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11:天使を前に跪く

「あんのチャラ男!」


 開口一番、カミラはそう言った。

 彼女曰く、『チャラ男』とはファイサル・ルルーシュ次期公爵のことであるらしい。彼は息をするように「可愛いね」「好きだよ」と言うので、そういう見方をする人も多いのだ。

 仕事上、有利なのであえてそう振る舞っているという部分はあるだろうが、あながち間違ってもいないのはずだと、ルシャーナはほとんど確信していた。


「しっかし、あの使用人二人はいったいどうなってんのかねえ。認めていないとはいえ、名目上、女主人であるお嬢にあんな口を利くなんてびっくりだわ」


 言いながら、ハリーは腕の中に抱えていたジェスを宙に掲げた。高くなった視界に、こぼれんばかりの大きな瞳がぱちくりと瞬く。


(て、天使……天使がいるわ……!)

(この愛らしさ、もはや知らぬうちにお嬢さまがお産みになったのでは!?)


 女性二人は、すでに骨抜きである。


「なんつーか、まず、旦那の存在感が薄すぎるよな」


 これでいいのか、辺境伯。ゆくゆくは侯爵家を継ぐ自身の兄と比べてしまって、ハリーは失望にも似た感情を抱いていた。いや、比べなくとも、いまの辺境伯がその地位に相応しいと思う者はほとんどいないだろう。


「あれで仕事回ってんのかねえ」

「あ、メイドたちから話を聞いたんですけど、前辺境伯夫妻は当主交代をしたあと、領地内にある別邸に移動されたんだとか。まあ、そのほうが旦那さまものびのびやれるだろうという配慮でしょうね」


 ――メイドたちから話を聞いた。

 といっても、無論、ここでのルシャーナたちは嫌われ者なので、正体を隠したまま情報収集をしたのだろう。

 カミラはよくも悪くも、平凡な顔立ちをしている。愛嬌があり、不美人ではないが、飛び抜けた美人でもない。なので、大きな(やしき)であれば、使用人に(まぎ)れていてもなかなか気づかれにくいのだ。


「のびのび、ねえ」


 ――のびのびさせすぎでは?

 三人の心の声がそろった。


「ええ。そこで隠居生活を楽しみながら、旦那さまから漏れた仕事を手伝っているらしいですよ。どれくらいの量かはわかりませんけど」

「社交もしていないのに、仕事の漏れがあるの? ……領地の視察なんかをしているのかしら?」

「……視察に時間をかけているにしろ、こなすべき仕事がこなせていないというのが現状だろう」


 それはそうだ。

 領地の面積に差はあれど、どこの家でも、当主が創意工夫を凝らして領地運営と社交の両立をしている。

 人手が足りない場合でも、先代当主に頼るのは最終手段であるはずだ。そういう()()ができてから譲るのが当主の座なのだから。


(いや、でも……昔、彼らはなんと言っていた?)


 ルシャーナは、前辺境伯夫妻と面識があった。夜会や舞踏会、王宮内などでは、たびたび言葉を交わしたこともある。

 真面目で、善い人たちだった。幼いルシャーナを、()()()()()()()慈しんでくれた。そっと頭を撫でてくれた大人は、あとにも先にも前辺境伯夫人だけである。

 子どもとして当然の経験かもしれないが、生まれてすぐ家族と引き離され、未来の国母候補として王宮に引き取られたルシャーナにとって、それは(たま)らなくうれしいことだったのだ。


(初めてお会いしたとき、前辺境伯夫人は中庭の噴水を見ていた。確か、前辺境伯は仕事中だと言って――)


 おそらく、オルコット辺境伯家に嫁がなければ、思い出しすらしなかったこと。なんとなく温かい記憶として終わっていたことだっただろう。


(ああ、そうだわ……)


