第77話 優しい嘘と悲しい本音
『気を付けて。そんなに肩入れしては、無に魅入られてしまうわ』
孤独なままの無が可哀想だと泣いた日、祖母がそう言って慰めてくれた声を覚えている。
当時は「みいられる」という言葉の意味が分からなくて、ただ酷いと思っていた。可哀想だと言ってもいけないなんて、それこそ可哀想だと。
レイだったら、独りぼっちの子がいたら素通りなんて出来ない。笑顔になるまで隣にいたい。
けれど、その子が何故泣いているのかも分からなくなるくらい独りぼっちに苦しんでいたら?
ずっとずっと、気が狂う程に寂しくて、その寂しさをなくすためなら何をするか分からない、正体も分からない恐ろしい相手に、それでもレイは同じことが言えるだろうか。
「黒泪の首飾りを手放したら……その無に捕まっちゃうの?」
レイは、恐怖と寂しさの混じり合った気持ちでそう聞いた。
独りは寂しいと泣く者から、お前は怖いからと逃げる。そんな手酷い仕打ちをされたら誰だって悲しい。そんなことは自明なのに、自分がしなければならないという葛藤は思いのほかレイの心を打ちのめした。
「らしいね」
しかし、ハルウの相槌は大したことではないというように軽かった。
「捕まったら、どうなるの?」
「さぁ? だって、『無』だからね」
それもそうだと、レイは小さく嘆息した。
無が既に誰かを捕まえたなら、更に誰かを捕まえる必要はない。あるいは誰を捕まえても、満足することはないのかもしれない。
(だって、なにも『無』いんだから)
それが死とどう違うのかは分からないが、双聖神教でいわれるような生と死の神の導きは得られないだろう。
(ヴァルが言ってたことって、これのこと?)
王証を渡したら死ぬ。それは神弓のことかと思ったが、黒泪もそうなら、やはり手放すべきではない。
しかし。
「ハルウは、この首飾りも必要なの?」
ハルウは二つあったら、と言った。目的が何かはやはりまだ分からないが、豹変してしまったハルウを見る限り、奪うことに躊躇いはないだろう。
しかしハルウが返したのは、相変わらず本気かどうか判然としない言葉だった。
「僕が必要なのは、君だよ」
「ッ」
寄り添っていた体を離し、今度は額を押し当てる。それは子供の頃から、レイを慰める時のお決まりの仕草だった。
『わたしは、要らない子なんだ』
レイは年に数度、聖都で行われる行事に参加するために、イリニス宮殿に赴いていた。女王の誕生祝いに、建国記念日、冬期休暇の始まりでもある双聖神の降臨日も。レイには楽しみでありながら緊張が高まる日でもあった。
そしてそこから帰ってくる度に、レイは手負いの猫のように見えない毛を逆立てるか、めそめそといじけて部屋に閉じこもった。
帰りたいと望んでいるくせに、イリニス宮殿には居場所がないと。居場所が欲しいなら自力で勝ち取れとヴァルは言うが、そんな力も勇気も、レイにはなかった。
『みんなわたしをきらう。生まれてこなければよかった……』
『「みんな」はどうか知らないけど、僕は君を愛してるよ。僕には君が必要なんだ』
布団にくるまり、声を殺して泣くレイに一番に気付くのは、いつもハルウだった。あるいはヴァルの方が先かもしれないが、ヴァルがレイの部屋に現れたことはない。
『……うそよ。そんなのうそ』
『嘘じゃない。僕には君しかいないんだ』
拗ねた子供の言い分に、ハルウはいつだって懲りずに付き合ってくれた。
その色違いの瞳が、レイ自身を見ていなくても。
『……わたしじゃない』
『ううん、君だよ。僕の愛しい妹。僕はずっと……君だけを待っていた』
ハルウは、レイを通して別の誰かを見ている。優しく慰められるたびに、その思いは増していった。
ハルウが本当に必要としているのはその『妹』であって、レイではない。
そうと分かっていても、レイはハルウの言葉に耳を傾けた。前を向くためには、優しい嘘が――嘘に気付かない鈍さが必要だったから。
「この髪」
蜂蜜のように甘い声とともに、ハルウがレイの毛先を一房掬う。くすんだ麦穂色の髪は、夕方頃から徐々にその色を濃くし、夜には淡い藤色に見える。
「神法を使う時だけ、昼でも紫色が濃くなるんだよ。知ってた?」
「……?」
そんなことは気付きもしなかったと、レイは首を横に振る。
神法は神言を覚えることと制御に必死で、他のことなど目にも入っていなかった。女史にも誰にも指摘されたこともない。
神法は血で使うと言われ、神法士の血が宿るものには同じく力があると信じられている。それは髪も同じで、切り離せない肉体と違い、髪は血と同じように神法や魔法に使われたりする。
創世神話でも神の髪にまつわる話は幾つかあるが、実際に神法士の髪が威力を発揮するかといえば、そこは懐疑的な部分の方が大きい。
「だから綺麗だって言ったろう? 君は、自分の良い所を知らなすぎる」
掬い取った毛先に口付けを落として、ハルウが甘やかすように笑みを深める。その表情が子供の頃と少しも変わらないように思えて、強張っていたレイの心は知らずほぐれ始めていた。
「そんなこと……」
「死んだ君の妹の、燃えるような赤毛と金の瞳なんかよりも、ずっと綺麗だよ」
「――!」
ハルウが、そんなことを言わなければ。
「赤毛に、金の瞳……?」
