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 走りだした足はほんの数歩で止まっていた。

 恐怖しきっていた身体と精神は、俺が思うより重症だったのだ。


 ――環境に、適応しなければならない。


 立ち止まってしまった俺を邪悪な壁画が見下ろしている。不気味な気配が周囲に満ち満ちている。邪で、妖しく、恐ろしい気配が間近に迫っている。

 肉体は既に破綻していた。足は震え、膝は砕け、腰は曲がり、腕は萎え、心臓は破裂しそうなほど鼓動を刻み、口は乾き、目は熱く、涙が溢れ、脳は恐怖に狂っている。

 精神は壊れかけていた。恐ろしい。迫ってくる何者かが恐ろしい。ここにいることが恐ろしい。デーモンに負けることが恐ろしい。恐ろしい恐ろしい恐ろしい。立ち止まりたい。うずくまりたい。頭を抱えてただただ逃げ出したい。


 ――恐ろしいことがこんなにも恐ろしいだなんて知らなかった。


 それでも俺はここに立っている。こうして剣を握り、盾を構え、口からは自らを奮い立たせるためだけの雄叫びを上げ、そうして立っている。

(戦わなけりゃ……どうしようもねぇよ)

 ああああああああ、ああああああああ、俺が叫んでいる。そうだ。それでいい。叫びは力だ。俺がここにいることの証明だ。戦士の雄叫びは俺の魂に活力を与える。ほんの少しでも。ほんの少しだけでも力が得られるならそれでいい。

 たったそれだけでも立っていられる。それで、戦える。前に進める。進むんだよ俺は。

 身体の奥底から振り絞った力で炎剣を握る。騎士盾を構え、叫びながらも小さく呼吸し、ぶっ壊れている肉体の調子を整えていく。壊れていようが身体が無事なら戦闘へは突入できる。恐怖に侵されようと五体は無事なのだ。どうにかして戦えればその先へと進むこともできる。

 足はじりじりとだが前へと進んでいた。

 そうだ。それでいい。進め。先へ進め。歩け。頼むから敵へと歩け俺の身体。そしてすまないが、震えてないで真面目に戦ってくれ。


 ――適応しなければならない。敵を倒して魂を鍛え、先へ……。先へと進まなければ……。


(リリーが、リリーが待ってるんだよ……俺が、俺がなんとかしなけりゃ……あいつは……)

 前は薄暗いが見えている。ぺたぺたという音は響いている。近づいてくるその音は不吉で、不鮮明だ。敵は必ずこの暗闇の先にいるというのに、正確な距離が全く判別できない。

 頭がおかしくなりそうだった。すぐ傍にいる筈なのに、未だ姿は見えない。

 それでも俺はまだ叫んでいた。俺の声が聞こえているはずなのにぺたぺたという音の間隔は変わらない。ただただ等間隔に、ぺたぺたと、ぺたぺたと、俺へと近づいてくる足音。

 ああああああああああ、あああああああああ、俺は叫んでいる。喉よ枯れよとばかりに叫び続けている。まるでそれしかできない赤子のように。

 そうして――。


         『おぎゃあ』


 その声で、小便を漏らしかけていた。

 ぺたぺたという音が、耳元から――。(ああ、畜生……)何かが身体に触れている。何かが肩に乗っている。何かが耳元近くに顔を近づけている。何かが『おぎゃあ』と鳴いている。

 不吉で、邪悪で、身体の奥底から怖気を湧き上がらせる悪夢そのものの声。

(赤ん坊じゃない。赤ん坊じゃない。赤ん坊じゃない!! なんだこれはなんだこれはなんだこれはなんだこれは!?)

 生臭い臭い。恐ろしいほどの闇の気配。邪悪だ。こいつはけして赤ん坊じゃない。邪悪な何かだ。そんなものが俺の肩に乗っている!?

 俺は叫び続けている。叫び続けているだけだった。身体が動かない。涙が溢れる。畜生。畜生。知らねぇよこんなデーモン知らねぇ。聞いたことも見たことも糞糞糞糞がッ。

 助けてくれ。許してくれ。なんだこれは。どうして俺はここにいる。畜生。畜生。ああ、畜生。

(地上に……帰りたい……)

 もはや許しを乞いたかった。ここにいることを許して欲しかった。魂が折れかけていた。心が折れていた。許しを乞いたがっていた。それでもそれを口にすれば終わりだと俺は知っていた。

 俺は叫んでいた。握っていた剣は床に落ちていた。落ちた時に何かを切り裂いた気配はあった。しかし下を見ることはできなかった。身体が硬直して動くことができなかった。

 生臭い何かが小さな手で俺の頬を、兜越しに触っている。ぺたぺたと、ぺたぺたと。触っている。

 それだけでもう、立っていることが困難になっていた。心は絶叫し、魂が許しを乞うている。しかし口にすることはできなかった。

 俺は、例え、どんな目に遭おうと、ゼウレを裏切ることはできない。

 善き神々を裏切って魂を(おとし)めたくない。

 人のまま、死にたい……。

 人のまま。ああ、思い出すのは、あの黄金の女だ。弱くとも鮮烈な意思を持つ女。リリー。リリー・ホワイトテラー・テキサス。

 あの弱っちぃ、だけれど俺よりも知恵の立つ立派な女騎士。

 そうだ。俺は、あいつを人間のまま、死なせたい。


 ――ちゃんと、死なせて、やりてぇ。


(ああ、そうだ。俺は……リリーを……人のまま死なせてやりたい……)

 恋だとか、愛だとか、知らねぇ。俺は、あいつとどうこうなんて考えてない。これが愛なんて感情なのかはわからない。それでも、俺はただ、あの気高い女に、気高いままいて欲しかった。

 せめて彼女に人のまま。人の姿で。長く生きられなくてもいい。その最後が報われるものであるならそれでいい。

 だから頼む。お願いします。祈りを捧げる。ゼウレ。勇気を。俺にデーモンに立ち向かう為の勇気を。こんな俺でも、こんな場所で戦えるだけの勇気を……ッ!!