 小さいころの出来事なので、詳細に覚えているわけではないが、前辺境伯夫人の言葉が薄っすらと蘇ってきた。


「ええと、確か、ひとり息子だからつい甘やかしてしまう、みたいなことをおっしゃっていたような気がするのよね」


 「えー?」とカミラ。


「それがつまり、このどうしようもない状況につながっていると?」


 そう訊ねられて、ルシャーナは苦笑した。


「まあ、おおかたそういうところでしょう。とはいえ、旦那さまも上位貴族。最低限のマナーは弁えているはずだわ」

「でも、それができていなかったからファイサル――卿がキレたんだろう?」


 いかにも嫌そうな言い方は、そのままファイサルへの心情を表している。彼はルシャーナの護衛騎士である以前に、位の高い侯爵家の子息なのである。

 エルウッド侯爵家の人間は代々王家に忠誠を誓い、その形はさまざまであるものの、ほとんどすべての人間が王宮に仕えている。ゆえに、ルルーシュ公爵家との距離も近く、幼馴染みとまではいかないまでも、幼いころから二人は顔見知り程度の面識があるのだった。

 特にハリーの場合、ファイサルとは王立学園に通った時期も被っている。ただし、その性格は水と油で――というより、ハリーのほうがファイサルに苦手意識があるらしいのだが。


「うーん、たぶん、旦那さまに限っては『何も知らない』というわけじゃないのだと思うわ。嫌われたくないのか、人に強く出ることが苦手なのか……我の強い使用人二人に、注意できないだけじゃないかしら」

「で、あの二人も『旦那さまのため』とか言いながら、そのあたりの旦那さまの性格をわかっていて、あえて見ない振りをしているってわけですね」


 まったくもう、とカミラが嘆息する。


「ほら、『これくらい』の範囲が広い人っているじゃない」


 自分がされて嫌なことはしない。

 よく言われることであるが、逆説的に考えると、自分がされて気にならないことなら、他人にしても問題ないということになる。

 おそらくメルヴィンは、その『自分は大丈夫』と思える範囲が広いのだろう。だから、多少マナー違反をする程度では、注意しようという思考にまでは至らない。貴族にとって、この考え方は非常にまずいのだが。


「それより俺は、あのテレサとかいう侍女長がファイサル卿に言い返したのにびびったわ」

「ああ……」


 ルシャーナが、げっそりした声を漏らした。あれは怖かったわね、と。


「正直、いつ『手討ちだ』と言われるかひやひやしたぜ」

「……わたしも。今思い出しても、胃が痛いわ」

「使用人が……それどころか、平民が次期公爵さまにそんなことを? えー、と。ええ? そ、それはマジのお話、ですよね?」

「ええ、()()のお話ね」

「こっわ! 無知、こっわい!」


 カミラが、ひい、と喉を引き攣らせる。

 そもそも、下位の者から上位の者に声を掛けること自体、明確なマナー違反だ。親しくなればまた少し変わってくるが、それはあくまでも、互いの共通認識があってこそのもの。ましてや、平民が準王族に対して礼儀も通さず、正面から目を見据えて許可なく直答するなど、あってはならないことなのである。

 ファイサルでよかった、とルシャーナは心の底から感謝した。

 客人の前で女主人を貶めるなど、本来あってはならないことだ。そして、それを叱らない主人は、言外に『自分には使用人ひとり止める力がない』と言っているようなものだった。

 ファイサルは仕事であればいくらでも冷徹になれるし、普段は面白半分に人のことをからかってきたりもするが、基本的に、自分の邪魔にならなければどうでもいいと考えている人間だ。権力だけは大きい辺境伯の内情を暴露するような、面倒くさいだけで益のない真似は、わざわざしないだろう。少なくとも、ルシャーナはそう確信している。


