06:安すぎて、高すぎる
鋭く息を呑んだのは、メルヴィンだった。
「ざ、罪人……?」
しかし、薄く唇を開いたその表情は、貴族にあるまじき間抜けさである。なまじ顔立ちが整っているので、それでも美しいことに変わりはないのだが。
直接『罪人』呼ばわりされた商人の男は、顔を伏せたまま小さな呻き声を上げた。
「ええ、彼は以前、他領で芸術品の偽物を本物だと謳って販売したとして、罪に問われています。もっとも、しっかり償いはしたようですけれど……反省はしていないようですわね」
「そんな……」とテレサが呟く。
すっかり顔色を失ってしまったのは、己の失態に薄々勘付いているからだろう。そのうえで、ルシャーナは言葉を重ねる。
「アルフォンソ・ル・ラングスタ」
ルシャーナの視線が、テーブルに立て掛けられた絵画のひとつに縫い止められた。
「アルフォン……?」
「アルフォンソ・ル・ラングスタ。五十年ほど前の画家の名前です。綺麗な深い青……群青色を絶妙な塩梅で使いこなすことで有名になった画家ですが、彼の人の作品にはそれぞれ、モチーフとなる動物が描かれています。そして、ギイトが持ち込んだこちらの作品。あら、可愛い! これはツバメハチドリかしら?」
アルフォンス・ル・ラングスタが被写体に選ぶのは人物に限られている。ただし、その中には必ずモチーフとなる動物が描かれていて、それは猫だったり犬だったり、時には鳥だったりとさまざまだ。
どのような観点で動物を選んでいたのかはわかっていないが、一説には、そのとき手に入りやすかった絵の具の色から決めていたのではないかとされている。
「アルフォンソは同じモチーフを二度は選ばなかったそうなのだけれど、残念なことに、ツバメハチドリが描かれた作品は、半年ほど前に発見されています。今は、パーヴァリー画廊に飾られているはずだわ」
「……『パーヴァリー画廊』だなんて、聞いたことも……」
悔しまぎれに、俯いたままのテレサが吐き出した。
言われっぱなしというのが、よほど腹に据えかねていたのだろう。どうやら、女主人として認めていない女が大きな顔をするのが、よほど許せないらしい。
「王都にある、小さくも歴史の長い画廊です。現在、運営しているのはレプリウス子爵夫妻。元をたどれば、レプリウス子爵の傍系尊属である隣国の王女が趣味で集めていた芸術品を、展示していたらしいわ。国王陛下にもその存在が認められていることから、観光名所ほどにはなれずとも、貴族間ではそれなりに名の知れたギャラリーです」
王都に寄り付かないだけならまだしも、貴族間でのコミュニケーションを必要ないと切り捨て、蔑ろにするから騙されるのだ。情報がないというのは、とても怖いことなのである。
「まあ、そんなわけで、信用に足る画廊であることは間違いありません。実際、王都を発つ前に画廊を訪れたんですけれど、少なくともわたくしは、あちらに飾ってあった作品は本物だと思いました。……そもそも、この群青色。普通の絵の具ではないですか」
ルシャーナは絵画をまじまじと見つめ、やっぱり違うみたい、と小さく呟いた。
無論、その道に関する専門家にはほど遠い。
しかし、妃教育の一環で、あらゆる分野に精通するよう学ばされてきたルシャーナにとって、知識は使ってこそのものなのだ。
「普通の絵の具ではない、とは……?」
そこまでだんまりを決め込んでいたメルヴィンが、不思議そうに小首を傾いだ。こちらはテレサとはまた違い、うっかり犯罪者を招き入れてしまったという意識が薄いのだろう。優しい、優柔不断といえばまだ耳心地はいいが、要は当事者意識が低いということなのかもしれない。
辺境伯の興味を引いたからか、テレサとロドニーの二人はなかなかに面白くなさそうな表情を浮かべている。――まったくもって、遺憾なことだ。
「ああ、アルフォンソといえばアズライト」
「……アズライト?」
「鉱物の一種です。アズライトを砕いて顔料にしたものを使っているので、あんなにも深く澄んだ群青色になるらしいですわね。アルフォンソが芸術の街と名高いバッガス出身だったことから、バッガス・ウルトラマリンと言われているほどです」
バッガス出身アルフォンソ・ル・ラングスタが使う、ウルトラマリン・ブルー。通称、バッガス・ウルトラマリン。
まるで深海に沈んだかのような神秘的な色合いは、見る者を魅了する。ルシャーナは特別絵画のファンというわけではないが、それであってもなお、初めて実物を見たときには思わずため息を吐いてしまったほどだ。
「その点、この絵に使われている群青は……とてもバッガス・ウルトラマリンとは思えない、普通の『ちょっと深い青色』だわ。ギイト、あなた、これをどこで手に入れたの?」
「あ、う、アルベーヌ領にちょっとした腕利きの画家がおりまして……」
