071
扉の先は階段塔になっていた。石煉瓦でできた壁。螺旋状に階段の備え付けられた場所。
だがそこに充満する瘴気だけが異様に濃い。この先に存在するものが、地階のデーモンと比べても劣っていないことがはっきりと理解できる。
全身の細胞が危機感に怯えている。呼吸と意気で収め、一歩踏み出す。
そして扉の先に異常はもう一つあった。
扉より中に入り、一瞬で上下の感覚が反転する。否、感覚ではない。実際に体が反転していた。
――ふわりと体が浮く。体がぐるりと廻る。
天井に足が向く。床が頭の上にある。上下が逆さになる。初めての感覚に戸惑う、警戒が解けない。
扉より先、青色の世界では重力が逆方向に働いている。物理法則が切り替わっている。
「しかも、ここには浮力もあるのかよッ」
気持ちもそうだが、地に足がつかないのだ。支えがないとまっすぐに立てない。気持ち悪さを覚える。
ふわふわと体は浮いていた。内臓がぐるぐるとするような感覚。まるで粘度の高い水の中にいるようだ。
(これは、まずいぞ……)
ここでは地面に足が接しない。
呼吸は問題がないが、俺の武は踏み込みを多用する。最大の力を発揮するには地面に足が付いていることが前提条件だ。
その踏み込みがここでは使えない。武人としては片腕をもがれたようなものだ。
進まなければならないとはいえ、上手く戦えるかどうか不安になる。
「……なんにせよ、進むか」
戸惑っていても仕方がない。進まなければならないのだ。
地面を蹴れば氷の上を滑るように体が前に進んでいく
「階段か……。モグラみたいな真似は終わったと思ったんだが。上に上がるのに下に下がるんだよな。この状況だと」
何を言ってるかわからなくなるが、実際上下が反転している世界で塔を登るとなればこういう表現になるのだろう。
俺は登るために下がっていくのだ。
そして当然のことだが、ここが階段塔で、階段構造が螺旋階段ならば、必然目の前には大きな縦穴が見える。
「階段を使わず、飛び降りた方がいいのか?」
中央の穴から落ちていけば時計盤のある階層まで下がれるような気がする。
着地時も恐らくだが衝撃はないだろう。執拗に地面に触れさせないここの浮力。そいつが落下の衝撃を緩和させるはずだ。
この反転と浮力はダンジョンとしての性質だろうから、落下して死ぬとかはあまり疑わなくても良いだろう。
「なんとも釈然としないが、早く終わるならいいのか?」
そうして俺は階段の縁より身を乗り出そうとし――
「ッ……!!」
――自ら全力で壁へと体を叩きつけた。
「なッ……。ばッ……。危ッ……?!」
目の前を巨大な生き物が高速で泳ぎ去っていった。液体に塗れた鱗。体の各所にある鰭。それはまるで魚のようにも見える。
「さ、魚だと!? こ、ここは死魚の領域かッ」
異常に粘性のある瘴気。空間に満ちた浮力。俺はまるで水の中だと評したが。それはその通りだった。
ここに出現するのは魚型のデーモン。死魚だ。奴らはそういった、水中に似た空間でしか動けない。故に水のような瘴気が必要となる。
「くそ、俺は人型が得意なんだが……」
そもそも死魚なんて話に聞いただけだ。交戦経験などない。
爺の話を思い出す。
曰く、死にたくなければ死魚の領域で戦うな、だ。
水の中で人が魚に勝てるわけがないのでどうにかして地上に引きずり出せ、とも。
だが、今から挑むのは死魚の領域だ。陸地なんぞどこにもない。
「糞、糞糞が。ええい、畜生。やるさ! ここも攻略してやるよ!!」
いきなりのめんどくさそうなデーモン相手に心が沈むも、気合を入れて剣を握る。
さてはて、死魚には銛や槍が良いとも聞くが、手の中のロングソードとどちらが優秀か。
俺がその場で立ち止まる中、階段塔の宙空、目前を巨大魚が泳ぎ去っていく。
階段脇にいる俺には興味がないらしく、そいつは上にたどり着いたら下へと降り、下にたどり着いたら上へと向かっていく。
どうやらこの真中の空洞を使って行程を短縮するのを防ぐためのデーモンのようで、しかも一体しか存在していない。
俺にはまだ興味はないようだが。
「勝てるか? やってみる……か?」
剣を握り、考える。このよくわからないデーモンとまともにやって勝てるかどうか。幸い新月弓は持ってきている。毒矢を当て、毒に冒してから扉の外で死ぬのを待ってみるか?
