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第76話 見守る者

 兄と妹に背を押され、リォーは文字通りリハ・ネラ城を飛び出そうとした。が、風靴ウォラーレで三階のベランダの手すりに足を向けた所で、出鼻を挫かれた。


「まさか、馬で向かうつもりかい?」


 小脇に抱えた黒猫もどきのヴァルだ。黙って抱えられているから異論はないかと思ったら、根本的な文句を言ってきた。

 カチンと黒猫の首根っこを掴み上げる。


「当たり前だろ。俺はレイと違って、神法なんか使えないんだよ」

「使えたって、国境は越えられないよ」

「なら……行き先はやはり聖国か?」

「あいつの目的に、不完全な王証では不足なはずだからね」

「ってことは、狙いは残りの王証か」


 ハルウはわざわざカーラを人質にとってまで確実に王証を手に入れようとしてきた。そこまで求めるのに保管されているはずの王証を今まで盗もうとしなかったのは、それだけでは足りないからということなのだろう。


「なら、リッテ兄上かラリスに頼むか」


 ハルウはレイを傷付けるつもりはないと言ったが、ヴァルの言葉も嘘とは思えない。悠長に構えている時間はない。

 ライルード伯爵家でのハルウの力量や倫理観を見ても、一瞬で消えたのは恐らく禁止されている空間転移をしたと見て間違いない。普通の神法なら国境で弾かれるはずだが、ヴァルの口振りから国境は越えられた可能性が高い。馬ではとても追いつけない。

 リォーはベランダの手すりから足を下ろすと、廊下に踵を返した。

 だがそこに、再びヴァルが口を挟んだ。


「使うなら、三十八代目にしな」

「は?」


 駆け出す寸前だったリォーは、眉をひそめてヴァルを見た。全く意味が分からない。


「何だよ、三十八代目って。暗号か?」

「人間に決まってんだろ。――ほら、そいつだよ」


 言いながら、黒猫が髭を揺らして顎をしゃくる。その先にいたのは、


「……伯爵?」


 ダヴィドの先導で廊下を歩いてきた、四十代半ばの男だった。覇気のない様子に反して右袖や腹部には黒ずんだ血痕が散っているのが、いかにも不気味だ。


「三十八代目って、こいつのことか?」


 ファナティクス侯爵ではなく皇帝の手駒だということだから、敵ではないのだろうが、その覇気のない顔はどうにも苦手だった。笑顔と陰気で正反対に思えるが、根底ではハルウと似ていて考えが読めない。


「何でこいつが三十八代目なんだよ」


 リォーはぶすりと指をさした。

 皇帝の部下を私用で使う躊躇よりも、正体の分からない人間への不信感が先立った。

 これに伯爵は不快に顔をしかめるでもなく、丁寧に一礼した。


「自己紹介をしそびれておりました。私はオクトー・ライルードと申します。ライルード伯爵家の第三十八代目当主を務めております」

「オクトー……ライルード、だと?」


 八番目オクトーという妙な古語の名前よりも、続けられた姓にこそ、リォーは目を剥いた。ライルード伯爵という家名を、聞き間違えるはずもない。


(成程、それでか)


 クァドラーの屋敷に使者としてやってきた執事が、リォーの髪色を見て外に出す決断を下した理由がずっと不可解だった。

 青い髪と目は帝国では皇帝の名とともに有名ではあるが、宮廷に出仕もしていない伯爵の、しかもたただの執事がそれを見て何かを判ずるのは少々行き過ぎだ。普通は返事を保留にして判断を仰ぐ。

 だが主人が皇帝の密命を受けていると知っていたのなら、得心がいく。

 アドラーティとファナティクス侯爵の話では、伯爵は以前からハィニエル派に接触し、今回のために準備を進めていた。皇太子失踪の件も、早馬なら届いていもおかしくはない。突然あり得ない場所から青髪の男が現れたことで、新たな指令か、或いは変更があったと推測したのだろう。

