交渉
激しいロックミュージックが流れるジムのような場所。
そこで、女は一心不乱にサンドバッグを殴る。
ギシギシと音を立てるサンドバッグを止めるように片手を添えた彼女は、一旦休憩とでも言うように一息つくと、ペットボトルを手に取り、ドカリと近くのソファーに座りこんだ。
手に巻かれたテーピングを巻き直しながらサンドバッグを見つめる彼女は、男性でも息を飲むほどに鍛え上げられている。
ルカ・ハイドラ
彼女はファイトクラブ“Pray ground”を取り仕切るボスだ。
22歳の時に当時のボスに試合を申し込み、拳ひとつでこの施設を手に入れ、それから5年間誰にもこの座を明け渡したことは無い。
ブロンドの髪のサイドは編み込みでまとめ、パッと見はソフトモヒカン様な容貌。
額には大きく裂かれたような傷跡が目立つ。
それでも彼女はそれを気にする素振りなどなく、堂々面とさらけ出している。
ぬるくなったペットボトルの水をクイッと1口飲み、一息ついてもう一度サンドバッグに向かおうと腰を上げたところで騒がしい声が室内に舞い込んできた。
「ボス、警察だ!」
「はぁ??警察が来たところで、この施設はこの国では合法の施設だよ。何しに。」
「そ、それが、ボスに会いたいって…」
「ふーん、…じゃあまたなんかいちゃもんかな。」
そう言ってルカが思い切りサンドバッグを殴りつける。
まぁよくある事なのだ。合法とはいえ、ここには犯罪者も多くやってくる。
その身柄を明け渡せ、庇うなら逮捕だ、などもいう脅しは正直なところかなり多い。
少しイラついた表情を浮かべながらルカは扉の方へと視線をやる。
「すぐ行くから話せる場所に通しといて。」
いつもの脅しならケツでも蹴って追い返してやろう。
そんな事を考えながら、ルカはジャケットを羽織った。
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客人が先に待っているというVIPルームに入った瞬間、ルカは思わず眉をひそめた。
黒い髪に黒い目、貧相な体。この国の警察とはあまりにも違う。そしてその顔には見覚えがある。
その男は深い隈をこさえた目でこちらにちらりと視線をやってきた。
「ようこそ、力さえあればあらゆるものが手に入る場所、play groundへ。それで?国際警察が何の用だい?」
「へぇ。よく分かったな。」
「あんたの噂は聞いたことある。ご活躍のようで何より。…こんなしょうもない場所に来る予定があるとは思えないんだけど?」
相手を睨みつけながらさっさとその隣を通り過ぎると、ルカはデスクに粗雑に座る。
「試合に来たって訳じゃないんだろ?アンタじゃ下のランクのやつにも勝てなさそうだしね。」
嫌味を込めて言ったつもりではあったが、目の前の男は表情1つ動かさない。
どこまでも落ち着いた様子でルカの目を真っ直ぐに見てくる。
目の下の隈のせいなのか悪い目つきのせいなのか、少し圧を感じるのは気のせいではないだろう。
現にルカ以外の付き人たちは緊張状態で男に睨みをきかせている。
「お前に聞きたいことがあってきた。」
「ここでは欲しいものは全て拳で手に入れる。試合でね。みんなそうしてるよ。」
「お前個人に聞きたいことがあってきたんだ。ここのボスのルカではなく、ルカ・ハイドラに。」
「それでもルールはルール。で、どうすんの。試合するの?しないの?」
「ティメオ・シュヴァリエについて、って言っても同じ反応か?」
その名前を聞いたと同時に剣呑だったルカの雰囲気がひりついたものに変わる。
暫く思案するように目を閉じて顔を伏せたあと、周りにいた付き人たちに出ていくように扉を顎で指した。
「あんたが一方的に聞きたいことがあるならルールが適応される。でも、あたしも話したいことが出来たから今回は特別待遇だ。毎回こうだと思われたらたまんないからね。」
