第8話:最初の顧客は、宿屋のおかみ
食料を探すため、意を決して足を踏み入れた森は、想像以上に深く、そして生命の気に満ちていた。
高くそびえる木々の枝葉が天蓋となり、陽の光を木漏れ日へと変えている。しっとりと湿った土の上には、厚い苔の絨毯が広がり、歩くたびに足音を柔らかく吸い込んだ。ここは、王都の整然とした庭園とは全く違う、ありのままの自然が息づく場所。人によっては不気味だと感じるかもしれないが、植物を愛する私にとっては、むしろ心安らぐ聖域のように感じられた。
私は鎌を片手に、五感を研ぎ澄ませながら慎重に進んでいく。闇雲に歩き回るのではない。木の種類、陽の当たり方、風の流れ、土の湿り具合。前世で培った植物学者としての知識を総動員し、この森の生態系を読み解いていく。
食べられるキノコは、特定の木の根元に共生することが多い。食用の野草は、水辺や日当たりの良い開けた場所を好む。私の頭の中にある知識の地図と、目の前の森の姿を照らし合わせながら、宝探しのように食料を探した。
知識は、時に魔法以上の力を発揮する。
素人が見れば毒々しいと避けて通るような、地味な色合いのキノコが、実は極上の出汁が取れる食用キノコであることを見抜く。何の変哲もない道端の草が、茹でれば美味しいおひたしになることを知っている。
一時間も歩き回る頃には、私の布袋は森の恵みでずっしりと重くなっていた。香りの良いキノコ、柔らかそうな若草の芽、そして甘酸っぱい香りを放つ木苺。これで、少なくとも数日は食いつなぐことができるだろう。
食料だけでなく、思わぬ収穫もあった。
朽ちかけた大木の根元に、ひっそりと自生する数本の薬草を見つけたのだ。その形、葉脈の走り方、独特の土臭い香り。間違いない、鎮静作用を持つバレリアンの根と、滋養強壮に効くと言われるジンセンだ。どちらも王都の市場では高値で取引される高級品。こんな場所に、無造作に生えているなんて。
この森は、私にとって文字通りの宝の山だった。
その日の夕方、私は収穫した食材で、辺境に来てから初めてまともな食事を作った。
キノコと野草を煮込んだ滋味深いスープ。さっと茹でた若草のおひたし。デザートには、摘みたての木苺を。どれも質素な料理だったが、自分の知識と足で手に入れた食材の味は、格別だった。
満腹になった私は、収穫した薬草を種類ごとに分け、小屋の軒下に吊るして乾燥させ始めた。バレリアンの根は、乾燥させて粉末にすれば、質の良い鎮静剤になる。ジンセンは、このまま煎じて飲めば薬湯として売れるかもしれない。
これらを売れば、当座の生活費くらいにはなるだろうか。いや、しかし、誰が私のような素性の知れない女から薬草など買うだろう。村人たちは、まだ私を厄介者として遠巻きに見ているだけだ。
そんなことを考えていた、翌日の昼過ぎのことだった。
小屋の外で畑の手入れをしていると、村の方から一人の女性が、おずおずといった様子でこちらに近づいてくるのが見えた。恰幅の良い、四十代くらいのおかみさんだ。村人の中で、私に直接話しかけてくる者は初めてだった。
彼女は私の数歩手前で立ち止まると、警戒と好奇心が入り混じったような目で、私と、軒下に吊るされた薬草を交互に見た。
「……あんた、薬草の知識があるって、本当かい?」
ぶっきらぼうだが、切実さの滲む声だった。
「はい、少しばかりは」
「じゃあ、痛み止めの薬は作れるかい? うちの亭主が、ぎっくり腰になっちまってね。もう何日も、動けずに唸ってるんだ。村には医者もいやしないし、祈祷師のまじないなんて、気休めにもなりゃしない」
おかみさんは、一息にそう言った。その目には、夫を心配する色が浮かんでいる。
痛み止め。私の手持ちの薬草の中には、直接的な鎮痛作用を持つものはない。だが、私の知識が、別の答えを導き出した。
「直接的な痛み止めはございませんが、血行を良くし、筋肉の炎症を和らげる軟膏なら、お作りできます。ぎっくり腰でしたら、そちらの方が効果的かと」
私は乾燥させておいた薬草の中から、血行促進作用のあるジンジャーリーフと、抗炎症作用を持つカレンデュラを選び出した。そして、森で採取しておいた蜜蝋と、植物性の油を鍋で温め、そこに刻んだ薬草を加えていく。錬金術のように正確な配分と、薬草学に基づいた温度管理。それは、この世界の誰も知らない、私だけの秘法だった。
やがて、小屋の中にとろりとした薬効成分が溶け出した、緑色の軟膏が完成した。小さな壺にそれを詰め、おかみさんに手渡す。
「これを、旦那様の腰に優しく塗り込んであげてください。一日二度。きっと、楽になるはずです」
「……ほ、本当かい?」
「ええ。もし効かなければ、代金はいただきません」
おかみさんは、半信半疑といった顔で軟膏の壺を受け取った。そして、「……代金はいくらだい?」と尋ねる。
私は少し考え、こう答えた。
「では、古い鍋を一つと、塩を少し、分けていただけませんか」
私の答えに、おかみさんは目を丸くした。金ではなく、生活必需品を要求したことが、よほど意外だったらしい。
「……鍋と、塩でいいのかい?」
「はい、今の私には、お金よりもそちらの方がありがたいので」
おかみさんは、私の顔と、私の住むあまりにも貧しい小屋を改めて見比べると、何かを納得したように深く頷いた。
「……分かったよ。もし、もし本当に亭主の腰が良くなったら、あんたの言う通りにしてやるさ」
そう言うと、彼女は軟膏の壺を大事そうに懐にしまい、足早に村の方へと帰っていった。
彼女が私の最初の顧客だった。
私の知識が、初めてこの村の誰かの役に立つかもしれない。その事実は、お金を得ることよりもずっと、私の心を温かく満たしてくれた。
私は、おかみさんの去っていった道を見つめながら、自分の作った軟膏が、どうか彼女の夫の痛みを和らげてくれますようにと、静かに祈った。




