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00:「君を愛するつもりはない」

「君を愛するつもりはない」ってわざわざ言う必要はないよねって話。

「君を愛するつもりはない」


 ――まさか!


 夫婦となった男女が迎えるであろう最初の共同作業を台無しにされた瞬間、ルシャーナは心の中で戸惑いとも歓喜ともつかない叫び声を上げた。

 まさか、こんなことを現実に言う人がいるなんて、と。


 しかし、雰囲気だけは一丁前の薄暗い部屋の中。目を凝らしてもわかる強張った表情は、その言葉を聞き間違いとはしてくれなかった。


 黒いヴェールの奥で、薄っすらと目を細める。


「僕は前の妻を愛している。君がたとえ愛人を作ろうとも、王都であったような問題にはならないから安心してほしい。ただ、愛人との間に子どもが出来た場合でも、さすがにその子をうちに迎えてあげることはできないから、それだけは承知してくれるとうれしいな」


 なるほど、とルシャーナは頷いた。


(不思議。物腰柔らかなのに、喧嘩を売られているみたいだわ)


 自身の悪評について、ほぼ初対面の相手に弁解するつもりはないが、いくら優しげな雰囲気を醸し出そうとも言っていることは実に悪辣である。

 ルシャーナはおっとりした内心を押し込めて、社交界で培ってきた貴族の顔を貼り付けた。――ここは敵地である、と判断したのだ。


「つまり、あなたはわたくしを『傷付けてもいい人間』だと判断したということですわね」


 手短に済まされた自己紹介以外では、ええ、ええ、と話を聞くばかりだった女のはっきりした物言いに、オルコット辺境伯メルヴィン・ボスフェルトは「え?」と目を瞬かせた。


「前の奥さまを愛していらっしゃるのは仕方のないことでしょう。わたくしも王命で嫁いできた身ですから、覚悟ぐらいしています。けれど、それならただ『前の妻が忘れられない』とだけおっしゃってくださればよかったのです。それをわざわざ『愛するつもりはない』と……それも、いるかどうかわかりもしない愛人の話まで付け足して。傷付けるつもりはなかったなどとは言わせません」

「あ、え……?」

「わたくしにこの家での立場をわからせるつもりだったのかもしれませんけれど、あなたがどう思おうが関係なく、王命による婚姻が結ばれた以上、わたくしはオルコット辺境伯夫人。それ以上でもそれ以下でもないのでは? あなたの愛が欲しいなどと、口に出したことがあったかしら?」


 愛のない政略結婚。いや、政略結婚ですらないのかもしれないこの関係は、しかし王命により結ばれたものだ。

 ルシャーナ自身は『まあ、穏やかな家族にはなれるかもしれないし』と大らかに構えていたのだが、そんな望みももはや打ち砕かれた。


 どんなに前向きに捉えようとしても、悪意がなければ吐き出せなかったであろうメルヴィンの言葉。

 それだってそもそも、ルシャーナがメルヴィンを愛しているという前提がなければ成り立つことはない。


 社交界に顔を出すことが滅多にない現オルコット辺境伯は、女の追及に何も言い返せないままに、「いや、あの、でも」と繰り返す。

 なるほど完全なる悪人というわけではないのだろう。優しそうといえば聞こえはいいが、いかにも優柔不断といった風情である。


「当人たちの意思が反映されていないとはいえ、一度婚姻を結んだ者同士。恋できなくとも、家族としての愛情を育んでいく努力をすべきかと思っていましたが……どうやら、あなたのほうにはその意思すらなさそうですわね。わたくしは辺境伯夫人として、子づくり以外の仕事をなすことにいたします。ほかはどうぞ、ご自由になさって」


 言い終えると、もはや用事は終わったとばかりに立ち上がるルシャーナ。体のラインが透けて見える夜着を翻して、自身のために用意された寝室に戻っていく。


 ――変だと思っていたのだ。


 遠路はるばるやってきたというのに、(やしき)に到着した瞬間から、使用人の態度は非常に悪かった。

 (やしき)の人間が前妻のことを支持しているのは前情報で知っていたので、それについて驚くことはなかったのだが――前妻を愛している辺境伯がルシャーナと共寝することはないだろうことも知っていてなお、完璧な夜着を用意した。


