9.古竜姫の攻略
"「ハイン帝国の皇子にして、未来の統治者……秩序の血を引く者、ラインハルト=ハイン」
夢幻郷の地下深くには、一枚の転移門がぽつんと置かれている。
その先から現れたのは、古竜の姫……オリヴィア。彼女は細めた瞳でラインハルトをじっと見据え、冷たく厳かに口を開いた。
「そなたの望み通り、こうして私を呼び出したわけだけど……さあ、用件を聞かせてちょうだい」
一見すると真面目そうで、どこか張りつめた声音。
けれども、実のところオリヴィアの胸中は興奮でざわついていた。
──まさか、呼び出し主が本物のハイン帝国の皇子だなんて!
病弱な女皇に代わり、最強の大国を統べる新たなる王……その人物が目の前に現れるなんて、なんとも刺激的じゃない。
オリヴィアほどの至高の存在であっても、幽域の“至尊”という肩書が、心を平穏にはしてくれないらしい。
「悩みごとっていうのは、身分や地位が変わったところで、そう増えもしなければ減りもしない」──そんな言葉をどこかで聞いたような気がするわ。
色欲の竜として名高い私も、ハイン帝国の拡大による布教攻勢に苦しめられていて、熱心な信徒がどんどん減ってるせいで、いずれ私の庭にだって飢えが訪れるかもしれない……!
その弱みにつけ込まれた結果、前は大量の竜鱗を騙し取られたこともある。
でも、今回の呼び出しはどうやら違うみたい。
だって、本物のラインハルト=ハインがこうして目の前に現れたのだもの。さて、彼はいったい何を望んでいるのかしら?
一方のラインハルトは、かつて死闘を繰り広げた因縁の相手を前に、内心の戸惑いを押し殺している様子。それでも、少しだけ硬い動作ながら、オリヴィアに対しできる限りの礼を尽くしてみせた。
「オリヴィア殿下。要件を話す前に、一つだけお願いがあります」
「ふうん、言ってごらんなさいな」
オリヴィアが、唇の端をわずかに吊り上げる。
「殿下には“どんな手段でも構わない”と、俺の思考を探らないでいただきたいんです」
そう、オリヴィアには他者の考えを見透かす力がある。ラインハルトからすれば、頭の中を覗かれるのは避けたいところ。
それは決して自分のプライバシーだけの問題ではなかった。千もの転生をくり返し、この世界の根源と宿命を知り尽くしたラインハルトの記憶の重さは、たとえオリヴィアでも覗けば正気を失う恐れがあるからだ。
「いいわよ。別に覗こうなんて思っていないし、凡人には凡人のプライバシーってものがあるんでしょ?」
オリヴィアはあっさりと頷いた。凡俗社会ではプライベートが大事らしい、と理解しているつもりらしい。
「ありがとう。では、俺がこうして殿下をお呼びした理由をお話ししましょう」
ラインハルトは心のどこかで小さく息を吐き、まるで自らを納得させるように、ぎこちない敬礼をしてみせる。
「俺は……あなたの麾下に帰依し、地上にてその威光を広めたい。つまり、オリヴィア殿下の使徒となりたいんです」
「ははっ! あはははは!」
オリヴィアはその言葉を聞くや、大笑い。
なんて普通で、なんて期待を裏切る申し出なの!
帝国の皇子がわざわざ私を呼び出した理由。それは──
「私への信仰に身を捧げること、ですって……?」
海より広いようで浅いような、複雑な気持ちが胸をかすめる。普通に考えれば嬉しいに決まってる。新たな信徒、それもハイン帝国を継ぐ人物なのだから。
でも……嬉しい? 本当に?
「なるほどね。悪いけど絶対に却下。そんなの認められないわ」
オリヴィアは両腕を交差させて、きっぱりと拒絶の意思を示した。
「見てちょうだい、その顔! 読心できなくてもわかるわよ。あなた、私のこと心底から嫌ってるでしょう? まるで鼻をつまんで“こんなもの”と話しているみたいじゃない」
彼女は眉をひそめ、不機嫌そうに続ける。
「それで投降だとか、帰依だとか、どの口が言うの? どうせ“帰依”なんて言葉を盾に取って、私と交渉しようって魂胆でしょ。私をなめないでよね! あなたには秩序の女神への忠誠が染みついてるくせに、そう簡単に忘れられるもの?」
ラインハルトはすべての言葉を静かに聞き終え、どこか意外そうに息をのんだあと、急に笑みをこぼした。
それは自然体で、どことなく嬉しそうな笑顔だった。
「……何がおかしいのよ?」
オリヴィアは怪訝そうに眉をしかめる。
「いや、感服しました。さすが幽域を統べる、最も偉大で尊敬に値する“至尊”。俺の想像以上に、地上の礼儀と価値観を理解してくださるんですね」
「はあ……? それ、どういう意味?」
思わずオリヴィアは質問の形で問い返す。いや、さっき自分が言った質問と、どうにも噛み合わない。彼女からすれば、ラインハルトが急に態度を豹変させたように見えてならないのだ。
ラインハルトは興奮を隠さない口調で言葉を紡ぐ。
「高みにある神が、慢心をかなぐり捨て、ただの凡人と“条件を語り合おう”とする。そんな柔軟さを持つお方がほかにいるだろうか……?」
──確かに、幽域に住まう原生の邪神たちは、身勝手でプライド高く、血の生贄だの信徒への迫害だのと、おぞましい蛮行をしでかすこともしばしば。
でも、オリヴィアは違う。慈悲深い女神を自称し、信徒が失敗しても“XP”をちょっと痛めつける程度で許しちゃうのだ。そういう意味では、彼女こそ幽域において唯一無二の「優しい神様」なのかもしれない。
「ふふ……まあ、そう言われると悪い気はしないんだけどね」
オリヴィアは鼻を鳴らしながら、すっかり上機嫌になったように見えた。
受けてきた帝国の“秩序”教育ゆえに、ラインハルトが自分を疎むのも仕方ない……だけど今こうして少しずつ、私の魅力を感じ始めてくれているのなら──大いに歓迎だわ。
(やっぱり、この幽域で私以上に魅力的な神祇なんているはずないもの!)
そんな自信にあふれた笑みを浮かべ、オリヴィアは真っ直ぐラインハルトを見やる。
「ふふ、素直でよろしい……♪」
……もちろん、オリヴィアは永遠に知ることはない。
ラインハルトが最初に感じていた嫌悪から、今こうして興味と敬意を示すように態度を変えたのは、すべて“演技”であるということを。
色欲の竜として何百周も戦ったその知識と経験から、ラインハルトは彼女の性格や思考を誰よりも理解している。
(まったく……ちょろくて可愛いよな)
内心でそんな言葉を呟きながら、ラインハルトは得意気に尻尾を振っているオリヴィアを眺め、いよいよ本題に入る準備を整えたのだった。
具体的な“取引”について、お互いの条件を交わすために──。"