「話がわかるようでなにより。」
ひとり、またひとりと扉から付き人達が出ていき、部屋に静寂が訪れる。
最後の一人が扉を閉めた瞬間、ルカは弾けるように男へと掴みかかって言った。
「アンタ、何を知ってる。あいつはどこ。」
「おい、待て待て待て。俺ァ今ここでお前をしょっぴけるんだぜ。分かってんのか?」
「御託はいいからさっさと吐きな。」
胸ぐらを掴む手には力が入る。
微かに震えているのは力を込めすぎているためだと通常なら思うだろう。
しかし男はルカとティメオの関係性を知っているためそれ以上不要なことは言わない。
小さくため息をついたあと、落ち着けと言ってルカの肩を押し返した。
「知ってることはお前らの関係性だけだ。」
「はっ、じゃあなに?もしかして、アタシがあいつの居場所を知ってると思ってここに来たわけ?そしたらあいつは今頃とっくに死んでる。」
「今のを見たところそうだな。怒りの炎は消えてないってことか。」
「あたりまえだろ。絶対に忘れるもんか。」
有力な情報がないと知ってルカは男の胸ぐらから手を離す。
しかし、依然胸の中のイライラは行き場がないまま。感情のままに机を蹴り飛ばすと最初に座っていた椅子へまた腰を下ろした。
「はぁ、で?色々聞きたいんだけどさ。なんで今頃になってあたしのとこに来たわけ。あんたの事だからどうせそんな情報とっくに知ってただろ。」
「ああ。」
短く答えた後に男はポケットからタバコを取りだし、口にくわえる。
ライターで火をつけながらルカに視線をやると口からゆっくりと紫煙を吐き出した。
「最初にも言った通りお前に聞きたいことがあったからだ。」
「だからなんだっていってんの、勿体ぶらずにさっさといいなよ!」
「噂通り短気だな。まぁ、ざっくり言えばティメオ・シュヴァリエを捕まえたい。だから協力できないかって話だ。」
「なんで?あんたら警察は今までアイツをずっと放置してきただろ。この、12年、ずっと。12年だよ?今更すぎる。今まで好きにやらせといて、急に捕まえたいだとか。そんなの信じると思う?」
「状況が変わった。それに、ここにいるのは上の判断じゃない。俺の単独行動だ。」
「はぁ?随分自由じゃん。」
「その為に国際警察まで上ってきたからな。」
そう言って男は煙草の灰を落とそうと灰皿を探すがそう言えばさっきルカが机ごと蹴飛ばしたんだったと思い出し、胸元から携帯灰皿を取り出して灰を落とす。
その様子を見てルカは「警察は律儀なもんだね。」と肩を竦めた。
灰なんてその辺に落としてもいい。ここはVIPルームとはいえ地下格闘技場だ。
その辺にゴミは散らかってるし、別に綺麗な場所では無い。
今更タバコの灰が落ちたところでそれを気にする人間なんてここにはいないのだから。
いや。今までここにいちゃもんをつけに来た警察は適当に灰を落としていたっけ、と考え至りこの律儀さはこの男の生来の性質なのかもしれないとも思う。
「テオブロマを知ってるか。」
「テオブロマ?」
「まぁ要するにヤクだ。それが最近1部に蔓延している。でかいギャングが持ってたり、いろんな国の要人が買ってたりと様々なんだが…」
「ギャングはまだわかるけど、一般人じゃなくて国のお偉方が持ってるってのは…たしかにきな臭いね。でもそれがアイツとなんの関係があんの?」
「テオブロマの製造をしてる組織、そこの幹部にティメオ・シュヴァリエがいるって情報が入ったんだよ。そもそもの所、警察はこのテオブロマについて関わりたがらない。それどころか容認してる。まぁ国が容認してりゃ公僕の警察も黙りするしかねぇからな。」
「じゃああんたも黙りするしかないってことだろ。矛盾してない?」
「言っただろ。その為に警視になって、国際警察になって、俺ァ今そこそこ自由に動けんだよ。俺としてはこのテオブロマとかいうクソみたいなヤクの根源を断ち切りたい。ただし、大々的に警察の組織を動かそうとすりゃ絶対に圧力がかかる。そこで、お前らのような裏の人間に交渉してるわけだ。仲間が欲しい。」
