第6話:土と語る、前世の知識
辺境の地で迎える初めての朝は、驚くほど静かで、そして鮮烈だった。
アルドール公爵邸の、羽毛のように柔らかいベッドとは似ても似つかぬ、硬い木の床で目覚めたというのに、体の怠さはない。むしろ、森の木々を濡らす朝露の匂いと、名も知らぬ鳥たちの澄んださえずりが、全身の細胞を優しく揺り起こしていくような、不思議な心地よさがあった。
私はゆっくりと身を起こし、大きく伸びをする。昨日までの筋肉痛が嘘のように、体は軽く、活力に満ち溢れていた。
「さて、と」
独り言を呟き、私は小屋の外へ出た。今日の目標は決まっている。私の新しい人生の基盤となる、ハーブ園の開墾だ。
小屋の周りを見渡し、菜園に最も適した場所を探す。東から南にかけて緩やかに傾斜し、日当たりと水はけが良く、それでいて西の森が強風を遮ってくれるであろう、小屋の裏手の一角。そこが、私の最初の仕事場に決まった。
そこは、背の低い雑草と、ゴツゴツとした石ころに覆われた、典型的な荒れ地だった。村の畑が痩せているのも頷ける。この土地の土は、一見しただけで生命力に乏しいことが分かった。
私はおもむろに地面に膝をつき、一掴みの土を手に取った。
村人が見れば、元貴族が気でも狂ったと思うだろう。だが、私にとっては、これは未来の計画を左右する重要な分析作業だった。
まず、指で土をこねる。粘土質が強く、指の間で湿った塊になる。水はけが悪い証拠だ。次に、土を鼻に近づけ、深く息を吸い込む。ツンとする、わずかに酸っぱい匂い。土が酸性に傾いている。これでは、多くの植物は根を張ることができない。
「なるほどね……」
私は思わず笑みを浮かべた。
痩せこけて、石ころだらけで、酸っぱい土。最悪のコンディションだ。だが、それは素人から見た評価に過ぎない。
前世の植物学者としての私の目には、この土は磨けば光る「原石」に見えていた。粘土質の土は、一度養分を蓄えればそれを保持する力も強い。問題は、その養分をどう与え、土壌の酸性度をどう中和するか、だ。
そして、その答えを、私は知っている。
「まずは、体力仕事から、ね」
私は小屋から、昨日見つけた柄の折れた鍬と錆びた鎌を持ち出してきた。そして、覚悟を決めて荒れ地に足を踏み入れる。
まずは、地表を覆う雑草を鎌で刈り取っていく。公爵令嬢として過ごした十七年間では、考えられない作業だ。美しい刺繍をすることしか知らなかった私の手は、すぐに豆だらけになった。だが、不思議と苦ではなかった。むしろ、自分の手で未来を切り開いているという実感が、心地よかった。
次に、鍬を振るう。石に当たって火花が散る。硬い地面に鍬を打ち込み、土を掘り返し、大小さまざまな石を一つ一つ手で拾い上げては、畑の隅に積み上げていく。単調で、過酷な作業。額から流れ落ちる汗が、容赦なく目に入った。
その様子を、村の子供たちが何人か、遠巻きに眺めていることに気づいた。好奇心に満ちた瞳。私が何か奇妙な儀式でもしているように見えているのかもしれない。やがて、子供たちの親らしき大人たちが現れ、彼らを家へと連れ戻していく。その背中からは、「関わってはいけない」という強い拒絶の意思が感じられた。
私は彼らに構うことなく、黙々と作業を続けた。言葉で何を言っても、今の私を信じる者はいないだろう。ならば、行動で、そして結果で示すしかない。
半日かけて、ようやく畳四畳分ほどの土地から雑草と石を取り除くことができた。しかし、仕事はまだ半分も終わっていない。ここからが、私の知識の真骨頂だ。
私は籠を手に、すぐ裏の森へと入った。目的は、腐葉土。長年、落ち葉が積もり、微生物によって分解されてできた、天然の極上肥料だ。ふかふかとした黒い土を、何度も小屋と森を往復して運び、先ほど耕した土地にたっぷりと撒いていく。
次に、小屋の囲炉裏に溜まった灰を運んできた。木を燃やしてできた灰はアルカリ性で、酸性に傾いた土を中和するのに最適だ。これもまた、惜しみなく土に混ぜ込む。
仕上げに、泉のほとりに自生していた水苔を採取し、細かくちぎって土に鋤き込んだ。水苔は保水性に優れ、痩せた土地が水分を保持するのを助けてくれる。
腐葉土の栄養と、灰のミネラル、そして水苔の保水力。
この世界の一般的な農法では、ただ作物を植え、聖印を持つ者の魔力で成長を促すのが主流だ。こんな風に、土そのものに手間をかけるという発想は、おそらくないだろう。
全ての作業を終え、土を混ぜ合わせた後、私は再び一掴みの土を手に取った。
朝とは全く違う。ふっくらと柔らかく、生命力に満ちた甘い匂いがする。指の間でさらりと崩れるその感触は、まさしく植物を育むための「生きた土」のそれだった。
日が西の山に沈み、空が茜色に染まる頃、私の最初の仕事はようやく終わりを迎えた。
見渡せば、そこにあるのはまだ、小さな小さな、ただの土くれの区画だ。だが、私には見えていた。この場所に、やがて銀色の葉をつけたラベンダーが風にそよぎ、可憐なカモミールの白い花が咲き乱れる未来の光景が。
心地よい疲労感に包まれながら、私は小屋に戻り、鞄の奥から大切にしまっておいた種の袋を取り出した。
「もう少しだけ、待っていてね」
小さな種の粒に、私は優しく語りかける。
「あなたたちのための、世界で一番心地よい寝床を、ちゃんと用意してあげるから」
土と語り、種に未来を託す。
それは、私が前世からずっと愛してきた、そしてこの世界で生き抜くための、ただ一つの確かな希望だった。