「ハリー……」

「んあ?」

「ジェスを貸して」


 言いながらも、言葉が終わる前にはすでに、ルシャーナの手が幼い子の体をかっさらっていた。細い腕がふんわり小さな体を抱きしめる。


「わたしの癒やし……!」

「女神が天使を()でている……! ああ、神様、このご慈悲に感謝いたします!」


 ぎゅうぎゅう義息子を締め付ける主と、床に(ひざまず)いて祈りを捧げる妹。そんな二人に呆れた視線を向けて、ハリーは小さく微笑んだ。さすが、あの王太子についてきただけあって、簡単に折れる女たちではないな、と。


「よし、そうね。ジェス、今からお散歩に行ってみない?」


 オルコット邸の使用人たちがルシャーナたちを案内してくれることはなかったので、邸内のことは自分たちで把握しなければならない。

 その提案に、ジェスはハリーとカミラを交互に見たあと、義母に視線を戻して頷いた。


「……行くっ」

「うう、声までもが尊いだなんて、いったいどういう……?」

「……お嬢って、母親になったら子どもを溺愛するタイプだったんだなあ」


 遠い目をして薄っすら微笑むハリーと、幼子(おさなご)のあまりの可愛さに涙を堪えているカミラを連れ立って、ルシャーナは部屋を出た。

 落とさないようゆっくりジェスを下ろし、手をつなぎ直す。自身の手よりはるかに小さなそれを握り返し、ルシャーナは幼児を引きずらないよう慎重に歩いた。子どもと隣り合わせで歩いたのは初めてだったため、なんとも新鮮な心地だった。


「あら、きれい」


 中庭には、色とりどりの花が植えられている花壇があった。庭師の姿は見当たらないが、しっかりと手入れされている。


「うー、これ?」


 目の前にある花を指差して、ジェスは振り返った。嫌がるロドニーに確認したところ、四歳という年齢らしいが、その言動がやや幼く感じられるのは、いままで誰とも関わってこなかったからだろう。

 なにしろ、まともに会話をしてあげる人間すらいなかったのだ。言葉の発達に遅れが出ても仕方がない。聞いて覚える、ということがそもそもできないのだから。


「これは『ネリネ』ね」

「ネリネ!」


 ジェスがはしゃぐと、優しいピンク色の花弁がふわりと揺れた。しかし、次の瞬間には、少し遠くを指差して「ネリネ!」。ちょっと走って花壇を覗き込んでは「ネリネ!」。

 しかし、それらは『ネリネ』ではない。まったく別の花だ。


「ちょ、ちょっと、ジェス……?」


 ネリネ、と繰り返す義息子に、ルシャーナが戸惑いの声を上げる。じっとその様子を見ていたカミラは、やがて納得したようにぱちんと手を打った。


「お嬢さま、ジェスさまはもしや、『花』という概念をご存知ないのでは? 生まれてからずっとあの屋根裏部屋に閉じ込められ、話し相手のひとりもいなかったようですから、いろいろと学ぶ機会もなかったのでしょう」

「……そんな」


 ルシャーナは言葉を失った。

 ――確かに。

 確かに、周りの人の話を聞いたり、自分の目で見たり、絵本を読んだりして、子どもは多くの知識を養っていくものだ。

 当然、教えてくれる人がいなかったのだから、ジェスに学ぶ機会などなかったはず。だから、ルシャーナとしては花の名前を『ネリネ』だと教えたつもりが、ジェスはそもそも花に種類があるとすら思っておらず、『花』のことをそう呼ぶのだと解釈したのだろう。


「ジェス、ジェシー」


 ルシャーナが手を振って呼ぶと、ジェスは不思議そうにしながらも近寄ってきた。


「これは『花』よ」

「……はな?」

「そう、『花』。あれも、これも、ぜーんぶ『花』」

「ネリネ……?」

「え、ええと、ネリネ、は……これ。このピンク色なのが『ネリネ』で、んー……!」


 珍しく頭を抱え込んでしまったルシャーナを見て、カミラは兄と顔を見合わせて笑ってしまった。この人のこんな姿を見るのは久しぶりかもしれない、と。

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