恋、売ります。
――その日、ボクは不思議な自動販売機に出会ってしまった。
S岡県のよくある田舎に住むボクにとって、毎日は退屈な繰り返しだった。不規則に一軒家と畑が広がって、子供の頃から迷路のような生垣の隙間を走り回ってきた。目をつむっていても歩けるほどに見慣れた通学路に、ソレはあった。
『恋、売ります。』
自動販売機の横に立てかけられている看板の文字が目に入り、一瞬そむけて周囲を確認してから二度見した。恋という名の何かが売られている。数年前に店を閉じた薬局店の裏、人っ子一人通らなくても当たり前の細い路地。そこで売られている『恋』なるものが性なるものであるのはあからさまで、恋という目的よりも性という手段が売られていることが、ボクの好奇心を強くノックした。
だがその姿は異様だ。文字やロゴが一つもなく、そのボディは黒々と初夏の太陽を照り返している。
親友の奥村(通称おっくん)のお兄さんがこの前仕入れてきた田舎によくある大人用雑誌の自動販売機と違って、販売機の周囲を囲む青いトタンは存在しない。余っている土地にポツンと存在する、青いアレの中とは違うモノが売っているのだろうか。中学二年生のボク達にとってはあの中の存在でさえ大変魅力的だったのだが……。
額をしたたり唇にたどり着いた汗を舐めとり、大量のつばと一緒にゴクリと飲んだ。
行くべきか引くべきか。瞬時に決断したボクは、顔を下げながら路地に足を踏み入れた。
興味なんかありませんよ。
というか気づいてすらいませんよ。
その度胸の無さが災いしたのだろうか。あと少しで自販機の中身が見えるという位置で、後ろから石を踏む音がした。
振り向いて顔を見られることだけは避けなくては!とボクは全力でダッシュした。気が動転して自販機の様子を伺い忘れたけれど、ボクにとって今一番避けなくてはならないのは、
『○○さんの所の息子さんがあの薬局の路地裏で……』
などといううわさ話を立てられないことなのだ。
(後ろに居るのが、近所のおばさんじゃありませんように!)
祈りながら真っ白な頭のボクが目にしたのは、よくわからないピンク色の何かと、980円という表示だけ。
(今月のお小遣いの残りじゃ、足りないな)
意気地の無さからは目を背けて、そんな事を考えながら家まで全力でダッシュした。
翌日。
そわそわしながら教室の扉をじっと見つめていると、始業ギリギリに親友のおっくんが学校にやってきた。
ボクは昨日家に帰ってから、電話でおっくんに例の自販機のことを話した。そして彼のお兄さんに「確認」をお願いしたのだ。その結果を持ってきてくれたであろう彼は、ボクと目が合えばいやらしい笑みを浮かべるものとばかり思っていたのだが、面白くもなさそうに眉間に皺を寄せていた。
カバンを机のよこに引っ掛けたおっくんが、教室の後ろにボクを手招きする。逆らわずにツカツカと歩み寄ったボクは、回りから不審がられないように朗らかな挨拶を投げる。
「おはよう」
「おう。はよっす」
なんとなくクラス全体を見渡すように背を壁につけると、彼は小声で言った。
「例の自販機な。兄貴にお願いしたけど『なかった』ってよ」
「……自販機自体が撤去されてたってこと?」
「らしいべ」
なんたることか。真実に辿り着く前に、答えは永久に闇の中に消えさってしまった。
……だがそんなことがありえるだろうか。
「もしかしたら道を間違えたんじゃないかな。あぁいうのって一度契約しちゃうとなかなか撤去できないって聞くよ」
「さすがむっつり大王」
「むっつりじゃねぇ!」
おっくんとつかみ合いのプロレスをした事は、日常茶飯事なので端を折らせてもらう。大事なのは、クラス担任がやってきて激戦を終えた瞬間、おっくんが小声で「放課後一緒に行こう」と誘いをかけてきたことだ。
もちろん、ボクは無言で頷いた。むっつりじゃなくても当然の反応だ。謎の大人用自動販売機。中学二年生が興味を持たない方がおかしいのだから。
一日ずっとそわそわしていたボクらは、今か今かと期待に膨らませて放課後を迎えた瞬間にダッシュで校門を駆け抜けた。角を曲がり、花屋の裏をすりぬけて、高台の駐車場の壁を飛び越えて着地する。アクロバティックに田舎の近道を通り抜けた僕らの前には、例の路地が待っていた。
あぁ、ついにボクらは一歩を踏み出してしまうんだな。
胸を圧迫鼓動の息苦しさにこらえきれず顔を上げたそこには、数日前と同じ販売機がボクを待っていた。
安堵の溜息を、大きく吐き出す。
やっぱりお兄さんが「無かった」と言ったのは見間違えだったんだ。多分ミムラ薬局じゃなくて、キムラ薬局の角を曲がっちゃったんだろうな、おっくんのお兄さんは。
勝手に納得したボクが次にするべきは、「見に行こうぜ」とおっくんに声をかけることだ。もしくは、彼から同様の誘いがあった時に素直に頷くことだった。
勇気がなかなか絞り出せなくてツバをごくりと飲み込み、よし言うぞ!と意気込んだ矢先に、おっくんから声がかかった。
「なぁんだ。なんにもないじゃん」
「なん……だと……?」
