち着いた、愛すべき少女。
その姿を確認した護熾は、すぐ側まで来た少女にソッと、両手を伸ばすと――――ゆっくりと抱き締めた。
「ちょっ、ちょっ!? ご、護熾!?」
「馬鹿…………野郎…………! 心配、しちまったじゃ、ねえか…………!」
「? ご、護熾…………?」
彼女は生きていた。いつもと変わらず、いつもの姿で。
それがどんなに嬉しいことかは、言葉にできない。
一方、思いっきり抱き締められたユキナは、朝からこんな出来事が起きるなどと予想していなかったのか、驚きながらも頬を紅く染め、先程の用で冷えていた身体が温まるのを感じていた。
だがふと、それとは別に、頭に何か温かいモノが落ちてきたのを感じて顔を上げてみた。
それは、おそらく彼女が初めて見た―――――、
「もしかして…………泣いてるの?」
「………………」
彼は、顔を俯くようにしていたが、確かに両頬からは涙と思わしく雫が伝っていた。
それ紛れもなく、―――――涙。
どうして彼がこんなに泣いているのか分からず、初めて見たということもあってか、少し混乱気味の彼女ではあったが、護熾はそれを気にせずにもっと彼女の存在を感じるために、抱き締める力を強くする。
「よかった…………、生きてた…………!」
「ちょ、ちょーいと。ほんとにどうしたの?」
そう事情の説明を求める彼女に対し、護熾は視界がぼやけるのを感じながらも、少しだけ間をおいてから、言った。
「………………お前が、死ぬ夢を見たんだよ……」
「!」
護熾の言った言葉に対し、ユキナは少し驚いたように眼を大きくする。
「だから…………すごい怖かった……お前が、いなくなるのが……」
「…………」
護熾の声が震えているのがよく分かり、恐怖心を和らげようと抱き締める強さを一切緩めることはない。よく見れば身体も震えているし、第一、―――――彼は涙を流すほどまで、本当に怖かったことが容易に読み取ることができた。
そう感じ取ったユキナは彼の腕の中に無言でそれをずっと思っていたが、やがて顔を上げ、自分の身体を持ち上げるようにすると、
ペロッ
「! な、何だ……?」
急に頬が何か生温かいモノで触れられたので護熾は顔を上げて彼女を見下ろしてみる。
すると彼女は少しだけ楽しそうに微笑んでおり、
「ん。護熾の涙、しょっぱい」
「……ッ、おまっ、舐めやがったな?」
「うん、えへへっ」
そう彼女は笑って見せてから、改めて顔を彼の胸に埋め、安心させるかのように背中にも手を回して逆に抱き締めてくるようにする。
「うーん。まさか生きているウチに護熾の泣き顔が見れるなんて思わなかった」
「なっ、いや、べ、別に俺は泣いてなんか、いないぞ?」
「うそ。でも、これで分かったんじゃないの?」
「…………何を、だ?」
「大好きな人がいなくなって、とても寂しいって、怖いって、思うことがさ」
そう言って彼女は彼を見上げるようにし、顎を胸に押しつけるようにする。
ユキナは今の今まで見てきた彼が、こうして弱さを見せてくれて嬉しいと思っている。
「………………ああ、とても…………そう思った」
「でも護熾のはあくまで夢。私なんか二回も、護熾が死ぬところを見てきたんだよ……? ……うぅ、馬鹿。思い出しちゃったじゃないの」
そう、彼女は夢ではなく、本当に愛する人が死ぬのを二回も見届けたのだ。
それを思い出したのか、自然と彼女の目頭は熱くなり、まるで氷が溶けていくように、じんわりと涙を浮かべ始め、それを誤魔化そうともう一度胸に顔を埋めてくる。
その様子をすっかり泣き止んだ護熾は、少しだけ落ち着かせるように彼女の背中を軽く叩いてみせる。
「あー、悪い。思い出させてしまって」
「うー。じゃあ護熾、一つだけ約束してよ」
「何だ?」
