王翼の歴史書
この記録は、天空王の伝承が正しく完結してしまう物語。
『天空王の槍』を読んでいると、より深く楽しめる。
しかし、単独でも完結している。
天空王の記録の整理とは、誰もが望む仕事であった。
望まれなかったのは、整理の先に何が残るかだけである。
語られすぎた来歴を一つにまとめ。
食い違う死を一つに正し。
神殿ごとに解釈の異なる槍の伝承を統合する。
整理とは、知る事から始まる。
若き神官は、空白の書物にそれを綴った。
槍の伝承だけは、特に慎重に言葉を探した。
生きていると書けば、人は探す。
殺されたと書けば、神が疑われる。
だから彼は、最も静かな言葉を選んだ。
槍の記述は、驚くほど容易に一つに定まった。
雷であり、黄金であり、天空王の象徴であること。
投げられ、貫き、天に還ったという筋書き。
どの神殿の文言も、詩人の比喩も、細部を削ぎ落とせば同じ輪郭を持っている。
若き神官は、それを疑いなく書き写した。
過不足はなく、異説の余地もない。
これ以上、正しく書く方法は存在しないだろう。
――それなのに。
書き終えた頁を閉じたとき、胸の奥に小さな引っ掛かりが残った。
何かを書き落としたのではない。誤ってもいない。
ただこの槍は、今しがた“終わった”のだと、理由もなく思ってしまった。
若き神官が祈祷の座を外れたのは、体調不良という理由だった。
誰もそれを疑わなかった。
天空王の祈りは長く、声を張る。
若者が一度や二度、喉を痛めることは珍しくない。
代わりに祈祷を任されたのは、年嵩の神官だった。
神殿に長く仕え、数え切れぬ儀式を主導してきた男である。
祈祷文はすでに頭に入っている。
書物を開く必要すらない。
問題は、最初の一節で起きた。
年嵩の神官が唱えた言葉に、若き神官は眉をひそめた。
語順が違う。
意味は同じだが、並びが違う。
――いや、違うのは本当に語順だけだろうか。
若き神官は、空白の書物を思い出した。
自分が整え、確定させたはずの文。
あの書物に記された言葉は、今、どちらなのか。
祈祷は続いた。
次の句で、今度は若き神官が内心で唱えていた文と、年嵩の神官の言葉が明確に食い違った。
雷を示す語が、天を示す語に置き換わっている。
槍を示す箇所が、省かれている。
だが、周囲の神官たちは静かに祈りを続けている。
誰も違和感を口にしない。
祈祷が終わった後、若き神官は意を決して尋ねた。
「今の祈りですが……その文は、どの書に基づいたものですか」
年嵩の神官は、少し考えるそぶりを見せた。
そして、穏やかに答えた。
「どの書だったかな。だが、昔からこう唱えている」
別の神官が口を挟んだ。
「いや、私の覚えている形とは違う」
さらに別の神官が続く。
「私の村では、そこは省略されていた」
神殿の中に、沈黙が落ちた。
誰もが、自分の祈りを正しいと信じている。
だが、同じ祈りを唱えた者は、誰一人としていなかった。
書物を開けば、そこには確定された祈祷文がある。
だが、それは誰の記憶とも完全には一致しない。
年嵩の神官は、最後にこう言った。
「……まあ、意味は通じている。問題はあるまい」
誰も反論しなかった。
反論するための「正しい形」を、誰も示せなかったからだ。
その日から、天空王への祈りは複数の形で唱えられるようになった。
神殿は分裂しなかった。
ただ、祈りが重ならなくなった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
その夜、若き神官は夢を見た。
神殿でも、書庫でもない場所だった。
空は低く、雲が止まっている。
雷は鳴っていないのに、空気だけが張りつめている。
誰かが、祈っている。
声は聞こえない。
だが、祈りの“形”だけは分かる。
言葉が、途中で途切れている。
若き神官は、その続きを知っている気がした。
知っている、というより——今、ここで思い出している。
書物にはない一節。
どの神殿にも残っていない句。
それは、称える言葉ではなかった。
天空王を呼ぶ言葉でもない。
生を願う言葉でも、勝利を願う言葉でもない。
それは、「終わらせる」ための言葉だった。
祈りは、神を招くためだけのものではない。
かつては、送り返すための祈りも存在した。
若き神官は、夢の中でそれを唱えた。
声は出ない。
だが、言葉は確かに形を持っていた。
その瞬間、空が裂ける。
雷ではない。光でも。
ただ、空という概念が破られた。
そこに、槍があった。
黄金ではなく、雷でもない。
ただの、無骨な一本の槍だった。
誰かの手に握られている。
だが、顔は見えない。
その存在は、若き神官を見下ろし、こう言った。
「——記録は、ここまでだ」
目を覚ました時、若き神官は汗に濡れていた。
夜明け前の静かな書庫で、彼は無意識に書を開いた。
確定させたはずの祈祷文。
その余白に、一行だけ、見覚えのない文があった。
彼は、それを読めなかった。
だが、確かに夢で唱えた言葉だと分かった。
若き神官は、その行を削った。
