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第85話 始まり、或いは終わり

 声が、聞こえる。

 大人のような、子供のような。

 男のような、女のような。

 知っているような、知らないような。

 或いは、その全ての声が。

 自分の身の内から。世界の外側から。

 レイは、それらの声に耳を傾けるでもなく聞いていた。ほどけ続ける自分の肉体を感じながら。


――さびしい。


 揺蕩う時間は心地良い。

 夢と現の狭間を。

 無と有のあわいを。

 生と死の隙間を。

 望む声と拒む声の、その間でさえ。


――あいたい。


 暗闇しかないその空間で、レイはずっと夢を渡り歩く。

 あるいは、誰かの記憶を。




       ◇




 その男の子を見付けたのは、帰り道でのことだった。

 夕方で人もまばらな大通りの市場の前で、七、八歳くらいの傷だらけの男の子が、店頭のしなびた林檎を躊躇いもなく掴んでいた。

 店主は金銭を要求するでも咎めるでもなく、ともすれば気付いてすらいないようだった。


 だがそれは異常なことだ。

 アイルティア大陸を西進しているという魔王勢の噂は、山間の田舎町にも轟いていた。影響を受けて凶暴化した魔獣の大群に襲われたとか、魔草が村を呑み込んだとか、魔王の忠臣だという魔者――強人種スクリロスが現れて、村を一つ消し飛ばしたという話が、どんどんあちこちから聞こえ始めていた。

 各国は傭兵や神法使いのみならず、勇者を募ってあらゆる方面から手を尽くした。しかしほとんどの者は魔王を見ることすらできず、周囲に侍る強人種や魔獣に屠られ、弄ばれ、消えていった。

 この近隣でも、領主に直訴したり互いに金を出し合って方策を練る者もいれば、北海に浮かぶ三国島は安全だという根拠もない噂を信じて出ていく者もいた。


 だがそれも、一月前までの話だ。

 小さな村では動ける者はとうに逃げ、今は働けない者が取り残されていた。労働力がないために畑は更に痩せ、作物は採れず、物価は冗談のように上がった。

 それは街道沿いの大きな町にも影響し、子供の小遣いでは豆一つ買えない程だ。そんな中では盗みは当たり前のように横行し、刃傷沙汰は日常茶飯事。物を売ることよりも盗られないことを優先し、値段を釣り上げるだけ釣り上げて売らないなどということもざらにあった。

 あんなに雑な子供の万引きに気付かないなど、今の世ではありえない。

 だというのに。


(食べてる……しかも捨ててる)


 何口か齧ったあと、味が気に食わなかったのか痛んでいたのか、半分程も残し、平気な顔で店先に投げ捨てた。飢えて切羽詰まっての果てなら、見て見ぬふりをしても良かった。代わりにフロリアが代金を支払えるならそれが一番だが、生憎そんな余裕は全くない。

 けれど男の子の顔に悲壮感はなく、目についたから少し食べてみた、という程度だった。

 だから、フロリアは思わず駆け寄って、その頭をぽこんっと叩いていた。


「めっ」

「っ!?」


 ギョッと、男の子が振り返る。ついでに店主も振り返った。


「盗んだのか!」


 一瞬の剣幕に、フロリアまでギョッとした。咄嗟に違います、と言おうとした時には、傍らにいたはずの男の子は跡形もなく消えていた。




       ◇




 二度目に会ったのも、同じ大通りだった。ただし市場からは離れた、人気のない外れの辺りだったが。


「……あの子」


 枯れた街路樹の一つに背を預け、見覚えのある男の子が立っていた。正確には、とても忘れられそうにない男の子が。


「お腹、空いてるの?」


 なんだか待たれていたような気がして、フロリアはそう声をかけた。

 しかし男の子は、子供にしては随分冷たい目でフロリアを睨み上げると、不思議なことを言った。


「……お前、おれのことが見えるのか」


 内容は子供の冗談のようにしか思えなかったが、その目があまりに深刻だったので、フロリアもまた真剣に答えてみた。


「一応、まだ老眼はきていないので」

「…………」


 阿呆を見る目で見られた。フロリアは慌てて弁明した。


「え、えっと! だから、見えるって周囲の木々と同化して見えないかもっていう心配でしょっ? 見えますとも! 君の髪や瞳がいくら葉っぱみたいでも、それくらいの区別はまだちゃんとつきますからぁっ」