冗談で言っている訳では無い、というのは表情を見ればわかる。
それでもルカは簡単に頷くことは出来なかった。
なぜなら自分は今このファイトクラブのオーナーだ。
自分が簡単に頷いて協力すると言えばこのファイトクラブもそのテオブロマとやらを作っている連中に目をつけられるのは道理だ。
全員に迷惑がかかる。
「簡単に答えは出せない。」
「まぁ裏社会の噂は早いからな。」
「ならなんであたしに…」
「国際警察は支部が何個かある。もちろんこの国にも。」
そこまで言われてルカは大きくため息を吐いた。
そして背もたれに体を預けて天井を仰ぎ見る。
「つまり、全面的にあんたら警察を信用しろってこと?」
「守れないことはないと思うが?」
「そりゃ向こうも国際警察がいりゃ早々手出しは出来ないとは思う。国の要人にも売りつけてんなら国家権力が守ってる施設に手を出したら動きづらくなるだろうしね。でも絶対抜け穴はある。そん時、ちゃんと、守れんの?」
「努力はするが…まぁ約束できないのは分かるだろ。」
「まぁ……ね。」
何が起こるかわからない。向こうの手札も分からない。
その状態でこの男の話を全て信じて預けても良いのだろうか。
ルカ個人の気持ちは決まっている。あのティメオ・シュヴァリエに一矢報いてやれるならそうしたい。
然るべき罰を受けさせてやりたい。
ならばと、ルカは犬彦へとゆっくり視線を戻した。
「このファイトクラブの人間は関わらせない。あたしが個人で動く。それでいいね。」
「十分だ。」
その言葉を聞いてルカは立ち上がり窓の方へと視線をやる。
向こう側は闘技場になっており、今日も今日とて何かをかけて戦う人間が拳を交えている。
まずはこの施設の奴らにしばらく留守にすることを伝えなければならないし、預ける人間も決めなきゃ行けない。
適当な人選をすればこの施設は簡単に犯罪の温床になってしまうだろう。なんせ血の気の多い奴らだ。
そこまで考えて、ふと、ルカは犬彦の方へと振り返った。
「仲間が欲しいって言ってたよね。」
「あぁ、まぁな。」
「それで?他にこの馬鹿げた話に乗るやつは居たわけ?」
「国際警察の中から何人か引き抜く予定だ。それと、交渉中の裏社会のやつは一人。」
「じゃあ今んとこ、確定してんのは。あたしとあんたの2人だけってこと?はっ。腕が鳴るねぇ。そんな少数で世界に喧嘩売る気なわけだ。」
「こういった理由での仲間は増やしすぎるのも良くないからな。必ず綻びが出る。」
「喧嘩の腕は無さそうだけど、おつむは良いらしい。じゃ、あたしがあんたの拳になってやるよ。」
「交渉成立だな。」
立ち上がりこちらへと手を伸ばす犬彦の手をわざと強く握り返せば、犬彦はようやく能面のような無表情から僅かに顔を歪ませた。
それを見てルカはニヤリと笑う。
「ロボットかと思ってたけど、ちゃんと表情変わるじゃん。」
「いてぇな…。」
「それは失礼。でもあたし、無表情なやつ好きじゃないんだよね。腹ん中が見えないからさ。」
軽口を叩きながらルカは考えた。
一人、このファイトクラブを預けられそうな人間には目星がついてる。
直接会うのはあまり気乗りはしないが、アイツなら荒くれ者共もまとめることが出来るだろう。
この国で、裏の住人で、とにかく顔の広いあいつなら、と。
「あんたについて行く前に話をつけたい相手がいる。あんたも付き合いな。」
「なんの話しをするつもりだ?俺ァ警察だぜ?非合法な施設はお断りだ。」
「ただのナイトクラブだよ。取り仕切ってるやつは、まぁ……相当癖のあるやつだけど。」
「なら……」
「ところであんた童貞?」
「…………は?」
「察した。じゃ、気をつけなよ。あたしから離れないように。」