妹の容姿など、レイは初耳だった。ユフィールは生後二週間ほどで儚くなってしまい、その姿絵もない。目を開けていた時間もろくになかったろうから、目の色なんて、関係者の中でも何人が知っているか。
「何で、そんなこと、知って……」
「あれ、誰も教えてくれなかった?」
動揺するレイの瞳を真正面から見据えて、ハルウが親切げに眉尻を下げる。
「あぁ、そっか。死んだ方がユノーシェルに似てたのになんて、誰も言わないか」
「――――」
可哀想にと、虹彩異色の瞳が言う。その意味を、レイは正確に理解してしまった。
エングレンデル帝国の誰もが青の王子を求めるように、プレブラント聖国はユノーシェルの生まれ変わりを求めている。光を放つほどの金朱色の髪に、太陽のような金の瞳を持つ王女を。
(やっぱり、そうなんだ……)
妹の方が生命力があると思われたから残された。そう、聞いていたのに。
『ユノーシェルの血筋に現れる緑眼は、不実の証しという』
イリニス宮殿で聞いた、誰とも知れない中傷の声が甦る。あれは女王エレミエルに対してというよりも、レイ自身に向けられていた。
前世での悪業があるのだろうと。そのあおりを受けて、妹は死んだのだと。
母と祖母が不仲なのも、そんなレイを引き取ったせいだと思っていた。だからこそ、レイは二人のために苦手なことも頑張った。姉や妹のようにはなれなくても、せめて母に恥ずかしいと思われないように、城に戻してもいいと思ってもらえるように。
けれどそんなことは関係なかった。最初から、レイの努力でどうにかなる問題ではなかったのだ。
(これなら、偽物の方が良かった……)
本当は双子は姉妹ともに死んでいて、それを隠すために拾われた赤の他人だと言われた方が、何倍も救いがあった。
そうすれば、レイはきっと全てを捨てて逃げ出せた。何もかもを諦めて、見切りをつけて、本当の母を――家族を探しだすのだと、根拠のない希望を持っていられたのに。
(この髪と、目のせいで)
はらりと、肩から毛先が零れ落ちる。そうなるほど、レイは俯いていた。折れる程首を垂らし、視界はいやに滲む。西日が色を濃くしたせいで、毛先が薄っすらと紫色を帯び始めていた。
「……こんなもの!」
レイはカッとなって垂れた毛先を掴むと、右手に持ったものを押し当てていた。
ザクッと鈍い音が上がる、はずだったのに。
「それ、短剣じゃないよ?」
「……ッ」
髪に触れて止まった神弓を指さして、ハルウが言う。その通り、切り落そうとした髪は少したわんだだけで、何も変わらなかった。
強く握り締めすぎたのか、神弓がほんのりと赤みを増し、微かに脈打ってさえいる気がするが、よく見えない。
ぽたりと、大粒の雫が轍を濡らした。
(……もう、やだ)
母のために、祖母との和解のためにも、王証を見付けたいと思った。レイが頑張れば、結果を出せば、認められて、聖都にも呼び戻してくれるかもしれないという期待もあった。
挫けたくないと、思っていた。
けれど。
(もう、挫けたい……)
頑張っても無意味だなんて、知りたくなかった。
「泣かないで?」
ぽたり、ぽたりと落ち続ける雫を、ハルウが指先で受け止める。
「折角見付けたんだ。報告だけでも、してみたら?」
その声がいかにも慈愛に満ちていて、奪おうとしていた張本人が妙な慰めをすることにも、頭が回らなかった。
まさかレイのためにリォーから取り戻したのかと考える気力もなく、ただ子供に戻ったように、いじけた受け答えが出る。
「……して、どうするの」
「喜んでくれるんじゃない? 褒めてくれるかも」
「そんなの……」
とても想像できなかった。
母が自分のことを苦手に思っていることは知っている。才色兼備な上に温厚篤実な姉や、世渡り上手で愛嬌の塊みたいな妹のように振る舞えないレイは、母を前にしては笑顔さえ上手く作れない。体が強張って、いつも母の靴先を見るだけで精一杯なのに。
それに加えて今のこの最低な気分では、口を開くことさえままならないだろう。
「だったら、渡すか渡さないかは、反応を見てから決めれば?」
期待も否定もできないレイに、ハルウはあくまでもいつもの笑顔で提案する。
「だって、ずっと家族と一緒に暮らしたいって言ってたじゃない。会いたい人に会いに行くだけのことだよ。悩む必要なんかない。それとも、レイはもう会いたくない?」
項垂れるレイの顔を、ハルウが下から覗き込む。義眼で、視力はないという深緑色の左目が、労わるようにレイを見ていた。
けれど、レイが出せる答えはやはり情けないもので。
「……分からない。ただ……怖くて」
嫌な顔をされるのが怖い。否定されるのが怖い。本当は少しもレイの成果じゃないと知られて、落胆されるのが怖い。
理由も根拠も曖昧でも、レイには足が踏み出せないくらいに、怖い。
「……分かるよ」
そう、ハルウが少しだけ声調を落として頷いた。
「僕も、会いたい人がいるから。もう一度会ったら、なんて言うのか……言われるのか、ずっと怖いんだけど」
それはそれまでの瑕瑾のない笑顔とは違って、ほのかに人間味のある寂しさが見え隠れして。
「それでも、会いたいって思ったんだ。レイも、そうじゃない?」
同意を求める声は、どこか切ないくらいの決意が滲んでいた。
だからだろうか。差し出された手を、気付けば怯えながらも握り返していた。
「だから、行こうよ」
「…………うん」
幼子のように頷く。二人は再び、茶畑の中に伸びる道を歩き出した。