「葉っぱ……」


 今度は愕然とされた。だがそれは、フロリアなりの精一杯の褒め言葉だった。

 時は奇しくも草木萌ゆる春。

 忍び寄る魔王が放つという魔気ゼーンのせいで、土地は荒れ、生態系は狂い、季節外れの雪まで降るご時世だが、それでも若葉をつける木々はある。花も実もならずとも、宝石のような緑色の新葉を見るだけで、フロリアは今日も頑張ろうと思えるのだ。


「なっ、何ですか、そのお顔はっ? 葉っぱっていうのは、とっても綺麗なものってことなのよ? 日差しを受けて、大地から水を吸い上げて。花や実がなくったって、葉っぱは役目を終えれば大地に還って、また次の命を繋ぐんですから!」


 ぐっと拳を握って、フロリアは力説した。

 傍にある街路樹も、一見しては枯れているようだが、その間から数枚だが緑の葉がちらほらと顔を出している。それを見付ける度にフロリアは小さな喜びを感じ、がんばれ、と心の中で応援しながら道を歩くのが日課だった。

 まだこの土地は諦めていないのだと。どんなに今が苦しくても辛くても、いつかきっと若葉のような救いは萌えるはずだと。

 しかし男の子は、フロリアに気味の悪いものでも見るような目を向けて、こう言った。


「……変なの」

「うぅ……」


 この話をすると大抵は似た反応を返されるので、今さらめげたりはしない。悲しくはなるけれど。

 けれど男の子がそのまま踵を返そうとしたので、フロリアは慌ててその手を掴んでいた。


「待って!」

「!?」


 男の子が、先日と同じくらい驚いて振り返る。驚かせてしまったかなと思いながら、フロリアはこれだけはと思って言葉を続けた。


「この前の林檎のことだけど、お店の物は、お金を払う前に勝手に取って食べちゃダメですよ」

「……おかね」

「はい」


 何を言い出すんだこの女という顔の男の子に、フロリアは笑顔で頷いた。

 お前なんかに何が分かる、くらいのことは言われるかと覚悟していたのだが、男の子はフロリアの手を軽く振り払っただけで、次には瞬きをするように掻き消えた。




       ◇




 もう次はないかと思っていたが、三回目は存外早くやってきた。


(まあ……)


 同じ市場通りの同じ店の前で、例の男の子が手からはみ出すほどの金塊をぽんと置いたのだ。そして、やはり林檎を一つ取った。

 そして店主は、やはり反応しなかった。人が近付く気配にばかり気を取られているからか、眼前の通りを行き交うまばらな人の流れには厳しい視線を向けているが、すぐ目の前の子供にも金塊にもまだ気付いていない。


(確かに、店の台と同じくらいしか背丈はないけれど)


 フロリアは、ハラハラしながら男の子が行き去るまでを見送った。

 店主が一つ減った林檎と金塊に気付いたのは少ししてからで、一度だけ奇声を上げた後、早すぎる店仕舞いに取り掛かった。


(まぁ、そうなるわよね)


 あの大きさの金塊では、林檎二つ分にはさすがに多すぎる。物価が高くなっているとはいえ、相場を知らぬにも程がある。


(どうしよう……)


