12:前職はパン屋
メリッサ・オルコット辺境伯夫人と出会ったのは、ルシャーナがまだ五歳ほどのときだった。
その日、ルシャーナはどうにもこうにもむしゃくしゃしていた。まだ幼い子どもであったが、異例なことに、三歳のときから始まった厳しい妃教育が、少なからず少女の心を蝕んでいたのだ。
――曰く、口を開けて笑ってはいけない。急いでいても、走ってはいけない。挨拶の口上を間違えてはいけない。相手に感情を読み取らせてはいけない。甘えてはいけない。人前で泣くのはいけない。礼は完璧に。
周りの大人たちは厳しかった。
歯を見せて笑えば叱り、子どもらしく無邪気に振る舞えば頬を叩いた。
恐ろしいのは、これがすべて教師たちの独断であり、国王をはじめとする王家の人間が、誰もこの厳しすぎる教育に気づいていなかったことである。事の次第を把握したときにはすでに、ルシャーナは表情を失っていた。
幼くして立太子していたドウェイン・キンブルらがいるときには、一緒に駆け回ったり木に登ったりと比較的自由に過ごしているようだったので、ルシャーナが年齢のわりに落ち着いているのは、単なる性格だろうと思われていたのだ。成長とともに、ヴェールを被るようになったのも、感情がわかりにくいと言われる所以のひとつだった。
もっとも、そういったお遊びも、あとあとになればやはり処罰対象となったのだが。
そんな殺伐とした日々の中、ルシャーナはひどく叱責されることを承知のうえで、授業を抜け出して中庭を歩いていた。自覚こそないものの、心が悲鳴を上げていたのである。逃避しなければ、やっていけそうもなかった。感情のままに逃げ出したのは、無意識のうちの自己防衛だったとも言えるだろう。
「あら、ご両親はどちら?」
そして、メリッサ・オルコット辺境伯夫人はひとりの少女との邂逅を果たしたのだった。
ひとりの婦人を前にして、ルシャーナは柔らかく微笑んだ。
「――メリッサさま」
名前を呼ぶと、薄く開かれた唇の隙間から「ああ……」と呻き声が漏れる。年に数度は顔を合わせていたはずだが、自分の家で会うとまた一味違う感覚になるらしい。
「ルシャーナ嬢……いや、もう『ルシャーナ』と呼んだほうがいいかな。本当はすぐに挨拶に来ようかと思っていたんだが、少し妻が体調を崩していてな。顔を出すのが遅くなってしまい、申し訳ない」
メリッサの肩を抱くようにして苦笑する、前オルコット辺境伯ダンゼル。メルヴィンは母親似らしく、あまり父親には似ていない。
ルシャーナは簡易的な礼をしつつ、いいえ、と首を振った。
「挨拶すべきはこちらのほうですわ。別邸にいらっしゃるとのことでしたから、もう少し落ち着いたら伺おうかと思っていました。メリッサさまも、閣下も、わたくしを迎えていただいて……感謝いたします」
思いのほか親しげに話す三人に、メルヴィンは目をぱちくりとさせる。血はつながっていないはずなのに、その仕草がどうにもジェスのようで、ルシャーナは肩を竦めた。
それから、遠巻きにその様子を眺めていたロドニーとテレサに、すぐ二人を応接室に案内するよう頼む。
ルシャーナが指示を出したからだろう。テレサは不満げな表情を隠さず、おそらく言い返そうとしたのを、眉根を寄せたロドニーに引き止められていた。
――不思議。いつもなら、ロドニーもろとも食ってかかってくるのに。
そう思っていたら、全員で着席したあとにその謎は解けた。前辺境伯夫妻が連れてきた男は、どうやらロドニーの兄だったらしい。さすがに身内の前だと、いつもの不遜な態度も鳴りを潜めるのか。まあ、いろいろと手遅れなのだけれど。
「さて」
テレサが直々に紅茶を運んでくる。
ティーカップから立ち昇る湯気を見つめながら、前辺境伯が口を開いた。
「見知らぬ使用人がかなり増えているようだが?」
不意に持ち上げられた視線が、テレサを捉える。『かなり』と言ったということは、ここに来るまでにすれ違った者の中にも、見覚えのない顔がいくつもあったのだろう。
視線を集めたテレサは、ぱっと表情を輝かせて一歩前に出た。
「あ、あたし、一年ほど前から侍女長を任されている、テレサと言いますっ! ロドニーとは幼馴染みでっ、ええと、それが縁で旦那さまに紹介していただき、以降、家のことをいろいろ取り仕切っていて――」
