046
姫が逃げてくる。愛しの姫。麗しの殿下。この辺境の地に預けられた尊いお方。相貌に悲壮を貼り付けて騎士の一人と連れ立って逃げてくる。
駆けてくる姫を認め、我らは庭仕事を止めて跪く。
我らの前に立つ姫は、挨拶もそこそこに、急ぎの口調で我らに懇願した。
「ナールーン! ムームーン! お願い、庭園の魔術を解いて!!」
「庭師の兄弟よ。貴公らも姫様のためにも協力してくれ。頼む!」
ああ、姫様。我ら王国に仕える者にもそのように丁寧に頼まれるとは。王国へ忠誠を誓う我ら兄弟は姫直々の"お願い"に胸が熱くなってくる。
姫と直接言葉を交わせた高揚。しかし、その申し出を断るしかない申し訳無さ。我ら兄弟はそれを告げることに酷く心が痛むのだった。
「姫様。申し訳ございませぬ。我ら兄弟。姫様にご協力したく思ってはおりますが、既に国王陛下から命を受けております」
「陛下は儀式終わるまで庭園を閉じよ。と仰せられました。大賢者マリーン殿からも同じ命を受けました。大賢者殿の言に寄らば庭園の結界を解けば辺境に大いなる災いが齎されるだろうとも」
「故に結界は何があっても解けませぬ。姫様より頼みにされる栄誉を思えば我ら兄弟如何なる労も問いませぬが。事がそのような辺境の大事ともあればご容赦願いたい」
兄弟共に伏して願えば、騎士は「手が回っていたか」と天を仰ぎ。姫は顔を伏せる兄の両肩を掴み、涙を流しながら懇願を続ける。
「お願い! ナールーン! 結界を解いて! 私をここから出して!!」
「姫様……申し訳ございません。王の命令は絶対でございます」
我らは言葉を振り絞ってなんとか断りを口にするが、姫の必死さは異常で、思わず兄弟で顔を見合わせてしまう。
中央よりこの善神大神殿に訪れた国家の重鎮たち。彼らが来てからこの神殿は奇妙な雰囲気に包まれていた。
王曰く、邪神に対抗するための儀式を行う、とのこと。
我ら兄弟は王たちが行う儀式とやらの詳細は聞かされていないが、この雰囲気の変化はその儀式に関連するものだと思っていた。
だが、久しぶりに陛下に会えると喜んでいた姫は儀式が近づくにつれ様子をおかしくし、今に至っては神殿より逃れようとしている。
王国鎮護を任せられ、吟遊詩人に一騎当千と謳われた4騎士に匹敵する辺境最強の騎士を連れてまで。
いったい、何が起ころうとしているのか。姫の願いを聞くべきなのか? 兄弟がせめて事情を聞くべきだと口を開こうとすれば、神殿より陛下と共に来た枢機卿が4騎士の一人と共にやってくるところだった。
長い白髪を靡かせ、厳かな雰囲気を持つ老人。
善神大神殿が認めた世界守護聖人、その第一位『真なるアルホホース』。
彼こそは大陸中央のゼウレ大神殿において教皇の地位にあり、所属の異なる善神大神殿においても枢機卿を務め、その功績から大陸全ての善神の信徒から崇敬を集め、真実の信仰を持つがゆえに善き神々の多くから大いなる加護を授かった聖なる人アルホホースである。
「おお、姫よ。このようなところに居られたか」
槍を手にした騎士は我らを一瞥し、何も語らない。ただ枢機卿殿だけが姫に諭すように言葉を重ねると、姫は悲痛そうな顔を歪め、立ち止まり、懇願するような表情で我ら兄弟を一瞥すると、牛の歩みのような遅い歩みで神殿の中へと自ら戻っていくのだった。
「なん、だったのだろうか?」
「わからぬ。だが、姫はいったい何を怯えていたのか?」
それ以降、あの崩壊の日まで我らは姫の御姿を見ることが叶わなかった。
いや、デーモンとなり、あの儀式の真相を知り、絶望した後も。
我らは姫の姿を一度も――
「ッ……――」
意識の覚醒。目を見開く。倒れていた身体を跳ね上げ周囲を見渡す。
「深く入り込み過ぎてたか……」
幻視を振り払うように首を振るう。
(どれだけ時間が経った?)
