09:従兄弟の(元)婚約者とご学友
(ああ、聞き覚えのある声だわ……)
知らず、ルシャーナの表情が強張った。
人形のような顔立ちはヴェールに隠されているので、それに気がついたのは専属護衛のハリーだけだっただろう。
「やあ、久しぶりだねえ」
ルシャーナが振り返ると、ひとりの男がハリーの肩に腕を回して立っていた。細い目をさらに薄くして、憎たらしいほどの笑みを浮かべている。髪の毛は焦げ茶色で、瞳は深いブルー。全体的に色合いが暗く、そして細い瞳は東方にある国の血から来るものらしい。
いつもどおりの意地悪そうな双眸が、面白そうに歪む。
「――王太子妃殿下も」
げっ、と身構えてしまうのは、彼と遭遇した際に見られる、ルシャーナならではの条件反射なのであった。
自分を落ち着かせるため、一度深く息を吐き出して、相手を真っ直ぐに見つめ返す。
「ええ、一応言っておきますわね。『お久しぶりですご機嫌いかが?』それで……」
「わあ、棒読みすごーい」
「それで、――ファイサル卿。わたくし、もう『殿下』ではないのですけれど」
この男を前にすると、――扇が欲しい。そう思ってしまう。ヴェールを着けているとはいえ、顔を隠せないというのはこうも心許なくなるのか。
「おや、ああ、そうだったねえ。そういえば、お姫さまは王太子殿下と別れたんだった。私が隣国へ行っている間に、とんでもないことになっていて……思わず爆笑してしまったよ!」
瞳が細いので視野が狭いのかと思いきや、そのすべてを見透かしたかのような鋭い視線には、幾度も煮え湯を飲まされてきたのだ。
王宮の(王太子曰くの)古狸たちをやり込める手腕は、やり手として知られている。外交の一部を担っているのだから、その能力は外にのみ向けてくれればいいものを、出会った当初になにかしらの興味を引いたのか、次期公爵ファイサル・ルルーシュは事あるごとにルシャーナに絡んでくるのだった。
「あら、そうですか。人の不幸を楽しむだなんて、相変わらずですのね」
「あなたが不幸だって? まさか、まさか。そのようなことを考えるのは、何も知らず、考えられもしない人間だけでしょう。ええ、ええ、私どもとて詳細なことは存じ上げませんとも。ただ、上位貴族の間に、ただ噂を鵜呑みにして振り回される者はいない、とだけ申し上げておきます」
テレサたちの態度を知っていたのか、あるいは会話を外から聞いていたのか。辺境伯に強烈な嫌味を放ちながら、ファイサルは部屋の中心まで進み出てきた。
「……ファイサルと君は、知り合い?」
不思議そうに、メルヴィンが目を瞬かせる。側近たちがかっとなっているというのに、なんともマイペースな男である。
ファイサルは一人掛け用のソファーに座っていたテレサの前に立つと、手で何かを振り払う仕草をした。
「君は立ちなさい。使用人だろう」
「……え?」
言われたことが理解できなかったのか、テレサが頬を引き攣らせる。普通、このような場合では『立ち上がる』一択なのに――。
「外まで君たちの会話が聞こえていたんだけれどねえ。使用人の仕事にプライドを持って取り組んでいる……んだろう? なら、立て。客人の有無に限らず、使用人と主人が同席するだなんて考えられないんだよね。メルヴィン、君も許してはいけない」
「で、ですが、あたしたちは友人なんです!」
ルシャーナは思わず「うわあ」と呟いた。
彼は次期公爵。
しかも、彼の母親は現国王の妹なので、王太子の従兄弟でもある。そのうえ、王位継承権を持った王家の血に連なる者なのだ。
間違っても、一介の使用人がこのような口を利いていい人ではない。
「下がりなさい」
注意しつつ、胸中で「この部屋、嫌な人ばっかりい」と嘆く。しかし、テレサはそんなルシャーナの気持ちなどお構いなしに、わっと吠えた。
「なにを、また偉そうにっ!」
「うん、だって偉いからねえ」
「な……っ」
「組織で働いている以上、上下関係が生まれるのは当然だろう。この家ではメルヴィンがその最たる者だけれど、二番手は彼女だ。だから、君は彼女に仕える義務があるし、いかに嫌いだと思っていようが、せめて言い方や関わり方は考える必要がある。そして、メルヴィン。この婚姻は王命だと聞いたよ。なら、致し方のない結婚だったとしても、君は彼女を孤軍奮闘させるのではなく、守らなければならない。彼女のほうは……彼女のことだから、真面目に辺境伯夫人として取り組むつもりなのだろうし」
腐っても生粋の貴族。
普段ふざけてはいるが、王族に忠誠を誓っている次代の公爵だ。代々外交に携わっていることもあって、人一倍、礼儀に厳しいのも彼らの一族なのである。
「でも――」
「これで『でも』なんて言葉が出てくるのが不思議だよ。君たちが友人関係なのはわかったけれど、仕事中は上司と部下でしかない。だから君は、メルヴィンと夫人を主人として立てる必要がある」
「い、嫌なことを言われても、黙ってろとおっしゃるんですか……!」
「うーん、その君にとっての『嫌なこと』も定義が曖昧だよねえ。違うと思ったときは、話し合えばいいんじゃないかな? 主人が間違えたときに正すのも、使用人の仕事だし。でも、さっき聞いた限り、夫人は正しいことしか言っていなかったと思うけれど?」