 リォーは、数歩先で従順に沈黙していた執事に声をかけた。


「ダヴィド。部屋を借りるぞ」

「かしこまりました」


 ダヴィドが深く低頭する前を横切って、手近な部屋に入る。そして扉を閉めると同時に謝罪した。


「すまない」

「フェルゼリォン殿下?」


 そんな時間はないと責めるヴァルの視線は感じていたが、それでもリォーにはそうすべき義務があった。


「二日前、貴殿の屋敷に立ち寄った」

「……成程、執事エストからの緊急連絡はそのことでしたか」


 どうやら、連絡用の法具で常にやり取りはしているらしい。だが驚きの中に微かに安堵が混ざる様子から、内容などは聞いていないのだと察せられた。

 リォーは苦いものが口の中に広がるのを噛みしめながら、続きを絞り出した。


「いや、その緊急連絡は恐らく、貴殿の母と妻の……訃報だ」

「!」


 言い切った瞬間、初めてオクトーが大きく表情を変化させた。栗色の瞳を震わせ、次にはぐっと眉間に皺を刻む。しかし、それだけだった。


「そう、でしたか」


 数拍後には表情を元に戻し、小さく頷く。それが余計に、リォーの良心を苦しめた。


「本当に、すまない。防ぐことができなかった」

「……いえ。私は……ライルード家は、誰からの謝罪も受けない――否、受けるべきではない。ですから、どうぞお気になさいませんよう」

「それは……」


 魔王と通じた娘の一族だからか、とは聞けなかった。答えなど、分かりきっている。山中の屋敷に隠れ住み続けていることも、女児を外に出さないのも、全て彼らなりの贖罪なのだろうから。


「気は済んだかい」


 互いに言葉を失くす男二人の間に、ヴァルの苛立ったような声が割り込んだ。


「だったら、あいつを呼んでおくれ」

「……御意に」


 ヴァルの端的な依頼に、オクトーが平気な顔をして低頭する。それから懐から何かを取り出すと、歯で指の皮膚を噛み切って血をつけた。


(法具か?)


 互いに居場所を知らせたり、短い伝言を伝える法具などは軍でも使われている。


「『あいつ』ってのは、誰なんだ?」


 繋がっている法具の相手が確認して現れるまでには、時間が空く。法具を持ったまま固まってしまったオクトーを注視しながら、リォーはヴァルに問いかけた。

 ヴァルが、豊かな尻尾をぱたりと揺らす。


「……アラン・ライルード。斎王の、古い知人だ」

「ライルード?」


 またその一族かと、不吉に顔をしかめた時だった。


「!」


 眼前の空間が、蜃気楼でも起きたように歪んだ。平衡感覚を揺さぶるような視覚情報に、リォーが一度だけ強く目を瞑る。そして次に目を開けた時、新たな人物がそこに出現していた。