 祈りは偉大だ。祈りとは呼吸と同じ最も古い呪術の一つ。(いにしえ)より変わらぬ神々と人の絆の形。人が捧げ、神がそれに応える。変わらぬ形式。

 それでも祈りは呼吸ほど容易くはない。所詮は人に誇れるほどではない俺の信仰心だ。俺のちっぽけな信仰は神の奇跡を賜われるほどではない。都合の良い時だけ祈るそんな俺が、ただ信じるだけでは神は応えない。身を焦がすほどの熱情を込めなければ祈りなど届かない。

 それでも、ほんの少しでいい。神よ。ゼウレよ。俺に、ほんの少しでいい。


 ――勇気(・・)を。


 果たして、それはゼウレが与えてくれたものだったのか。それとも今にも死にそうな俺が最後の最後で絞り出した微かな力だったのか。

(ここで疑うから、俺には信仰が芽生えねぇんだよな……でも、ありがとう。ありがとうございます。ゼウレ)

 ほんの少しだけ、指に力が入った。

 そして、それで俺には十分だった。

 叫びは止まっていた。代わりに戦意を込めて俺は叫んでいた。

「『赤壁』ッッッ!!」

『あぎゃあああああああああああああ』

(うる、せぇよ!! くっそ、あちぃ!!)

 視界が炎で真っ赤に染まる。同時に耳元でがなり立てられる怪鳥のような悲鳴。

 赤壁が包んだのは俺の身体だ。赤壁が焼くのもまた俺の身体だ。そして同時に赤壁は俺に取り付いたデーモンも焼いていた。

 取り落とした剣を拾う力はなかった。指先だけの勇気では拳を振るうこともできなかった。だから俺にできることをやった。それだけだ。

「ぐ、ぐぉお、おおおおおおおお!!」

『あぎゃあああああああああああああ』

 例えかつての戦士たちの魂で強化された鎧を着ていても渾身の炎は俺の身体を焼く。同時にデーモンも焼く。それでもヤマの指輪に力を込め、浄化の炎で俺ごとデーモンを焼き続ける。

 周囲が赤々と照らされていた。そのせいで見えなかったものも見えていた。

(床に、黒い、デーモンが……そうか、闇に混ざって)

 闇色のデーモンが床にぽつぽつと転がっている。人の腕ぐらいの大きさ。魚のような鱗を持ち、赤子のような顔をしたイモムシのようなデーモン。それが床のあちこちに転がっている。そいつらは小さな人の手のようなものでぺたぺた、ぺたぺたと神殿風の床や壁を這い回っている。

(なんて邪悪な光景だ)

 冒涜的な存在が、こんなにもここにはいる。炎に焼かれながらも背筋が寒くなる光景。なんて(おぞ)ましい。なんて恐ろしい。あんなもの(・・・・・)が、この世に生きていて良いわけがない。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 赤壁が収まる。兜の側面に手で触れればどろりとした感触。デーモンは死んだが、燃え切らなかった瘴気がべっとりと兜にこびりついていた。

 身体の方はこの場にいるためにもともと過剰にオーラで肉体を守っていたおかげか、思ったよりもダメージは少ない。多少の火傷をしてはいるだろうが、致命傷というほどのダメージは負ってはいない。

 そしてこの赤子のようなデーモンは何も残さなかった。ギュリシアを残すほどの格ではないのだろう。

(そうだな。あれだけ接触していて俺が生きていられるのが証拠か……。兜をねじ切られることもなかったしな……)

 つまり脅威ではない、のか? いや、ここでの格が低いだけでこんなものが人里に出たら確実に軍を呼ばなければならない事態になる。

 弱くとも、いるだけで人を狂わせる深層のデーモンなのだから。

 それでも、何も取得物がないということからわかるのは、目を凝らせばあちらこちらに見える、ぺたぺたぺたぺたと這いまわるこの不気味なデーモンたちは、ここでは虫のような存在なのか?

 身体にへばりついた泥のような瘴気をオーラで消し飛ばし、小さく俺は呼吸をする。

「考察は後だ。とにかく……進む」

 身体を自ら焼くことで恐怖から少しは身体も開放されていた。もしかしたらヤマの炎が俺の心に巣食おうとした闇を浄化したのかもしれない。

 呼吸をし、肉体を整え俺は床に取り落とした剣を拾う。

 その先端には――『おぎゃあ』と鳴く虫のようなデーモン。取り落とした時に突き刺さったのだろう。赤子の顔をした鱗の生えたイモムシが小さな手を振り回して俺に『おぎゃあ』――ぞわり、と背筋が総毛立ち。オーラを込めた手で握りつぶす。

「はぁ。はぁ。はぁ」

 ここは、ただいるだけでも心が摩耗する。だが俺は、少しだけだが適応した。動けるようになった。

 進む。とにかく進むぞ。俺は、さっさと進んでここを抜ける。

「畜生。帰りてぇ……」

 床に蠢く蟲どもをオーラを込めた鉄靴で踏み潰しながら俺はようやく歩き始めるのだった。




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