「テレサ!」
「君に発言を許可した覚えはない」
「え……?」
さすがにまずいと思ったのか、ロドニーが鋭い声で窘める。しかし、もう遅い。弾むような声には一切の品が感じられず、それが格式高い辺境伯邸の使用人に相応しい振る舞いかと言われれば、否と答えるしかないだろう。
基本的には気さくな前辺境伯夫妻であるが、それでもやはり、彼らはれっきとした『高貴な人』なのだ。
信じられないものでも見たかのように、目をわずかに見開いたメリッサが、扇子で顔の下半分を覆った。
「なぜ、彼女を侍女長……というより、上級使用人に?」
こめかみを指で揉みながら、前辺境伯が問う。頭が痛い、ということらしい。
「え、ああ、ロドニーが幼馴染みだと言うので……」
「それで?」
「……優秀だと、そういうふうに聞いていて」
「それで?」
「……え?」
「彼女が優秀だと思う根拠は?」
まさか『優秀』だと聞いていたのかと、驚いてしまう。少なくとも、ルシャーナに対する敬意はまるでなかったが、この期に及んでそんなふうに思い込んでいたとは。
「まず、我々を出迎えたとき、彼女はルシャーナの隣に立っていた。これは使用人としてありえないことだ。そして、それを咎めないお前たちもありえない。この部屋に入るときも、案内してきたそのままに、一番先に入ろうとしただろう。ルシャーナが機転を利かせ、咄嗟にそれを邪魔したからよかったものの、君はなぜか、入室を後回しにされたことに腹を立てたようだな。ものすごい顔をしていたよ」
そう、前辺境伯夫妻がオルコット邸を訪れることになってからいままで、ルシャーナはこの邸に嫁いできた苦労をひしひしと感じていた。
表立って陰口を言うような者はいないが、陰湿ないじめは続いていたし、なにより、客人をもてなすにあたり、一番しっかりしなければいけないはずの侍女長は、なにか注意をするたびに「平民だからですか!」「奥さまの言うことなど信用できません!」と騒ぐのだ。
この数週間の間に、ルシャーナはすっかり彼女が別の生き物であるかのように見えていた。話が通じない宇宙人だと言われるほうが、まだ納得できる。
「その後も、彼女は使用人として考えられないミスをいくつか繰り返している。ここにたどり着くまでのたった数分の間に、だ。それでも彼女が優秀だと?」
「それは……」
「彼女を侍女見習いから始めさせなさい」
「えっ!?」
メルヴィンではなく、なぜかテレサが驚きの声を上げた。その表情には、そこはかとない絶望が浮かんでいる。
(いや、だからどうしてよ……)
オルコット家族のやり取りを眺めつつ、ルシャーナはため息を吐いた。これだけの失態で、十分な温情ではないか、と。
ここまでくると、もはや平民だ貴族だという問題ではない。彼女には決定的な能力が欠如しているとしか考えられなかった。そう、『空気を読む』という大事な能力が――。
「そもそも、顔見知りだからと……いや、お前にとっては顔見知りですらなかったのだろう。知人からの紹介であろうが、そばに置くからにはその人間の背景を精査し、能力を見極めるのは当然のこと。常々、危機管理はしっかりするようにと言い聞かせていたのに、どうしてこんなことに……」
薄っすらと皺が刻まれた顔に、失望の色が滲む。
当主の座を交代したのは約一年前だと言うが、まさかこの短期間で邸の中に問題が起こるとは思っていなかったのだろう。
「昔からいろいろと甘いんだ、お前は」
「メルヴィン。使用人の人事や采配については、わたくしに相談しなさいと言っておいたでしょう。辺境伯夫人としてこの娘が嫁いできてくれたいま、その権利はすべて彼女にあります。つまり、彼女に失礼なことをしたら、あなたたちは解雇される可能性もあるのよ?」
「な……っ」
「まあ、『自分たちに大きな顔をするなんて可笑しい』だなんて言う使用人、どこの家に行っても重宝してもらえるとは思えないけれど」
テレサはひゅっと息を呑んだ。
それは、異国の血が混じった糸目の男が言った台詞だった。
「あのお方が手紙でお知らせしてくれたのよ。そちらの邸には随分と教育の行き届いた使用人がいるようだが恐れ入った、とね」
強烈な嫌味だ。