 しかしリォーが驚いたのは、禁法である空間神法を堂々と使ったことではない。現れたのが、見覚えのある人物だったからだ。


「……師匠?」


 黒髪黒目に、青白い肌。二十代のようにも、四十代のようにも見えるその細面は、間違えようがない。

 城下町で出会い、泣き虫だったリォーに道を示してくれた、師と仰ぐ男だった。


「なんで、師匠が……」


 予想外の人物の登場に、理解が追いつかない。だが師匠はリォーを見て驚いたのは一瞬で、すぐに隣のオクトーを振り返った。


「オクトー。何故、殿下がいるのに呼び出したのです。仕事は終わったのですか」

「申し訳ありません、父祖。実は」

「あたいが呼んだんだよ。力を借りたくてね」


 頭を下げるオクトーを遮って、ヴァルが用件を告げる。喋る黒猫などそうそうお目にかからないだろうに、師匠は声の発生源を探す素振りもなく足元の黒猫もどきを見下した。


「……優・カナフ=ヴァルク。お久しぶりです」

「あぁ。だが今は挨拶に裂く時間も惜しい。今すぐ、あたいたちを聖国まで飛ばしてくれ」

「……そういうことですか。では、致し方ありません」


 ヴァルの一方的な要求に、師匠は理由も聞かずに頷いた。さして大きくもない腰袋から、白い石や小瓶などを取り出す。


「待ってくれ、師匠!」


 口を挟まなければ最短で事が終わってしまう気配に、リォーは思わず声を上げていた。膝を折って床に手を伸ばしていた師匠が、動きは止めずにやっとリォーを視界に収める。

 その目は、相変わらず熱意というものに乏しく、リォーを特別扱いしない。いつもの城下町とは違う、こんな状況においてさえ。


「師匠が、ライルード、なのか? 何で、教えてくれなかったんです」

「名前は、安易に名乗るものではないとお教えしたはずです」

「それは! ……状況把握が六割以下の場合だとも言ったじゃないですか」


 新しい状況下において、敵味方の勢力が把握できないうちは自分の名前も立ち位置も明確にしない方がいいとは、確かに言われた。

 だが師匠との関係は、根本からして違う、はずだ。

 しかし答えてくれたのは、師匠ではなかった。


「魔法使いは、基本的に本名を名乗らない。小さな油断が命取りになるからね」


 ヴァルだ。早くしろと言いたげに、師匠の手元を注視している。


「……魔法使いって」


 それは、この状況ではある程度予想できた単語ではあった。

 占星師以上に、魔法使いは名乗ることの出来ない肩書きだ。魔法使いは神法士にとって天敵であり、見付ければ通報する義務がある。何故なら、魔法使いは神法において禁止されていることを躊躇なく行うからだ。

 特に人体への干渉――空間移動や死者蘇生は、倫理観以上に、国家間の軍事力に影響を及ぼすことを危惧されている面がある。

 例えば、道具や術を基本とする魔法が汎用化されれば、血筋や適性の必要性は嫌でも下がる。兵力の増強が容易になる一方、検査は法具一つでは済まなくなる。

 また自由な空間移動が可能になれば、国境は意味を失くし、権力闘争はただの殺戮に変わる。戦争は形を変え、魔法は――ついでに神法も――迫害され、撲滅されるだろう。

 他にも、誰でも手が出せるものになれば商業面にも影響が出るだろう。魔法の材料によって物価は変動し、照明や修理、大工に医者、流通に護衛……幾つもの職業がその地位を脅かされ、国は経済を根本から見直さなければならなくなる。

 そして何より、犯罪はより複雑に、凶悪になるだろう。


(それでも、俺くらいには……)


 教えてくれてもいいのに、と思うのは、勝手な願望だろう。

 リォーはまだ子供で、皇子で、本人の意思とは関係なく迫害する側に属している。毎日会っているわけでもなければ、互いの領域テリトリーに招いたことすらない。

 そんな相手に、死と同義の秘密を明かしはすまい。


(全然、信用されてなかったってことか)


 そんな場合ではないと分かっているのに、落ち込む気持ちを止められなかった。

 リォーが沈黙を選べば、師匠が石で床に線を引く音ばかりが目立つ。そして数分と立たずに、完了の声は告げられた。


「優・カナフ=ヴァルク。フェルゼリォン殿下。この円陣の中央にお立ちなさい」


 床板に直接描かれたのは、三つの同心円を基本に複雑な図形や古語が書き込まれた魔法陣だった。所々に読めない文字や絵、そして色違いのインクが混じっている。


(これが、師匠の魔法)


 リォーが逡巡する間に、ヴァルがとっとと中央に陣取る。仕方なく踏み出そうとした足はけれど、次にかけられた言葉で再び止まってしまった。


「殿下も、お早く」

「……」


 皇子でない時は名前にも力がない方がいいと言ったその口で、そう呼ぶから。

 こらえきれず、むずがるような声をこぼしてしまった。


「俺は、リォーだ。……師匠が、そう名付けてくれた」


 拳を握りしめて、師匠の黒瞳を見る。そうでしたねと、いつもの調子で返してほしかった。けれどやはり、師匠は変わらなかった。


「ですが、今は皇子として行動している」

「それは……」

「それとも、私人として行動するのですか? 他国に赴くというのに」


 否定できない指摘に、リォーは改めて自分の行動を振り返らざるをえなかった。

 ハルウが奪った王証が天剣クシフォスのままだったなら、リォーは何の理由も言い訳も要らずに追いかけられた。

 だがきっと違うと、リォーは既に理解してしまっていた。

 王証が望む者の形に変わるとして、あの時、レイはそう望んでいただろうか。


(……違う)


