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第86話 小さな魔王

「ま、魔王!?」


 ヴァルの呼び掛けに、リォーは声をひっくり返した。

 詠唱をしていたエレミエルやサフィーネは声こそ上げなかったが、その驚きは勝るとも劣らなかったはずだ。その証拠に、ついに詠唱の声が止まっている。

 だが、否定する要素はなかった。


 イリニス宮殿までの道中、リォーはヴァルからある程度の事情は聞いていた。

 聖国の最後の聖砦(エスカトン・フルリオ)に祀られているのは英雄神が奪った魔王の神気ディーオで、その一部をレイの首飾りに加工して、孤独を誤魔化しているのだと。

 ハルウがそれを利用しようとしているということや、リォーに贈られた黒泪ダクリュオンもまた元を同じにし、それがあればレイを救うことが出来るということも。

 ただ、その神気が喋るという現象は、中々に想像を越えてはいたが。


《ま、孤独の神と呼ばれるよりはましかな》


 黒泪が、淡い黒光を徐々に強めながら肯定する。

 第三の神々の中で唯一、ジオを持たず、異端として天界に居場所のなかった、孤独を司る神。

 地上に対を求めて降り立った後は、その恐ろしい振る舞いや脅威により、魔王と恐れられた存在。


「そんな……そんなはずはない……」


 離れているリォーから見ても微振動する黒泪を、ハルウが手放すに手放せないまま凝視する。その視線に応えるように、ついに光が最大限に強まった。


「っ」


 誰もが目を瞑り、慌てて防御体勢を取る。どうにか瞼を押し上げた視界に映ったのは、


「やあ」


 全身から禍々しい黒緑の光を放つ、ヴァルの背丈と同じ程しかない、生まれたての精霊のように小さな子供の姿だった。

 リォーは、我が目を疑った。


「……なんだ、これ?」


 それまでの警戒心を猜疑心に塗り替えて、目の前にぷかぷかと浮かぶ存在を指差す。

 神法は使っていないようなのに宙に浮くそれは、禍々しい黒緑色の魔気ゼーンを全身から発していた。圧倒的な強さを放っているかというとそうでもないのだが、見るからに不気味で、本能的に近寄ることを忌避させる存在感がある。

 だが、子供だ。

 人間種ピリトスで言えば七、八歳頃のような見た目で、緑玉エメラルドのような瞳は好奇心が抑えられないというように輝き、同色の髪は子供らしく細くふわふわと跳ねている。桃色の頬は剥き卵のようにつるつるとして、唇はつやつやと赤い。

 しかし、明らかに小さい。背が低いという次元ではなく、全体的に二回りも三回りも小さいのだ。


「これが……魔王?」


 この目で確かに見たというのに、いまだ信じられない思いで問いかける。だが本能の方は、勝手に是と答えを出していた。

 子供らしい幼い外見と、その裏に潜む底の知れない諦念のちぐはぐさがその不気味さを醸し出すのか、たとえその髪や目が緑色でなくとも、道ですれ違っても絶対に声を掛けたくない。

 案の通りというか、期待した否定は上がらなかった。


「正確には、残留思念と呼ばれる類いのものかな」


 当の子供自身が、全く重々しくない口調でそう答える。

 確かに、神気が神々にとっての魂や力の根源とも言えるものなら、そこに持ち主の意志や気配が残っていても、不合理とまでは言えないかもしれない。

 だがそれにしても、まだ信じられない。

 そしてそれは、もう一人の男も同じようだった。


「……そんなはずがない」


 黒泪が嵌っていた首飾りの台座を握りしめたまま、ハルウが硬い声を上げる。


「お前が魔王だっていうなら、その弱々しい力はなんなの? まさか、五百年前の大喪失クレヴォを引き起こした神が、僕よりも弱い力しか持っていなかったとでも言うつもり?」

「おー。言ってくれるね」


 挑発的に侮蔑するハルウに、魔王と名乗った子供もまた、笑顔の下に殺気にも似た威圧を込める。それはハルウの言う通り大したものではないはずだが、見ているだけで寒気を催す何かがあった。

