05:顔見知りの商人
部屋に戻ってくるなり、カミラは複雑そうな面持ちで口を開いた。いかにも『どんな顔をすればいいかわからない』といった表情だ。
珍しいなとルシャーナは小首を傾げたが――。
「今、ギイトが来ているらしいですよ」
即座に、なるほど、と頷いてしまった。
「ギイトって……あのギイト?」
思わず訊き返す。
ギイトという名前は決して多くない。特に、貴族家に出入りするような身分の者ともなれば、当然限られてくるだろう。
その聞き覚えのありすぎる名前に、ルシャーナは天を仰いだ。
「いえ、正直、直接見たわけじゃないのでわかりません。でも、廊下ですれ違ったメイドたちが『商人が来ている』と話していて……」
「それがあの男だと?」
「その後、調理場でナイフを洗っていたら、侍女長がいらっしゃったんですよね。で、『今日はギイトさまが来る日だから、あの茶葉でお茶を用意して』と指示していきました」
「商人のギイト……」
「……まさかこんなところで会うなんてなあ」
感情的なところはあれど、基本的には護衛として、騎士として何事にも冷静に挑むハリーにしては珍しく、なんとも微妙な表情を浮かべている。
――商人のギイト。
その名前には、嫌というほど聞き覚えがあった。
「……カミラ、ジェスのことお願いできる?」
しばし考える素振りを見せたルシャーナだったが、すぐにハリーに視線を向ける。
「ハリー、一緒に来てちょうだい」
「了解」
そして、ジェスをカミラの腕の中に預けて、部屋を後にした。
とはいえ、目的の部屋を見つけるのには一苦労だった。
いくら頼りない辺境伯だとしても、機密情報の取り扱いがある執務室などに一介の商人を通すわけはない。――否、そう思いたい。
なら、応接室というのが妥当なところだろうが、ひとくちに応接室といっても、それは一部屋に限った話ではないのだ。ルシャーナやハリーはこの邸を訪れたばかりで、しかもまともに案内さえされていない。
職務上、必要になるので、ハリーは自分の足でふらふらと邸内を見学して回ってみたものの、どんなときに、どんな人がどの部屋を使うのかまでは把握しきれなかった。
仕方がないので、使用人たちに心当たりを訊ねてみても、一様に嫌そうな顔をするだけで答えてはくれない。こういうのは主人やその側近たちの空気が伝染するものなのである。まったくもって度し難いことだ。
結局、いかにも気の弱そうな下働きの調理人を半ば脅すように吐かせ、『おそらくここだろう』という一室に向かうことにした。
「ったく、マジで感じ悪いよな、ここの連中」
悪態を吐く子どものような様相で舌打ちをするハリー。少し前を歩いていたルシャーナは、あからさますぎる使用人たちの態度を思い返して、苦笑した。
「まあ、使用人としてのレベルは底辺ね。正直、下位貴族の邸でも、これほど酷い仕事はしないんじゃないかしら。そもそも……身分制度が根強く残るこの国で、わたしやあなたに無礼を働くなんて不思議だわ。使用人のリストは見たけれど、なぜか平民、または下位貴族の次男次女以下がほとんどみたいだし、不敬罪が適用されるとは思わないのか……」
積極的に身分を明かしていないハリーとカミラはまだしも、ルシャーナは伯爵令嬢だ。しかも、あまり公にはなっていないが、個人的に子爵位も賜っている。おそらく、この若さの女性で爵位を授かっているのは、どこの世界を探しても彼女ぐらいのものだろう。
そのうえ、国王が後見人同然で背後に控えているのだから、これはもう不敬罪どころの話ではないのである。
「へえ、お嬢が使用人の質について文句を言うって、なかなかないのにな」
言いながら、ハリーはひとつのドアの前で「ああ、ここだ」と立ち止まった。
同じように足を止めれば、確かに中からは人の気配がする。
ルシャーナはわずかに息を止めて、それからドアを押し明けた。
「ちょっと失礼いたしますね」
会話が弾んでいたのか、微かな笑い声が漏れてくる。しかし、ルシャーナとハリーの突入によって、空気がぴしりと固まった。
中にいたのは、辺境伯であるメルヴィンと侍女長のテレサ、補佐役兼執事のロドニー。驚くべきことに、テレサがソファーに着席していたのでぎょっとしてしまったが、それにあえて言及することはなく、ヴェールの下で微笑を浮かべた。
「ちょ、ちょっと、奥さま! 旦那さまと商人の方がお話してらっしゃるのに、失礼で……っ」
「お、王太子妃殿下っ!?」
立ち上がりもせず、侍女長が真っ先にしたことが『女主人への叱責』だったので、ハリーが表情を無に保ちつつも「うへえ」と小さく呟く。
しかし、その言葉を遮るようにして、ルシャーナの足元に滑り込んできた影があった。まさに、流れるような土下座である。
「……ここにいることからなんとなく察してほしかったのだけれど、わたくし、もう『殿下』ではなく、『辺境伯夫人』なのよ」
「へ、へえっ!?」
そもそも、厳密には王太子とも籍を入れているわけではなかったので、『殿下』というのも不自然なのであるが。
「それで、ギイト」
ルシャーナが改めて呼びかけると、頭を垂れていた男の肩が大きく震えた。言われることも、今後の未来も想像できているのだろう。
「あなた、こんなところでいったい何をしているの?」
