第2話:ここはゲームの世界だった
婚約破棄という、現実を否定する言葉の槌に打ちのめされた瞬間、私の意識は激しい奔流に呑み込まれた。
それは、記憶と呼ぶにはあまりに膨大で、鮮明すぎる情報の洪水だった。
知らないはずの光景が、脳裏で嵐のように駆け巡る。
ガラスと鋼鉄でできた箱が空を貫くように聳え立つ街。馬ではなく、鉄の塊が轟音を立てて道を走る風景。小さな箱型の機械に向かって、必死に何かを打ち込んでいる自分。大学の研究室、白衣、顕微鏡、植物の甘い香り。徹夜で仕上げた論文、上司からの叱責、同僚とのささやかな飲み会、そして――仕事帰りに立ち寄ったゲームショップ。
『星降る夜のエトワリア』
そのタイトルを目にした途端、電撃が背骨を駆け抜けた。そうだ、私は知っている。この世界を。この状況を。この理不尽な断罪劇の結末を。
洪水のように押し寄せたのは、「ロゼリア・フォン・アルドール」として生きてきた十七年間とは全く異なる、もう一つの人生の記憶。
日本という国で生まれ、植物の研究に人生を捧げ、三十を少し過ぎた頃に不慮の事故で命を落とした、一人の女性の記憶だった。
二つの記憶が頭の中で混ざり合い、一つの人格として再構築されていく。公爵令嬢としての矜持と、酸いも甘いも噛み分けた大人の女性としての諦観。未来の王妃になるための厳格な教育と、植物学の専門知識。十七歳の少女の脆さと、三十年の人生経験がもたらすしたたかさ。
混乱した意識がゆっくりと焦点を結んだ時、私は全てを理解した。
ここは、私が前世で夢中になってプレイした乙女ゲーム『星降る夜のエトワリア』の世界だ。
そして私は、物語のヒロインをいじめ抜き、最後には破滅する悪役令嬢、ロゼリア・フォン・アルドールそのものなのだ、と。
『星降る夜のエトワリア』は、魔法の才能が「聖印」として体に現れるエストリア王国を舞台にした恋愛シミュレーションゲームだ。プレイヤーは、平民でありながら聖なる力に目覚めたヒロイン「リリアン」となり、王立アカデミーで攻略対象となる魅力的な男性たちと恋に落ちていく。
攻略対象は、正義感あふれる完璧な第一王子ジークハルト。無骨だが情に厚い騎士団長カイウス・ヴェイグ。人嫌いの天才宮廷魔術師ノア・アークライト。他にも数名、いずれも国の行く末を担うであろうハイスペックな男性ばかり。
そして、そんな彼らとヒロインの恋路に、ことごとく立ちはだかるのが、私、ロゼリアだった。
ジークハルト王子の婚約者という立場を笠に着て、ヒロインを見下し、嫉妬心から数々の嫌がらせを行う、典型的な悪役令嬢。ゲームでは、彼女の存在がスパイスとなり、ヒロインと攻略対象の絆を深めるための「障害物」として機能していた。
ゲームをプレイしていた頃は、「お約束だなぁ」なんて他人事のように画面を眺めていたけれど、自分がその当事者になるなど、誰が想像できただろう。
そして、私は思い出す。この断罪イベントの後の、ロゼリアの運命を。
全ての罪を暴かれた彼女は、婚約者である王子だけでなく、実家であるアルドール公爵家からも見放される。そして、北の果てにある修道院へと送られ、俗世との関わりを一切断たれるのだ。
だが、物語はそこで終わらない。
プライドをズタズタにされ、全てを奪われたロゼリアは、修道院で心を憎悪に染め上げていく。そして、古文書から禁忌とされた闇の魔術を学び、国そのものへの復讐を企む、このゲームの真のラスボスへと変貌を遂げる。
最終的には、ヒロインと結ばれた攻略対象の手によって討伐されるという、救いのない結末を迎えるのだ。
――冗談じゃない。
背筋が凍るような悪寒と同時に、腹の底から燃え上がるような怒りが湧き上がってきた。
婚約破棄も、濡れ衣も、ここまでならまだ受け入れよう。だが、ラスボスになって殺される? そんな決められたシナリオ通りに、死んでたまるものか。
三十年とはいえ、一度は人生を全うした身だ。理不尽な目に遭うことにも、それなりに耐性はついている。何より、私は死の痛みを知っている。二度も経験してたまるものか。
ふと、ジークハルトに視線を向けた。先ほどまでの絶望的な恋心は、記憶の覚醒と共に急速に色褪せていた。十七歳のロゼリアとしての私は、確かに彼を愛していた。幼い頃から、彼に相応しい妃になることだけを考えて生きてきた。