 フロリアは、余計に心配になった。

 男の子があの金塊を支払いに使ったのは、きっとフロリアが注意したからだ。今後ずっとあの調子で支払いを続ければ、男の子は早晩賊に捕まって利用されてしまう。

 どうしたものかと、フロリアは帰る足も止めてその場をぐるぐると回り続けた。


「何をしている?」

「きゃあっ」


 突然背後から声をかけられ、フロリアは飛び上がった。心臓がどきどきと高鳴る。

 振り返ると、フロリアが立つ場所とは反対の通りに消えたはずの男の子が、すぐ目の前に立っていた。


「えっ、え? どうして……っ」


 理解が追いつかず、フロリアは消えたはずの通りと男の子とを何度も交互に見返した。

 その間の抜けた様子を一通り観察してから、そこにちょんと立つ男の子は相変わらず大人びた顔をして口を開いた。


「お前は、いつもこの辺りにいるな。住んでいるのか?」

「あのっ、ごめんなさい! お金って言ったくせに、ちゃんと金額とか相場とか通貨の話をしてなくてっ」

「……は?」


 突然頭を下げたフロリアに、やはり冷めた目が向けられた。





 場所を移動しながら、フロリアは懇切丁寧に説明した。

 店頭の商品を買うには、国ごとの通貨を使うのが普通だとか、林檎一つ分の代金に金塊は高すぎるとか、流通が減っている分物価は上がり続けているけど、商品にはそれぞれ相場があるとか。値段が分からない時は店主に尋ねて、大抵はその六割くらいまでは頑張れば値切れることも助言した。

 その間、男の子は怪訝そうな顔をしてはいたが、口を挟むことなく聞いていた。

 そして説明が終わって口にしたのは。


「随分説明が手慣れているように聞こえるが?」


 全く内容と関係のない質問だった。

 フロリアはきょとんとした後、あぁと得心した。


「わたし、時間が出来ると、町の教会で子供たちに読み書きや計算を教えているので」

「じゃあ、いつもここら辺にいるのって」

「あっ、そうです。住んでるのではなくて、通っているのです」

「……ふーん」


 やっと最初の質問に答えることが出来たと満足するフロリアだったが、対する男の子の表情は浮かないものだった。

 何だか心配になって、フロリアは横を歩く男の子の顔を覗き込んだ。


「何か、ありましたか?」

「ぼくを、探しているのかと思った」

「まあ! もしかして家出さんでしたか?」


 今のご時世、様々な理由で家を出る子供は少なくない。

 酷い奉公先から逃げ出したとか、人買いに売ろうとした親から逃げたとか。単純に食べるものがなくなって捨てられるというものもある。教会ではそういった子供を保護することもあるが、病気もせず、逃げ出しもせずに居続ける子供は少ない。

 ある程度の年長になると、強人種が仲間になれるなら自分も魔王の軍勢に入るのだと、強盗に入ったり、家の財産を全て持ち出す輩までいた。

 しかしこの男の子には、心当たり以前の話だったようだ。


「イエデ、さん?」

「あっ、家出さんというのは、まだお名前を伺っていなかったもので、呼び方が分からなくて」


 首を傾げる男の子に、フロリアはごく自然にそう説明した。しかし返されたのは、予想外の言葉だった。


「あぁ。名前なんかない」

「!」


 それは、どんな名前かと期待に胸を膨らませていたフロリアにとって、衝撃的な告白だった。

 親子が互いを捨てたり捨てられたりする決断にも、フロリアには及びもつかない辛苦や苦渋があるのだろうと考えて、いつも聞くだけで胸が締め付けられるのに。ここ最近は、名前も付けらずに捨てられる子供が日に日に増えていた。産んでも育てられないのだ。

 その一方で、人は次々に死んだり殺されていくものだから、赤子を買い取る者たちも増え始めていた。

 最初は食に困らない裕福な家に買われるか、赤子を使う商売に利用される。その後は、育ちすぎたり、理想と少しでも違う所があると、奴隷として売りに出される。そこに人としての尊厳などは豪もなく、病気にでもなれば用済みとばかりに打ち捨てられるのだ。

 とても同じ人とは思えない非道だ。

 だがそう考えれば、隣を歩く男の子が相変わらず傷だらけなのも、世間一般の常識を知らないのも、全て辻褄が合う。世捨て人のような冷めた眼差しをするのも、きっと世界中の他人を悲しくなるくらい憎んでいるからなのだ。


