14:ロドニーの兄ラルフ
メルヴィン・オルコットと前辺境伯夫妻が親子の語らいをする一方で、ルシャーナもまた、ある人物と向き合っていた。
「――申し訳ございませんでした」
ラルフ・エクラム。
エクラム家の嫡子であり、ロドニーの実兄でもある男だ。
「……いったい、何に対する謝罪かしら?」
硬い表情で頭を下げるラルフに、ルシャーナは小首を傾いだ。表情は見えずとも、異様なまでに穏やかな声色から、おそらくいつも通りの微笑を浮かべているであろうことが読み取れる。
上に立つ者らしい――まさに貴族然としたその雰囲気に、ラルフは自然と頭を垂れていた。
「愚弟が大変失礼なことを」
「失礼、ね」
「いえ、正直、解雇どころか手討ちになっても仕方のない愚かな行為だったとしか……」
「……そうねえ。前妻を愛していらっしゃる彼の方がわたくしを望んだわけでないことは承知しておりましたが、侍女長とまともな会話ひとつできないだけでなく、邸一体となって女主人の排除にかかる始末。使用人の賄い以下の食事が出てくるとは思わなかったわ」
出てくるものと言えば、水に味を付けたようなスープや、ひょっとしたら凶器になり得るのではと思えるほど硬くなったパン。
使用人一丸となっての嫌がらせとしか思えないそれに、当然、ルシャーナは注文を付けた。――女主人と子どもがいるのだからしっかりするように、と。
ジェスはオルコットの血を引いていない。
ゆえに、まず間違いなく、後嗣にはならないだろう。そんなことをすれば、貴族家の乗っ取りを許す口実を作ってしまいかねない。
だが、理由はともかく、養子として引き取ることを決めたのは当主なのである。次期当主でなくとも、オルコット家の一員として扱われるべき人間だ。
「わたくしが食事について注意すると、あなたの弟はこう言いました。――女主人と認められているわけでもないのに大層な口を利くものだ、と」
ああ、とラルフが掠れた息を漏らす。
「どうやら彼は、この婚姻が王命であることを忘れてしまったみたいね。たとえそう思っていても、それを口に出してしまうということはつまり、わたくしをこの邸の女主人とするべく王命を下した国王陛下の意思に反するということですもの。使用人全員でわたくしを追い払う算段だったのかしら? でも、ねえ、それって――オルコット辺境伯が国王陛下に思うところがあるということ?」
もしオルコット辺境伯に敵意を持つ家があったとしたら、このようにちょっとしたことから、ありもしない罪を論われることになるかもしれない。
通常、格式高い貴族に仕える使用人ともなれば、中流階級以上の家出身の人間がそれなりにいるものだが、オルコット邸には平民が多い。だから、貴族の常識やしきたり、考えに理解が及ばないのだろう。
『家としての行動』というのが、わからないのだ。
「お嬢」
ハリーが短く、窘めるように呼ぶ。ルシャーナは親に叱られた子どものように顔を逸らし、それから「ラルフ、顔を上げて」と呟いた。
それを受けて、ラルフがそっと視線を持ち上げる。
寝息を立てるジェスを腕に抱いたまま、カミラがラルフをソファーへと促した。「いえ、それは、あの」と引き下がろうとするので、ルシャーナ自ら「どうぞ、座ってちょうだい」と勧める。
「少し意地悪なことを言ってしまったけれど、わたくしのことについては怒ってはいないのよ。あなたの弟にも」
ラルフが座るのを見届けてから、ルシャーナは切り出した。
「ただ、ロドニーはどうも貴族の常識に疎いようなのだけれど、どういうことなのかわかる? あなたも、あなたの弟も貴族でしょう。それも、エクラム家は代々オルコットに仕えていると聞いているわ。下位貴族だけでなく、高位貴族としての知識を身に付けていてもおかしくないわよね。社交免除されているオルコットに仕えているから、そんなものは必要ないと判断しているのかしら……とも思ったのだけれど、あなたを見る限り、そういうことではなさそう」
そもそも、社交が免除されているといっても、それを額面通り受け取る人は少ない。現に、前辺境伯夫妻もシーズン中は積極的に社交場に顔を出している。
当然、エクラム家の人間もそのように育てられているものだ。
「……はい、あの愚弟にも然るべき教育が施されています。頭も悪くない。学園での成績もそれなりに優秀でした。旦那さまの執事兼補佐役になるまでには、従僕としての下積みも経験しています。ただ――」
「ただ?」
「ただ、少し独りよがりな部分がありまして……」
「……それは、つまりどういうこと?」
「先ほど、なぜこのようなことになったのか愚弟に問い質してきましたら、今どき古臭い常識や慣習に囚われる貴族などいない、と申しておりました」
