セイレーンはあなたの耳許に
普段なら友だちの家に遊びに行く時は自転車で行くのだけど、今日は午前中から雨が降っていたから傘を差して歩いて行った。
帰る頃にはもう雨が上がっていて、僕は用済みになった傘を手に持って下ろしながら僕はとぼとぼと家に向かっていく。
たまには周りの景色を楽しみながらのんびりと歩くのも悪くはない……と健康的なことを言ってられるのは最初のうちだけだった。
暑い。蒸し暑い。夏の曇り空のもとで、アスファルトに染まった雨水から沸き上がる湿気にうんざりする。
こんな暑さでも晴れて空の色が青々としていれば多少は明るい気持ちになるかもしれないけれど、こんな暗い空じゃ気が重くなるだけだ。
しかも明日は月曜日で学校がある。週末のうちにやっておかなきゃいけない宿題にはまだ手をつけていない。それを思うと余計に滅入るような気持ちになる。
とりあえず帰ったらシャワーを浴びて着替えて、晩ご飯を食べてから宿題に取りかかるか……だけど八時から始まる配信動画も見たいんだよな……うつむいて考え事をしながら僕は用水路の近くの横断歩道を渡ろうとした。
だけど歩道から出る直前、車道との境にある敷石の影に何か小さいものが隠れているように落ちているのが目に入った。
白いケースだ。ワイヤレスイヤホンが入っているようなやつで、雨に打たれたせいか少しくすんだ色をしている。
僕は何気なくそのケースを拾い上げて汚れたところを軽く指でこすると、すぐにもとのつやつやとした色合いが戻った。
人気のモデルの高いイヤホンだ。それをこんなところに落とすなんて持ち主はものすごく迂闊な人なんだろう。
でもこんなごつごつとした地面に落としたもののわりには、キズがひとつもついていないのが少し不思議だった。ふつうならどこか地面で削れたような跡ができるはずなのに。
ケースの蓋を開けて中のイヤホンを取り出してみると、中身も新品みたいに指紋すらついていなかった。
全く使っていないのにこんな道端に落としたのか? なんだかちょっと不気味な感じがする。
ええと……こういう時は落とし物として交番に持っていかなきゃいけないのかな。
ここから近くの交番までは確か二キロぐらいある。自転車で行くぶんにはそんなに苦労はしないけど、あいにく今は傘を持って歩いているところだし、しかもこの暑さだ。やりたくない。
そっとケースを落ちていたところに戻して、何も見なかったふりをしようか……
そう思ってイヤホンをケースの中に入れようとした時、イヤホンのスピーカーからかすかに音が聴こえてきた。
音? なんで? いったいどこからこのイヤホンに音を流しているんだ?
僕はケースにしまいかけていたイヤホンを再び手にとって顔を近づけると、確かに小さいスピーカーからは音が流れているみたいだった。
女の人の声が聞こえる。なんて言っているのかはうまく聞き取れない。イヤホンを耳に着ければしっかりと聞くことができるかもしれない。
僕はあたりを見回した。郊外の用水路の近くだからか人影は見当たらない。落ちているものを勝手に使うのは少し後ろめたいけど、それよりイヤホンからひとりでに流れる声への好奇心のほうが優った。
別にいいじゃないか、盗むわけじゃあるまいし……問い詰めるような人はいないのにそんな言い訳を頭に思い浮かべながら、僕はふたつのイヤホンを両耳に着けた。
ぼんやりと聞こえた声がくっきりとして、綺麗な声が耳の奥に流し込まれてきた。
『La-La-LaLa…La-LaLaLa…』
イヤホンから聞こえる女の人の声は、メロディに合わせながらアカペラで歌っていた。
歌詞はない。流行ってる曲はそこそこ聞いているつもりだけど、聞いたことない歌だ。誰が歌っているかも判らない。ボーカロイドじゃなくて人間の声のような気がする。
でもそんな細かいことどうだっていい。
僕はイヤホンから流れる歌声に夢中になってしまっていた。
透き通るような女の人の声が頭の中に響く。頭蓋骨の中の脳がとろとろと溶けてしまいそうなくらい甘ったるい声だ。
思わず聴き惚れてしまう。僕はその場に立ち尽くしたまま耳の奥に届くその歌声を堪能していた。
いつまでもずっと聞いていたい……
『あー、拾ったイヤホン勝手に使ってるんだー。わーるいヤツだー』
急に歌声が止んで、歌っていた女の人と同じ声が僕に話しかけてきた。
夢心地になっていた僕はその場に跳ね上がった。
「だ、誰だ!?」
はっと目が覚めて、僕は慌てて周囲を見渡した。
誰かが僕を見ているのか?