「……そんな……」

「な、何故泣く?」

「だって……ッ」


 ぼろぼろと泣き出したフロリアに、男の子がいつもの淡々とした表情を歪めて驚きの声を上げる。教会の子供たち相手にはどうにか取り繕ってきたが、ここまでとなると最早誤魔化すことも出来なかった。

 こんなのはあんまりですと、フロリアは涙声のままどうにか涙の理由を説明した。今度こそ分かってくれたかという反応をするかと思いきや、何故かまたもや阿呆を見る目で見られた。


「……そんなんじゃない」

「ふぇ? あ、そうなの? じゃあ……」

「名前は……付けていないだけだ」


 ふいと、顔を背けられた。拒絶、とも違うようだが、フロリアはやはり悲しくなった。

 子供は多少の差こそあれ、何かに名前を付けることをとても喜ぶ。名前を付けると、以前にもまして大切に扱う。所有者という意識が、自分を一つ大きくしてくれるような気がするのだろうと、フロリアは勝手に思っている。

 だがこの男の子は、まるでそんな期待など一つもないかのように、既に断じてしまっている。名前がなければ、遥かに遠い他者と自己との境界線を飛び越える一歩さえ、踏み出せないのに。


「では、私がお付けしてもいいですか?」

「はあ?」


 フロリアは、差し出がましいと承知の上で、意を決してそう言った。

 男の子は胡乱な声を上げたが、次には興味なさそうに是と答えてくれた。その横顔を穴が開くほど凝視して、フロリアは閃いた。


「クローロン、というのはどうでしょう?」

緑色クローロン……」


 安直とばかりに、男の子が半眼になる。

 その緑の瞳や髪がフロリアの好きな新緑に見えたからなのだが、やはりお気に召さなかったらしい。フロリアは慌てて可愛らしい愛称に訂正した。


「じ、じゃあ、クロンで!」

「…………」


 半眼だった瞳が、今度こそ閉じられた。フロリアは自分の台無しな感性を恨んだ。

 その姿があまりに憐れだったのか、男の子は嘆息一つ、この話柄を無難に終わらせようとした。


「……別に、何でもいい」

「良くないです!」


 フロリアは思わず男の子の小さな手を握り締めていた。


「名前とは、その人自身を表す最も端的で的確な最初の言葉です! 決して、疎かにしてはならないのです!」

「…………っ」


 男の子は、突然の力説に大いに瞠目し、動揺した。宝石のような双眸をフロリアの栗色の瞳に向け、それから握り締められた自分の手に移し、次には居場所がないように辺りを彷徨わせる。

 次の言葉は、明らかに絞り出されたものだった。


「……クロンでいい」

「『でいい』ではダメです! 名前というのは、あなたを表す最初の」

「だから!」


 フロリアの言下の否定を、男の子が初めて声を大にして遮った。そんな自分の声に戸惑うように、声量を戻して続ける。


「クロンで、いいんだ。全体の中の一つでしかない、何でもない感じが……気に入った」


 その声は尻すぼみに小さくなったが、背けられたその瞳がどこか年相応に見えて、フロリアはそれ以上の言葉を飲み込んだ。

 クロンには、小枝クローンという意味もある。

 確かに小枝はすぐに折れる頼りない、取るに足らないものかもしれない。けれど小枝がなければ、花も実もらない。不可欠で大切な存在だ。


(そのことを、分かっているのかしら?)


 クロンの横顔にはそんな満足さは見えなかったから、きっと気付いていないに違いない。

 教えてあげたいな、とフロリアは思った。


「お前の名前は……何というんだ?」


 すっかり止まっていた歩みを再開して少ししてから、クロンがそんなことを聞いた。自分に名前がなかったからか、他者の名前を訊くという行為にもどこかぎこちなさがあるように思えた。戸惑っているようにも見える。

 すっかり教会の子供たちを相手にする感覚でいたフロリアは、名乗り忘れていたことをこの時になってやっと気付いた。

 お恥ずかしい、と改めてクロンに向き直ると、フロリアは無邪気なほどににっこりと笑った。


「わたしの名前は、フロリア・ライルードと申します。よろしくお願いしますね、クロン」




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