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第89話 臆病者の足踏み

 神仕カマリエララフィエルの神気だという紫色の宝石を握り締め、リォーは足を踏み出した。

 二歩、三歩、四歩……七歩目で、リォーの感覚は消えた。

 靴裏から伝わる床板の硬質さも、頬に当たる空気の流れも、宝蔵庫特有の古臭い匂いも、ふつりと消えた。

 何も無い。

 まだイリニス宮殿内部のはずだが、見渡す視界は全て漆黒のつつ闇で、そこはもうどこでもなかった。

 暑さ寒さもなく、あらゆる喜びもない代わりに、あらゆる苦しみもない。希望もなければ絶望もない。未来もないが過去もない。それはきっと、ある意味で幸せなのだ。

 意識の端に、全てが在る世界があると気付かなければ。

 見上げれば夜に似ているようにも感じるが、ここには英雄の星々もない。死の神タナトスが導くという死後の世界とはこのようなものかと、ぼんやり思う。

 だがここには、生の神ビオスへと続く道も勿論ない。

 だから違うと、リォーの理性は思考する。

 けれど囚われていること自体に気付かなければ、ずっとここにいたいと思ってしまうかもしれない。

 それくらい、ここは居心地が良い。

 落ち続ける水の中のような、ふわふわと覚束ない、けれどどこか安らぐような相反した感覚。

 その真暗に沈み続けながら、リォーは夢を見た。

 ただ一人に辿り着くための、命の起源の夢を。

 あるいは、誰かの記憶を。




       ◇




 フュエルの拷問から抜け出し、ルシエルを迎えにエングレンデル王国に入ったハルウは、レテ宮殿で婚約者と仲睦まじく笑い合う姿を見て、一つも動けなくなった。

 きっと泣いている、と。

 知らない国で、冷たい人々に囲まれ、寂しがって、怖がって、きっと自分を求めている。もしかしたら、サトゥヌスに手酷い扱いを受けているかもしれない。

 七日七晩、ずっとそんなことを考えていた。

 けれど遠く綺麗な宮殿の中に見付けた妹は、母国にいた時と違い沢山の人に囲まれ、笑っていた。無視されることも、蔑まれることもなく、ほんのりと頬を染めて。


(僕がしようとしたことは、無駄、だったのか……?)


 王女でありながら誰からも見向きもされないルシエルを、幸せにしたかった。彼女を愛で満たして、一切の哀苦から遠ざけたかった。

 そして今、それは現実になった。他でもない、自分を否定したサトゥヌスの息子の手で。


(ルーシェの笑顔を見ることが、こんなに辛いなんて……)


 たった数分前までは、それがこの世で最上に幸福だと信じて疑わなかったのに。

 今はフュエルの言葉よりも、母の告白よりも、何よりも痛い。


「ハッ……」


 ハルウは、いつものように笑おうとした。けれど表情でさえ、上手く動かせなかった。

 そして気付いた。ここには、本心を隠さなければならない相手も、悲しませたくない相手もいない。

 誰も、いないのだと。




       ◇




 次に気が付いた時、ハルウは山の中にいた。

 どうやって王都ウルビスを出たかも定かではない。いつの間にか進み、気付けば座り込みを繰り返し、何日も経った。

 クラスペダ山岳地帯に踏み込んでいたと気付いた時、ハルウは魔王の妻を――本当の母を探してみようと思いたった。

 母のことは、ユノーシェルから少しだけ聞いていた。クラスペダ山岳地帯の北東にかつてあったという、ライルード伯爵領。その領主の娘だったと。

 魔王が討伐されて三十一年の時が経ったが、普通の人間種ピリトスでもまだ死ぬような歳ではないはずだ。

 魔王に通じた者がいたとか、臣下を名乗ったという強人種スクリロスはそのほとんどが誅殺されたというが、妻がいたという話は聞かなかった。ライルード伯爵領の名も、ユノーシェル以外から聞いたことはない。


(もしかしたら、生きているかもしれない)


 そんな可能性にも、今まで思い当たらなかった。ルシエルがいたからだとは、何か月も歩き続ける間に気付いた。

 そうして辿り着いたのは、いまだ魔草蔓延るただの廃村だった。立派な城館は半壊し、大通りも広場も潰れ、人もいない。道中に聞いたライルード家の噂にも、良いものはなかった。

 魔王勢が来た時、領主は真っ先に逃げたとか、娘が手引きしたとか。その娘はその時に心を病んで、今もまだ会話がままならないとか。

 ハルウの力であれば逃げたライルード一族の行方くらい探せたろうが、その廃村で黒尽くめの妙な男に邪魔されてから、何もかもがどうでもよくなった。

 ハルウはまた、あてどもなく彷徨った。

 プレブラント聖国が再びエングレンデル王国からの侵攻を受けていると知ったのは、山を降りてからだった。

 理由は、王太子妃の不貞行為による和平破棄。


(不貞? まさか……)


 可能性は二つある。一つは、ルシエルが王太子の目を盗んで他の男と関係を持った。もう一つは、それ以前の行為が王国に発覚した。


(ルシエル……!)