記録に残してはならないと、本能的に理解していたからだ。
それでも、祈りのたびに、言葉は喉まで上がってくる。
誰にも教えていない。
だが、天空王は知っている。
自分が、まだ終わっていないことを。
◇
それから、若き神官は同じ夢を見るようになった。
空が裂ける。
裂け目の向こうに、例の槍がある。
そこまでは、変わらない。
だが、二度目の夢では、槍が少しだけ長かった。
柄が、記録よりも太い。
穂先が、雷の形をしていない。
若き神官は、夢の中で考えた。
これは夢だ。
夢に記録が混ざっているのだ、と。
三度目の夢では、槍はもはや黄金ではなかった。
鈍い色をしている。
磨かれていない鉄のようで、しかし錆はない。
穂先は鋭すぎた。
切っ先というより、削り落とすための形をしている。
四度目の夢で、若き神官は気づいてしまった。
槍の穂先に、刃文のようなものがある。
それは雷ではなく、文字だった。
読めない。
だが、それが祈りの言葉そのものだということだけは分かった。
夢の中で、彼はそれを槍と呼ばなくなっていた。
あれは、武器ではない。
象徴でもない。
英雄の持ち物でもない。
五度目の夢で、槍は“裂け目”と同じ形になった。
空を貫くものではなく、
空そのものを固定する楔だった。
誰かが、それを打ち込んだ。
誰かが、それを抜かなかった。
若き神官は、夢の中で理解した。
天空王は、この槍を振るっていない。
——この槍を、打ち込まれていた。
目を覚ました若き神官は、息ができなかった。
神殿に伝わるどの記録とも合わない。
それでも、夢の中の槍は、あまりにも理にかなっていた。
戦神の武器ではない。
英雄の象徴でもない。
あれは、天空王を「固定する」ための道具だ。
若き神官は、次の祈りで、言葉を一つだけ落とした。
意図的ではない。
だが、確かに落とした。
その夜、夢の中で。槍はもう一度、姿を変えた。
◇
その夜の夢には、空の裂け目がなかった。
代わりに、静かな蒼が広がっていた。
雲も、雷もない。
ただ、高すぎる空だけがある。
若き神官は、そこに立っていた。
足元があるのかどうかも分からない。
そして、前に“それ”があった。
槍は、もう武器の形をしていなかった。
それは一本の柱だった。
空を貫き、空を縫い止めるように、まっすぐ立っている。
柱の根元に、人影があった。
王冠はない。
甲冑もない。
だが、間違えようがなかった。
——天空王だ。
彼は立っていなかった。
跪いてもいなかった。
ただ、そこに“在った”。
若き神官は、声をかけようとして、できなかった。
祈りの言葉が、形にならない。
天空王が、こちらを見た。
怒りはない。
憐れみもない。
ただ、ひどく疲れた目をしていた。
そして、言った。
「槍を抜くな」
それだけだった。
理由もない。
警告でもない。
命令ですらない。
まるで、昔からそう決まっていた事実を、
確認するような声音だった。
若き神官は、問いを口にしかけた。
なぜか。
誰が。
いつから。
だが、天空王はそれを待たなかった。
彼は、槍に手を伸ばした。
掴んだのではない。
触れたのでもない。
ただ、そこに在ることを確かめた。
その瞬間、空が軋んだ。
裂ける音が、遠くで鳴った。
「抜けば、終わる」
天空王は、そう付け足した。
終わる、が何を指すのかは分からない。
世界か。
神々か。
それとも、自分自身か。
若き神官がそれを考え終わる前に、夢は崩れた。
目を覚ました彼は、神殿の天井を見つめていた。
心臓が早鐘を打っている。
そして、初めて気づいた。
——祈りの言葉の中に。
「槍を抜け」という意味を持つ祝詞があることに。
それは、これまで“復活を願う言葉”として解釈されていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それは、善意から始まった。
若き神官が祈りを言い淀むようになったことは、すぐに気づかれた。
言葉が欠ける。
抑揚が合わない。
祝詞の流れが、どこかで途切れる。
――疲れているのだろう。
――記録整理の重責だ。
そう結論づけられ、別の神官が祈りを引き継いだ。
年嵩の神官だった。
記憶力に優れ、古い祝詞を多く知る者。
彼は、若き神官が残した書き付けを丁寧に読み、
欠けた部分を“補った”。
夢を見ない者だった。
だからこそ、迷いもなかった。
祝詞は整えられた。
意味は一つに束ねられ、矛盾は削ぎ落とされ、
語感は美しく、祈りとして完成した。
神殿に、久方ぶりの一体感が戻った。
祈りの最中、槍が鳴った。
それは雷ではなかった。
金属の軋む音でもない。
もっと深い――
空そのものが息を吐くような、低い音だった。
若き神官は、その場で膝をついた。
彼だけが知っていた。
今、祝詞は“正しく”なったのだと。
夢で見た言葉が、欠けていた部分が。
すべて繋がってしまったことを。
その夜、彼は再び夢を見た。
あの空だ。
あの柱だ。
だが、違っていた。
槍は、もう柱ではなかった。
わずかに、浮いていた。
