第4話:馬車に揺られて。辺境の地、アーズブリー村へ
革鞄一つを手に自室を出た私を、屋敷の玄関ホールで待っていたのは、見送りの家族ではなかった。そこにあったのは、王家の紋章が申し訳程度に焼き付けられた、罪人護送用の無骨な馬車。そして、感情の読めない顔つきの護衛騎士が二人。それが、私の新たな門出を祝う全てだった。
大理石の床をブーツで進む。かつては賓客で賑わったホールはしんと静まり返り、私の足音だけがやけに大きく響いた。柱の影や階段の上から、大勢の使用人たちが息を殺してこちらを見ているのが分かった。好奇、侮蔑、そしてほんの少しの同情。だが、誰一人として、私の前に進み出て声をかけようとする者はいない。昨日までの忠誠は、一夜にして露と消えていた。
それでいい。感傷に浸っている暇などないのだから。
私が馬車のステップに足をかけようとした、その時だった。
「お嬢様……!」
背後から、か細い声がした。振り返ると、侍女のアンナが息を切らして駆け寄ってくるところだった。他の使用人たちの咎めるような視線を振り切って、彼女は私の前にひざまずいた。
「アンナ……」
「何も、お持ちにならないと伺いましたので……せめて、これを」
彼女はそう言うと、小さな布包みを私の手にぎゅっと握らせた。まだ温かい。今朝焼かれたものだろうか。
「いけません、あなたに迷惑がかかるわ」
「いいえ! 私は、お嬢様が皆さんの言うような方だとは、どうしても思えませんから!」
アンナは顔を上げ、涙で潤んだ瞳で私をまっすぐに見つめた。
「昔、私が熱を出して寝込んだ時、お嬢様がこっそり薬湯を部屋に届けてくださったのを、忘れておりません。……どうか、どうかお元気で」
そう言い残すと、彼女は深く一礼し、再び屋敷の中へと走り去っていった。
握りしめた包みからは、素朴なパンの香りがした。中にはきっと、彼女がなけなしの給金で買ったであろう干し肉か何かと、数枚の銅貨が入っているに違いない。
凍てついていた心の奥に、小さな灯火がともるのを感じた。
ありがとう、アンナ。あなたの優しさは、決して忘れない。
私は布包みを鞄にしまい、今度こそ迷いなく馬車に乗り込んだ。
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護送馬車の旅は、想像以上に過酷なものだった。
板張りの座席は硬く、車輪が石畳を拾うたびに、全身に衝撃が突き上げてくる。窓は小さく、鉄格子がはめられていた。まるで移動式の牢獄だ。
馬車は王都の壮麗な大通りを抜け、次第に庶民の暮らす雑然とした地区へと入っていく。そして、重々しい音を立てて城門をくぐり抜けた瞬間、私はもう二度とこの場所には戻れないのだと、はっきりと実感した。
さようなら、ロゼリア・フォン・アルドール。さようなら、私の過去。
旅は数日に及んだ。食事は一日に一度、水でふやかした硬いパンと干し肉が与えられるだけ。夜は馬車の中で、マントにくるまって眠った。
御者台に座る護衛騎士たちの会話が、時折、風に乗って聞こえてきた。
「しかし、不憫なもんだな。あのアルドール公爵家のお嬢様が、あんな辺境に追放とは」
「自業自得だろ。聖女様に嫉妬して、酷い嫌がらせをしたって話じゃないか」
「それにしても、行き先がアーズブリー村とはな……。国の最果て、忘れられたような土地だ。冬は豪雪に閉ざされるし、たまに魔獣も出るって聞くぞ」
「元貴族のお嬢様が、生きていけるような場所じゃねえな」
アーズブリー村。それが、私の新しい住処の名らしい。
騎士たちの言葉から察するに、そこは人が暮らすにはあまりにも厳しい土地のようだ。絶望的な情報だったが、不思議と心は凪いでいた。
むしろ、好都合だ。
王都から遠く離れ、誰の監視もない土地。それは、私が新しい人生を始めるには最適な場所ではないか。魔獣が出るなら、薬の材料となる希少な植物も自生しているかもしれない。厳しい環境は、逆に私の知識を試すための最高の舞台だ。
ガタガタと揺れる馬車の中で、私はこれからの計画を練り始めた。
まずは、住む場所と食料の確保。村人にすぐ受け入れられるとは思えないから、しばらくは自給自足の覚悟が必要だろう。幸い、鞄の中には薬草学全書がある。これと前世の知識を組み合わせれば、食べられる野草や薬草を見分けることができるはずだ。懐に忍ばせた種は、春になれば植えられるだろう。
次に、収入源の確保。騎士たちの話では辺境の村にはまともな医者もいないだろうから、私が作る回復薬や軟膏は、きっと重宝されるはずだ。最初は物々交換からでもいい。少しずつ信頼を得て、薬草師としての地位を築くのだ。
そう、私は絶望している暇などない。やるべきことは、山ほどある。
車窓から見える景色は、日を追うごとにその姿を変えていった。豊かな緑が広がっていた平野は、ごつごつとした岩肌が目立つ丘陵地帯に変わり、やがて険しい山道へと続いていく。舗装されていた街道は、いつしかただの獣道になり、文明の光がどんどん遠ざかっていくのを感じた。
そして旅が始まって五日目の昼過ぎ、馬車はついに速度を落とし、きしむような音を立てて停止した。
「着いたぞ。降りろ」
護衛の一人に乱暴に促され、私は馬車から降り立った。
目の前に広がっていたのは、想像していた以上に寂れた、小さな村の姿だった。
石と古びた木材で建てられた家が十数軒、身を寄せ合うようにして建っている。畑は痩せ細り、作物の育ちは見るからに悪い。村を囲む森は深く、どんよりとした空気が漂っていた。
私という異邦人の出現に、村人たちは家の戸口や窓から、警戒心に満ちた視線を向けてくる。その目は、私を「厄介者」だと断じていた。
護衛騎士は、村長らしき腰の曲がった老人に羊皮紙の通達書を突きつけると、形式的な引き渡しを早々に済ませた。
「この者は、王命により本日付でこの村預かりとなった罪人だ。決して村の外へは出すな。これは、当座の食料だ」
そう言って、麻袋を一つ地面に放り投げると、騎士たちはさっさと馬車の向きを変え、まるで厄介払いでもするかのように慌ただしく去っていった。
あっという間に、馬車の姿は道の向こうに見えなくなる。
後に残されたのは、私一人。
村人たちは誰一人近づいてこようとはせず、ただ遠巻きに私を見ているだけ。冷たい風が、私の頬を撫でていった。
家も、家族も、地位も、名誉も、魔力も、全てを失った。そして今、文明社会からも切り離され、見知らぬ土地にたった一人で置き去りにされた。
これ以上ないほどの、絶望的な状況。
だが、私の瞳には、諦めの色はなかった。
私は足元に置かれた麻袋と、自分の革鞄を拾い上げた。
ここが、私の新しい人生が始まる場所。
ロゼリア・フォン・アルドールは死んだ。今日から私は、薬草師ロゼリアとして、この地で生きていく。
私は前を向き、警戒する村人たちの方へ、静かに、しかし確かな一歩を踏み出した。