ここはダンジョンだ。日や星など時間のわかるものは存在しない。だから喉の渇き。腹の減り具合など。そういった身体情報から経過した時間を推測する。
ソーマによって完璧に癒やされた肉体だが、逆を言えばどれだけ完璧が欠けているか把握することで経過時間はわかる。
(腹の減りも喉の渇きもない。数秒から数分ってところか? 長々と倒れてればデーモンに襲われていただろうからそんなものか)
完全なる霊薬であるソーマは空腹すらも癒やす。満腹というか、満たされた状態にするだけだが、伝説の霊薬の名は伊達ではない。
(しかし身体が毒に侵されていないのはどうしてだ? ソーマで癒されたとはいえ、この空間には毒花粉が満ちていた筈だが)
疑念を持ちながら辺りを見渡し、驚きに俺は目を見開いた。
「花粉まで晴れている……?」
庭師のデーモンの消失した広間はあれだけ濃かった毒花粉と瘴気が薄れ、正常な呼吸のできる場所となっていた。
これはデーモンを倒した直後だからだろう。ボス格のデーモンが周囲の邪悪も巻き込んで消失したのだ。
しかし、このまま何もしなければこの広間はすぐに周囲の瘴気を受け入れ、毒植物の生える地となる。
当然俺は聖印を取り出すと広場の中央に置き、リリーから教わった聖なる文言を四方に刻んだ。猫に教えられたものと併用して使うことでこういった奇跡には不慣れな俺でも強固な拠点を構築できるのだ。
膝をつきながら善き神々への祈りと聖句を唱え、聖域を作成し終える。
聖なる気配が満ちたことを確認し、安堵の吐息が漏れた。
最低限の警戒はするが、ようやく腰が下ろせる。
「ああぁ、疲れた。ほんっとうに疲れた」
ソーマで癒されたために疲労感などはないが、心に積み重なったものはなんとも消え難い。
「……ああ、聖域をつくってもこいつらはどうにもならんのか」
デーモンが消えたとはいえ、周囲には依然として禍々しい景色が広がっている。毒々しい植物。形の狂った木々。
吊るされた屍体もその一つだ。聖域を作ったがそれらが消えたわけではない。
死者に安寧を与えられる身分ではない俺にとってはどうにもできない問題だった。
「どうにもできないが、根を断つことはできる。どれだけ時間がかかるかわからんが、待っていてくれ」
拳を握り、確約のできない誓いを捧げる。番人にすぎないデーモンで死の淵まで追い詰められた今の俺では大言壮語だ。
神を殺せるのか? という自問。それを無視し、虚言にならないように努めることだけを意識する。
「……やってみせるさ。それができれば俺は……」
俺が邪神を殺そうと願うのは義務感や、ゼウレへの信仰だけではない。
ようやく自分にしかできないことが見つかったのだ。
ここを攻略する過程で、探していた答えが見つかるかもしれない。大陸にも、辺境にもなかった俺の答えが。
「ああ、いい加減。休むか」
装備の手入れもしなければいけない。激戦の後だ。きちんと整備をしなければ十全に機能しなくなる。
強欲の大袋から手入れ道具や食料、着替えの入ったかなり大きい袋を取り出した。これで大袋の種類枠が1枠の消費で済むというのだから面倒でもやっておくものである。
床に毛布を敷くと、完全には警戒を解かないが、月狼装備を脱いでいく。
「ああ、ぐっしゃぐしゃだな」
薄手のものを選んだが、月狼装備の下に着ていた服が水でも被ったかのようにびしゃびしゃになっていた。汗も多いが流れた血も混じっているのだろう。匂いも酷い。
全て脱ぎ、ぎゅっぎゅと服を絞ればだばぁっと赤色の混じった水が滴り落ちる。洗濯したいが、この地獄では真水は貴重品だ。地上に戻ってから洗うことを決め、強欲の大袋とは別の袋にしまう。これは後で荷物として纏めて大袋に入れれば袋の種類制限を気にせず一つの枠として消費ができるのである。
ついでに袋から布を取り出すと持ってきた綺麗な水で濡らし、身体を拭いていく。最後に乾いた布で全身を拭き取り、ふぅと息をついた。
「落ち着いた」
あとは新しい服を着る。そして遠くに落ちていた仮面や庭師のデーモンが落とした道具も拾ってくる。
「割れたソーマの瓶……。あの庭師のデーモンは最後に自分が落とすはずだったものを俺に使ったのか?」
どういう理屈だ? 正気に戻ったが故に使えたのか? 正気でないとすれば自分に使っただろうし。それとも、死んでいく過程だからこそデーモンは自分が落とすはずだったものを取り出せたのか?
