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第1話 追放――崩れたのは建物ではなかった

雨季の前触れは、匂いで分かる。湿った土と、石の裏に溜まる冷たい水の匂い。

現場監督カイルは、王都北門の城壁補修で、それを嗅いだ瞬間に「嫌な音」を思い出した。石が割れる音ではない。土が呻く音――見えない場所で起きる、ゆっくりした崩壊の予兆だ。

「基礎の下、まだ動いてる」

隣にいた年配の石工が、黙って頷いた。職人は皆、分かっている。分からないのは、いつも図面の上だけを見る人間だ。

監督官――貴族出身の役人が、羽根飾りの帽子を揺らしながら来る。

「急げ。晩餐会までに門の見栄えを整える。王命だ」

王命。便利な言葉だ。現場の都合も、土の都合も、命の都合さえも押し流す。

カイルは図面を広げ、基礎の線を指でなぞった。雨水の集まる低地、古い排水の行き止まり、過去の補修跡――線がすべて「同じ場所」に集まっている。

「雨季を越してから着工すべきです。今ここを触れば荷重が偏る。崩れます」

監督官は笑った。「崩れないようにするのがお前の仕事だろう?」

カイルは言い返す代わりに、短い“現場の説明”を積み上げた。

土の含水率、石の目、補修で重くなった部分、排水の出口が塞がっていること。現場の人間が聞けば一瞬で納得する話だ。だが監督官は、最後にこう言った。

「魔法補強を入れる。納期を守れ」

魔法補強――外側だけを固め、内側の水を閉じ込める。強く見えるが、壊れるときはまとめて落ちる。

カイルは一歩引いた。引いたのではなく、踏みしめた。

「私は止めます。止めるべきです」

その瞬間、空気が冷えた。職人たちが目を伏せる。「正しいこと」を言うと、現場が沈黙する。沈黙は、“次に誰が傷を負うか”を知っている証拠だ。

「続行。責任は現場監督が取る」

――来た。

責任を取るとは、責任を背負わせるという意味だ。

その夜、カイルは現場小屋で一人、地盤の杭の記録を見直していた。

帳面の数字は嘘をつかない。数字の間に、土の呼吸が見える。

遅れて戻ってきた若い職人が、戸口でもじもじする。

「監督……明日も、やるんですか」

言葉は軽いが、目が重い。“明日も命を預けていいのか”と聞いている。

カイルは短く言った。

「……やる。だが、逃げ道を作る。足場は二重。退避線を引く。異音がしたら、合図はいらない、走れ」

若い職人が唇を噛み、「はい」と頷いた。

この「はい」に、何人分の恐怖が含まれているかを、監督は知っている。

三日後、雨は予定より早く来た。

夜明け前、城壁が鳴いた。土が呻いた。カイルは走った。

「全員、退避!」

怒号が飛ぶ。足場が揺れ、石積みが微かに波打つ。最後の一人が梁から降りた瞬間――城壁の一部が、ゆっくり前に倒れた。

崩れ方は、カイルの想定通りだった。荷重が逃げず、基礎が滑り、補強が“支えたふり”をして、最後にまとめて落ちる。

土煙の向こうで、誰かの叫びが途切れた。

カイルは走り、瓦礫に手を突っ込んだ。熱と粉塵で喉が焼ける。指先に石の冷たさが刺さる。

引きずり出した腕は生きていたが、胸の上で息をしていなかった。

救出は夜まで続いた。泣き声と、祈り声。

そして翌日、王城に呼び出された。

「現場監督カイル。重大な過失により追放とする」

「過失?」

「補強が不十分だった。指揮が甘かった。結果として王都の威信を損ねた」

カイルは反論しなかった。反論が、死者を戻すことはない。

王都が欲しいのは“原因”ではなく“納得”だ。誰かを罰して終わりたい。

謁見の間を出るとき、背中に視線が刺さった。

振り返らない。振り返ったところで、崩れた壁は戻らない。

城門を出る前に、崩落した城壁の方向が遠くに見えた。

口から漏れた。

「……また、同じだ」

事故は初めてではない。もっと前から繰り返されている。

そして、その繰り返しの中で、“止めようとした者”がいつも消える。

カイルは荷物を背負い、王都を去った。

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― 新着の感想 ―
最初の依頼が「建てない判断」という逆転が強烈。 家族の生活が見える描写があるからこそ、この判断の重さがリアルに伝わります。
静かで重い一話。 崩壊そのものより、「正しい判断が排除される構造」を描いているのがとても刺さります。土の匂い・音・数字といった現場感覚の描写がリアルで、カイルの判断が正しかったことが最初から分かる分、…
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