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第3話:消えかけた聖印(スティグマ)の謎

夜が明け、窓の隙間から差し込む冷たい光が、私の瞼を容赦なくこじ開けた。

 見慣れた自室の天井。天蓋付きのベッドの柔らかな感触。しかし、その全てがひどく現実味を失い、まるで他人の部屋に迷い込んだかのような居心地の悪さを感じていた。昨夜の出来事は、悪夢ではなかったのだ。


 身を起こすと、いつもならすぐに駆けつけてくるはずの侍女たちの姿はどこにもなかった。しばらくして、ようやく入室してきたのは、一番年下の侍女アンナだけだった。彼女は私の顔をまともに見ようとせず、小さな声で「……お着替えと、朝食の準備ができております」とだけ告げ、足早に下がっていく。その瞳に浮かんでいたのは、憐れみと、ほんの少しの恐怖。他の侍女たちは、勘当される私に関わることを恐れているのだろう。

 昨日まで私を「未来の王妃様」と持ち上げていた者たちの手のひら返しは、もはや私の心を揺さぶることはなかった。前世の記憶がもたらした精神的な老成は、こんな時、実に役に立つ。


 簡素な朝食を終え、旅支度を始める前に、父であるアルドール公爵に呼び出された。書斎の重厚な扉を開けると、父は執務机に座ったまま、一度も私の方を見ようとはしなかった。その横顔は、まるで石像のように冷たく、硬い。


「ロゼリア」

 名を呼ばれたのは、何年ぶりだろうか。いつもは「妃殿下」と、どこか他人行儀に呼ばれていた。

「お前は、我がアルドール公爵家の二百年の歴史に、泥を塗った。王家への反逆にも等しいその行い、万死に値する」

「……」

「国王陛下の温情により、打ち首を免れただけでも幸いと思え。本日をもって、お前はアルドールの子ではない。私の娘ではない。この家とも、国とも、一切の関係がなくなる」


 淡々と、感情を一切排した声で語られる言葉は、事実上の死亡宣告だった。私はただ、黙ってその言葉を受け止める。涙も出なければ、悲しいという感情さえ湧いてこなかった。

 この人は、昔からそうだ。愛しているのは娘ではなく、家の名誉と血筋だけ。私が王太子妃候補として完璧であればあるほど、彼は満足げに頷いただけだった。私は、彼の自尊心を満たすための、最高傑作の人形に過ぎなかったのだ。


「追放者に許される荷物は、鞄一つのみ。金目のものは一切許さん。王家や公爵家から与えられた宝飾品やドレスは、全てこの屋敷に置いていけ。お前に、その価値はない」

「はい、父上」

「その呼び方も、今日限りだ」


 父は最後まで私を見ることなく、手元の書類に視線を落とした。それが、私たちの最後の会話だった。書斎を後にする私の背中に、彼は「家の恥め」と小さく、しかしはっきりと聞こえる声で呟いた。

 扉を閉めた瞬間、私は長く、静かな息を吐いた。これで、本当の意味でしがらみはなくなった。家族という名の、最も重い枷から、私は解き放たれたのだ。


 自室に戻り、旅支度を始めた。アンナが用意してくれたのは、丈夫だが何の飾り気もない、平民が着るような茶色のワンピースと、革のブーツ、そして旅人のマント。それから、中くらいの革鞄が一つ。

 クローゼットに並ぶ、宝石のようにきらびやかなドレスには目もくれない。化粧台の引き出しに眠る、眩いばかりの宝飾品も、もはや私にとってはガラクタと同じだった。

 ドレスを脱ぎ、質素な肌着一枚になった時、ふと姿見に映った自分の背中に違和感を覚えて、振り返った。

 そして、息を呑んだ。


「……あ……」


 声にならない声が、喉から漏れた。

 私の背中には、本来、国で最も美しいと謳われた「緋色の薔薇の聖印」が咲き誇っているはずだった。それは、右の肩甲骨から腰にかけて、まるで本物の薔薇が絡みつくように咲き乱れる、見事な紋様。アルドール公爵家が代々受け継いできた強大な魔力の象徴であり、私の誇りそのものだった。

 だが、今、鏡に映っているのは、その無残な残骸だった。


 鮮やかだった緋色は色褪せ、まるで古びたインクの染みのようにくすんでいる。誇らしげに咲いていた花弁は萎れ、力強く伸びていた蔓は枯れ木のようになり、ところどころが千切れ、途切れていた。かろうじて薔薇の形を保ってはいるが、その輝きと生命力は完全に失われている。

 それは、死にゆく聖印の姿だった。


 いつから? いつの間に、こんなことに?