 ハルウは居ても立っても居られず、聖国に飛び帰った。

 聖国に入れば、フュエルが即位したことや、譲位したユノーシェルが新たに斎王という称号を得て隠遁生活を始めたということはすぐ耳に入った。

 和平の手柄をかたに玉座を奪っただとか、母娘は不仲だとか、ユノーシェルは戦争から逃げたのだとか、市井には様々な噂や憶測が飛び交っていたが、ハルウは単純にユノーシェルが政治に嫌気が差しただけだろうと推測した。

 だが、そんなことはどうでもいい。ユノーシェルは今、魔王との最後の激戦地である神の谷(テオスナポス)の城砦跡にいると聞き、ハルウはそちらを目指した。

 聖国の北西部に位置する、荒廃した森の奥。魔獣や魔草こそ排除されたが木々はいまだ枯れたまま、神の谷と呼ばれるようになった断層以外にも幾つもの大地の裂け目がある。お陰でこの周辺一帯はいまだ復興がままならず、辿り着くまでの道中も人里はまばらで、馬車の轍すら浅い。単純に行き来が難しいのだ。

 それらを越えてやっと辿り着いた先に、古い基礎と真新しい壁とが混ざった建物はあった。城砦跡と聞いたが堀や城壁はなく、窓も多く大きくとられている。戦時下で修繕が進められていたにしては、要塞には向かなそうだ。


(溜まりすぎた魔気ゼーンの浄化が目的か?)


 魔獣や魔草を排除しても、魔気が残っている限り普通の植物は育ちにくい。植物が育たなければ大地は再生しない。

 祭祀が目的なら神殿にすれば良かった気もするが、母の深慮など誰にも分かりはしない。


(ルーシェ……)


 ここに来るまでに得た様々な情報からの推測と期待とが混ざり合う中、ハルウは砦に近付いた。

 ルシエルとのたった三か月の逃避行から、既に八か月以上経っていた。こんなにも離れていたのは、初めてだった。遠征中でも、半年以上かかると分かっている時は、魔法でちょくちょく帰っていたから。


(ルーシェは今、泣いてる、かな)


 婚約者と引き離されて。不貞の疑いをかけられて。戦争の引き金にされて。

 それとも、喜んでいるだろうか。これで堂々と、会いに行けるから。


(……そんなわけ、ないか)


 そう都合良く考えられるほど、楽観的にはなれない。

 砦が近付くごとに、足が重くなる。無意識に、左腕に着けた腕輪を触っていた。

 ユノーシェルがくれたもので、力を封じることが出来ると言われていたが、結局使わずにいる。ただの装飾品だ。


(力を封じて、ひっそり暮らそうだなんて)


 馬鹿な夢を見ていた。

 ルシエルはもしかしたら、王女として、王女らしく扱われることをこそ望んでいたのかもしれないのに。あるいは、誰からも無視されない世界を。

 今までは、それがハルウだけだった。けれど王国では、それが日常になった。


(……もし、レテ宮殿(あそこ)戻りたいと言われたら)


 ハルウは、妹の望みを叶えてやれるのだろうか。


(……出来るわけ、ない)


 虚しい自問自答は、すぐに終わった。

 それが最愛の妹の望みでも、きっとハルウは自分の望みを優先してしまうだろう。ルシエルが泣き叫んで拒絶しようと、問答無用で攫って、今度こそ誰にも見つからず、連れ戻されない場所に閉じ込めておくのだ。そして一生をかけてハルウだけを愛するよう、心から説こう。それが恐怖でも洗脳でも依存でも構わない。ルシエルがハルウだけを求め、ハルウだけに笑いかけるなら、それでいい。虚しさに胸が掻き毟られたって、死にたくなったって、ルシエルが笑ってくれるのなら、生きていける。