さすがやり手の外交官。国の中枢を担う筆頭公爵家を継ぐ予定があり――幼いころからその素質ありとされてきたファイサル・ルルーシュは、親世代であってもその捻くれた性格を隠すつもりはないらしい。
「え、ええ、そう……そうなんですっ」
にもかかわらず、テレサは顔に喜色を浮かべた。
(確かにファイサル卿の言い回しは貴族的といえば貴族的だけれど……)
まさか。
まさかとは思うが――。
「あたし、自分なりにどうしたらお客さまに気持ちよくなっていただけるか、考えて! ここで雇われる前はパン屋で働いていたんですけど、そのときも笑顔を褒められることが多かったんです! そうやって努力してるのに、奥さまは細かいことでいちいち文句をつけないと気が済まないみたいで、あたしたちも困っていて……」
まったく通じていなかった。
ドアの横に控えているカミラとハリーが、居た堪れないとばかりに身じろぎする。怒ればいいのか、笑えばいいのかわからないようだ。
だいたい、あたし『たち』というのはいったい誰のことを指しているのか。
「メルヴィン、何か言うことは?」
ぱしり。
メリッサが、閉じた扇子を片手に打ち付ける。
「え? あ、ああ、いや、確かに彼女の言い分は細かいと感じることもあるけど、でも、文句をつけているという感じでもない、ような……」
「……メルヴィン、あなたねえ」
年齢を重ねても衰えない美貌が、不快そうに歪んだ。
「テレサ、と言ったかしら?」
「はい!」
「あなた、わたくしがルシャーナだったら即刻クビを言い渡しているところです」
「……え?」
幾度となくルシャーナに窘められ、ファイサルにも責められ、そのうえで前辺境伯夫人のメリッサにも睨まれているというのに、テレサの心には届かない。不思議なことだ、ともはやルシャーナは苛立ちすらなく、侍女長の様子を眺めていた。
「今、あなたは『自分なりに考えて』と言ったけれど、侍女の仕事は本来、先輩から学ぶものだわ。その家のやり方というのがあるのだもの。そうして基礎を身に付けたうえで、どうしたらもっとやりやすくなるかということならわかるのだけど、なぜ、お客さまのもてなし方をあなたが考えることになるのかしら? 教えてくれる先輩はいなかったの?」
「で、でも、前から働いてる人たちは、どう考えても必要のない細かいことばかり――」
「必要ないかどうかは、あなたが決めることではありません。それに、先ほどから『細かい』と言っているけれど、侍女の仕事としては大雑把なほうが問題あるわ」
権威ある前辺境伯夫人に言い返すのがまずいというのは、さすがの補佐役にもわかったのだろう。ロドニーはすっかり顔色を失い、現実逃避をするように遠くを見ている。
前辺境伯夫妻の背後で険しい顔をしている実兄の存在が、プレッシャーになっているということもあるのかもしれないが。
「それに――パン屋で働いていた? 笑顔を褒められていた? ええ、ええ、素敵なことね。羨ましいわ。でも、それとこれとは別の話です。パン屋の接客と侍女のもてなしはほとんど別物だもの。まったく一緒だと思われるのは困るのよ」
「……あたしの経験が無駄だって言うんですかっ?」
「さあ、それはどうかしら。あなたの様子を見ていたら、無駄だったんじゃないかしらとは思うけれど」
「そんな!」
「だって、あなたはパン屋の経営者……つまり、雇用主にこんなふうに言い返していたの? 市井では、それが許されているということ?」
テレサは思わず歯噛みした。
『はい』とも『いいえ』とも言いづらい質問だったからだ。肯定すれば『雇用主に盾突く人間』というレッテルを貼られてしまうし、否定すれば『ならなぜ、それがオルコット邸ではそれが許されると思うのか』となってしまう。
自分に悪意があることはわかっていた。ただ、やられるほうが悪い――やるほうの意識など、所詮はそんなところである。
「『努力している』とも言っていたけれど、残念ながら、努力していても結果が出ていなければ意味がない、というしかないわね」
学生のうちは、あるいは職種によっては結果より過程が重視されることもあるかもしれない。しかし、こと貴族に仕える侍女という立場においては、過程より結果。いくら頑張っても、相手が不快な気持ちになるなら無意味なのだ。