 カーラの命が懸かっているというあの場面で、レイはそんなことを考えはしない。王証はただ、リォーの手を離れたから元の姿に戻った。そう考えるのが最も自然だ。

 そしてそうなれば、リォーが以前に懸念した王証の存在証明や、両国間に起きる争いの懸念は、杞憂に終わるのかもしれない。

 聖国は念願の王証を取り戻し、帝国は何も知らないまま祝福する。皇帝ならば、きっとそうする。

 なればこそ、余計にリォーは関わるべきではない。

 聖国は、王証を取り戻すためにレイを動かしたのだ。リォーが追えば、戦闘の意志ありとみなされる可能性もある。リォーにその気がなくとも、この青色の髪と目のせいで、聖国は必ず警戒する。

 そうなったらリォーは皇子の身分を捨てるのかと、師匠は問う。


(……そんなこと)


 すぐに答えが出せるはずもない。しがみつきたい地位ではないが、アドラーティをはじめとする家族がリォーのために懸命に守ってきてくれたものだ。浅慮で蔑ろにはできない。


「……それでも、俺は行くと決めた。身分も立場も、関係ない」


 最悪の事態は、いつも頭の片隅にある。その時の対応も、幾通りも考えている。それを実行できるかどうかは、また別の話だが。

 しかし師匠は――アラン・ライルードは、黒い瞳をひたと見据えて、まるで違う話を始めた。


「ライルード家には、幾つかの使命があります」

「は? 使命?」

「陛下の下命は絶対。強人種スクリロスに会ったら必殺。そして、王証の捜索」

「!」


 師匠がリォーの疑問を無視して話を進めるのはいつものことだが、最後の言葉にはさすがに胸が痛んだ。


「……なら、俺に助言をくれたのも」

「両国とも、完全な王証を取り戻すことは悲願でした。あなたは、それを果たしました」

「…………」


 とてもではないが、褒められている気はしなかった。

 ライルード家が皇帝の配下ならば、リォーの王証探しを手伝うのもただの仕事の一環ということになる。城下町で泣いていた子供に情があったわけではないと言われたも同然だ。


(期待は、するなってことか)


 そう、自分に言い聞かせて、リォーは俯きそうになる顔を無理やり押し上げた。見えたのはやはり、いつも通りの熱のない瞳で。


「だがそれは、皇子の殿下あなただけでも、城下町のリォー(あなた)だけでも成しえなかったことです」

「!」


 相変わらずにこりともしないその眼差しが、二つのどこが違うのかと問う。言葉にされてやっと、リォーは思い出した。

 師匠は本心を語らないことはあっても、嘘も虚飾も、方便も欺瞞も口にしたことはなかったと。


『勉強も鍛錬も、きちんと受けなさい。人間関係も、学びです』


 学校に行くのが嫌だと泣くたびに、師匠はそう諭した。


『旅に出るのなら、大いに迷いなさい。一つずつ困難に出会って、手に負えない事態に逃げて、そしてまた進めば良い。そのための術ならば、教えてあげられます』


 外の世界を知りたいと言ったリォーを、師匠は引き留めるでもなくそう背を押した。相談しなければ、どこへ行けとも、何をしろとも言われたことはなかった。

 王証を探すために利用するつもりなら、そんなことを言う必要も、そもそも我儘な子供の相手をする必要すらない。利用価値が生まれてから近付けば良かっただけのことだ。

 あの頃なら、リォーはどんな師匠の言葉も鵜呑みにして素直に従ったはずだ。


(馬鹿か、俺は)


 リォーの悪い癖は、深読みし過ぎて先に答えを出してしまうことだ。そして壁を作り、回避する。

 とても、レイのように考えなしに動いたり、悪手と分かっていて飛び込むことなどできない。先程のように、四方八方から掘り起こしたようなこじつけがなければ。

 そしてそれを、師匠であるアラン・ライルードは、十分に知っていてくれた。


「行っていらっしゃい、リォー。土産は要りませんよ」


 そんなことは先刻お見通しだと言うように、師匠がリォーの背を押す。

 それは、初めて土産を買ってきて以来、旅に出る時には決まって師匠が口にする台詞だった。

 土産は、旅での自分の成長や成果を聞いてほしくて会いに行くための、ただの口実だった。それでも、そう送り出されると、戻ってくるのが当たり前だと思ってくれている気がして、リォーは無性に嬉しかった。

