056
獣よ。何故夜に吼える?
獣よ。何故月に吼える?
獣よ! 獣よ! 人裂き悪食らう獣よ!!
獣よ!
― ダベンポートで見つかった作者不明の詩 ―
駆ける。駆ける。駆ける。
心臓は早鐘のように鳴り響き、筋肉の収縮は炎の炉のよう。血液は沸騰したように燃え。息を吸う間も惜しく唇は引き結ばれる。
「はッ! はッ! はッ!!」
一枚、二枚と橋板を蹴るように突き進む。
前傾姿勢のまま、大気を掻き分けるように俺は走る。
獣よりも疾く早く。風よりもなお早く。時を逆行するように、早く! 早く!!
――それでもッ。
興奮した精神だけが焦って先へ進んでいるような錯覚。ただただ身体は置いていかれるように重い。
(実際は馬並に速度が出ている筈なのにッ――)
それは、疲労が身体にへばりついているからではない。
それは、俺の身体が遅いからではない。
俺の身体がッ、俺の意識についていけていないッッ。
(まるで泥の海を進んでいるかのようなッ――)
もっと早くいけると、俺の心は叫んでいる。
誓って言おう。俺の身体は過去最高の速度で橋を蹴り進んでいる。橋板を数枚飛ばして蹴り進み、その速度はケダモノ並と言っていい。
だけれど、遅い。
遅いのだ。それがもどかしい。だからもっともっとと早くなる。
走りだしてからどうにも俺の意識だけが加速を求めて、求め続けて、身体を急かしている。
――脳が加速の快感に痺れてしまっている。
警戒なんて頭から消えた。盲信する。突き進むことが正しいと!
意識は叫ぶ。前へ! 前へ! 身体は命令に従った!
――走ることが楽しい。
否、そうではないッ! そうではないッ!
(前方! デーモンの気配!!)
不意の遭遇だ。この速度で走れば普通は気づけない。しかし何度も何度も、それこそ不意が不意でなくなるほどに遭遇すれば馬鹿でも気配に気付けるようになるッ。
(デーモン! デーモンが! 俺を、舐めるなよッ!)
走りながら、拳を装填する。クロスボウに太矢を装填するかのように! 銃に弾丸を装填するかのように! 弓に矢を番えるように!!
俺は拳を装填する。
「ぃいいいぃぃぃいいいいいいいッッッ!!」
目の前に敵がいることはわかった。それが何であるかは重要ではない。それがデーモンであることがわかればそれでいい。
そして、霧の中、俺の進路を遮るようにして存在するならそれはデーモン以外に有り得ない。
ならばやることは決まっているッ!!
俺は走る。走り、目の前の存在に向けて拳を振り上げる。
――心の撃鉄を上げろ!
心臓は早鐘のように波打つ、足は橋板を蹴り進む。
もっとだ! もっともっともっともっともっと!! もっと加速しろ!!
血液を燃やして心臓を駆動させ筋肉を爆発させろ!
「ぉおおお――オオオオオォオオオオオオオ!」
拳にオーラを注ぎ込む。俺の灼熱がごとき殺意を怒涛のごとく!
「死ぃッッッねえええええええええいいいいいい!!!」
踏み込み――拳を打ち出す――真正面――快音。
「オオオオオォオオ! ウォオオオオオオオオ!!」
全身の推進力全てを拳一つに集約し、それを対象に向けて解き放つ行為!!
破壊的に楽しい!!