なるほど、とルシャーナは頷いた。
おおよそのことは把握した。
まったくの無知であるテレサとは違い、貴族の常識は一通り網羅しているであろうロドニー。しかし、知識としては知っていても、オルコットに追従する存在として、特例的に社交界への出入りは免除されているので、実際にそれを感じたことはない。
それを、いつしか『従う必要のない古臭い慣習である』と認識し、曰く、古臭い常識を身に付けたルシャーナを見下したくなったのだろう。そうなると、いつまで経ってもテレサがテレサのままだったのは無理からぬことだったのかもしれない。
なにしろ、彼女はロドニーの知人だったのだから。
「旦那さまに付くのは、あなたのほうが良かったのではなくて?」
学園での成績が悪くないからといって、必ずしも優秀な人材に育つとは限らないだろうに。そんな思いを言外に含ませたのを感じ取ったのか、ラルフは眉を垂らしたまま「おっしゃる通りでございますね」と肩を落とした。
「実際、そのような案も出てはおりました。大旦那さまが予定よりも早く家督を譲ることになりまして、より多くの経験を積んでいた私のほうが適任ではないかと」
「では、どうして?」
「年齢が近く、性格が合ったのでしょう。旦那さまと弟は幼いころから、まるで兄弟のように過ごしていました。そんなこともあって、愚弟は将来的に旦那さまの助けになれるようにと育てられたのです」
なんだか話が長くなりそうな気配がしてきたので、ルシャーナは新しいカップに紅茶を注ぎ入れ、ラルフに差し出す。
当然ではあるが、ラルフはさらに恐縮したようだった。
王命での婚姻、あるいはルシャーナ姫の降嫁ということの意味を真に理解しているのだろう。この人が欲しかったわ、などとルシャーナは嘆息した。
「やや経験不足な面は見られましたが、学園での成績と、従僕として仕えていた実績から、旦那さまと共に成長してゆけばよいだろうと判断されました」
「下積み時代には、たいした問題は起きなかったということね」
「傍目にはそう見えていましたが……実際は、弟が言うところの『古臭い貴族の常識』に納得がいっていなかったのでしょう。それで、大旦那さまや大奥さまがご隠居なさることになって、自分が正しいと思うことをようやく主張できるようになったと感じたのだと思います」
悪意でなく、正義を持った者同士がぶつかるときのほうが、ややこしくなるものだ。客観的に見た正義がルシャーナだったのだとしても、ロドニーにとっては自分が正義だったのである。
「正確な人数は確認しなければわかりませんが、弟が言うには、この一年の間に相当な数の使用人が自主退職したようです。本人曰く、理由はさまざまだったそうですが……おそらく、弟やあの女性の勝手な振る舞いも大いに関係しているかと推察いたします」
「……そうね」
通常、高位貴族の使用人ともなると、中流貴族以上の家に生まれた人間も珍しくない。
家系として代々オルコットに仕えているロドニーはともかく、平民のテレサが、ロドニーの知人だというだけで立場が強く、給与も高い侍女長に収まったうえ、仕事のいろはもわかっていないのにその指示に従わなければならないとなれば、この邸で働きたくない――働く価値はないと思うのも、当然である。
紹介状さえ出してもらえるのなら、彼らがこの家に固執する必要はないのだから。
「それにしても、メリッサさま……お義母さまとお義父さまがご隠居なさることになったのは、どうして? まだお若いでしょうに」
『予定より早く』と言っていたくらいだから、当初から当主交代の予定はあったものの、引継ぎが完全に終わる前にそのようなことになってしまったということなのだろう。
「そうですね。本来なら、あと数年ほどは務められる予定でした」
「あら、それでも数年程度なのね」
「はい。大旦那さまと大奥さまのお二人がご健勝なうちに家督を譲り、あとはご隠居生活を楽しみながら、旦那さまの領地運営をサポートすると」
「隠居生活を楽しみながら……」
――それは果たして、隠居生活と言っていいのだろうか。
ルシャーナはヴェールの下で苦笑しつつ、「それから?」と続きを促した。
「大奥さまの体調が思ったよりお悪く――」
「思ったより、ねえ」
「……は、いえ、大奥さまは生まれつき肺が弱かったようでして。王都より辺境地の空気のほうが体に合ったのか、辺境伯に嫁がれてからは随分と良くなったということですが、ここ数年は体調の悪化と共に、寝込む日があるほどで……それを心配された大旦那さまがご隠居を決定なさったのです。療養をするために、と」
「なるほど、それでご夫婦で別邸に……」