 世界は最も美しく完結する。


「それ以上進めば、敵として排除する」

「!」


 思考の闇に沈み込んでいたハルウは、突如かけられた声にピタリと足を止めた。慎重に、声の方へと視線を滑らせる。


「……フュエル」


 金髪に琥珀の瞳の双子の妹が、建物の陰から現れた。

 まだ直面してもいない未来に没頭しすぎて、気配に気付けなかった。ハルウは瞬時に頭を戦闘に切り替える。だが、フュエルは僅かにも動かない。

 ハルウはその場に立ち止まったまま、肩を竦めてみせた。


「女王になったんだってね。今は、侵攻軍の相手で忙しいんじゃないの?」

「……既に第一陣は撃退している。第二陣には、今しばらくの時を要するだろう」


 フュエルの淡々とした答えに、どうやら出遅れたらしいとハルウは舌打ちした。

 大きな戦に一旦の区切りがついてしまえば、他の後回しにしていた案件にも手が回りだす。フュエルなら、和平を潰した張本人を、決して赦しはしない。


「ルシエルが、ここにいるだろう」


 処刑するつもりだろうとまでは、言葉を呑み込んだ。拷問されていた数週間、フュエルに憐れを感じなかったわけではない。

 サトゥヌスがいた四歳まで、フュエルは真実、己の半身だった。二人は常に共にいて、互いが何よりの理解者だった。何も分かっていなかっただけと言えば、それまでだけれど。

 自分が悪いのだという思いは、フュエルに言われずとも常にあった。

 だが今は、ルシエルを奪われたと、ルシエルの心を引き離した張本人だという憎しみが勝ってしまうことも、否定の出来ない事実だった。

 フュエルが婚約などと言いださなければ、ルシエルはハルウから離れていかなかったのに。


「……あぁ、いる」


 果たして、フュエルは肯定した。だがその表情は、予想していたものとは違っていた。


「母上が、連れて帰ってきてしまったからな」

「……?」


 金の睫毛を伏せ、どこか悔いるように続ける。てっきり憎々しげに罵倒するかと思っていたハルウは、その様子に怪訝に眉を寄せた。


「お前が、戦に乗じて殺そうとしたからじゃないのか」


 ユノーシェルの性格ならば、ルシエルを見捨てることも、姉妹で殺し合うことも見過ごしはしない。

 その程度の推測だったのだが、見返した琥珀の瞳は酷く苦しそうだった。まるで何か、大きな罪悪を犯そうとしているような。


「……ルシエルは、嵌められたんだ」


 フュエルは、この世で最も酷い罪を告白するように、声を掠れさせて言った。


「はめ、られた? 誰に……」


 ルシエルが権力闘争の標的にされるということが、そもそもハルウには実感の湧かないことだったが、続けられた言葉はそれ以上に非現実的だった。


「ルシエルは見事王太子の子を身籠ったのに、王国の開戦派がそれを不貞と騒ぎ立てて、幽閉した」

「な、ん……?」

「憐れんだ母が攫ってきてしまったせいで、疑いは事実に書き換えられてしまった。お陰で、ルシエルは日々泣き暮らしているよ」

「――――」


 それは、ハルウにはこの世の終わりのような言葉だった。言葉が、何一つ出てこない。

 身籠ったとはどういうことかとか、不貞とは偽りだったのかとか、ユノーシェルはどういうつもりなのかとか、聞きたいことは山とあるのに。

 否、違う。本当に聞きたいことは、そんなことではない。

 ハルウの口から真っ先に出そうになった問いは、この砦の中で、ルシエルは大きくなった腹を愛おしそうに撫でているのかとか、泣いているのはサナーティオに会えないからかとか、そういった類だ。

 けれど聞けない。知りたいけれど、知りたくなどない。

 聞けば、きっとフュエルは答える。その目で確かめればいいと言うかもしれない。フュエルは融通の利かない性格で、嘘を最も嫌うから。

 だから、到底尋ねることなどできない。

 王国に嫁いだルシエルは、幸せだったのか、とは。


「……泣いて、いるのか」


 絞り出せたのは、それだけだった。けれどフュエルの瞳を直視することは、まるで出来なかった。


「……あぁ。泣いている」


 ただ、そう肯定する声だけを聞いた。それを死刑宣告のように受け止めて、ハルウは踵を返した。

 望まぬ事実など、見たくない。誰かを想って泣くルシエルの顔など、見たくない。

 何もかも、見たくない。


(見たく、なかったのに……)


 本当は、フュエルが砦に戻った後、ハルウは悩みに悩んだ末にこっそりその後を風で追尾して、ルシエルの部屋を特定していた。

 両国の事情を調べて、ルシエルを嵌めた者を突き止めて、ルシエルがどちらにも帰ることが出来るように万端整えてから、もう一度会いにこようと、浅ましい考えで。

 けれど。


『……ルシエル。ハルウは、来ないよ』


 フュエルの痛ましげに呼び掛ける声に、長い長い沈黙が続き。


『……わたし、お兄様のこと、思い出したりなんてしないわ。二度と……生まれ変わっても、二度とよ』


 ルシエルの決然とした声が、そこにいないハルウを完全に打ちのめした。

 ルシエルの生まれ変わりのはずのレイが決して自分を思い出さない理由を、ハルウはこの時からずっと知っていたのだ。

 それでも、この何百年の時間を経てやっと出会えた魂に、もう一度足掻くと、決めたのに。


『だからお姉様も、もう安心なさってください』


 それが、ルシエルの声を聞いた最後になった。

 この数年後、ルシエルがこの世を去ったと知って身も世もなく啼泣すると、今のハルウは知っているのに。あの時に強引にでも連れ出していればと後悔すると知っていても、ハルウはやはり、ルシエルの目の前に飛び出して真実を問い質すことが出来なかった。

 あとたったの数十歩の距離。フュエルが歩いたあとを辿って、彼女が眠る寝台の前に立って、赤子の力でも動かせるこの口を、押し開くだけなのに。


(遠い)


 愛した者へと辿り着くための、無窮の道のりに、ハルウは――。



「――まさか、臆してんのか?」



 ハルウの心中を見透かしたように、ここには存在しないはずの声がどこからともなくそう糾した。



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