 魔王は、小さな体をくるりと回して続ける。


「でもそれは仕方のないことさ。なんせ今のぼくを形作っているものは、本体の三分の一しかないのだから」

「なん、だって……?」

先代の斎王(リリレィツェル)は二つではなく、三つに分けたのさ。残る一つは、当代の斎王(セレニエル)がきちんと保管しているよ」

「馬鹿な……!」


 その言葉に、ハルウがこの世の終わりのような顔をした。

 二つだと思っていたものが、実は三つだった。それはつまり。


「端から、それ一つだけじゃ足りないんだよ」


 魔王に味方するようにヴァルが断言する。

 ハルウが、少し下がった目尻をギッと吊り上げた。


「貴様、最初から知ってて……!」

「当たり前だろ」


 激する声を遮って、ヴァルが豊かな尻尾を揺らす。その上でふわふわと漂う魔王もまた、得意げな顔をして同調した。


「そしてその三分の一の力も、今ぼくが実体を取るのに使ってしまったからね。君の持つものは……空っぽだよ」

「ッ!」


 その瞬間、ハルウが目に追えぬほどの速さで飛び出した。


「……よくも!」


 びゅおんっと風音がするほどの勢いで魔王の懐に飛び込み、迷いなくその小さな腹に力を叩き込む。そのハルウの腕に、幾つもの赤い裂傷がみしみしっと走った。ハルウが咄嗟に後ろに下がって腕を取り戻――そうとしたその体を、今度は見えない力が床に叩きつけた。


「ッ」

「力が弱いからって、その程度の直情的な攻撃をどうにかできないとでも?」


 宙に浮いていただけの存在が、一瞬で床に這いつくばることになったハルウを冷たく見下ろす。ハルウはそれを憎々しく見上げるばかりで、次の反撃に出ない。まるでそれ以上体を持ち上げることが出来ないように、体を小刻みに震わせるばかり。


(圧倒的かよ)


 リォーでは近付くことすら難しかったハルウが、こんなにもあっさりと、まるで赤子の手をひねるように無力化されている。それが自分のすぐ傍にいるという事実に、敵ではないはずなのに冷や汗が浮いてくる。

 だがその力関係を目の当たりにしてやっと、先程感じた疑念の答えを得た気分だった。


(ヴァルは、これを待ってたのか)


 黒泪が魔王の神気の三分の一しかないと聞いてまずリォーが思ったのは、レイが浚われる前にそう告げていれば良かったのではないかということだった。黒泪の首飾り一つだけではハルウの目的を果たせないと知っていたなら、ハルウは聖都まで来なかったのではないかと。

 だがよくよく考えれば、リハ・ネラ城でそれを告げれば、ハルウは今度はリォーの首飾りもともに奪おうとしただろう。ハルウはレイが聖砦に来たのと時を同じくして現れたようだから、リォーに黒泪が贈られたことも知っていても不思議ではない。

 そしてリォーは、きっとハルウから黒泪を守り切れないとヴァルは判断した。だから魔王が現れるまで、その重要な事実を明かさずに待っていたのだ。効果的に動揺を誘い、ハルウの志気を完全に砕くために。


「今まで……僕を嘲笑っていたのか。聖砦で、僕がレイをルシエルの器にしようと考えていた時から……最初から……!」

「お前が馬鹿なことをしないように、あたいが頼んだんだよ」

「頼んだ、だって……?」


 まるでいつでも気軽に話せるとでもいうようなヴァルの言葉に、ハルウが驚愕に顔を歪ませた。


「だが、気配なんか少しも……!」

「祭室に近寄りもしなかったくせに、よく言うよ」


 言い切る前に、魔王がいじけたような反論で封殺した。すぅーっとハルウの鼻先まで浮遊して、挑発するように自分と同じ色の髪を弄ぶ。


「まぁ、互いに力が貧弱になっていたんだし、かなり接近しなければ分からないさ。……と言いつつ、本音を言えば、気付いて欲しかったところだけどね? 愛の力で」

「っふ、ざけたことを……!」


 瞬間、ハルウが初めて見せる形相で魔王を睨み上げた。だがその言葉に、リォーの中の疑念は確信に変わった。


(やっぱり、ハルウは魔王の落とし胤なのか)


 ヴァルは、ハルウの素性をユノーシェル唯一の男児だと断言した。クァドラーの屋敷で見せた態度と常人離れした力を思えば、その可能性もあるだろうとは思えた。だが、完璧にしっくりくるとは言い難かった。