胸に顔を埋めていた彼女はそう言いながら、恐る恐る顔を上げてくる。
涙目で、上目遣いでこちらを見てくる彼女に、その時の護熾は妙にドキッとした。
「私との、約束を守れる自信はある?」
「あ、当たり前じゃねえか。俺が約束破ったことがあるか?」
「うん。破ってから守ってくれた」
「うっ」
「ふふっ。でも自信はありそうだから、言うね」
そう前置きを言いながら彼女は彼の顔を見つめ、護熾の方も同じように見つめ返す。
それからユキナは少しだけ息を吸い、そして吐いてから、彼に向かって静かに言った。
「お願いだから、私より一秒でもいいから長生きして…………」
その言葉の声色には、彼女の思いが詰まっており、彼女の最大の望みでもあった。
「私、もう護熾無しじゃ、生きていけそうにないから…………ね?」
「………………ああ」
そう約束を聞き入れた護熾は、ソッと承諾したことを返事と共に抱き締める。
彼女の方も嬉しそうに眼を細め、身体を寄せてくれる。
もうお互いに、涙は消えていた。あるのはただ、互いを愛し合っているという実感だけ。それはとても温かく、何事にも代え難いただ一つの温もり。
護熾は抱き締めたあと、彼女を見下ろすと、彼女の方も丁度顔を上げており、急に視界が暗くなる。
それから――――唇には、ほんのりと温かい感触が残る。
「えへへ~♪ モーニングキスだよ~」
そう言って彼女は、無邪気で、太陽みたいな満面な微笑みを浮かべる。
そう、彼女は顔を近づけて護熾に唇同士の口づけをしたのだ。
それはとても温かくて、胸にどうしようもない気持ちを込み上げさせてくる。
「ん? どうしたの護熾? ―――って、おわぁ!?」
接吻をお見舞いした彼女は、沈黙していた彼に不思議顔でいたが、やがて突然、押し倒されるようにベットの上で仰向けにさせられる。
「え、えーっと? どうしたの?」
「まったく…………本当に可愛いな、お前は」
「え?」
ユキナを押し倒した護熾は、彼女の身体に覆い被さるようにし、彼女の頭の横に両手を置くようにする。一方、彼氏から可愛いと言われたユキナは、その言葉に対して顔が熱くなるのを感じると、自然と胸の鼓動が早くなっていくのを感じ、胸に両手を置くようにする。
「その……ユキナ、何か、お前がキスしたせいで…………何か、限界が来たんだが……」
「えっとぉ、それってそのー…………したいの?」
「一応これでも男だし…………お前はどうなんだ?」
今の護熾の心境を語れば、さよなら理性、ようこそ本能と言ったところであろう。
それを察したユキナは、自然と身体が熱くなっていくのを感じ、彼が自分を求めてきたことに対して瞳をトロンとさせる。それは嬉しいと思うことだし、何よりもう返事は決まっていた。
「うん、護熾…………優しく、してね。……んっ」
そして承諾を得た護熾はゆっくりと、彼女の顔に自分の顔を重ねた。
重ねた唇からは、今度は互いに口を開けると、愛し合うように舌を絡める。
それが一段落付き、護熾は上着を脱ぎ、ユキナは第一ボタンに手を掛ける。
それから本来の起きる時間である七時まで、二人は余すことなく互いを愛した。
「…………何か、ユキナ姉ちゃんと護兄、つやつやしてない?」
日曜の朝。
海洞家のメンツは全て起き、昨日残したすき焼きを牛丼にして朝食を摂っていた。
牛丼はあったかご飯に割り下が染みこんでおり、具もご飯に合って美味しく、自分の好みでそれぞれ一味唐辛子や生卵などを混ぜて美味しく頂いていた。
そんな中、もくもく食べる護熾と笑顔で美味しそうに食べるユキナが妙に血行が良さそうだったので、それに違和感を感じた絵里はそう言った。
「んっふふ~ん。だって今朝は頑張ったからね!」
「! ぐほっ、おまっ!」
彼女のある意味ドストレートな発言に思わず咳き込む護熾。
