045
その爪と牙はこの世のありとあらゆる獣より鋭く。
その鱗と皮はこの世に存在するどのような金属より固い。
その知恵は古今東西あらゆる賢者ですら届かず。
その翼はあらゆる空の生き物を征し。
その心はどのような聖者も叶わぬほどの高潔さ。
そして、その瞳はこの世のありとあらゆる全てを見通し――
―辺境にてとある龍騎士が残した詩―
渇きは癒え、仮面による呼吸の障害がないからだろう。非常に身体が軽い。
ただし、身体はまるで穴の空いた樽だ。あちこちから生命力が漏れ出している。
解毒薬の効果もあってか毒による身体能力の低下は未だ表には出ていないが、内臓は既にボロボロだろう。わかっている。腹の中で死神が踊っていることなど。
(ふん、あとどれだけ保つかは知らんが、俺は死ぬまで戦うぞ!)
死ぬのは嫌だ。だが、俺の最後が無様な死に方ではないことがとても嬉しい。
走馬灯だろうか。自然と過去の思い出が浮かんでは消えていく。
あの村は俺の育った場所だったが、俺は所詮よそ者だった。
村人の多くは親切だったが、どうしても、どこかわからない壁があった。実際、それはほんの些細なことだ。本人にすらはっきりとわからない違和感。
なにか迫害を受けたとかそういうことはない。だけれど、なにか、喉に引っかかるような違和感があった。
ただ事ある度に、村に馴染めていない。そんな感覚が俺を襲った。
爺も、そうだった。
愛情は受けていたと思う。爺は俺をまっとうに育ててくれた。俺は感謝を忘れたことはないし、爺に対して何か返したいとずっと思っていた。
爺は俺にどこでも生きていける武を与えてくれた。どこでも生きていける知恵を授けてくれた。
拾われた子供と身寄りのない老人。歪な関係だったが、それでもしっかりと俺たちには絆があった。
だけれど……。血という確かな拠り所のない俺には理解できなかったものがあった。
――愛ってなんだ?
俺は戦士として一人前ではない。
このダンジョンで積み重ねた武があっても、デーモンと戦った経験があっても、俺はいつまでも半人前だ。
愛を理解できないから。
義はわかる。仁もわかる。孝もわかる。善も、悪も、業も、徳も。凡そ知るべきものを俺は教わり、理解した。
だけれど愛だけがわからない。
――愛ってなんなんだよ。
爺はいずれわかると言ってくれた。
どこか歪な俺を、村の人々は受け入れてくれた。
だけれど俺だけが、どこか、歯車がずれたような、そんな感覚を覚えている。
俺はそれが苦しかった。育ってきた村が自分の居場所じゃない、そんな錯覚に悩まされていた。
だから辺境人が蔑む大陸に向かった。知らないことを知りたかったからだ。向かい、様々なことを経験した。
一度だけ、娼婦を身請けしようとしたこともある。
本気ではなかった。ただ何度も通っただけの関係だ。それだけの関係だった。
案外そんな簡単なことで愛が理解できるのかもしれないという期待があった。考えるものではなく感じるものなのかもしれないという願いがあった。
受け入れてくれれば本気で所帯を持とうと準備もしていた。
だけれど、彼女は俺を受け入れてはくれなかった。
金で身体は開いても、心を開いてくれることはなかったのだ。
彼女は言った。
――「貴方が私を愛しているようには見えないわ」と。
すとんと、その言葉は俺の心に落ちた。
どこか欠けているのか。俺は愛を理解することができなかったのだ。
放浪の旅でも得られるものはなく。失意の中、俺は村に戻ってきた。
そして爺が病気になっていることを知り、己の全てを懸けて恩を返そうと努力した。
爺は笑って逝ったが、俺の心には奇妙な空虚が存在した。
(爺。俺は未だに愛が理解できていない)
でも、それでいいのかもしれない。
俺は一生半人前で。未熟で。だけれど、それでいい。
一人前だったら兵士になって、前線に行っていた。
未熟だからここにいられる。こうしてデーモンの巣窟で戦うことができる。
時に置き去りにされようとも、挑むことができる。
口角が釣り上がった。本心から安堵の気持ちが溢れる。
愛を知らずとも、胸を張って、デーモンと闘いながら死んでいける。
「おるぁあああああああああああ!!」
叫ぶ。同時に呼吸だ。庭師のデーモンの懐に潜り込み、掌打を打ち込む。感触でわかる。足りない。足りない。足りない足りない足りない。こいつを殺すには俺の生命は圧倒的に足りない!!!
どうしようもない! だけれどやるしかない!
