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02:ジェス・オルコット

 階上、それもこの狭い空間にベッドは運び込めなかったのだろう。

 もはや『部屋』と呼べるかもわからないそこには、薄汚れたマットレスが一枚放り投げられている。

 その片隅に、その子どもはいた。

 まるで身を守るようにしてシーツに(くる)まっているのがなんとも痛々しく、憐れみを誘う。

 大きな瞳が数度瞬き、やがてそれはじわじわと(うる)み始めた。


「あ、あらっ?」


 ――まさか、泣くのかしら!?


 焦りを感じたルシャーナは、助けを求めるように後ろを振り返った。カミラはシーツと主人、交互に視線を走らせ――。


「お嬢さま、その格好が怖いのでは?」


 まさにその通りかもしれないという指摘をした。

 思わず、顔を俯かせる。

 視界に入るのは、黒のワンピースに黒い手袋、それに黒のヴェール。黒づくめの装いは確かに威圧感を与えるかもしれない。

 それも、ヴェールを被っているせいで表情が見えないので、子どもからしたら恐怖の対象にもなり得るだろう。


「ジェス、ジェス。ごめんなさい」


 そっと近づいて、ヴェールに手を掛ける。

 指に力を入れてゆっくり引き下げると、ルシャーナの素顔が露わになった。

 新雪のごとくきめ細やかな白い肌に、薄っすらと色づいた頬。唇は程よく厚く、ルージュを引いたかのように(あか)い。アーモンド形の大きな目の縁を囲っている長いまつ毛も、チャームポイントのひとつだ。

 薄くメイクをした程度でこれなのだから恐ろしい――。

 朝にも見たばかりだが、カミラは主人の惚れ惚れするような美貌に改めてため息を()きたくなった。


「わたくし、ルシャーナと言うの。もしよかったら、仲良くしてくれる?」


 しかし、その子どもが気にしているのは、また違うことのようであった。

 答える代わりに自身を見つめてくるジェスの視線を追って、「ああ」と頷く。


「ふふ、あなたと同じ目の色ね。あなたとの『おそろい』が見つかって、うれしいわ」


 人によって『冷たい』だとか『氷のよう』だとか評されることもある水色の瞳だが、カミラはそれを『まるで空が映し出されたような晴れ晴れとした色だ』と感じていた。

 オルコット邸に到着してから崩れることのなかった無表情が緩み、ふんわりとした笑みが浮かべられる。


「ジェス、ここを出ましょう」


 ルシャーナは、慎重に声を掛けつつ、ゆっくりと手を差し出した。自身の美しさはそれなりに理解しているので、(つと)めて柔らかい表情になるよう意識して。


「まず……そうね、体を洗いましょう。さっぱりするわ。それから、朝ご飯も。たくさん食べたらお昼寝でもして、起きたら一緒に遊ぶの。どう? 楽しいと思わない?」


 身じろぎひとつせずじっと体を縮こまらせている様子は、まさに警戒心の強い猫のようだ。ぱっと見た限りでは、さすがに暴行を受けた感じではない――が、においといい、シーツの隙間から覗く脂ぎった髪の毛といい、まともな扱いでなかったことは想像に難くない。

 とはいえ、オルコット辺境伯は女ひとりに言い負かされてしまう程度には気が弱く、こんなことを指示できるタイプではないだろう。


(百歩譲って屋根裏部屋に押し込めたのは彼だとしても……倫理的、人道的に問題がありそうなことはしない、というか、したくてもできない人に見えた。なら、使用人がそろいもそろって『面倒臭いから』だとか『主人の意思を汲んだつもりで』だとか、そういったところかしらね)


 そのまま、一分、二分と時間が過ぎていく。

 いつの間にか、ルシャーナはジェスの前にしゃがみ込んでいた。床に広がったワンピースの裾には埃が付いているだろうが、気にもならなかった。

 心の内で「いやああああ!」と叫んでいたのは、カミラだけである。


「い、行く……」


 緊迫していた空気が緩みはじめ、次第に眠気が襲ってきたころ、シーツがはらりと落ちた。細くも澄んだ声に、息を呑んだのはルシャーナとカミラ、どちらだったか――。


(う、え……っ)


 まごうことなき美少年がそこにいた。


(あら、まあ! ここは天国かしら?)


 ルシャーナはこれまで、元の婚約者である王太子の子ども時代以上に可愛い存在はいないと思っていたが、その限りではないかもしれないと感じさせるほどの愛らしさだった。

 長く伸びた灰色の前髪の奥から、水縹(みなはだ)の双眸が覗いている。


「やだ、わたし、いつの間に死んじゃったの?」

「お嬢さま、ここは天国ではありません」


 昔から付き合いのあるカミラには、言いたいことがわかったのだろう。苦笑気味に切り返されて肩を竦めていると、そっと手に温もりが乗せられた。

 はっとして視線を落とす。

 いまだ戸惑いの表情を浮かべつつも、ジェスがルシャーナの手を握っていた。


 それだけのことなのに、ぐっと胸の内から何かが込み上げてくる。

 出会ったばかりの大人を信用したわけではないだろう。

 しかし、それはなぜか、ルシャーナに大きな衝撃を与えた。心そのものを預けられたような、そんな不思議な感覚がしたのだ。


(……わたしの息子なんだわ)


 成人しているといっても、ルシャーナはまだ十八歳。

 言葉が交わせるほど大きな子どもがいる年齢ではないはずなのに、その考えがすとんと胸の奥に落ちてきた。

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