「それに、何だか今日の護熾はとても優しくて…………激しかった」
「ごほんっ! あっと、ええっと絵里、それは気のせいだ気のせい」
「…………そう?」
「ああそうだ。何しろ俺たち早起きして朝食作ったからな」
事実、二人は"あの後"、朝食作りのために着替えて台所で動いていたので嘘ではない。
そう、長男の言動が少し怪しいと思いながらも絵里はそう納得すると黙って牛丼を口に運び始める。
そんなこんなでユキナは朝から珍しく満足げに、護熾の方は彼女の言動に気に掛けながらも、その日の朝食は終わった。
そして午前10時21分。彼女の異世界への帰宅である。
この時の見送りはいつも決まって護熾ただ一人である。その理由としては一樹と絵里は既にお別れを先にすませておき、絵里の気遣いで一樹と一緒にとっとと部屋に籠もってくれているからである。
そんなよくできた妹のおかげで、玄関にて、既に靴を履いたユキナは腕を組んで立っている護熾と二人っきりであった。
「じゃ、護熾、また来週ね」
「おう。気をつけて帰れよ」
「大丈夫だよ。あーあ、早く一週間経たないかなー…………いや、違うね」
「ん? 何が違うんだ?」
「んっとね。早く、護熾と結婚して、一緒になりたいなって、思ってさ」
そう、未来に向けての発言にユキナはえへへと笑いながら後頭を掻き、護熾の方も頬をポリポリと指で掻いて、互いに誤魔化す仕草をする。
「ええ、っと。とりあえずは、また会おうね」
「ああ。必ず会おう」
「じゃあ、来週デートしてね。場所は映画館でもショッピングでもカラオケでも何でもいいよ!」
「さりげに金使う場所ばっかだが、まあ考えておいてやるよ」
「うん、じゃあね」
この二人は、別れる際は絶対にさよならなんて言わない。
それは互いの思いを踏みにじる言葉だし、第一とても悲しい思い出へと繋がっているからだ。
だから二人は必ず、また会うと約束を交わす。
そんな小さな彼女の背中を見送りながら、護熾は手を軽く振って見送る。
彼女は、どうやら覚えていないんだな、と思った。
何しろあれから二年経つのだから、どんなに印象的でももう薄れているであろう。
結局、二年前に自分がしたことと言えば、彼女にまた寂しい気持ちを植え付けるだけにすぎなかったのだ。
そう、寂しいと思う彼女の側に、いてやれなかったのだ。
「あ、そういえば護熾にまだ言いたいことあったっけ」
不意に、ドアを開けて出ようとしたユキナはその手を止め、護熾に向かって振り返る。
「ん? どうしたユキナ?」
「んーっと…………ん? 何でこんなことが言いたいんだろう、私」
「何だ? 忘れたのか?」
「違う違う。言えるけど、意味不明で何だか…………でも護熾に言いたいの」
「とりあえず、言ってみろよ?」
「うん、―――――――」
そう彼女は少し息を吸ってから、一言だけ言った。
しかしその言葉は、護熾の気がかりや懸念を全て消し去ってしまうほどの力があった。
そして、そのことを伝えた彼女は首を傾げた後に、笑顔で手を振って護熾と別れ、それから自宅へ向けて外へ出て行ってしまった。
その小さな背中を見送った護熾は、彼女の気配が完全に感じ取れなくなるまでその場でずっと立っており、やがて一回だけ溜息を吐いて眼を閉じた。
自分は、今回、改めて大切な人を失う悲しさや、寂しさを知った。
それがどれだけ自分に影響を及ぼすか分からないが、少なくとも自分がどれだけ自己満足にユキナを置いていったのかを思い知らされたのかはよく分かった。
だからほんの少しだけかも知れないけど、彼女の気持ちが分かったと思う。
でも所詮、そんなちんけな理解では先に進むことはできない。
結局彼女の空白の五年間を、消してやることも、分かってやることもできないのだ。