しかし、今の私には、前世の記憶がある。彼はもはや、愛した人ではない。私を破滅に追いやる、ゲームの登場人物の一人だ。
それに、と内心で毒づく。
真実を見極めようともせず、可憐な少女の涙を鵜呑みにして長年の婚約者を断罪するような男、こちらから願い下げだ。私の三十年の人生経験が、ああいう男は最も信用ならないと告げている。
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どれほどの時間が経っただろう。体感では数十分にも感じられた記憶の奔流と内面の葛藤は、現実世界ではほんの数秒の出来事だったらしい。
ふと我に返ると、目の前には、私の反応を待つジークハルトと、私を嘲笑う貴族たちの視線があった。
先ほどまでの私は、きっと絶望に顔を歪ませ、みっともなく震えていたことだろう。
だが、今の私は違う。
私はゆっくりと顔を上げ、背筋を伸ばした。そして、目の前にいる元婚約者と、彼に庇われる偽りの聖女を、凪いだ瞳で見据えた。
「――それで、話はそれだけですの?」
私の口から紡がれたのは、予想外に落ち着いた、凛とした声だった。
その反応は、ジークハルトにとっても意外だったのだろう。彼はわずかに目を見開き、言葉に詰まった。わめき散らすか、泣き崩れるか、あるいは気絶でもすると踏んでいたに違いない。
私が動揺を見せないことに苛立ったのか、彼は吐き捨てるように言った。
「……ああ、そうだ。君との婚約は、今この時をもって無効とする」
「承知いたしました」
私は静かに、しかしはっきりとそう答えると、貴婦人の作法に則り、優雅にカーテシーをしてみせた。その完璧な所作に、周囲からどよめきが起こる。
私のあまりにも落ち着き払った態度に、ジークハルトだけでなく、カイウスやノアまでもが戸惑いの表情を浮かべていた。唯一、リリアンだけが、その潤んだ瞳の奥に、ほんの一瞬、鋭い光を宿したのを私は見逃さなかった。
その時、広間の扉が大きく開かれ、荘厳な装束をまとった国王陛下が衛兵を伴って現れた。ジークハルトの父であり、この国の頂点に立つ人物だ。彼の登場で、広間の空気は一気に張り詰める。
国王陛下は玉座がわりの椅子に腰かけると、威厳に満ちた声で私に告げた。
「ロゼリア・フォン・アルドール。王太子妃候補にありながら、聖女リリアンを虐げ、王家の名誉を著しく傷つけた罪、まことに許しがたい」
もはや、弁明の機会など与えられない。これは裁きではなく、決定事項の通達だ。
父であるアルドール公爵が、血の気の引いた顔で私の隣に跪いている。彼は、もはや私を見ようともしなかった。
「よって、そなたに命ずる。アルドール公爵家は、本日をもってそなたを勘当。二度とその名を名乗ることを許さん。そして、明日速やかに国を出て、二度とこのエストリア王国の土を踏むことのないように。国外追放とする!」
国外追放。
ゲームのシナリオにあった「修道院送り」よりも、さらに厳しい処分だった。家名も、財産も、国籍さえも、全てを剥奪するという宣告。
しかし、私の心は不思議なほどに静かだった。
むしろ、好都合かもしれない。ラスボス化する未来が待つ修道院に送られるより、全てを捨てて未知の土地へ行ける方が、よほど生き延びる可能性がある。
私は顔を上げ、国王陛下をまっすぐに見つめると、はっきりとした声で言った。
「――御意。謹んで、お受けいたします」
嘆きもせず、命乞いもせず、ただ凛として裁きを受け入れた私の姿に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
ジークハルトが、何かを言いたげに唇を開きかけたが、結局、言葉になることはなかった。彼の青い瞳に映るのは、困惑の色。彼はもう、私のことが理解できないのだろう。
それでいい。もう二度と、あなたに理解されたいなどとは思わない。
私は、ロゼリア・フォン・アルドールとしての人生を、ここで一度終わらせる。
そして明日からは、ただのロゼリアとして、私の知識と、私の意志で、新しい人生を歩き出すのだ。
ゲームのシナリオなど、知ったことか。私の物語の結末は、私が決める。
心の中で固く誓い、私は誰にも気づかれぬよう、唇の端に微かな笑みを浮かべた。