 白い結婚になるということはわかっているのに、初夜を演出する。


 つまりそれは、愛されるはずだと期待する妻を落胆させるため。ルシャーナを応援するなどという殊勝な気持ちがあったわけでなく、恥をかかせるために行われた嫌がらせだったのだ。


(……嫌われているわねえ)


 なぜ自分たちだけが被害者だと思えるのかしら、とルシャーナは首を傾げた。「お帰りなさいませ」と部屋で出迎えてくれた侍女のカミラに、思わず苦笑する。最初の対応から、うまくいくわけがないと当たりをつけていたらしい。


「初夜だというのに、思い切り言い返してしまったわ」


 女性としての自分を否定されればさすがのルシャーナでも、と心配していたものの、そのけろりとした様子を見て、カミラはほっと息を吐き出した。


「挨拶ひとつまともにできない使用人に、敬意の欠片もない侍女長と執事。それを良しとする辺境伯。前妻を忘れられない主人のために、と言われれば大義があるような気になりますが、実際のところ、やっていることはただの陰湿ないじめです。王命による婚姻だということを忘れているんじゃないですか?」

「うーん、おそらく、そこまで考えていない……考えられる人がいないということなのでしょうね」

「うええええ。マジですか? これでお嬢さまが逃げ出せば、王命を反故にしたとして罪に問われるのは彼らなのに?」

「カミラ、口調」

「……これが公爵家にも劣らない権力を持った辺境伯のやることか、と(はなは)だ疑問ですねえ」


 国境を守るという使命があるので、権力を握っているといっても、他家とはまた少し役割が異なる辺境伯。ゆえに、貴族としての義務である社交は免除されている。

 もっとも、免除されているというだけで、必要であれば行うべきであるし、前辺境伯夫妻は社交シーズンになるとよく王都に顔を出していたのだが。

 その点、()()()()は『辺境の地を守っていればそれでよし』としているようだ。


「まず、使用人の質が悪すぎます」


 カミラが不貞腐れたように言う。ルシャーナは全面的に同意しつつ、侍女の話に付き合うつもりでベッドの縁に腰掛けた。


「先ほど、お水を頂戴しに行ったんですけど、すれ違ったメイドに『王都のお綺麗な場所で育ったお嬢さま方に、辺境の水は合わないんじゃない?』なんて言われたんですよ!」

「まあ、王都の貴族でも一部、辺境を田舎だと揶揄する人たちがいるしねえ……」


 いわゆるどっちもどっちというやつだが、ルシャーナ自身がそうであるわけではないので、それを言われる筋合いはない。


「まったく、次期王太子妃に、未来の国母にと教育されていたご令嬢が、そんなに(やわ)だと思っているんですかね?」


 本当にありがたいことだ。

 ルシャーナはカミラが憤慨する様子を見て、ヴェールの下で微笑んだ。


 自分が怒らない分、侍女が気にしてくれる。


 そして事実、つい先日まで王太子の婚約者だったルシャーナは、お世辞にも普通の令嬢とは言い難いだろう。

 なにしろ、歴代きっての賢妃になるかもしれないと評されていた逸材である。悪評はあるが、それはあくまで表向きのものだと情報通の貴族なら誰もが知っている。


(だから社交は大事だというのに)


 到着早々、侍女長に「ここは辺境ですから、お茶会や夜会なんかに出て遊んでいる暇はないんですよ」と言われたので、ルシャーナはがっかりした。

 社交界を貴族の遊び場だと思っているから、今回の王命による婚姻に(しか)り、いいように利用されてしまうのだ、と。


「王都の貴族が辺境での生活を知らないように、ここの人たちも妃教育がどういうものか知らないのでしょう。でも……」

「――貴族にとって、無知であることは罪ですよ」

「そうなのよねえ」


 侍女である彼女は、自己紹介するときにも下の名前しか名乗らない。しかし、それは平民だということではなく、一介の侍女とするにはむしろ身分が高すぎるがゆえのものだ。


 カミラ・アンギアノ。


 王都から付いてきたルシャーナ唯一の専属侍女は、同時にエルウッド侯爵の息女でもある。

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