 だが今目の前に揃った同色の髪と瞳を見れば、消化不良のように引っかかっていた疑問が氷解するように合点がいった。

 この二人には、確かに明らかな繋がりがある。


「ぼくは一目で分かったよ」


 魔王はひしひしと放たれる殺意をそよ風のようにいなして、ぴょんっとハルウの眼前に着地する。それから、床に這いつくばるハルウの青白い頬に、小さな手を伸ばした。


「君は、この地上で唯一、神気ディーオを奪われる前に芽生えた命。……分かるはずだよ」


 そのまま、互いの額がくっつくかという程に、ハルウの色違いの瞳を間近に覗き込む。そして、にぱっと笑った。


「ダディって呼んでいいよ?」

「……殺す!」


 ハルウが目を血走らせて眼前の子供を握り潰す――前に、ハルウの体が床と共にバキバキッと沈み込んだ。

 ふふん、と魔王が鼻を鳴らす。


「でもその前に、息子の愚行の後始末をつけなければならないね」


 今度は潰され続けるハルウの頭頂部に飛び移って、頭上に広がり続ける闇を見上げる。

 闇は既に天井も壁も覆い尽くし、どこまでもその漆黒を伸ばし続けていた。宝蔵庫の半分以上は既に闇に消え、最上階があるはずの天井も、床の一部も、闇に取って代わっている。

 破壊されているのではない。ただ、何もない。黒いだけの空間が、ただ茫洋と広がっている。


「レイを、取り戻せるんだろうな」


 リォーは、恐ろしさともどかしさを堪えて、そうただす。

 あどけない子供の顔をした魔王は、ゆっくりと振り返り、答えた。


「難しいね」

「!?」


 それは、リォーにとって予想外の答えだった。手段は思い出せないが、九年前にもレイは闇に囚われ、そして救い出された。

 ここには、当時と同じ物と人が全て揃っている。出来ないはずがない。

 その考えは、魔王の出現に詠唱も止まってしまっていたエレミエルも同じだった。


「何故ですか! あの子は、あの時も戻ってきました! 今ここにはあの時と同じものが……それ以上のものがあります! だから――!」

「あの時っていうのは、七歳のことだろう」


 噛みつくように言い募るエレミエルだったが、それを受ける魔王はあくまでも自分本位だった。


「七歳前は神の内。七歳ならば、まだ生の神(ビオス)の加護が辛うじて残っていた。だが今は、長じ過ぎた」

「で、ですが、ま――あなたがいるのなら、不可能なんて!」

「ぼくは魔王なんかじゃない」


 縋るようなエレミエルの声を、魔王は冷たく切り捨てた。サフィーネに引き留められるエレミエルを、憐れむように一瞥する。


「……ただの、ジオを持たない孤独の神だ。そして孤独は、無と相性が最悪に悪い」

「けれど、いまだ掴まってないということは……」


 何らかの手法があるのだろうと続けた声に、けれど魔王は氷のような自嘲を返しただけだった。


「逃げてるだけだよ。戦うことも、ましてや退しりぞけることもできやしない」

「そんな……っ」


 信念も希望もないと断じるその声に強く滲んだ諦念に、エレミエルが愕然と頽れた。

 そしてそれは、リォーも同じ思いだった。同時に、筋違いだと分かっている怒りが湧く。


「だったら、なんでこうなる前に助けてくれなかったんだよ」


 無に掴まればもう取り戻せないかもしれないというのなら、ハルウに黒泪を奪われる前に現れて、馬鹿息子を叩きのめして止めてくれれば良かったのだ。そうすれば、こんなことにはならなかったのに。


「……それが出来たら、ぼくはあの日に息子を抱きしめてるよ」

「……っ」


 あの日というのが何を指すのか、リォーには分からない。だがその言葉が持つ諦念に似せた痛嘆と瞋恚に、ぞっと背筋が凍った。

 そして遅ればせながら察する。魔王を封じたのはあの英雄神である二柱だ。その封印が、意思の一つで簡単に実体化を許すような、脆弱なものであるはずもないのだと。

 何故今になって魔王が実体化することができたのかは、リォーには分からない。ただ、僥倖だと思うしかないのだろう。

 すっかり沈黙した二人を横目に、魔王が今度はいまだ潰され続けているハルウの前に立つ。


「ハルウ。無が魂を求めているというのは、間違ってはいないよ」

「貴様たちが邪魔をしなければ……ッ」


 一瞬でも気を抜けば骨ごと圧殺されそうな状況下だというのに、ハルウはいまだ牙を剥いて爪を伸ばす。

 それを児戯でも眺めるように見下ろして、魔王は続ける。


「でも君は一つ、思い違いをしている。無が今までこの世界で抗ってきたのは、この世界の中にしか魂がなかったからだ。だが一度自分の対を得たなら、無がこの世界に執着する理由はひとつもない」


 それは、神話の最初に語られる内容だ。

 無から生まれたはずの『風』も『火』も、無を対にはせず、『水』が現れるに至っては自分達の力が及ぶ世界はんいから追い出した。

 この話を分析検討する時、必ず上がる議題がある。


『最も罪深い者は誰か?』


 無から生まれたのに無を無として扱った風だろうか?

