10:謝罪は必要か否か
王立学園とは、貴族と中流階級、一部の優秀な平民が通う学校である。
クラスは身分にかかわらず成績によって決められるので、(不思議なことに)模範的な生徒であったファイサルと学友だったということは、メルヴィンもそれなりに優秀だったのだろう。
「それにしても、商人でも来ていたのかい? いや、それにしても……」
隙のない視線が、持ち込まれた商品をさらっていく。
彼も件の詐欺には関係していたので、どうやら何かに気がついたらしい。
「うわあ、このラインナップ……なんだか既視感があるんだけど……」
非常に嫌そうだ。
本物の中に偽物を紛れ込ませるのは、似非商人の常とう手段であるが、ギイトは以前からそれが特にうまかった。
事実、今回も絵画とイヤリング以外はとても精巧に出来たものばかりで、逆に言えば、その二点に関してはやや不自然――。
「ええ、彼の仕業ですわね」
「……彼、またやったの?」
悲しいかな、『彼』で伝わってしまうあたり、陰謀渦巻く王宮を拠点にしている若き次期公爵にとっても、よほど印象深い事件だったのだろう。
「君もあの男のことを知っていたのか」
メルヴィンの驚きを滲ませた言葉に、ファイサルは片方の口角を持ち上げた。
「ということは、君は知らなかったんだねえ。彼、貴族の間では結構な有名人だけれど。いや、むしろ、なんでそんな要注意人物を招き入れたりしたんだい?」
ギイトが起こした詐欺事件はわりと広範囲にわたっていたため、耳聡い貴族なら『商人ギイト』と聞いた時点で、遠ざけるか警戒するかしたはずだ。それは本人もそういうものとして自覚しているはずである。
つまり、そこにはなにかしらの意図が介在していたわけで――。
ファイサルの疑問に、メルヴィンの視線が侍女長に向けられる。それは一瞬の出来事であったが、誰が犯人かを知るには十分すぎる間であった。
「君が、彼を?」
至極、不思議そうな声色。言葉にせずとも、言外に「いったいどこで知り合いに?」と言い含められているようなそれだった。
「しょ、紹介されてっ」
「紹介? 誰に?」
質問を重ねるファイサルを、ルシャーナはじっと見つめる。
(……おかしい。基本的に他人には興味がない、のがファイサル卿だったはずなのに。いくらギイトのことだからって、こんな、他家の問題に首を突っ込んでくるなんて……いや、彼が興味をそそられるのだとしたら、それは――)
――仕事に関係がある(かもしれない)こと。
「わ、かりません……」
考え事をしていたルシャーナだったが、テレサのあまりにあまりな回答に、ぎょっと目を剥いた。
(わからない、ですって……!?)
これにはさすがに、ファイサルも同様の衝撃を受けたらしい。
絶句し、しかしすぐに「はあ?」と圧の強い声を吐き出す。テレサはもはや半泣き状態だった。
「さかばっ……酒場で、声を掛けられて。王都の貴族と取り引きがある商人との仲介をしてくれる、と。その人からなら、商品が相場より何倍も安く、手に入るからって……」
うん、とルシャーナが天を仰ぐ。
驚いたことに、この侍女長は、『知らない人に付いて行ってはいけません』と子どもに言い聞かせるような基本的な警戒すら怠っていたのだ。
「メルヴィン、君はこの話を知っていた?」
この期に及んで戸惑いつつ、メルヴィンは頷いた。
「相場より何倍も安く、だなんて、聞いているだけで何か思惑があるとしか思えない……まあ、今はいいか。――それは、いつの話?」
「……さ、三、四カ月前、です」
「なるほど。私がちょうど隣国に行っている間だねえ。知っていれば、先回りして注意してあげることもできたんだけれど」
らしくない優しい言葉だ。
他人の不幸を楽しむ節があるファイサルのことだから、いざそうなっても、実際にどうしたかはわからない。
「ふはっ。お姫さま、そんな目で見なくても」
「……あら、ファイサル卿には透視能力でもあるのかしら」
「いんや? なぜだか、ヴェールの向こう側からじとっとした目を向けられているような気がしたからさあ」
「まさか。むしろ、いつも微笑んでいるぐらいですのよ」