デーモンは俺の全力攻撃を受け、吹き飛びながらも嗤っている。
死にゆく俺の攻撃はまるで子供の駄々だ。死力を尽くしているために並のデーモンなら一撃で消し飛ばすオーラを込めていようとも、ボス格のデーモンを消し飛ばすほどの威力は存在しない。
「はッ。大法螺吹いてみたがやはり、無理か!」
絶望を喚起させる嘲笑が空間に満ちる。花々が、屍体たちが、デーモンが、樹木が。俺の最期を待っている。
だが、ただ死ぬつもりは毛頭ない。
「勝つんだよ。俺は!!」
どうやるかなんて知るか! 死ぬなら勝つ! やれるだけやるんだよ!!
『どうれ、私が小突いてあげよう』
一体は吹き飛ばしたが、もう一体のデーモンがこの場にはいる。鋏を振り上げたデーモンは俺へと向かってくる。武を修めたもの特有のゆったりとした動き。そこに隙はない。
同時に蔓や蔦が地面より俺を絡め取ろうと動いてくる。最後まで手を抜かない辺り、こいつらが生前どれだけ真面目に職務を果たしていたのかがよくわかってしまう。
辺境人らしい頑迷さに笑みが溢れる。その気遣いが、俺には嬉しくてたまらない。
これで、届く。
「助かるぜ。お前から向かってくるなら大歓迎だ」
俺は、先の一撃を打ち込んで理解した。俺の身体はもう限界だ。この猛毒はもはや辺境人ですら一息に殺せるレベルに達している。
そんな毒を先ほどから吸っている俺は、本当に、もう保たないのだろう。腹の中の解毒薬と気力で身体を動かしているが、本当に、もう。死ぬ。
歩くのも億劫というレベルではない。
今すぐ死んでもおかしくない状態だった。
だけれど、俺は立っている。立って拳を握れている。
ならば、嘆くよりも殴る方が楽しいに決まっている。
(ああ、糞。身体が重いし寒い。本当に俺は死ぬのか。だが、なんだ……わくわくする。それに)
――右目が酷く熱い。
『ホッホ!』
突き出される鋏を必死に受け流す。みしりとした感触。折れた。冷静に考えながら腕を捨てる。
この身体で元辺境人のデーモンの攻撃を完全に受け流すことは不可能だった。だから衝撃を腕で受ける。ミシミシボキボキという感覚。だけれど、そんな攻撃ですら俺には都合がよかった。
この身体にはほんの少し、重さが足りない。
そして、重さを移動させる技術を俺は持っている。
(難しい? いや、もっと難しいことを俺は一度やっている)
このダンジョンに潜ることになったきっかけの大落下。あれに比べれば、死にかけの身体であろうと何の問題もない。
腕を粉砕する衝撃。それを流す。腕から腹へ、腹で衝撃を回し、オーラを混ぜ、無事な腕に。
動かしながら考える。
問題はどこに打ち込むかだ。
この身体ではもはや秒の猶予ですら奇跡だった。だから、一撃で殺せる場所に打ち込まなければならない。
時がゆっくりに感じられる。俺の腕を潰した鋏を視界の中のデーモンが再度振りかぶり。
やぶれかぶれでも適当に撃ちこむかと身体を動かせば、異常なほどに発熱した右目が、俺の身体を導いた。
導く。いや、そうではない。
こいつの弱所はそこだ、と。そこに打てばいいのだと、俺に教えてくれる。
だから俺は腕を添えるように。身体に溜まった力をデーモンの腹に押し付ける。あの時の岩肌に向けたように。
瞬間。ほんの少し地が揺れる。そして腕にもほんの少しだけ衝撃。
(少し、漏れたか。本当ならデーモンに全部ぶち込むはずだったんだが)
身体が弱っているとはいえ、修行が足りない。だから俺は未熟なんだ。
それでも、笑みが溢れる。
『ア?』
デーモンが断末魔の叫びにしては風情のない台詞をこぼした。
その身体は、俺が触れた部分から大半が吹き飛んでいる。腹に大穴を開け、腕を消し飛ばしたのだ。
ぐらりとその身体が倒れた。
俺は、俺が何をやったのかなんとなく理解した。
俺の右目が暴いたのは瘴気の弱所だ。そしてデーモンの急所。デーモンが自身を構成する核を破壊されて、無事でいられるはずがない。
事実、どこか現実味のない表情のまま、庭師のデーモンが消滅していく。
『弟よぉおおおおおおおおお!!』
響いたのは怒声だ。
俺の拳打で吹き飛び、弟のデーモンが俺で遊ぼうとしたのを楽しんで眺めていた兄のデーモンが激怒し、飛びかかってくる。
ふらつく身体を気合で支えていた俺は満面の笑みで出迎える。
「ほんと、助かるぜ。お前ら」
もはや一歩動くことすら難しい身体だ。折れた腕のせいで身体のバランスが取りにくいが、環境適応に優れた辺境人であれば、この程度はまだなんとかなる範疇である。
まだ、右目は熱い。