だけどイヤホンを着ける前と同じように周りには誰もいない。この音を流している人間もいなさそうだ。
『だーいじょうぶだって。勝手にコレ使ってること誰かにチクったりしないからさ』
慌てふためく僕に、イヤホンからからかうような声が聴こえてくる。
この声の主は確かに僕のことを見ている。でも目で見ているわけじゃないのは確かだ。じゃあ誰が……
「君は、いったい……」
『あ、いちいち声に出して言わなくていーよ。ココロで思っていれば全部伝わるからさ』
ココロで? 僕が考えていること、全部筒抜けだって言ってるのか?
『そっ。その通り。さっきあたしの声にメロメロになってくれて嬉しかったな〜』
悪い夢だ。
僕は耳からイヤホンを取ってもともと入っていたケースに詰め込むと、地面に叩きつけてその場から駆け出した。
ひとりでに歌い出したイヤホンの声が僕に話しかけてきて、しかも僕のココロの中を見通せる?
気持ち悪い!
僕はあの不気味なイヤホンから少しでも早く逃げ出したくて、無我夢中で家に向かって走っていった。
何分も延々と走ってようやく家の玄関まで辿り着くと、僕は扉のなかに入って崩れ落ちるかのように玄関口で座り込んだ。
「帰ってきたの? 晩ご飯の前にシャワー浴びる?」
リビングのほうから母さんの声が聴こえてきた。
僕は座っていたところからゆっくり立ち上がると、玄関の前の廊下をまっすぐ進んでその先にある階段を登った。
「ねえ、聴こえないの? ご飯とお風呂どっち先にするの?」
「後でいい」
僕は適当に返事をして二階にある自分の部屋に入ると、部屋にあるベッドに大の字で倒れ込んだ。
「後でいいって何? ご飯食べないの?」
部屋のすぐ外から母さんの声がする。
「いらない! 帰りに友だちと食べたからいい!」
問い詰めてくる母さんに僕は鬱陶しくなって、八つ当たりするかのように嘘をついて誤魔化そうとした。
「ああそう。じゃあ、今日は用意しないでおくから」
僕の態度に母さんはどこか腹立たしげに言うと、部屋の前のドアから離れて階段を降りていったみたいだった。
たぶん母さんを怒らせただろう。怒らせておいて自分で言うのもどうかと思うけど、あんまりいい気はしなかった。
だけどそんな気持ちも、さっきのあの自分に語りかけてくるイヤホンの不気味さに比べれば大したことじゃなかった。
ガラスのように透き通ったあの歌声に、聴いている人間を惑わせる甘い声。
母さんもいなくなって静かになった部屋の中でも、僕の頭の中ではまだあの声が響いていた。
『あー、拾ったイヤホン勝手に使ってるんだー。わーるいヤツだー』
『だーいじょうぶだって。勝手にコレ使ってること誰かにチクったりしないからさ』
『そっ。その通り。さっきあたしの声にメロメロになってくれて嬉しかったな〜』
その三つだけの言葉が延々と頭の中でループされる。頭にズキズキと痛みが走って、かち割れてしまいそうな気分になる。
僕は勉強机の上に置いてあった有線のイヤホンに手を伸ばすと、自分の携帯電話にコネクタを接続して音楽再生アプリを立ち上げた。
好きなロックバンドのプレイリストを再生すると、激しいギターやドラムの音と一緒に掠れた荒々しい男性のボーカルが流れだした。さっき聴いたのとは真逆のタイプの歌声だ。大音量で曲をかけながら、僕はあの女の人の声を上書きしようとする。
だけど意識から追い出せば追い出そうとするほど、あの鼓膜に焼きついた歌声を逆に意識してしまって、携帯から流れる大好きなはずの曲の存在があの歌声に較べて色褪せていくように感じた。
ごちゃごちゃとした雑音が煩わしくなってイヤホンを耳から取って外すと、僕は机に突っ伏した。
目を閉じて耳を塞いで、それで頭に浮かぶのは、やっぱりあのイヤホンとそこから流れたあのうっとりするような歌声だった。
着けた人間に勝手に話しかけてきて、ココロまで読んでくるイヤホン……ムチャクチャだ。
結局あれは、夢かマボロシだったのか?