しかしそれならばこの先、彼女が失った五年間の空白を、俺が埋めてやればいいと、そう強く誓うこともできた。
だからこそ、もう寂しいと思う表情や悲しいと思う表情じゃなくて、笑っている表情がたくさん生まれる未来を、自分が作っていかなくてはいけない。
(なあ、ユキナ。お前が信じてくれる限り、俺は『人間』でいられることを、感謝してるよ)
彼女が自分を信じる限り、自分も彼女を信じ続ける。
彼女が自分のことを人間だと言ってくれるからこそ、自分は彼女の想いに応えることができる。
(…………だから、俺はお前と約束した事は絶対に破らない。死んでも破らないから)
そう思い、ようやく護熾はいつものように家事をやりにその場から動き出す。
いつものことで、いつもやっていることなのだが、今日は妙に気分が良かった。
それからふと、途中で歩んでいた足を止め、護熾は先程彼女が自分に伝えてきたことをもう一度思い出す。あの時の彼女とは、結局自分はそばにいてやることができなかった。
しかし彼女は、それを信じて、今日まで生きてきたのだ。
その言葉は、自分にしか伝わらない、不安を掻き消すほどのものであった。
「さーて、今日も一日動くか~」
今日は、昨日が嵐だったおかげか雲が少ない快晴そのもの。洗濯がよく乾く。
護熾はそう背伸びをし、首をコキコキと鳴らしてから今日一日を臨む。
昼食はあれにして、ああ夕飯は買い物いかなきゃ、で何買おうかね。っとそんなことを考えながらふと、もう一度だけあの言葉を思い出し、少しだけ微笑んで見せた。
そう、彼女がここを出て行くときに、最後に残した言葉は、こうであった――――――
『―――未来で待っててくれて、ありがとね―――』
所詮、自分は人間ではないかもしれない。
でも、心臓も動いていて、そして尚かつ、愛する少女が自分を必要としてくれるのならば、その想いに応えていかなければならない。
何故なら、もう未来で待つのではなく、今度は一緒に歩んでいくのだから。
そして、あの時できなかった側に居てやれることが、もうできるのだから。
ようやく終わった、が最初の感想でした。いやだって二週間前に本当は投稿できるハズだったのに風邪やら年末やらで放置、そしていざ改めると字数が五万文字越えという恐ろしいことになり、さらに深夜の所為でこの後編がすごいカオスになったり(若干、できあがってから確認してもその片鱗が伺えました)とにかくこの小説を書いていて一番よく暴れてくれたお話でした。
さてさて、この話もとうとう終わりましたが、今後の予定はと言うと未定でございます。何故なら今月は忙しいのであまり手が出せないからでございます。まあ、また性も懲りなくやっていくとは思いますので、そこんところはどうかお付き合いくださいませ。
そして今回の秘密の解明。
まず一つめ、タイトルについて。
今回のタイトル、そう『千の夜を越えて』や『暗雲流れし白夜』や『白昼の二十五時』数々の意味不明(?)なタイトルでしたが実はこれには理由がございます。
それはタイトルに入っている数字を全て足すと(白夜=百夜、そして最後の千の夜は一つとしてカウント)、1825、1825日、つまりユキナが担当した任務年数の五年という意味になります。
それからユキナが護熾の肩に噛み付くのは最終話の後編から三話ごとにやっているというのはお気づきでしょうか?
てなわけで割とそう言った遊び心のようなものを含んでいる時もありますので、最新話が投稿されたときはそういったのを探してもらえれば、嬉しいかな~? 何て思ったりもしています。
長くなりましたが、とりあえずこれにて一旦、ユキナDiary-は終了でございます。本当に読了ありがとうございました。
それでは、ではでは~