思わず週刊少年ステップの主人公のような声が漏れる。ボクのため息も、つぶやきもおっくんには届いていなかったようで、ボクを無視するようにおっくんは路地裏を進む。彼の後ろに慌ててついていったが、おっくんには本当にその自販機が見えていないようだった。彼もボクと同じで見えないふりをしているだけだろうか。
否、断じて否。
自分でやっといてわかるが、あれは見ないふりをしつつ、絶対に見ていることがわかるあからさまな照れ隠しだ。ラブコメのヒロインが顔をまっかにして「か、勘違いしないでよね」とバレンタインチョコを差し出すくらいあからさまにバレバレなのだ。
足の運び、首の傾斜、視線の向き、声の抑揚、息遣い、脈拍。
その全てにおいておっくんは間違いなくソレを認識していない。ボクには分かる。いや、世のすべての男子が分かる。
「やっぱり撤去されちったんかなー」
「え、あぁ、うん」
残念そうなおっくんになんと答えたものかわからないまま、曖昧な返事を返す。
今ボクが見ているものを、彼に説明できるだろうか。いや、多分出来ないだろう。
「君には見えていない大人の自動販売機ばボクには見えているんだ!」
なんて言い出したら、きっと明日からボクはむっつりではなくぷっつんになってしまう。それは避けたい。
「まぁなんだかんだ、ちと残念だったよなー。今からアニキの部屋に忍び込んで、この前買ってきたっていうビデオでも見ようぜ!」
「えっ、いいの!?」
素で声が裏返った。
ニヒヒと笑うおっくんは疑問を差し挟むまでもなくいつもの悪友だった。
「オッケーオッケー。パッケージしか見せてくれないなんてずっこいんだよな!どうせいつもの隠し場所にあるんだぜ、見つかると怖いから急ぐべ!」
「ちょっと待ってよ!」
先に駈け出したおっくんを追って、全力疾走で路地を駆け抜ける。
そしてボクは気づいた。
『恋、売れてます』
変わっている!そしてその内容を頭の中で吟味する一瞬で、ボクは自販機の前を走り抜けてしまっていた。
売れています。現在進行形だ。つまり、購入者がいるのだ。
つまり、これが非常に良くできた妄想でもないかぎり、ボクも買えるのだ。
恋を。
だが、その日の驚きはまだ終わっていなかった。
おっくんのお兄さんの部屋で大人の映像作品を鑑賞していたボクらは、お兄さんが帰ってきたことに気づかず、静かに大騒ぎをしていた。
部屋の扉が勢い良く開かれ、そこにお兄さんの姿を見つける。慌てて肌色のテレビ画面の電源を落としたが、時既に遅しだ。ボクらは互いの血の気が引く音を聞いた。お兄さんは工業高校から工場に就職し、土方のバイトを経験したムキムキなのだ。お兄さんのドロップキックを食らっておっくんが失神した回数は片手じゃ数えられない。
だが、今日のお兄さんはボクらを叱らなかった。
「お、おかえりアニキ」
「お、おじゃましてます」
おっかなびっくり声を揃えて頭を下げるボクらを前に、お兄さんは「おう」と答えるだけで扉をそっと閉め、そしてカギをかけた。
おっくんが窓の外を確認している。そこから逃げようというのか。だがおっくんの家は大家族で三階建、お兄さんの部屋は最も高い位置にある。窓の下には大きな木も、屋根も無い。さすがにそれは無謀が過ぎる。
どんな詰問が始まるのかビクビクするボクラを前に、お兄さんは椅子に座るとボクをまっすぐと見つめて言った。
「ちょうどイイトコに居たな、小僧。お前、例の自販機は本当に見えたのか?」
まさかの話題だった。ちなみに小僧はボクの呼び名だ。
コクコクと頷くボクを差し置いて、おっくんがそれに答えた。
「さっき見てきたけど、何にもなかったよ」
「あぁ、やっぱしお前にも見れんかったか。で、お前はいいから、小僧はどうだったんだ。正直に言え」
『正直に』の部分に強く掛けられたアクセントに、ボクはピンと来た。つまり、お兄さんは知っているんじゃないか。だからボクは友人の兄の言葉を信じて、首を縦に振った。
「あの、ボクには見えました、けど……」
ものっそい怪訝な顔でおっくんがボクを睨んでくるが、横からお兄さんのヤクザキックが飛んできておっくんは視界の外に消えていった。壁に激突して床に落ちる音がする。恐らくベッドの下に落ちたのだろう。
彼をレスキューしたい気持ちはやまやまだったが、お兄さんは煙草に火をつけながらボクの目をじっと見つめて言った。
「これはオレが導きだした憶測だが、その結果として俺の会社では今日の昼間に戦争が起きた」
「せ、戦争……?」
「そうだ。お前らはまだチューボーだから問題無いだろうが、オトナともなると一大事でな。どうもあの自販機は、見える奴に条件がある」
喉を鳴らした。
お兄さんの表情は真剣だ。ボクはここまで真剣なこの人の顔を見たことがない。いつもふざけてばかりで、社会人なのに彼女も作らずオトナアイテムを漁る日々。感謝しています。だが秋の祭りでは酔っ払って下半身裸で道端に寝転ぶようなダメ人間だ。
その人が告げる、真剣な言葉。
一生に一度しか無いであろうその言葉に耳を傾ける。
「恐らく。あの自販機は、童貞にしか見えないんだ」
後悔した。反省した。一生に一度しか無いだと? いつも通りだったよ!