でもそうだったとしたら、こんなはっきり頭の中に残るわけがないって思った。寝ている間に見た夢が起きたら何を見ていたのか記憶が朧げになるみたいに、あの声もどんな声だったのかあやふやになって思い出せなくなってしまう気がした。人が記憶で一番先に忘れてしまうのは、音の記憶だって前に聞いたことがあるし……
そうやってごちゃごちゃ考えていると、もう一度あれが現実だったのか確かめてみたくなった。
僕は突っ伏していた机から起き上がって席から立つと、部屋を出て階段を降りた。
「こんな時間からどこ行くの?」
玄関口で靴を履いていると、リビングのほうから母さんの声が聴こえてきた。
「忘れ物をしただけ。すぐ帰る」
短く答えると僕は表に出て、そこにある午前中雨が降っていて使わなかった自転車に乗ってあのイヤホンが落ちていた場所に向かっていった。
もしあそこにイヤホンが無かったら、全部マボロシだったってことになる。だとしたらそれで終わりだって済むだけだ。きっと明日の学校が嫌で、ゆううつになって変な幻覚でも見たってところだろう。
でも、逆にあれもこれも全部現実だったとしたら?
ペダルを漕いでいると、いつの間にかあのイヤホンを見つけた横断歩道の手前まで来ていた。
あれがあったのは、歩道と車道との境にある敷石の横だったはずだ。横断歩道を渡って向かいまで行くと、僕は自転車を止めて地面を見下ろした。
そこにはさっきと同じように、小さい白いケースが転がっていた。
まだ判らない。これは単なる誰かの落とし物で、ごく普通のイヤホンなんだ。勝手に歌ったり話しかけたりするなんてあり得ないんだ。
僕は地面に手を伸ばして落ちていたケースを拾い上げ、フタを開けてなぜか震える手で入っていたイヤホンを取り出した。
音は鳴ってない。当然だ。機械が自分で意思を持って動いたりするわけがない。
そのままケースの中に戻してしまっても良かった。だけど最後にもう一つだけこれが普通のイヤホンだとはっきり確認させようと、僕はイヤホンを耳に取り付けた──
『あは。また来てくれたんだ。もー、素直じゃないなあ。さっきはあんなヒドいことしてくれちゃってぇ。でも、また会いに来てくれて嬉しいな☆』
耳につけた途端、イヤホンから女の人の声が流れ出した。
間違いない。頭がとろけそうになるくらいうっとりとしてしまう、あの声だった。
夢なんかじゃない……全部本当だったんだ。
『いやいや、ユメにしたってこんなシチュエーション、なかなか浮かんでこないでしょ。道に落ちてたイヤホンを何気なーく拾って聴いてみたら、魅惑の歌声が流れてきた〜なんて』
「現実にこんなことが起こること自体があり得ないだろ」
こっちに一方的に話しかけてくる声に向かって僕は言い返した。明らかに異常事態に直面しているのに、僕の頭は不思議と冷静だった。
『冷静じゃないっしょ。周りの目も気にしないで、いちいちイヤホンから喋ってるあたしに声に出して文句つけるんだからさ』
「僕のココロの中をいちいち読むなよ! 鬱陶しい!」
そう叫びながら僕はあたりを見回した。近くに人影はなさそうだったけれど、イヤホンの声の主に誰かに見られてるって脅かされたみたいでなんだかシャクだった。
『八つ当たりなんかしないでよ。あたしは、周りにもっと注意したほうがいいよって言っただけなんだから』
僕が内心いらいらしているのを、僕に話しかける声は軽くかわすように言った。
「……誰なんだよ、君は」
『言いたいことは頭で思い浮かべるだけでいいって、忘れちゃった? まあ、言葉を声に出しておしゃべりしたいっていうんなら別に止めないけど』