ありがたいことに弱所は見えてくれている。
(なんだ。散々殴ったり斬ったりしてきたのは無駄じゃなかったのか)
弟のデーモンもそうだったが奴らの身体にはいくつも弱っている部分が見える。それは俺が斬りつけた箇所だったり殴りつけた箇所だったり、そういうところである。
そして、それによって全体の瘴気がほんの少しだけ薄くなり、デーモンの本体たる核を守る瘴気がほんの少し薄くなっていた。
『よくもぉおおおおおおお許さなぁあああいいいいいいいぃいいぃぃいいいい!!』
怒りに我を忘れているのだろう。その巨体にもかかわらずその速度は恐ろしいほどに速い。
だからショーテルを抜く。片腕がない以上は受け流してのカウンターはできない。そもそもこの勢い、片腕ではどうにもならない。受ければ身体は粉微塵だろう。五体そろっていてもどうにかなるかわからないほどの勢いだ。
限界までオーラを通し、魔猪がごとき突進を待ち受ける。
一手でも誤れば無意味に死ぬ。相手が俺へあと三歩の所で俺も踏み込み、刃を向け、敵の突進の勢いを利用し、全力で弱所に突き刺した。
『おお!! おぉおおおおおおおおおおおお!!』
デーモンの叫びが聞こえる。だが突進は止まらないし、止められない。
「おおおおおおおおおおおおおお!! おおぉおおおおおおおおおお!!!」
ショーテルは敵に突き刺さっていた。同時に俺の身体は敵の身体にぶち当たっていた。
衝撃を逃すような隙はなかった。
だから死にかけの身体に死ぬ衝撃が加わっていた。ポキポキバキバキと俺の耳に全身の骨の砕ける音と内臓の潰れる感触が届いていた。
命脈は断たれた。
俺は死ぬ。
それでも、腕が引きちぎられなかったことに神に感謝を捧げる。
――これで、殺せる。
竜巻に巻き込まれたような感覚。身体全体が粉砕されるような激痛。いや、もはや痛みなどどうでもよかった。相手が動いていることが俺には重要だった。
ショーテルではやはり届かなかった。
相手の核に傷をつけただろう。だけれど、ショーテルの刀身は薄く、オーラは乗り切らなかった。
『死ね! 死ねぇええええええ!!』
「……うる……せぇ……」
がつんがつんとショーテルにしがみつき、相手にぶら下がっていた身体が殴られる。骨が更に砕かれ、内臓が粉砕され、心臓が鼓動を止める。
でも、筋肉はまだ動いていた。そしてオーラを生み出す生命は失われたが、俺の身体は分厚いオーラに覆われていた。
『ニンゲンが! ニンゲンがぁああああ!! 弟をぉおおおおおお!!』
連れ添いを亡くすこと。それはデーモンにとっても苦痛なのだろうか? デーモンですら愛を知っているということだろうか?
だが、そんなことはどうでもよかった。
デーモンよ。お前が愛を知るならば、死にゆく俺の最後の願いを聞け。
(お前も……死ね)
ショーテルを通し、身体を守る最後のオーラをぶち込む。
びくり、とデーモンが痙攣する。
『……馬鹿、な。我らが、こんな容易く』
もはや全身の感覚はなかったが、俺は手応えを感じていた。同時に、身体を守るオーラが消え、俺を瘴気が侵食していく。
ずるりとショーテルを掴む力が抜け、べしゃりと地面に俺の身体が落ちる。
身体が死んでいく。
(ほんと……死ぬなら……地上が……いいな、ぁ)
どうしてか青空と太陽が懐かしかった。自分で願って挑んだとはいえ、こんな毒々しい場所で死ぬのは本当に御免だった。
そんな中、じりじりと瘴気へと返っていくデーモンは呆けたように周りを見て、血だるまで転ぶ俺を見下ろし。
『我らが兄弟を解放してくれたことに感謝を』
そんな、正気に戻ったような声を出していた。
俺は何も返せない。もう俺は死んでいる。肉体から魂が離れるような感覚がある。
だから声すら出すことはできない。消えていく意識の中、顔面の筋肉が笑みを形作っていればいいなと願うだけだ。
もはや痛みすら感じない中、消えていくデーモンは俺の顔の上に腕を翳していた。
『選ばれている貴公ならばこれで十分だろう』
何かの砕ける音。液体がぽたりぽたりと顔にかかる。
『生きろ。そして、姫様を頼む。本当に哀れなのはあの方なのだ』
薄れゆく意識の中、庭師のデーモンはそんな言葉と共に消えていく。
(無茶を言うな。今から俺は死ぬんだぜ――)
だが、俺に死は訪れない。
デーモンの消滅と共に口の中に入ってくる甘い液体。
砕けた肉体が人知を超えた速度で復活していく感覚。
失われた活力が満ち、体内を侵していた毒素が消えていく。
――伝説の霊薬。
迷宮は、俺が死ぬことを許さなかった。