社交の場に出るときや、止むを得ずヴェールを脱がなければいけないときなどは、実際にそうするようにしているので、まったくの嘘というわけではないだろう。
「貴族が専属の商人を抱えているのは、まあ、珍しいことではない、というか、辺境伯ほどにもなれば至極一般的と言えるかもしれないけれど……彼の前は、どこから商品を購入していたのかな?」
三、四カ月前にギイトを紹介されたのだとしたら、その前までは違う商人と取り引きしていたはずである。
そもそも、お抱えの商人や商会は、そう簡単に変えるものではない。その規模にかかわらず、商人というのはすべからく横のつながりがあるものであるし、たいした理由もなく切り捨てれば、『信用に足る相手ではない』と烙印を押されることにもなりかねないからだ。
「ブリュンゲル商会、だけど……」
「それはまた……」
とんでもなく大きい商会だった。
市井に手を広げているのはもちろん、貴族とのつながりが強い豪商でもある。果たしてそこに、大手の商会を切ってまで、ギイトに乗り換える必要があったのか――。
「は、母とブリュンゲル伯爵夫人が学友だったらしい……」
――聞いているだけで、ひどい。
ブリュンゲル伯爵は、小さな商店だった個人事業を父親から引き継ぎ、一代で大手商会へと成長させた功績から男爵位を授与された、非常に有能な男だ。
その後、商会はさらなる発展を遂げ、国内外のあらゆる場所に手を伸ばしていることから、子爵位、そして伯爵位まで陞爵されている。
伯爵自身がやり手だったのは当然のことながら、その活躍の影で伯爵を支えていたのが、男爵家出身のブリュンゲル伯爵夫人。
二人は幼馴染み同士で、幼いころから相思相愛の仲だったのだという。貴族とつながる足がかりになったのは、間違いなくブリュンゲル伯爵夫人のほうだ。
つまり、王立学園で前辺境伯夫人が作った友人関係を、現辺境伯一同はぶったぎったわけである。
「……かなりの大手で、しかもいまや紹介がなければ顧客になれないかの有名なブリュンゲル商会を、自分から切って捨てたなんて信じがたい、んだけど」
おお、とルシャーナはある種の感動を覚えた。
常に余裕を持ち、どこか人を見下したような態度を取ることも多いファイサルだが、ここまでくるともはや理解の範疇を超えていたらしい。
戸惑いの表情を浮かべて、未知の生物を発見したときのような表情を浮かべている。
彼の地頭の良さは天性のものなので、そうでない人の気持ちがわからないのだろう。かく言うルシャーナも、何度も「どうしてそうなるの?」と言われた口である。彼は年下であろうと女性であろうと容赦がない。
「残念ながら、悪手中の悪手でしたわね。ブリュンゲル伯爵夫人は情に厚い方ですから、『当主交代の際に混乱があった』と謝罪すれば、おそらくお許しくださるでしょう」
当主の座が引き渡されたのは、約一年前。――三、四カ月前に商会を挿げ替えたとなると、ギリギリいけるか? いけてほしい。
「謝罪、ですか?」
まるで「なぜ自分たちが?」と副音声が聞こえてきそうな不満げな表情で、ロドニーが言った。
「ええ。いまのところ、貴族間の流行にもっとも聡く、情報を握っていそうなのは彼らですもの。仲良くしておくに越したことはないでしょう?」
「奥さま、失礼ですが、旦那さまのお立場を考えていらっしゃいますか? 旦那さまは辺境伯です。軽々しく下げる頭はお持ちでないんですよ。そんなことをしては侮られます」
「あら、そう。それは、前辺境伯閣下がおっしゃっていたこと?」
「……いえ。でも、常識的に考えれば誰にでもわかることです」
まさか、子どもにあんな仕打ちをする人間から常識を諭されるとは思わなかった。なるほどこれはルシャーナひとりでは分が悪い。
ロドニーは、準男爵家の次男であるにもかかわらず、まったく貴族としての知識を身に付けていないようだし、テレサにいたっては平民だ。唯一、しっかり教育を受けているはずのメルヴィンも、どういうわけかその辺の常識に疎いらしい。
「へえ、常識ねえ?」
ただ、ルシャーナは今、ひとりではなかった。
「上位貴族が謝ってはならないだなんてルールはないのだけれど、いったい誰が言い出した常識なのかな?」
――出た、マナーの鬼!
