第1話:緋色の薔薇が散る夜
王立アカデミーの卒業を祝う大広間は、魔法の光を宿したシャンデリアが放つ無数の輝きに満たされていた。天井には夜空を模した魔法陣が淡く明滅し、まるで星々の下で踊っているかのような錯覚を覚えさせる。床は大理石で磨き上げられ、着飾った貴族たちの姿を鏡のように映し出していた。弦楽四重奏が奏でる優雅なワルツが、若い男女の楽しげな笑い声と混じり合い、これ以上ないほどに完璧な夜を演出している。
その中心で、私は婚約者であるジークハルト・レオン・エストリア第一王子の隣に立っていた。
アルドール公爵家の長女、ロゼリア・フォン・アルドール。それが私の名。
夜会のために誂えた深紅のドレスは、私の黒髪と白い肌を際立たせ、首元には王家から贈られたルビーのネックレスが煌めいている。背筋を伸ばし、完璧な淑女の微笑みを浮かべる。それは、幼い頃から未来の王妃として、血の滲むような努力の果てに手に入れた私の姿だった。
隣に立つジークハルトは、陽の光を溶かし込んだような金髪に、空の青を閉じ込めた瞳を持つ、絵画から抜け出してきたかのような美しい人だ。純白の礼服は彼の清廉さと王族としての気品を際立たせ、その立ち姿はすでに一国の王たる風格を漂わせている。
私たちは、エストリア王国で最も祝福された一対であるはずだった。少なくとも、ほんの数分前までは。
「ロゼリア・フォン・アルドール」
音楽がふと途切れた瞬間、ジークハルトが静かだが、ホール全体に響き渡るような明瞭な声で私の名を呼んだ。その声は氷のように冷たく、私の背筋をぞっとさせた。先ほどまで社交辞令の笑みを交わしていたその顔から、一切の感情が抜け落ちている。
周囲のざわめきが、ぴたりと止んだ。全ての視線が、針のように突き刺さる。何事かと訝しむ貴族たちの間で、小さな波紋が広がっていく。
「殿下? どうかなさいましたか?」
内心の動揺を押し殺し、私は完璧な微笑みを崩さずに問いかけた。しかし、彼の空色の瞳には、かつて私に向けられた慈愛の色はどこにもなかった。代わりに宿るのは、失望と、そして――軽蔑。
「君に、問いたいことがある」
その言葉と同時に、ジークハルトは人垣を割るようにして、一人の少女を自らの隣へと招き入れた。
桜色の髪を揺らし、不安げに潤んだ瞳で床を見つめる少女。質素だが清純な白いドレスを身にまとった彼女は、この華やかな場においてはひどく不釣り合いに見えたが、その儚げな様子は誰しもに庇護欲を掻き立てさせるだろう。
平民出身ながら、傷を癒す奇跡の力を持つことから「聖女」と噂される、リリアン。
アカデミーで、ジークハルトがことさら目をかけていた少女だった。
「リリアン、もう大丈夫だ。私が君を守る」
ジークハルトはそう言うと、震える彼女の肩を優しく抱いた。その光景に、広間のあちこちから息を呑む音が聞こえる。王太子が、自らの婚約者の前で、他の女を腕の中に抱いている。これ以上の侮辱があるだろうか。
私の顔から、完璧な淑女の仮面が剥がれ落ちそうになるのを、奥歯を噛み締めて必死にこらえる。
「殿下、これは一体どういうことですの? 皆様が見ておりますわ」
「皆が見ている前だからこそ、意味がある。これ以上、君の横暴を許すわけにはいかないのだ」
ジークハルトは私を断罪者の瞳で見据えると、高らかに宣言した。
「ロゼリア・フォン・アルドール! 君がこれまで、聖女リリアンに対して行ってきた数々の嫌がらせについて、釈明を求める!」
時が、止まったようだった。
何を、言っているの? この人は。
嫌がらせ? 私が? この娘に?