肩の力を抜いてため息をつくと、肩をガシッと掴まれた。
「冗談じゃないんだ。確かめたんだからな」
マジか。
「確かめたって……どうやったんですか?」
「もちろん、職場の一人に捨てさせたに決まってる。だがそのせいで職場やら仲間内で大騒ぎだ」
冗談だろう。たった一晩で、ちょっと奇妙な現象を確かめるためだけに、何をしているんだこの人は。大騒ぎとやらの内容は気になるが、恐らく男として身をつまされる悲劇が繰り広げられているであろうことは想像に難くない。
そしてもうひとつ。親友が見えなくてボクには見えるというその事実もなんとなく今は触れないでおいたほうがいいだろう。
ボクはあえて話題を逸らしてお兄さんと空虚な問答を続けた。
「お兄さんはどうして……そこまでするんですか」
どうせまともな答えなど返ってこない。この人はそういう人だ。
だが長い付き合いのこの人を、ボクはまた見誤っていた。
お兄さんはダメ人間だが、オトナな存在については常に真剣そのものなのだ。つまり全くダメな人だ。
「オレは知りたい。コドモにしか見えない恋を売る。オトナには見えない恋を売る。
一体ソレはなんなんだ。俺の価値観を変えるだけのデカいモンなんじゃないのか。
漢なら、それを知りたいと思って当たり前だろう、小僧!」
意識を取り戻してベッドの下から這いずり出てきたおっくんとお兄さんのケンカが始まり、ボクはいつも通り勝手に帰らせてもらった。おっくんがボクらの話を聞いていなかったのは、不幸中の幸いだった。もしかしてお兄さんの気遣いかと思ったけど、後日確認した所オトナビデオを勝手に見ていた罰らしい。
やっぱりお兄さんはただのダメ人間だ。
だけど、お兄さんの熱のこもった声が、耳からずっと離れない。
『漢なら』
上の空でご飯を食べ。お風呂に入り。おやすみと挨拶を交わして自分の部屋のベッドにこもる間、ずっとその言葉が耳に残っていた。
ボクはコドモだ。
何も知らず、多分おっくんはボクの知らないことを既に知っているようだけれど、それでもただの中学生だ。だからこそ、この狭く小さなボクラの世界で、ボクとおっくんの一歩の差は大きなリードになっている。
それは恥ずかしさだ。
それは知りたさだ。
それは悔しさだ。
憎しみと好奇心と克己心と欲望と希望と期待と全てを頭の中でグルグルとミキサーにかけ続けて、家族が寝静まるのをまった。
外から聞こえてくるカエルの鳴き声を聞き、冴えた目で時計の長針が一周したところで、ボクはベッドから静かに抜け出し、ジャージニ着替えると貯金箱からなけなしの硬貨をポケットに突っ込んで家を抜けだした。
今しかない。
お兄さんの声と、ボクの声が重なって、頭の中に響く。
重い玄関扉を音がしないよう慎重に開け、閉めて、そしてボクは駆け出した。
今までこんなに真剣に走ったことはない。
生ぬるい初夏の夜風も、燃えるような胸に吸い込めば氷のように冷たく、アスファルトを踏む足は早くなる胸の鼓動に追いつかれはしないとばかりに回転を上げていく。
代わり映えのしないコドモの日々。いつかはと思っていた遠いオトナ。
その境目が、ゴールを示すフラッグが、あの路地でボクを待っている。
小遣いの硬貨のなる音が、お兄さんの声が、電灯が、月明かりが、クラスの女子の顔が、親友の顔が、全てがよぎり、一瞬で流れ去る。
最後に残ったのは、目に映る看板のみ。
路地の前で立ち止まったボクは素早く息を整え、周囲を見渡した。
思考はクールに。大丈夫、目撃者はいない。ボクは今日ひっそりと、しかし確実にコドモのままでいる周囲のダレカを抜きさって、一歩先へ進むのだ。
重かったのは最初の一歩だけ。あとは滑るように足が前に出た。
緊張か興奮か、ふとももの付け根に力が入らず、妙に軽い足取りでボクは闇夜に明るく光る自動販売機の前に立った。
目に飛び込む白い光。
見本品のないボタンの群れ。
三桁の数字が並ぶ値札。
そして―――。
片田舎のカエルの合唱に、少年の雄叫びが混ざって消えた。
『売り切れ』
無慈悲な文字の赤い光が、明日へと続く少年のコドモの日々を無情に照らしていた。
澤群キョウ先生主催の企画ネタで『自動販売機』でした。