 無を追い出す直接の原因を作った水だろうか?

 そもそも、無という存在そのものが罪深いのか?

 それとも、誰にも罪などないのか?


 この議題に対して、分かっていることは二つだけだ。

 答えは、永遠に出ないということ。

 そして、どんな答えであっても、無は良しとはしないだろうということだ。


「分かるかい? 無は一度世界を作った。だからこそ、自分に優しくない世界なんか壊して、もう一度世界を作ればいいだけなんだ。だって、奴は『ウーデン』なんだから」


 魔王が、どこか悄然と言い切る。

 そしてそれは、圧倒的な論拠だった。


「ぼくが逃げ続けていられたのはね」


 死ぬほど面白くない話を、無理やり他愛ない話に変えようとするように、魔王が嗤う。


「神々がぼくに偽物の対を与えて、孤独を誤魔化したからだ。ぼくが無に掴まらないように、全力で守り、逃し……故に、その扱いに難儀した。ぼくは対がいない分、一人で二人分の力を持っていたようなものだし。もし仮に殺せたとしても、次にまた孤独が生まれたら、何の意味もない。

 天上に嫌気が差して地上に逃げた後も、すぐに追いかけてこなかったのはそのためさ。殺すに殺せないから、神々は長々と話し合ったんだよ。地上が荒れるのも気にかけずにね。その結果、滅するのではなく、封じろと命じたんだ。

 ぼくが封じられて存在し続けることで、ぼくよりも危険な可能性が生まれないようにしている、いわば保険なんだ」

「そんな……」


 これに打ちひしがれたのは、魔王の手厳しい拒絶に声を失っていたエレミエルだった。信じていたものが目の前で崩れ去ってしまったかのように、そのはしばみ色の瞳を揺らしている。


「では五百年前、人々が長く苦しんだのは……」

「君たちが毎日馬鹿みたいに祈っている神々ってのは、人命よりも世界を重んじてるってことさ。幻滅したかい?」

「…………ッ」


 実に下らないことだと同意するように、魔王が片目を細める。それが、救国の末裔を決定的に打ちのめした。

 朝に夕に、食事に就寝にと事あるごとに祈ってきた天上の神々が、実は人々のことなど考えてもいないなどと。

 双聖神は四双神の慈悲により遣わされたのだと、誰もがそう教えられて育つ国の長には、容易に受け入れることなど出来るものではないだろう。

 もしそれが真実ならば、今の今まで長々と神々に捧げてきた祈りさえも、何の意味もないことになってしまう。


「レイフィール……!」


 神法が使えないことと国柄から余計に信心の足りないリォーでさえ、そんなことは神の口から聞きたくはなかったと思った程なのだから。


「……どうでもいい」


 いつしか抗うことをやめていたハルウが、愁然と吐き捨てる。


「神も、世界も、どうでもいい。ルシエルに会えないなら……世界なんか無にくれてやればいい」

「お前……!」


 それは、魔王の子として端倪たんげいすべからざる力を持つ男が口にするには、あまりに稚拙で、刹那的な物言いだった。

 己の浅慮が招いた事態だというのに今更そんな卑怯な逃げ方をして、誰が許せるものか。

 リォーは下火になっていた怒りが再びぶり返して、反射的に飛びかかっていた。

 だがそれよりも早く、魔王がハルウの鼻先に回り込んだ。


「会えたら、君は何をするつもりだったんだい?」


 まるで親が子供を諭すように、魔王が尋ねる。

 今更そんなことを聞いて何になると腹が立ったが、眼前に浮かぶ小さな背中には、横やりを許さぬ威圧があった。


「それは……」


 ハルウが、眉間に皺を刻んで答えを絞り出す。


「……彼女次第だ」


 その答えに、魔王は憐みをもって笑った。


「詰まらない回答だ」


 凄絶に、慈悲深く、ハルウの行いも願いも、全てを否定する。


「ダディとしては、輪廻転生を拒んだ妻よりも、もっと可愛い子に会うことを勧めるけどね」

「……こんな時に、よくもそんな戯れ言を――!」

「おや、まだ気付かないの? では、君も眠っておいで」


 目を血走らせて睨み上げる息子を大いに嘲り、揶揄し、そして額に指を伸ばす。


「そして知るといい。君の過ちを」

「なっ――!?」


 それが最後だった。

 ハルウは、事切れるように一瞬で気を失った。



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