「そんなっ」
「まず、君のやり方に夫人が口出しをしていいのかという問題……これは『もちろん』だね。使用人を教育するのも女主人の仕事だし、まあ、行き過ぎた躾は咎められるべきだろうけれど、そうじゃないなら問題はない。特に、客人のもてなし方については、かなり厳しく指導を受けておくべきだと思うよ」
本来、家の内部事情を外に漏らすのは褒められた行為ではない。その点については、ファイサルでよかった、と思うべきところだろう。ルシャーナにとっての彼は底意地の悪い人間だが、ただそれだけだからだ。仕事柄、口は堅く、信用には足りる。
「『大きな顔をするのは間違っている』。これこそ可笑しな話だね。彼女は辺境伯夫人で、むしろ大きな顔をすべき人間だろうに」
じっと息をひそめつつ、ルシャーナは夫に念を送っていた。――お願いだから、仲裁に入ってくれと。
他家の人間に使用人の実態を知られるとか、恥ずかしすぎる。
「この『ミューゼ』……ああ、もったいないねえ。色が濃すぎて、見ただけで正しくないとわかる」
しかし、その念が夫に通じることはなかった。
「紅茶ひとつで、と思うかい? でも、どこの家に招かれても紅茶は出てくるだろう。だから私たちは知っている。本当に美味しい紅茶を――。雑に淹れたものを出されたら、『自分は歓迎されていない』『歓迎するほどの価値はないと思われているに違いない』と感じるだろうねえ。で、それはすべて、メルヴィンとその奥方の評価になるわけだ」
「なっ、あ、あたしはそんなつもりじゃ……!」
「うん、君が取るに足らないと思って、素直に耳を傾けなかった夫人の言葉は、そういうことだったんだけれど。そもそも、できた使用人なら私に言い返すことはないし、突然現れたのはこちらに非があるとしても、立ち上がることすらできないなんてありえない」
「――ファイサル卿」
このままではファイサルが悪者になってしまう――。
ルシャーナは思わず声を掛けた。
王太子の従兄弟だから気安い会話をするだけで、特段親しいわけではないのだから、庇う必要はない。しかし、侍女長の恥は女主人の恥、ひいては辺境伯の恥なのだ。
ファイサルは糸目をさらに細め、ルシャーナに視線を移す。その至極愉快そうな表情に、ルシャーナはぎくりとした。
「ああ、ごめんねえ、お姫さま。私はただ、君はメイドや侍女の真似事をするのが得意だから、仕事を教えてもらったらいいんじゃないかって思っただけなんだ」
懐かしそうに呟かれた言葉に、凪いだ水色に動揺が走る。ヴェールを着けていてよかった、とルシャーナは瞼を伏せた。
「……確かに、そんなお遊びをしたこともあったかもしれませんわね」
これはいつもの悪ふざけだ。
わかっている。
それでも、確実に効果のある一撃だった。
「それはともかくとして、我が家の侍女が失礼をいたしました。お詫び申し上げます」
「お詫び! ははっ、まさか君に頭を下げられる日が来るなんて!」
ファイサルが、大げさに手を広げて感動する。演技じみた言動だったが、ルシャーナはむっとする気持ちを押し殺して、軽く膝を折った。実にぎこちない動きである。
「……わたくしが素直でないときがございましたか」
「うわあ、嫌そう! ほんと、かーわいいねえ」
「滅相もございません。もったいないお言葉ですわ」
「相変わらずの棒読み! ほら、いかにも自分を『苦手だ』と思っている子を相手にすると、つい構いたくなってしまうんだよねえ。わかってくれる?」
「わたくしのような人間が、世の中を掌握なさっている素晴らしいお方の思考を理解しようなど、烏滸がましいにもほどがあるかと存じます」
無論、敵ではないとある意味信用しているからこその『苦手』という感情なのだ。そうでなければ、感情を悟らせたりはしない。
「ファ、ファイサル」
そこで、はっと我に返ったメルヴィンが飛び込んできた。
「ん? ああ、先ほどの質問なら、奥方とは知り合いだと答えておくよ。彼女は王太子殿下の婚約者だった女性だからね。私とも当然親しいし、個人的にお茶会に誘われる仲だよ」
「語弊を招く言い方はおよしになって。ファイサル卿、あなたが先触れもなしに『遊ぼう』と王宮にいらっしゃるから、王太子殿下とわたくしの二人でお相手をしていただけでしょう。筆頭公爵家の嫡男であるあなたをおもてなしできるのなんて、殿下ぐらいしかおりませんもの」
王太子とルシャーナ、そしてファイサル。
あの茶会には殺伐とした空気が流れていた。
女性同士でなくとも、ああした雰囲気を作り出せるのだなとルシャーナは妙に感心したものだ。
「旦那さまとファイサル卿も?」
ルシャーナが、気を取り直して訊ねる。
メルヴィンは頷いた。
「うん、僕たちは王立学園に通っていたときの同級生で……」
「なるほど、ご学友というやつですわね」
にもかかわらず、この様子から鑑みるに、どうやらメルヴィンには構いたくならないらしい。――不公平だ!
ルシャーナはその理不尽さに苦いものを感じながらも、もう一度「なるほど」と繰り返した。