天空王は、そこにいなかった。
代わりに、声だけがあった。
「……ああ」
それは嘆きではなかった。
怒りでもなかった。
ただ、理解した者の声だった。
「正しく、してしまったのか」
若き神官は叫ぼうとした。
違う、と。
抜いてはいけない、と。
だが、声は出なかった。
夢が崩れる直前、最後に見えたのは、
槍の根元に走った、細い亀裂だった。
翌朝、神殿の記録にはこう残された。
――祝詞、完成。
――解釈、統一。
――復活儀式、準備段階へ移行。
若き神官の名前は、その記録のどこにも記されていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
復活儀式の準備が進むにつれ、若き神官の存在は目立つようになった。
祈らない。
槍に近づかない。
祝詞の時間になると、必ず席を外す。
それは、信仰の拒絶に見えた。
彼は説明しようとした。
言葉を選び、声を震わせながら、何度も訴えた。
――槍は、墓標なのだ。
――抜けないのではない、抜いてはならない。
――祝詞は完成してはいけなかった。
だが、その言葉はどれも記録に残らなかった。
「夢を見たから?」
「神がそう言ったと?」
「それは、君個人の体験だ」
神殿は、彼を憐れんだ。
疲労。
過労。
責任感の暴走。
どれも、もっともらしい理由だった。
やがて誰かが言った。
「彼が不安を煽っている」
別の誰かが言った。
「復活儀式の妨害だ」
その瞬間、彼の役割は決まった。
――異端。
裁きは早かった。
神殿の広場で、公開処刑が行われることになった。
理由は簡潔だった。
――天空王の復活を否定したため。
彼は最後まで抵抗しなかった。
縄をかけられても、槍の方を見ていた。
あれは、少し浮いていた。
ほんのわずかに。
誰も気づかないほどの変化だった。
処刑の直前、彼は一言だけ許された。
「言い残すことはあるか」
若き神官は、空を仰いだ。
「――あの方は、戻りたくなかった」
それだけだった。
刃が振り下ろされ、
血が石畳を濡らし、
記録はそこで終わった。
翌日、処刑の記述は整えられた。
――異端、粛清。
――祝詞の純化、完了。
――復活儀式、最終段階へ。
若き神官の名は、
そのどこにも残されなかった。
ただ一つ、奇妙な追記だけがあった。
――処刑後、槍の影が一瞬、二つに見えたという証言あり。
――原因不明。記録不要。
その夜、雷は鳴らなかった。
空は、ひどく静かだった。
◇
復活儀式は、成功したと宣言された。
雷は落ちなかった。
天は裂けなかった。
槍も抜けなかった。
だが、祝詞は最後まで唱えられた。
正しい言葉で。
正しい順序で。
正しい人数によって。
それだけで、十分だった。
神官長は宣言した。
「天空王は、復活した」
誰も異を唱えなかった。
神殿の中には、奇妙な安堵が満ちていた。
何かが起きなかったことよりも、
“起きたことにできた”事実の方が、はるかに重要だった。
記録官たちは、即座に動いた。
――復活年表の作成。
――新たな聖句の追加。
――「復活後の天空王」の性質整理。
誰も姿を見ていないにも関わらず、
天空王は語られ始めた。
・雷を抑え、天を鎮めている
・直接姿を現さぬ、成熟した神格
・人の世を見守る段階へ移行した
記録は整っていった。
やがて吟遊詩人が歌い、
子供が覚え、
老人が「昔は復活前だった」と語るようになった。
誰も疑わなくなった。
なぜなら。
疑う理由が、記録に存在しなかったからだ。
槍は神殿に残された。
かつては「墓標」と呼ばれていたそれは、
今では「復活を支えた神器」と説明されている。
誰も抜こうとしない。
抜く必要がないからだ。
天空王は、もうそこに居ないことになっている。
復活した神は。
現れない神であり、
沈黙する神であり、
何も変えない神として定義された。
――完璧だった。
ただ一つだけ、問題があった。
雷が、完全に消えた。
嵐は起きなくなり、
落雷による火災は減り、
空は安定した。
人々はそれを「加護」だと呼んだ。
だが、誰も気づかなかった。
雷は鎮められたのではない。
呼ばれなくなったのだ。
記録がそう書いたから。
そして世界は、
その記録に従った。
天空王は、確かに復活した。
――記録の上では。
彼を殺したのは、
神々でも、槍でもない。
世界そのものだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
復活後の天空王について、神殿は新たな定義を設けた。
――天空王は、雷を振るわない。
――天空王は、姿を現さない。
――天空王は、人の願いに直接応えない。
それらはすべて、
「成熟した神格の証」と説明された。
誰も疑問に思わなかった。
なぜなら。
復活前の天空王を知る者は、もう誰もいなかったからだ。
この物語の先に、もう一つの記録がある。
『空の書』――
完璧に定義された神話の裏側で、
曖昧な神話が生まれる物語である。
興味があれば、その余白を覗いてほしい。