このような場合、政略結婚で結ばれた夫婦なら特に、妻だけが家を移ることが多い。しかし、前辺境伯夫妻はそうではなかったのだろう。
それならせめて、息子を一人前にしてからにしてほしかったというのがルシャーナの心境だが――。
理由自体は納得に足るものだったため、話を変えた。
「ロドニーとテレサは幼馴染みというお話だったと思うのだけど、あなたとも親しいのかしら」
ルシャーナの疑問に、ラルフは「いいえ」と首を振った。
「弟に平民の友人がいることは存じておりましたが、まさか経験もないのに侍女長として雇うよう仕向けるとは……」
「……まあ、確かにそう『仕向けられた』のでしょうね、旦那さまは」
「あなたの弟に」という無言の訴えが聞こえたのか、ラルフは申し訳なさそうに眉を垂らした。「本当になぜこんなことに……」と心の底からの嘆きが漏れてくる。
実際に、ロドニーの行いは非人道的と言ってもいい。女主人であるということ以前に、同じ邸に住む人間にまともな食事を与えないというのは、『貴族の古臭い慣習』云々の問題ではないだろう。
しかも、子どもの扱いは、ゆうに虐待と呼べるものだった。ルシャーナにとって最も腹立たしかったのは、それである。
「そうしてなんでも周りに流される旦那さまですけど、少なくとも、この子を辺境伯家の一員に迎え入れると決めたのは彼自身でしょう?」
「……え、ええ。前の奥さまとご結婚なさったのも旦那さまの意思ですし、あの方が家を出て行ったからと放り出すこともできませんから。オルコットの血を引いているわけではないので、いろんな意見が出ましたが、大旦那さまもそこについては許可を出して……」
「出して、あとのことはすべて旦那さま任せだったと」
「……え」
「わたくしがこの邸に来た当初、この子は灯りもない屋根裏部屋に追いやられて、食事は粗末なものが適当にテーブルの上に放置されているだけ、湯浴みも満足にさせていなかったのか、髪の毛は脂でべたついていたわ。マットレスと簡易的なテーブルだけが置いてある部屋の隅で、シーツにくるまって心細そうに……この年齢にして口数が極端に少ないのも、おそらく話し相手がいなかったからでしょうね」
ルシャーナが言葉を紡ぐたび、ラルフの顔色が悪くなっていく。
「それを、わたくしに『お前は子どもの面倒を見ておけばいい』とばかりに、ロドニーからジェスの世話役を申し付かったのだけれど」
「ああ……」
「いえ、ジェスはとても可愛い――そう、可愛いのよ! でもね、だからこそ、あんなことを許容していた人たちを許せそうもないわ」
「……申し訳――」
「おそらく、指示していたのはロドニーでしょう。旦那さまは正直、ジェスに興味がないのだと思うわ。ジェスに対する認識も、精々『愛した女の子ども』ぐらいのものでしょうし。厄介なのは、養子としてオルコットに引き取られながらも、オルコットどころか貴族の血も引いていないということね」
平民の使用人が多いオルコットで、平民の血を引くジェスが虐げられるのは不思議だが、ジェス自身が生粋の平民であるがゆえに、使用人の質が低ければ、貴族扱いされるのが許せないと考える人間がいてもおかしくはない。
「お義母さまに人事権はいただいたから、まあ、ロドニーを直接処分してもいいのだけれど。でも、聞いたお話からすると、ロドニーは旦那さまにとって家族のようなものなのでしょうね。そのロドニーを『辺境伯の子息』を虐待したからと勝手に処分するのはさすがに……それに、その場合、体裁的には旦那さまも見て見ぬ振りをしたということになってしまうし」
嫋やかな声色に似つかわしくない高圧的な物言いに、ラルフははっと息を呑んだ。
――ロドニーとあの幼馴染みとかいう女は、どうしてこんな人を虐げようだなんて思えたんだ? どこからどう見ても『お姫さま』じゃないか!
生まれは伯爵家だが、育ちは王宮で準王族扱いを受けていた女性。命じるのに慣れた口調は、ラルフでも早々お目にかかれない王族そのものだ。いつか遠目から見た王太子が、まさにこのような雰囲気だったと思い出す。
「……管理が行き届いておらず、不愉快な思いをさせてしまいました。申し訳ございません」
ラルフは深く頭を垂れた。
あら、とルシャーナは目を瞬かせる。弟と違って彼はどうやら話が通じる人らしい、と。
「愚弟の処遇に関しましては、一度こちらに預けていただいてよろしいでしょうか? 奥さま――いえ、ジェス坊ちゃんの悪いようにはいたしません」
その提案に、ルシャーナは一も二もなく頷いた。ルシャーナが自分よりジェスを気にかけていることに気付いた時点で、使用人としては有能と言えるだろう。
「そう、ではお願いね」