「こ、この前いらっしゃった次期公爵さまもそうですが、大奥さまも、奥さまの味方だから、奥さまばかりがよく見えるだけでは……っ」
「――不快だ」
こつりと音が鳴った。
ルシャーナとしては「こんなにも四面楚歌な状態で言い返せるなんて、ものすごいメンタルだわ」と感動すらしていたのだが、テレサの『聞く耳持たず』に慣れていない前辺境伯夫妻は我慢ならなかったらしい。
ダンゼルが拳を軽く、テーブルに打ち付けていた。
「ミスをするのは仕方がない。人間、そういうこともあるだろう。だが、妻がここまで言っても態度を改めないどころか、見直す素振りも見せないなど……ルシャーナ、君はどう思っている?」
突然水を向けられたルシャーナは、ヴェールの下で下唇を噛み締めたが、すぐに「ええ、そうですわね」と切り返す。
「普通であれば、とっくに解雇されていると思います」
そもそも一般的に、主人に対して「でも」と否定から入るのはあまり歓迎されない。意見がある場合は、言い方を考えてから発言するのが基本である。
「ただ、彼女はロドニーの幼馴染みだと言うではありませんか。紹介で雇用したのであれば、その責任の一端を担ってくれるということでもありましょう。旦那さまは別にして、このお二方はわたくしが何を言っても『口うるさい女』だとしか思わないようですし」
自身に付きまとう噂と、崇拝すべき前妻の存在。
また、王命での婚姻であるからこそ、愛を貫こうとしていた辺境伯を不幸にする存在だと思ってしまったのだろう。
「旦那さまが望むのであれば、侍女長でいることに否やはございません。とはいえ、ファイサル卿の一件でもわかったとおり、侍女としての仕事を理解していないのも事実。少なくとも、わたくしの侍女にはいりませんね」
自分のほうが上だと勘違いしていた女に、決定的な一言を告げる。
そもそも、侍女とは『身分の高い女性、あるいは婦人の世話をする女性』のことだ。その身分の高い女性に不要とされてしまうということは、つまり仕える相手がいなくなるということでもある。
「だ、そうだ。メルヴィン、わかったな」
「……ええ、彼女を一介の侍女に」
「だ、旦那さまっ!?」
「ああ、それから、ひとつ頼みがあるのだが」
テレサはいまだ納得がいかないとばかりに声を張り上げたが、ダンゼルの意識はすでに彼女にはなかった。
「頼み、ですか?」
良い気持ちはしなかったであろう話をしていたのに、さっぱりとした表情で小首を傾ぐメルヴィンには、嫌味なところがない。
初夜の件も、考えてみれば誰かの入れ知恵だったのではないだろうか。これまでの行動を鑑みるに、いくら『愛せない』と思っていたとて、相手が傷つくかもしれないという言葉をわざわざ投げつけられる人には思えなかった。
(まあ、だからといって許すつもりはないけれど)
誰かに言われたとしても、それはつまり『人に流されて自分を傷つけようとした』という事実がわかっただけのこと。
ルシャーナは頼りなさすぎる夫を横目に観察しながら、紅茶を口に運んだ。――やはり、淹れ方は正しくないようだ。
「先日から別邸で働いてくれている侍女見習いがいる。まだ未成年の子どもなんだが、親とは小さいころに死別したらしい。メリッサが特に可愛がっていてな。それで、この際、ちょうどいいから、ここで育ててやってはくれまいかと」
「……ここで? 別邸でも事足りるのでは?」
「いや、まあ、それはそうなんだが」
顎を指で擦りながら、ダンゼルはルシャーナをちらと見た。
「ここには国随一の教育を受けたご婦人がいらっしゃるだろう?」
――だから、どうせなら一から指導してもらおうかと思って。
そんなあけすけな考えが見え透いた物言いに、ルシャーナは口元をわずかにすぼめた。まるで、悪戯を咎められた幼い子どものように。
「……閣下、わたくし、教育係ではないのですけれど?」
「はは、ああ、ああ、わかっているよ。だが、君もここでいろいろと持て余しているのではないかと思ってね」
どうやら、オルコット邸での扱いを把握しているらしい。おそらくファイサルから報告されたのだろうなと、ルシャーナは小さく息を吐いた。
「ええ、まあ……そうですわね」