思考が追いつかない。ただ、周囲の視線が好奇から非難へと変わっていくのだけは、肌で感じ取れた。
「……身に覚えが、ございませんわ」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く震えていた。
しかし、ジークハルトは私の言葉を鼻で笑った。
「まだ、しらを切るか。ならば証拠を突きつけよう。カイウス!」
王子の呼びかけに応じ、群衆の中から騎士団長の制服を纏った赤毛の青年――カイウス・ヴェイグが進み出た。彼は私を一瞥すると、気まずそうに顔を伏せ、報告を始めた。
「はっ。先日、リリアン嬢がアカデミーの階段から突き落とされそうになった件、現場からはロゼリア様のドレスと同じ生地の切れ端が見つかっております」
「なっ……! それは、私が彼女のドレスのほつれを直そうとして、誤って引っかけてしまっただけでは……!」
「言い訳は聞きたくない!」
ジークハルトの怒声が、私の反論をかき消した。彼の腕の中で、リリアンがびくりと体を震わせる。それを見た王子の瞳は、さらに険しさを増した。
「それだけではない! リリアンの教科書を中庭の噴水に捨てたのも、彼女のドレスにインクをかけたのも、全て君の仕業だと証言がある! 違うか!?」
次々と挙げられる罪状は、どれもこれも身に覚えのないものばかりだった。あるいは、事実の一部を悪意で捻じ曲げたものだ。教科書は、彼女が噴水の縁に置き忘れていたものを拾おうとして、誤って落としてしまっただけ。ドレスの件に至っては、完全に初耳だ。
これは、罠だ。
誰かが、私を陥れるために仕組んだ、あまりにも稚拙で、しかし悪意に満ちた罠。
「殿下、お待ちください。それは全て誤解です。私は、決してそのような……」
「黙れ!」
必死の訴えは、再び一喝された。ジークハルトの瞳は、もはや私を罪人としてしか見ていない。
「君の嫉妬深さには、私もほとほと愛想が尽きた。平民でありながら類稀なる聖なる力を持つリリアンに嫉妬し、その尊い存在を傷つけようとするなど、未来の王妃にあるまじき行為! いや、人として許されることではない!」
「嫉妬……? 私が、ですか?」
思わず、乾いた笑いが漏れた。この私が? アルドール公爵家のロゼリアが? どこの馬の骨とも知れない平民の娘に、嫉妬?
ありえない。あってはならないことだ。私のプライドが、それを許さない。
「ええ、そうですわ。私は、彼女に嫉妬などしておりません。する理由が、どこにありますの?」
私は胸を張り、毅然と言い放った。ここで引き下がるわけにはいかない。これは、私自身の、そしてアルドール公爵家の名誉に関わる問題だ。
しかし、その態度は火に油を注いだだけだった。
「その傲慢さが、君の罪なのだ、ロゼリア」
そう言ったのは、ジークハルトではなかった。いつの間にか輪の中に加わっていた、宮廷魔術師団の若き天才、ノア・アークライトだった。彼はやれやれと肩をすくめ、憐れむような目を私に向ける。
「君はいつもそうだ。自分こそが至高だと信じて疑わず、他者を見下している。リリアンの純粋な輝きが、君には眩しすぎたのだろう」
信じられない。ノア様まで。
私の周りから、世界の色が急速に失われていくような感覚に陥る。
味方は、誰もいない。
ホールは、私を非難する囁き声で満ち満ちていた。
「まあ、やはりロゼリア様が…」
「あんなに美しくても、心の中は醜いものね…」
「聖女様がお可哀想に…」
今まで私に追従し、笑顔を向けていた者たちが、手のひらを返したように蔑みの視線を向けてくる。これが、貴族社会。これが、私が生きてきた世界の正体。
唇を噛むと、鉄の味がした。涙が滲みそうになるのを、喉の奥で必死にこらえる。泣いてはいけない。ここで涙を見せれば、罪を認めたことになってしまう。アルドール公爵令嬢としての誇りが、それを許さない。
私は最後の希望を託し、もう一度ジークハルトを見つめた。幼い頃から、共に未来を誓い合った、ただ一人の人を。
「ジーク……殿下。あなたは、本当に私の言葉を信じてくださらないのですか。あちらの娘の言葉だけを、信じると?」
私の問いかけに、彼は一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、揺らいだように見えた。だが、腕の中のリリアンが「ひっ…」と小さな悲鳴を上げた瞬間、彼の瞳は再び硬質化する。
彼は決然と、そして私に聞こえるだけの声で、こう言った。
「君のその瞳が、信じられない。美しく、完璧で、だが一度も、心から俺を求めたことのない瞳だ」
その言葉は、どんな罪状よりも深く、私の心を抉った。
そして、彼は私から視線を外し、ホール全体に宣言した。これが、この茶番劇の終幕だった。
「――よって、今この時をもって、私、ジークハルト・レオン・エストリアは、ロゼリア・フォン・アルドールとの婚約を破棄する!」
ゴングが打ち鳴らされたかのように、その言葉が私の頭の中で反響した。
婚約、破棄。
私の人生の全てだったものが、音を立てて崩れ落ちていく。
ジークハルトの隣で、リリアンが儚げに微笑んだのを、視界の端で捉えた。その笑みは、まるで勝利を確信した者のように、私の目には見えた。
ああ、そう。
そう、なのね。
緋色の薔薇と謳われた私の誇りは、今夜、この場所で踏み躙られ、無様に散っていく。
目の前が、ぐらりと揺れた。
シャンデリアの光が歪み、人々の顔が溶けていく。
その瞬間、まるで雷に打たれたかのように、頭の中に膨大な記憶の濁流が流れ込んできた。
知らないはずの知識。見たこともないはずの風景。
そして、この光景を、私は「知っている」という、強烈な既視感。
――これは、乙女ゲーム『星降る夜のエトワリア』の、断罪イベント。
そして私は、王子に婚約破棄され、やがて国を追放される悪役令嬢、ロゼリア。
その残酷な真実が、砕け散った心臓の破片に突き刺さった。