 だからリォーは、いつもの通りに笑って足を踏み出した。


「……いってきます!」


 待ちくたびれたようなヴァルとともに、魔法陣の中心に立つ。師匠が陣に手をかざすと、視界は白い光に塗り潰された。




       ◆




「父祖でも、そのような嘘をつくのですね」


 魔法陣の光が収束するとともに、一人と一匹の気配も完全に霧散する。それを複雑な気持ちで眺めながら、オクトーは意識的に軽口をきいた。

 父の代から父祖と呼ばれるアラン・ライルードとは、世間話というものを交わしたことはほとんどない。黒髪黒目で青白い年齢不詳の男が、しかも常にこの世の終わりのような顔をしていれば、誰だって冗談は通じないと思うだろう。


『この方は、我らの父祖だ。何かあれば、頼りなささい』


 父の仕事を引き継ぐ時に紹介された時も、オクトーは絶対に頼りたくないと思ったものだ。実際、父祖に連絡が取れるというこの法具を使うのも、今回が初めてだった。

 父祖は、いつも自分を見張っているのかと思うような時宜タイミングで現れ、二言三言喋って去っていく。あんなにたくさん喋る姿は初めて見た。


「嘘ではありません」


 誰にでも敬語を使う父祖が、やはりいつも通りの声調でそう言った。

 昔から、この人に感情はあるのだろうかと疑問に思っていたが、その疑いはどうやら晴れそうだ。


「陛下のご下命が絶対なのは私たち当主だけであって、父祖は違うでしょう。今回手伝っていただけると聞いた時は、正直驚いたのですよ」


 父祖が動くのは、一族の危機か、強人種に遭遇した時だけだ。普段はどこで何をしているのかも謎なくらいなのだが。


「彼のため、だったのですね」


 まさか子供の守りをしているとは、予想外過ぎた。第三皇子には何か思うところでもあったのだろうかと、もう一度魔法陣を見やる。


「……子供は誰しも、その成長を妨げられるいわれはない」


 それは、父祖が初めて見せる心の内のようだった。

 父祖は本質しか見ない。言葉は事実だけを述べ、期待も非難も叱責もない。長年の付き合いでそれは分かっていても、責められていると思えてしまって、オクトーは眼差しを伏せた。


「……父祖も、我々がしてきたことを愚かだとお思いですか」


 かつて父祖は、閉じ込められていた女児を解放したことがあると聞いたことがある。けれどその後の当主は、やはり砂粒程の可能性に怯えて、女児を閉じ込めた。手元で育てた者もいたが、小さな行き違いが積み重なって、やはり悲劇は起きたという。

 正義は、恐怖に勝てなかった。

 しかし、父祖は視線を向けるだけで、是とも否とも口にはしなかった。代わりに、オクトーの視線を追うように、足元の魔法陣を見る。


「あなたも、望むなら送りますよ」


 そして突然そう提案した。

 否、きっと突然ではない。父祖はオクトーの視線の意味をきちんと分かっているし、何ならこの会話の目的もきっとバレている。

 唐突に告げられた妻と母の死を受け入れられず、まだ目を逸らしていたいと思っていることなど。


「……ですが、まだラティオ侯爵への説明などが残っておりますので」


 オクトーは、情けなく言い訳した。

 本当は、エストが緊急連絡を寄越すなど今までにないことだし、すぐにでも帰りたかった。だが今回の任務は、皇位継承による内紛を避けるためにも失敗は許されなかった。

 実際には、連絡を受けて帰ったところで、きっと間に合いはしなかったろうけれど。

 しかし、そんな機微は父祖には通じない。


「そのくらいは待てます。例の侍従文官は、既に玉妃宮に保護してもらいましたので」


 フィデス侯爵に囚われていた者のことだろう。となれば、本当に仕事はほぼ片付いたと言える。あとは幾つかの後処理と、皇帝への報告くらいだろう。


「さすが、父祖は仕事が早い」


 オクトーはやっと、凝り固まっていた表情を泣き笑いのように崩した。



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