第7話:小さな芽吹きと、村人たちの遠い目
魂を込めて作り上げた土は、すぐには使えない。最低でも数日間は寝かせ、腐葉土や灰といった新たに加えられた要素を、土着の微生物たちに馴染ませる時間が必要だった。焦りは禁物。植物を育てるということは、生命のリズムに寄り添うということなのだから。
その間、私は決して暇にしていたわけではなかった。来るべき種蒔きの日に備え、来る日も来る日も畑の周りの環境を整え続けた。
まずは、畑を囲う簡単な柵作り。森で拾ってきた丈夫な枝を地面に打ち込み、しなやかな蔓で編んでいく。これは、森の小動物から、これから芽吹くであろうか弱い苗を守るためのものだ。次に、道具の手入れ。錆びついていた鎌は、泉の近くで見つけた砂岩で根気よく研ぎ、見違えるほど切れ味を良くした。柄の折れた鍬も、硬い木の枝を削って添え木とし、蔓で固く縛り上げることで、なんとか使える状態にまで修復した。
その私の姿は、村人たちの目にはやはり奇異に映っていたらしい。
「おい、見たか? あの元貴族様、今度は木の枝で何か作ってるぞ」
「昨日まで土をこねくり回してたと思ったら、次は大工仕事か。一体何がしたいんだか」
「どうせ、すぐに飽きて泣き言を言うに決まってる」
彼らの囁き声は、風に乗って私の耳にも届いた。だが、私は何も答えず、ただ黙々と手を動かし続けた。私の行動を理解してもらうには、言葉ではなく、結果を見せるしかないのだから。
そして、土を寝かせて五日目の朝。
夜の間に降った霧が晴れ、柔らかな朝日が大地を照らし始めた頃、私は「その時が来た」と直感した。畑の土を手に取ると、しっとりと湿り気を帯び、生命力に満ちた芳しい香りを放っている。最高のコンディションだ。
私は小屋に戻り、大切に保管していた布袋を、まるで宝物でも扱うかのように、そっと取り出した。中に入っているのは、私がこの世界で生きるための、希望の種。
最初に蒔くのは、カモミール。小さなキク科の植物で、その花から抽出される成分には、神経を落ち着かせ、安眠を促す効果がある。過酷な辺境での暮らしに疲れた人々の心を、きっと癒してくれるはずだ。
次に、ラベンダー。清涼感のある上品な香りは、精神を安定させるだけでなく、防虫効果も高い。乾燥させてポプリにすれば、この古びた小屋の空気も少しはましになるだろう。
最後に、ミント。この世界特有の品種で、かすかな魔力を帯びている。その強い清涼感と覚醒作用は、薬の材料として非常に価値が高い。特に、錬金術でポーションを作る際の触媒として重宝されることを、私は『錬金術基礎論』を読んで知っていた。これは、いずれ私の大きな収入源になるかもしれない。
私は前世の知識を総動員し、それぞれの種の特性に合わせて、蒔く場所、深さ、間隔を慎重に決めていく。そして、一粒一粒に「元気に育て」と願いを込めながら、ふかふかの土のベッドへと優しく寝かせていった。
全ての種を蒔き終えた頃には、太陽は空高く昇っていた。額の汗を手の甲で拭い、自分の仕事を見下ろす。そこにあるのは、まだただの黒い土が広がる小さな区画に過ぎない。だが、私の目には、この土の下で始まる、小さな生命の力強い営みが見えるようだった。
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それからの日々は、地道な作業の繰り返しだった。
毎朝、夜が明けきらぬうちに起き、泉から水を汲んでは畑に運んだ。ただやみくもに水を撒くのではない。指で土の湿り具合を確かめ、その日の天候を読み、一株一株に最適な量だけを、まるで赤子に乳を与えるかのように、丁寧に与えていく。
村人たちは、そんな私の姿を「いよいよ頭がおかしくなったか」とでも言いたげな目で遠巻きに眺めていた。彼らの目には、私がやっていることは、実りのない土くれに、ただ無駄な労力を注ぎ込んでいるようにしか見えないのだろう。
そして、種を蒔いてから、七度目の朝日が昇った日のことだった。
いつものように水差しを手に畑へ向かった私は、思わずその場に立ち尽くした。
黒い土の表面を突き破って、小さな、本当に小さな、二枚の葉が健気にも顔を出していたのだ。それは朝日を浴びて、露の雫をきらきらと輝かせている。
芽吹き。
その、あまりにもか弱く、しかし力強い生命の輝きに、私の胸は熱いもので満たされた。
「……あ……」
思わず膝をつき、その双葉にそっと指先で触れる。柔らかく、温かい。生きている。
公爵令嬢として、これまでどんな高価な宝石も、どんな美しいドレスも手にしてきた。だが、そのどれ一つとして、今目の前にあるこの小さな双葉ほど、私の心を揺さぶり、感動させたものはなかった。
これは、私がこの世界で、初めて自分の手で生み出した、希望の光だった。
その日の午後には、私の畑に芽が出たという噂は、好奇心旺盛な子供たちによって、あっという間に村中に広まっていた。
大人たちは、まさか、という顔で遠くから私の畑を窺っている。
「おい、本当だぞ。あの痩せた土地から芽が出てる」
「まぐれだろう。どうせ、すぐに枯れるに決まってる」
「だが、あんなに生き生きとした芽は、俺たちの畑でも見たことがない……」
彼らの声には、これまでの完全な侮蔑だけでなく、ほんのわずかな戸惑いと、無視できない好奇心が混じり始めていた。村長のエルマーも、家の戸口から、険しい顔でじっと私の畑の方を見つめている。
その視線の変化に気づきながらも、私はただ、愛おしい双葉の世話を続けた。
小さな成功に心が浮き立つ一方で、私は極めて現実的な問題にも直面していた。
食料が、もうほとんど残っていないのだ。護衛が置いていった麻袋の中の干し肉と固いパンは、とうの昔に底をついた。アンナがくれたパンも、昨夜のスープで最後の一切れを食べ終えてしまった。
このままでは、ハーブが収穫できる大きさになる前に、私が飢え死にしてしまう。
私は芽吹いたばかりの畑と、その向こうに広がる深く、薄暗い森を交互に見つめた。
待っているだけではダメだ。
この森には、薬になる植物がある。ならば、きっと、食料になる恵みも眠っているはずだ。
私は小屋に戻ると、研ぎ直した鎌と、物を入れるための布袋を手に取った。
次の仕事は、この森の開拓。
自らの足で歩き、自らの知識で、食料を見つけ出す。それこそが、ここで私が生きていくための、次なる一歩だった。