 聖印は魔力の源泉だ。これが完全に消えれば、私は魔力をほとんど持たない、ただの人になる。いや、魔力に満ちた世界で魔力を持たないということは、人以下の存在として扱われるということだ。

 血の気が引き、膝から崩れ落ちそうになるのを、必死で化粧台に手をついてこらえた。

 冷静になれ、私。考えろ。

 前世の記憶を持つ今の私なら、分かるはずだ。聖印が急激に衰えるなど、通常ではありえない。病でもなければ、呪いでもかけられない限りは。


 その時、脳裏に昨夜の光景が蘇った。

 ジークハルトの腕の中で、か弱く震えていた聖女リリアン。彼女は、癒やしの力を持つと言われている。アカデミーでは、怪我をした生徒や、魔力不全に陥った生徒を、その力で何度も救ってきた。

 だが、その力の正体は?

 ゲームでは、彼女は「光の聖女」という設定で、それ以上の説明はなかった。しかし、現実となったこの世界で、そんな都合の良い力があるのだろうか。無から有を生み出すような奇跡が。

 まさか。

 彼女の癒やしの力は、誰かから「何か」を奪い、それを他者へ与えているだけだとしたら?

 例えば――他人の聖印から、魔力を。


 ぞっとした。リリアンは、アカデミーで何度も私に近づいてきた。親しげに話しかけ、必要以上に体に触れてきたことも一度や二度ではない。私はそれを、平民が公爵令嬢に取り入ろうとする、浅はかな行為だと見下していたが、もし、その全てが私の聖印から魔力を奪うための行動だったとしたら?

 昨夜の断罪劇は、私から全てを奪うための、最後の仕上げだったのだ。婚約者の地位、公爵令嬢としての名誉、そして、この国で最も美しいとされた聖印の魔力。


 確証はない。だが、この仮説は、全ての辻褄が合う。

 「……リリアン……」

 鏡の中の、枯れた薔薇を背負う自分を見つめながら、私は初めて、心の底からの殺意にも似た感情を覚えた。

 だが、今の私に何ができる? 家名も、地位も、そして魔力さえも失った私に、彼女と戦う術はない。

 ならば。

 今は、生き延びることを考えよう。生き延びて、力をつける。そしていつか、この謎を解き明かし、奪われたものを取り戻す。


 絶望的な状況は、逆に私の心を鋼のように強くした。失うものは、もう何もない。ならば、得るものしかないではないか。

 私は立ち上がり、旅支度を再開した。

 もう、迷いはなかった。

 鞄の底に、丈夫な下着と着替えを数枚詰める。許されたなけなしの盤纏も入れた。

 そして、部屋の隅にある小さな書棚へ向かった。そこには、私が個人的に集めていた専門書が並んでいる。その中から、最も分厚い『大陸薬草学全書』と『錬金術基礎論』の二冊を抜き取った。

 さらに、観賞用として窓辺に置いていたハーブの鉢植えから、熟した種をいくつか、小さな布袋に集めて懐に忍ばせた。カモミール、ラベンダー、そしてこの世界特有の微かな魔力を持つミントの種。

 これらは、宝石よりも、ドレスよりも、今の私にとっては価値のある財産だ。これこそが、私の新しい人生を切り開くための、唯一の武器になる。


 質素な旅装束に着替え、最後に鏡の前に立つ。

 そこに映っていたのは、もはや華やかな公爵令嬢ロゼリア・フォン・アルドールではなかった。黒髪を後ろで一つに束ね、強い意志を宿した瞳を持つ、ただの女「ロゼリア」が立っていた。

 これでいい。これがいい。


 私は静かに部屋の扉を開けた。

 公爵邸の壮麗な廊下を、私は一度も振り返らずに、まっすぐに歩いていった。

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