「――やめとこう」
他にもいくつか倒す方法を考えてみたが、相手が本気になった場合がどうにも恐ろしく普通に階段を進むことにした。
俺はまだこの領域をよく知らないのだ。それしかないなら強引にでも突破を図るが、まずはこの領域を知ることが大事だろう。
階段を一段一段下がっていく。階段塔はこれでも塔で、目的地は本来上にある。だから本当は上へ上へと進むのだが、こうして地階から開放されても下へと向かっていく自分に苦笑は隠せない。
どうにも自分は下向きに縁があるようだ。
「とりあえず扉が一つ、か」
建物の二階にあたる部分。そこで立ち止まる。どこに光源があるかはわからないが、青色発光に照らされた扉らしき模様が一つ。
本物の扉は恐らく俺の足の下だ。反転している今、俺が歩いているのは階段の裏なのだから。それは当然だろう。
「どうするか……」
階段はまだ続いている。下がってみるか。扉の中を探索してみるか。
悩む俺の真横を巨死魚が上に抜けていく。
進む先は時計台の天辺なので、とりあえず下に向かってみることにした。
そしてまたここに戻ってくる。
「ここは開いてるのか」
戻ってきたのは階段塔の終端である四階部分の扉は開かず、また途中の三階部分の扉も開かなかったからだ。
ノブらしきものに手をあて引いてみれば、目の前の二階部分の扉だけが開いた。
中に入ることはせず、扉を眺めてみる。
デーモンの顔のように、子供が滅茶苦茶に描いたような模様。色彩も描かれる文様も、人の神経を緊張させようとでもしているのか、統一感がなく不安定だ。
何故俺はこれをドアだと思ったのか……。デーモンを敵だと感知する辺境人の本能と同じく、そういった部分に働きかける呪術でも働いているのかもしれない。
……どうでもいいか。
こんなこと考えていても無駄だろう。足を進め、扉の中へと侵入を果たす。
「っと、いきなりか!」
入った瞬間に何かが襲ってくる。盾を持ち上げ、正面に向かって叩きつける。結界のナイトシールド。盾の表面に薄く結界が浮かび上がる。鉄を弾く音と共に何かが弾き飛ばされた。
「死魚か」
魚だからか、声もなにもない。盾に弾き飛ばされた嘴の鋭いその魚は、俺の目の前でゆるりと宙を泳いで旋回すると、人間が生きていることが許せぬとばかりに俺に向かって突っ込んでくる。
細長い体。キツツキのように鋭い嘴。そして速度は熟練の狩人が如く。
「ふッ!!」
盾を再度デーモンに向かって叩きつける。ガツンとした衝撃。しかしデーモンに怯んだ様子はない。再度旋回するとただただ矢のように突っ込んでくる。
「これだけ見りゃぁッ!!」
猿でもわかるわ!! 突っ込んでくる軌跡に合わせて剣を振るう。この水のような瘴気の中でも炎を纏った剣は真っ二つに嘴魚を切り裂いた。
消失し、ギュリシアを落とす魚のデーモン。
そしてこの戦いの音を聞きつけたのか、続々と廊下の奥より現れる死魚の群れ。
「おいおい、流石にこれは……」
死ぬかもしれない。そんな危険な予感を感じながら俺は体を半身にし、盾を真正面に向けて構えるのだった。