わからんな。どうにも知識の少ない俺では結論の出せる問題ではないようだった。
ただ、あのデーモンが正気に戻ったが故に、俺はこうして生きていられるということは確かだ。
死者の安寧を願って祈りを捧げる。
あの兄弟はデーモンとなったが、倒した今はその魂が本物の地獄で浄化されることを願うのみである。
それに、あの最後を思い出し心が熱くなる。やはり辺境の男ならばデーモンとなっても辺境の男たるべきだ。デーモンと化そうとも強い意思があれば邪悪に報いることができると彼らは教えてくれた。
「他に落としたのは指輪に、チェスの駒に、また工具か」
駒についてはポーンの駒が1つだった。庭師のデーモンは2体だったが、2体で1体という換算のようである。
指輪と工具については詳細はわからない。呪いの装備だった場合面倒なので地上で猫に調べてもらうのが一番だろう。
「……収獲というほど収獲はないが、とにかく休める場所が作れてよかった」
この階層の探索において、今後はここが拠点になる。仮面に詰まった毒を取り除きながら俺は腰を落ち着ける。毒は捨てない。こいつは空の瓶につめて地上で精製してもらおう。これだけ強力な毒だ。どう使うにしろ頼もしい素材だ。
「やはり毒矢がいいか? これだけ強力ならデーモン相手でも使える」
毒を取り除いた仮面を清潔な水と布で清めた後、祈りを捧げ、香草を詰め終える。仮面をつけて呼吸をして毒が残っていないことも確認だ(流石に俺の作業で完全に取り除けたとは思わない。再び毒に侵されない程度に綺麗になればそれでいい)。
次は今まで着ていた月狼装備だ。傷などを確認し、修繕が必要なら修繕をするが、この環境だ。装備が破損するような攻撃に対しては徹底して気をつけていた。だから目立つような大きな傷はない。
汗や血で汚れた装備の内側を清潔な布で拭い、外側の毒を落としてから鎧用の油を塗布するだけで十分だろう。
これは司祭様に装備と一緒にいただいた神殿で特別に精製された燃えない聖油だ。願えば買えるらしいので値段を聞いたが、かなり高いものである。
あまり量もないので使うのがもったいないが、装備が駄目になる方がまずいので必要経費として割り切って使う。
ちなみに油を塗るのは、装備の保護のためもあるが、聖油を塗ると装備が刃や瘴気に強くなるためである。月狼装備は斬撃に強い素材だが、だからといって何もしないという選択肢はありえない。
手入れをしながらついでに腹に何か入れておくことにする。清潔な水は貴重なので、ワインを飲み、パンを摘みながら月狼装備に油を塗り終えると、ショーテルの手入れも始めていく。
布で汚れを落とし、水をつけて砥石で刃を鋭くする。納得行くまで研いだ後は油を塗る。もちろん柄や鞘も確認しておく。緩くなっていたり、割れていた場合、生命の危険につながるからだ。この死地での生命線である装備はきっちりと整備する。
「あれだけの戦いの後だからな。一度きちんとした鍛冶屋に見せたいんだが。ううむ、伝手がねぇな」
地上の鍛冶屋はあくまで村の道具を見る鍛冶師だ。もちろん俺が見るよりいろいろな整備はきちんとできるものの、ドワーフの鍛冶師には劣る。
先ほど手に入れた工具もドワーフ鍛冶の領分であるだろうし。
一度ドワーフ鍛冶に会いたかった。それに叶うならばハルバードの発注もしたい。
「ふぅ、終わったし仮眠ぐらいとっておくか」
ソーマのおかげで肉体は十全だが、精神はそうもいかなかった。
道具を片付け、全ての準備を整えると、俺は天幕を張って、少しだけ横になった。
ここでの一時間が地上の何日になるのかはあまり考えないことにしながら。