「いや、いやいやいや、まさか妃殿――ふ、夫人が旦那さまとご結婚なさるとは思いませんで……」
「あのね、わたしがいなかったらいいとでも思っているのかしら? 懲りない男ねえ。まともになっているなら、まあ……でも、そんなわけでもないようだし」
テーブルに置かれた装飾品や宝石、その周辺に立て掛けられたいかにもな絵画をちらと見やり、ルシャーナはこれみよがしにため息を吐いた。
それに「奥さま!」と悲鳴を上げたのは、すっかり女主人のつもりになっているらしい侍女長のテレサである。
「なんですか、その口の利き方は!? 商人の方がわざわざ足を運んでくださっているんですよ! 丁寧にもてなしこそすれ、上から目線にそんな……!」
「だって上だもの」
「なっ!?」
ここまできて、侍女長は上下関係すらわかっていないという事実が判明した。目眩さえ感じながら、ルシャーナは「ひとまず、そこから立ちなさい」とテレサを見下ろす。そばかすの散らばった頬が、屈辱に染まった。
「あなたがどれだけ旦那さまと親しくとも、公での関係性は主人と使用人。ここにいるのがギイトだからいいけれど、あなたと旦那さまが同じようにソファーに座っているのを人が見たら、愛人関係にあると言っているようなものなのよ」
「え――」
「まあ、いいならいいのだけれど、それならなおさら、あなたはわたくしに管理されなければならない。愛人を管理するのは、女主人の仕事ですもの」
意地悪く聞こえるかもしれないが、ルシャーナにそのつもりはない。いや、底意地が悪いことを言っている意識はある。
しかしながら、本妻が愛人の管理をするのは貴族として当然の務めでもあるのだ。
無論、この二人がそんな関係にないことは事前調査で知っているので、テレサにとっては侮辱に感じられたかもしれないが。
「奥さまに、なんでそんなことを……!」
――言われなければならないのか。
おそらく、そう言い返そうとしたのだろう。気が強いこと、と思いながら、ルシャーナはひとまず話題を戻すことにした。
「だいたい、あなたたち、彼がどんな人か知っていて邸に招き入れたの? 旦那さまもです。当然、彼の背後関係を調査したうえで、商品を購入しているのですよね?」
本来、信用に値しない人間を邸に招き入れることなど、あってはならない。平民の家ではないのだ。自分の目で見て、耳で聞き、本当に必要な情報だけを掬い上げる。
貴族同士であれば、紹介してもらうのもいいだろう。もっとも、ある意味顔見知りと言えるギイトがいる時点で、それができていないことは明白である。
「あ、いや……でも、テレサがおすすめの商人だって」
メルヴィンが視線を泳がせながら言った。頼りにしているのはわかったし、テレサと(なぜか)ロドニーも誇らしげにしているが、残念ながら、自慢できることは何ひとつとしてない。
「そうですか。では、テレサから『なぜ』おすすめなのかも聞いたということですわね?」
「……安くて、仕事が早いからって」
「安い? オルコットは今、財政難か何かなんでしょうか?」
「え? い、いや、そういうわけでは……」
「それでは、あえて彼を選ぶ理由はないと思いますけれど。仮にそれに魅力を感じたのだとしても、なぜ安いのかは確認されました?」
「……奥さまは、王都の恵まれた環境で育ってらっしゃるから、節約という言葉をご存知ないんですね。あたしたちみたいな平民が、日々どれだけ頑張って仕事をしているか……!」
的外れなテレサの切り返しに、ルシャーナはいよいよ「お願いだから黙って!」と叫びたくなった。
(話が通じないというのは、やっぱりストレスが溜まるわ……)
これまでにもこうした人種に出会うことはあったが、まさかこうも身近に現れるとは。
「平民の方々が毎日一生懸命お仕事をされているのはわかったわ。それで? 彼は辺境伯。平民ではないけれど?」
ルシャーナは王太子の元婚約者。つまり、いずれ国母になる予定だったので、広く愛情を持つように教育を施されている。
ゆえに、一方的に誰かを嫌うことはあまりないのだが、それでも苦手意識というのは意図せず生まれてしまうものだ。今のところ、会話にならない人がその対象になっているらしい。
「あなた方からしたら『ただの無駄遣い』かもしれないし、実際そんな側面があることも否定できないけれど、お金を使って経済を回すことも、貴族に課された義務のひとつだわ。だいたい、あなたは今『平民がどれだけ頑張って仕事をしているか』と言ったけれど、経済がどのようにして回っているか知っている? お金がある人が貯め込むばかりでは、そのお仕事によって得られるお給金すら支払われない世の中になるかもしれないのよ」
『我ながら偉そうだわ』と思いつつ、ルシャーナはヴェールの中で重たく息を吐き出した。偉そう。実に偉そうだ。自覚はある。
いわゆる、テレサが言うところの『上から目線』というやつなのだろうが、貴族としての考え方を伝えているのだから、そうなってしまうのは致し方のないことだろう。
「まあ、それはいいとして」
テレサがさらに言い返してくる気配を察知して、ルシャーナはそれを拒否するように夫の困惑顔に向き直った。
「ギイト。――彼は以前、詐欺で捕まったことのある前科ありの罪人ですわよ」