もっとも相手を一撃で殺せるわけではない。相手は曲がりなりにもデーモンだ。俺の拳ではどうしても殺しきれない部分がでてくる。
しかし、しかしだ。ぶちとばした相手。姿は見えずともバウンドし、ぶっとんだデーモンに心地よくなる。俺の身体が破壊の快楽に震える。両の拳を揃えて握り「ウォッシャぁ!!」と腹の底に溜まっている熱の残りを叫びで発散する。
衝撃の瞬間を回想する。肉を破壊し、骨を砕き、魂を震えさせる我が拳。
相手は雑魚デーモンだ。弱い者いじめだ。しかし、しかしだ。
――嗚呼。楽しい。
一撃必殺とはいかずとも、デーモンを殴るのはとても楽しい。
「クッソ、畜生! 走ってたらなんか楽しくなってきやがったぞこの野郎!!」
龍眼をほんの少しだけ発動。服の隠しから取り出した投げナイフをふっ飛ばした場所にいるだろうデーモンの弱所に向かって投げる。未熟ゆえに一撃必殺とはいかなかったが、俺に殴り飛ばされたデーモンは未だ立ち上がることもできずに衝撃と苦痛に震えていた。そこをオーラ入りのナイフに貫かれ、デーモンの気配は消失する。
そして俺はほんの少しだけ場所を移動する。直後に俺の居た場所に矢の突き刺す音が響いた。射線の向こう、ほんの少しの驚愕の気配。
「何度も何度も撃ってりゃ、そりゃ猿でも把握できてくる」
もっとも、それはタイミングだけだ。どの位置からは未だにわからない。いや、わかっている。方角だけはわかっているが理屈がわからないし、正確な位置も不明だ。
加速に次ぐ加速。その快感で俺の感覚は俺の身体を越えて外に広がっていた。それが俺に射手の位置を微かに知らせてくれる。
一時的なものだ。薬で感覚を強化したときのように一時的なものに過ぎない。それでも、それを利用して俺は狩人の位置を探ろうと努力する。
だが、この時ばかりは毒を防御する月狼の装備の分厚さ。感覚を外界から隔離するマスクが少しだけ憎い。
「……まだ、わからんか。だが……もう少しだ」
橋を踏破する中で矢による攻撃は10を越えた。情報は少なくとも溜まってくれば俺を真実へと導いてくれる。
霧中の闘争は俺と狩人の主導権争いへと推移している。
いや、そんな難しい物じゃない。ただ俺がキれただけだった。
狙われ続けること、それは精神に対する多大な負荷だ。
そして霧の中から現れるデーモンもまた、俺の精神に多大な負荷を掛けてきた。
人間として苛つくのは当然。
辺境人として、どうにかしたくなるのは必然。
故に、ぶん殴ってぶっ飛ばして滅茶苦茶にしてやるのが心底から楽しいのは当たり前。
森に入ってからやられっぱなしだったのだ。反撃している。その快楽。ふつふつと腹の底から湧き上がる歓喜に、笑声が漏れる。
「くっはッ。よぉし、次はもうちょっとぶっ飛ばすぞ。いける。俺ならやれる。絶対にいける」
気が大きくなっているが問題ない。
拳をガンガンと手のひらに叩きつけて、つま先を橋板でぐりぐりとやりながら走りの構えを調整する。
最初は洗練されてなかった走り方も様になってきた。駆け寄って殴るという暴力方法の効率も良くなってきた。
狩人に向けて俺は念ずるようにして想いを向ける。苛立ちは燃料になる。もっと狙ってこい。俺を狙い、俺を苛立たせろ。俺はそれを燃料にして拳を研ぎ澄ませる。お前の位置を見つける。俺の逆襲を始めてやる。
――いつかじゃねぇよ。今滅ぼしてやる。
攻めるということがとても楽しい!!
「うぉおおおおおおおッッ! おおおおおおおぉおおおおおッッ!!」
戦いの予感に自然と雄叫びが出た。
吼える。橋の上で腹の底から殺意を開放する。
俺は凡人だ。凡人という自負がある。
俺は弱い。辺境人という枠組みの中でもそれほど強い方じゃない。
だが俺は辺境人なのだ。
4000年の間、デーモンと戦い続け、殺し続け、滅ぼし続けた辺境人だ。
その辺境人が、いつまでも狙われっぱなし、やられっぱなしなわけがねぇだろうが。
辺境人の叫びに、殺意に、デーモンの支配する空間が揺れる。
「おい、今……怯えたな?」
俺を狙い続ける殺意。俺を狙い続ける射線が、俺の雄叫びに震え、ほんの少しだけ、爪の先ほどに緩む。
鉄壁の狩人の意思が、俺の殺意に揺らいだのだ。
それは相手の怯えだ。俺の威勢に動揺し、殺意を鈍らせた。
「よぉし、行くぞ。やるぞ。滅ぼしてやる」
辺境の戦士は、その怯えをいつも突き殺してきた。
俺は身体を前傾姿勢に変えると、加速の姿勢をとる。
戦いとは、いつだってそうだ。
心のありようで負けてたら、勝てる戦いも勝てなくなる。
俺は、雄叫びは示す。
――お前を滅ぼすぞ。
加速する身体と意識は、デーモンどもを殴り飛ばし、橋の終端へとたどり着こうとしていた。