本気になったファイサルは、それこそ家庭教師、あるいは妃教育の教師並みに厳しい。過去、ミリ単位でお辞儀の角度に文句を付けられていたルシャーナは、鋭い眼光に震えあがった。
声色が変わったのに気がついたのだろう。ロドニーは肩を強張らせ、「あ、う」と呟いている。
「確かに謝罪が日常的なものになってしまったら、君の言うように『侮られる』こともあるだろうね。事実、我々が軽々しく頭を下げることは許されない。ただ、それは謝罪してはいけないということではなく、そうすべきときを見極めろということだ。それに、状況的に謝罪できない場合でも、他の言い回しで謝罪の意を伝えることは間々あるし」
そもそも、ロドニーの言い方だと『謝罪する必要はない』ということが、そのまま『こちらは悪くない』という考えに直結しているようだ。
しかし、そうなると、貴族は自分より下位の人間に対してであれば、どんな横暴を働いても許されるということになってしまう。怖い。
「私は公爵家を継ぐ人間だけれど、必要だと思えば頭を下げる。王太子の婚約者として、誰よりも王家に近かった彼女だってそうだった。無論、王太子殿下も、国王陛下だって時と場合によって謝罪することがあるわけだけど……ここでは常識が違うということかな? それは、まあ、うん、社交が免除されていてよかったねと言うしか」
「え……?」
訊き返したロドニーの声は掠れている。
(わかる、わかるわあ。ファイサル卿って基本笑顔だし、長文の中にさらりと嫌味をぶっこんでくるから、つい聞き逃しそうになるのよね!)
胸中で激しく共感するルシャーナを一瞥したファイサルは、話を続けた。
「といっても、陛下の場合、時と場合、そして相手を選ばないと国の総意として取られかねないから、かなり気を遣ってはおられるけれど」
それに、国のトップが頭を下げたら、臣下はすべからく許さなければならなくなる。それがわかっているからこそ、簡単には謝罪しないし、したとしてもその状況は選ぶものなのだ。
「……あと、さっきから君たち、やたら彼女に噛みついているよね。社交から遠ざかって生きてきたのなら、この国における貴族の常識を知らないのも致し方ない。メルヴィン、君は最低限の教育は受けているはずだけれど……それにしても、わからないなら、なぜ彼女に教わらないのかな? 目の前に生き字引みたいな人がいるのに、もったいない」
「生き字引……」
「ファイサル卿、またからかうおつもりですか? わたくし、あなたさまに厳しくマナーチェックを受けたこと、まだ忘れていないんですのよ」
思わずといった様相でルシャーナが恨みつらみをぶつけると、ファイサルは楽しそうに笑った。
しかし、そうは言っても所詮他家のこと。
それ以上言及するつもりはないらしく、「最近、説教くさくなって嫌だねえ」と肩を竦めた。
「さて、私はそろそろお暇しようかな」
欠伸を噛み殺しながら、ファイサルがぐっと伸びをする。――さすがだ。登場も突然なら、退場もまた突然である。
「ファイサル卿、いったい何をしに……?」
彼の神出鬼没は昔から変わらない。
「うんや? 私はただ、再婚した旧友がどうしているか気になっただけだよ? ついでに、私の可愛いお姫さまが突然嫁いだというのを知らされてねえ」
「……左様でございますか」
「ふはっ。ぶれないねえ」
まさかあのファイサル・ルルーシュが何もなく友人宅に立ち寄るわけがない、とルシャーナはヴェールの下から白けた視線を送った。
仕事で隣国に滞在していたと言っていたので、ここが通り道だったことは確かだろうが、きっとただ顔を見せにきたわけではないだろう。
(帰るということは、彼なりの収穫があったということなのでしょうね)
ああ、もう――。
油断できない人だわ、とルシャーナはため息を吐いた。