「……なるほど。その画家がこれを……それは、まあ、よくできた贋作ね」
ほう、と息を吐く。
贋作やら複製品やらといっても、それを『本物』と偽らなければ犯罪ではない。最初から『レプリカ』だと売り出せば、それなりに買い手もあっただろう。
「あとは、こちらも」
次いで、ルシャーナが手に取ったのは、テーブルの上に置かれていたイヤリング。一見すれば、小さな宝石が輝く非常に美しいアクセサリーだが――。
「旦那さま。これはどなたへの贈り物でしょうか?」
「……それは奥さまが知る必要のあることですか? まさか、ご自分へのプレゼントだとでも?」
すかさず、テレサが噛みついてきた。ちょっとした隙を狙うという意味では、なんとも口達者な人である。呆れを通り越して、もはや感動してしまいそうなほどの敵意。
前妻への崇拝が後妻への憎しみを生み出しているのだとしたら、それはもう、辺境伯の力不足だと言うほかないだろう。
そもそも、なんの罪もない子どもにあのような仕打ちをしている時点で、彼らの信用は地に落ちているのだ。
「まあ、妻として判断するのであれば、身内や愛人以外への贈り物は避けるべきだと言うしかないでしょうね。ただ、貴族のひとりとしてと言うのであれば、あなたやここの使用人になら問題ない、と判断するわ」
「それは……どういうことです?」
勝ち誇ったように持ち上がっていた口角が、ひくりと引き攣る。
「平民や下位貴族への贈り物であれば、あまり目立たないでしょうねということよ」
「あたしが平民だから、宝石を持つことも烏滸がましいということですか!? あたしは一生懸命、旦那さまのために働いてきたのにっ」
「……つまり、このイヤリングは、あなたへのプレゼントだということ?」
「い、いや、そうじゃない。これは母上への……」
平民だから悪いということではない。役割こそ違えど、それで侮っているということもない。ただ、立場や環境が異なるのだから、持つべきものも違うだろうということだったのだが、テレサにはもはや何を言っても無駄なようだ。
メルヴィンの弁解に、ルシャーナはひとつ頷いた。テレサの話を正面から受け止めようという気持ちは、もうなくなっていた。
「前辺境伯夫人に? なら、ええ、息子からのプレゼントですもの。確かになんでも喜んでいただけるでしょうね。ただ、前辺境伯夫人という立場を気にして選ぶのであれば、これはあまりおすすめできません」
オルコット前辺境伯夫人。
ルシャーナも何度か顔を合わせたことがある彼女は、しっかりと母親だった。辺境伯夫人としての職務を全うしながらも子どもを慈しみ、社交シーズンになると、他貴族との交流を深めに王都まで出てきていた。
「それは、なぜ?」
いつの間にか話を聞く姿勢に入っていたメルヴィンに、イヤリングを乗せた手のひらを差し出す。
榛色の瞳が、ぱちりと瞬きをした。
「これはおそらくアレキサンドライト……のつもりで持ち込まれたもの、でしょう」
「あ、ああ、確かに、先ほどそう聞いた……」
「それで、これをいくらで売りつけるつもりだったのかしら?」
商人ギイトは答えない。
首を差し出した状態のまま固まっているので、メルヴィンが代わりに「十万Rだそうだよ」と教えてくれた。
「十万Rだあ!?」
思わずといった様相で声を上げたのは、ハリー・アンギアノ。しかし、無意識中の反応だったようで、すぐに「失礼」と口を噤んだ。
「……高すぎる?」
「いえ、安すぎるし、高すぎるといったところでしょうか」
「え、それはどういう……?」
「これが本物のアレキサンドライトであれば、その五倍以上の価値があります。ただ、これは合成カラーチェンジサファイアではないかと思うのですが」
誰にともなく訊ねると、今度はギイトが「おっしゃるとおりでございます」と蚊の鳴くような声で言う。
「なら、その価値は三分の一以下ですわね。十万Rは、アレキサンドライトにしては安すぎて、合成カラーチェンジサファイアにしては高すぎる……旦那さま方はアレキサンドライトを名指しで所望したのではなく、ギイトから『希少価値の高い宝石』と説明されたか、ご自分から『高価な宝石を施した装飾品はあるか』と訊ねるかしたのでしょう」
「……うん、そのとおりだけど――よくわかった、ね」
「そもそも、アレキサンドライトはこんなふうに一介の商人が軽々しく持ち運べるほど気軽なものではありません。だいたいは専門の宝石商が懇切丁寧に取り扱うものです。さらで取り出し、テーブルの上に寛げている時点で疑うべきですわね。彼がこうしたということは、あなた方は彼に『騙しやすい』と思われているということです」
本物の中に偽物を紛れ込ませるのが、彼らのような人間の常とう手段。なので、慣れていないうちは見分けるのも大変だろう。
自力で見分けることができないのであれば、やはり信用に足る商人を選ぶほかないのだ。