そうだった。こいつは僕の心の中を読むことができるんだった。僕は口を閉じて黙りながら、イヤホンから次の言葉が流れてくるのを待った。
『あたしはちょっとした呪縛霊みたいなもんかな。君も、あたしがそういう存在だってなんとなく察しがついてたでしょ?』
この声の言う通りだった。普通に考えて、着けている人間に喋りかけてくるイヤホンなんて存在するわけがない。
近くに僕のことを見ている奴がいて、そいつが僕の様子を見ながら、イヤホンに接続した携帯か何かのマイクで話しかけてきているのならまだしも、そんな人間がいないってことはさっき周囲の様子を見た時にはっきりと確認した。
だとしたら……どうしてこんなものが現実に存在しているんだ? 気味が悪すぎる。
『ふうん。でも気味が悪いだの何だの言っておいて、結局キミ、またあたしに会いにきちゃってるんじゃん。あたしのこと、好きになっちゃった?』
「そういうんじゃない!」
こちらに向かって挑発するように言う声に、僕は反論した。
「僕はただ、これが夢か現実だったのか知りたかっただけで──」
『じゃあ、なんでまだあたしの声を聴いてんの?』
イヤホンから彼女の冷めた声が、僕の耳の奥に届いた。ガラスのように透き通った声が、僕の胸を突き刺すような感覚を覚える。
「えっ……」
『気になって調べてきたけど、やっぱ気味わり〜って思ったら、さっさとこのイヤホンを外して今度は近くにある用水路にでも投げ捨てることだって出来たわけじゃん。でもまだこうやってあたしの話を聴いてるってことはそれが出来ない、って言ってるのと同じじゃん』
淡々と語りかける声に、僕は言葉を失ったままその場に突っ立って聴いているだけだった。
彼女の言っている近くの用水路に目線を移す。午前中雨が降っていただけあって、用水路の中には水がたまっていた。もしあの大きい水たまりにこのイヤホンを投げ込んでしまえば、一発でさようならをすることができる。
じゃあ、なんで僕はそれをやらないんだ?
『だからさあ、キミはもうあたしにメロメロになっちゃったってコトだよ。こうなったらオトナしく、この声の虜になっちゃいなよ。さあ……』
気だるげなその声は僕を誘うように語りかける。
僕はイヤホンのケースをズボンのポケットの中に詰め込んだ。
そして耳にイヤホンを着けたまま、ここまで来るのに乗ってきた自転車のハンドルを押しながらその場を離れた。
自転車に乗ってすぐに帰ってしまうより、いまは家までの道を彼女の声を聴きながら、ゆっくりと歩いていきたい気分だった。
『いいねえ。じゃあここらで一曲やろうか。キミの好きな曲は……うん、オーケー。じゃあいくね……』
すう、とイヤホンから息を吸う音が聞こえると、彼女はハミングをしだして、そして歌声をかなで始めた。
彼女が歌い始めたのは、さっき僕が家に帰った時に部屋で聴いたロックバンドの曲だった。僕の記憶を読み取って、僕が好きな曲を選んだんだろうか?
僕が知っているあの曲は、聴いている人間を突き放して走り出すような、荒っぽい歌声が特徴的な曲だった。だけど彼女が歌うのは違う。聴いている人間を引き寄せて、一緒に昇るような気持ちにさせる歌声だった。
ああ……これじゃ、もともと聴いていたバンドの歌には戻れないな。
一体いつから僕はこの声に夢中になったんだろう? イヤホンが落ちていた場所に戻って、またこの声を聴いた時か? それとも最初にイヤホンを拾って、最初に彼女の歌声を聴いた時か?
少しだけ考えてみたけど、すぐにどうでもよくなった。
今の僕にとって大事なのは、この声をずっと聴いていたいってことだけだった。
僕は耳もとから全身に広がるような甘さに浸りながら、ゆっくりと目を閉じた。




