第15話:辺境の冬と、王都の噂
アーズブリー村に、長く厳しい冬が訪れた。
空は鉛色の雲に覆われ、世界は白と黒のモノクロームに姿を変える。一晩で人の背丈ほどにもなる雪が降り積もり、村と外の世界を繋ぐ道は完全に閉ざされた。それは、隔絶の季節。人々は家の囲炉裏に身を寄せ合い、春の訪れをひたすらに待ち続ける。
だが、私にとってこの冬は、決して退屈なものではなかった。
日中は、夏から秋にかけて収穫し、乾燥させた薬草の加工作業に没頭した。薬効成分をアルコールに抽出したチンキ剤、蜜蝋と混ぜ合わせた軟膏、植物油に香りを移したハーブオイル。来るべき春に備え、様々な薬品を黙々と作り続けた。夜は、カイウスさんが届けてくれた専門書を、ランプの灯りの下で読み解く。古代語で書かれた錬金術の文献は難解だったが、一つ知識を得るたびに、自分の世界が広がっていくのを感じた。
村人たちとの絆も、この厳しい冬を経て、より一層深いものになっていた。私は、備蓄していた薬で風邪を引いた子供を治療し、マーサさんは、宿屋の温かいシチューを差し入れてくれる。猟師は貴重な毛皮を分け与えてくれ、私はお礼に凍傷を防ぐ軟膏を作った。私たちは、家族のように、当たり前に助け合って、この厳しい季節を生きていた。
時折、吹雪が窓を叩く夜には、カイウスさんが贈ってくれた暖かいマントにくるまり、彼のことを思った。「雪が溶けたら、また会いに来る」。その不器用な約束が、冷たい夜の闇の中で、私の心を温かい灯火のように照らしてくれた。
そんな冬の半ば、猛吹雪が吹き荒れるある日、一羽の鳥が私の小屋の窓を必死に叩いた。それは、王宮の魔術師だけが使うことを許された、魔法の伝書鳥だった。震える足から小さな羊皮紙の筒を解くと、そこには、ノア様からの簡潔だが、衝撃的な内容が記されていた。
『君の聖印について、興味深い記述を発見した。古代文献に、他者の聖印から魔力を吸収し、自らの力とする一族が存在したとある。その能力は「聖印喰い(スティグマ・イーター)」と呼ばれ、あまりに危険視されたため、歴史の表舞台から完全に抹消されたらしい。……奇しくも、その一族が最後に目撃されたのは、聖女リリアンの出身地とされる、南の貧しい谷だ。これは、まだ仮説に過ぎないが』
手紙はそこで途切れていたが、彼が言わんとしていることは、痛いほどに分かった。
リリアン。彼女こそが、歴史から消されたはずの「聖印喰い」の末裔。私の聖印が枯れ果てたのも、彼女の癒やしの力の正体も、全てはそこに繋がる。
私の長年の疑念が、ついに確信へと変わった瞬間だった。全身の血が、怒りで沸騰し、そして氷のように冷えていくのを感じた。
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その頃、私が暮らす辺境の村から遠く離れた王都では、別の噂が、王宮のサロンを賑わせていた。
「お聞きになりました? 騎士団が最近使い始めたという、奇跡のポーションの話を」
「ええ! なんでも、瀕死の重傷さえ、一晩で治してしまうとか」
「製造者は、辺境に隠棲する謎の薬草師だそうですわ。一体、どのような方なのかしら」
カイウス率いる騎士団がもたらすロゼリアのポーションは、その驚異的な効果から、いつしか「辺境の奇跡」と呼ばれ、王侯貴族の間で伝説めいた噂となっていた。
第一王子であるジークハルトも、その噂を耳にし、騎士団の戦果が向上していることに満足しながらも、内心では苛立ちを募らせていた。
「カイウス、改めて問う。そのポーションは、一体誰が作っているのだ。これほどの逸材、王宮に召し抱えぬ手はないだろう」
「ですから、殿下。相手は世俗を嫌う、気難しい人物でして。身元を明かさぬことを条件に、取引に応じてくれているのです」
執務室で、カイウスはいつものように、ジークハルトの追及をのらりくらりとかわしていた。製作者が、かつて自分たちが追放したロゼリアであるなど、口が裂けても言えるはずがない。
「……そうか。だが、いつまでも正体不明のままにはしておけぬ。私自ら、調査に乗り出すとしよう」
ジークハルトのその言葉に、カイウスは内心で舌打ちをした。
一方で、聖女リリアンもまた、その噂に神経を尖らせていた。
表向きは、王子の寵愛を一身に受け、聖女として人々を癒す日々。だがその裏で、彼女は深刻な問題に直面していた。癒やしの力を使えば使うほど、彼女自身の魔力が消耗し、それを補うために、常に他者からの魔力供給――すなわち、他者の聖印に触れ、その力を吸収する必要があったのだ。
しかし、最近はその吸収効率が悪くなっている。まるで、周囲の人間が持つ聖印の質が、全体的に低下しているかのようだった。力の不安定さに、彼女は焦っていた。
そんな彼女の耳に、「辺境の奇跡」の噂は、砂漠で水を見つけるような福音に聞こえた。
(あれほどの治癒効果……きっと、純度の高い、強大な魔力が込められているに違いないわ。あのポーションさえ手に入れれば……!)
リリアンは、侍女に命じた。
「『辺境の奇跡』について、詳しくお調べなさい。ポーションそのものでも、製法でも、あるいは、その薬草師本人でも構いませんわ。どんな手を使っても、私の元へ」
その可憐な顔に浮かんだのは、聖女とは程遠い、ぎらついた欲望の光だった。
辺境の地で、来るべき春を静かに待つロゼリア。
彼女はまだ知らない。
かつて彼女を捨てた元婚約者と、彼女から全てを奪った偽りの聖女が、再びその手を、自分へと伸ばそうとしていることを。
雪解けと共に訪れるのは、穏やかな春だけではない。王都から吹きつける、新たな嵐の予感が、すぐそこまで迫っていた。




