第74話 三つ目の王証
双聖暦三十一年。
魔王討伐により大喪失は終わりを告げ、改暦とともに新しい時代は始まっていた。
英雄神が留まったプレブラント聖国やエングレンデル王国の首都圏などは随分復興も進んだが、魔王が降り立ったという場所はいまだに魔気が濃く、瓦礫の片付けすらままならない所も多かった。
クラスペダ山岳地帯北東部にあるこの村も、その一つだ。
市場が立てられていただろう大通りは無残に抉られ、破壊された建物の瓦礫でその先の広場も埋まっていた。住宅街の周囲に広がる木々は根こそぎ内側に向けて倒れ、ひび割れた地面から歪に生えた魔草は毒素を放ちながら、今なお周囲一帯の土地の養分を奪っている。
人間種は、一人もいない。濃い魔気は、短命な人間種には毒にも等しい。だから、この村に立ち入った瞬間、目的の人物はいないだろうことは、大方予想がついていた。
それでも、ハルウは歩いた。くたくたになりながら、一縷の望みにかけて。
「それ以上は進まない方が賢明ですよ」
そう声をかけられたのは、重い脚を無理やり持ち上げて目の前に転がる瓦礫を踏み砕いた時だった。親切そうな忠告に反し、実に陰気な声だ。
顔を上げるのも億劫だったが、こんな所に平気で立っているのだ。まず人間種ではないだろう。万全の状態であれば負ける気はないが、今のハルウは敗戦に敗戦を重ね、心身ともに崩壊寸前にまで追い詰められていた。油断すれば殺されてしまう。
殺されてもいいではないかという囁きは、無視した。
「…………」
じっとりと緑眼を押し上げて、声の主を探す。路傍にぽつんと立っていたのは、一見すると人間種に見える、黒髪に黒目、黒い服という黒尽くめの男だった。
耳は長くないから、麗姿種ではない。強人種ならば一本から複数本の角があるはずだが、それもない。
初めは同年代ほどかと思ったが、よくよく見ると四十代か、それ以上にも見える。だが人間種でないのなら、外見から年齢を推測するなど無駄な行為だ。
だがそんな推量も、今のハルウには無意味だった。今のハルウの中にある判断基準は、殺すか殺さないか。もうそれだけしか残っていなかった。
「……退け。退かないなら殺す」
倫理観など持たない強人種であれば、この一言で戦闘となる。奴らに、善意も憐憫もありはしない。邪魔者は排除するだけだ。
だが、黒い男は予想外に会話を続けた。
「ライルード伯爵家を探しに来たのでしょう」
ぴくり、と瞼が震える。
男は続ける。
「あの一家は、もうここにはいません。大した用でないなら、大人しく今までの家族の元に帰りなさい」
「家族、だと……?」
見透かしたような単語に、ハルウは今までとは全く違う種類の殺意が湧くのを感じた。
男が何者で、何故ライルード伯爵家を探していることを知っているのかなどどうでもいい。
家族。ハルウに家族などいない。いないのに、帰れと言う。
「そんなもの、どこにもない」
憎悪が、どす黒く胸を埋める。
信じていた母には見捨てられ、犬猿の仲の姉には殺されかけ、最愛の妹は奪われた――否、裏切られた。
今さら、ハルウに帰る場所などない。
否、元から、あそこはハルウの居場所ではなかったのだ。
(そんなことは、生まれた時から知っていた)
緑は不義の色。そう指を指され続けた。誰とも似ていないこの髪色も目も、存在自体が、ハルウは異端だった。
しかし、ハルウの凍えるような殺意を受けても、男は陰気な顔を少しも動かさなかった。
「そう思うのなら、それでも構いません」
ただ、ハルウの行く手を邪魔する。
もう一度、ハルウは言った。
「退け」
「殺しに来たのですか?」
「…………」
「そうでないなら、やはり帰った方が貴方のためです」
是とも否とも返せぬうちに、男が勝手にそう言い結ぶ。やはりハルウの求めるものを承知しているようなその物言いに、苛立ちとも不愉快とも言える不快感が湧いた。
同時に、何が貴方のためだとも思った。そう忠告する男自身が、何もかもを皆殺しにしてしまいたいという顔をしているくせに。
(……もしかしたら)
この男に先を越されたのかもしれない、とハルウは思った。
既にこの男はライルード伯爵家を見つけ、根絶やしにしたのかもしれない。だとすれば、ハルウが求めるものは、やはりないだろう。
(では、この男は仇か?)
ゆるゆると、回らない頭で自問する。その可能性は低くはなかったが、仇を打ちたいとは、毫も思えなかった。
だから、踵を返した。
この何百年後にそれを後悔することになるなどとは、露とも思わずに。
そして、現在。
(嘘つきめ)
ハルウは、当時の己の思考能力の著しい欠如を大いに怨んだ。やはりあんな得体のしれない男の言葉に惑わされず、前に進んでいれば良かった。何としてでもライルード伯爵家を見付けていれば、五百年もの間、無駄に女児を犠牲にし続けることはなかったろうに。
(次は、進む)
どんなに邪魔が入ろうとも、諭されても、迷わない。
たとえそれが、相手の望まぬことだとしても。
自分の望みを叶えるためだけに、ハルウは進むと決めた。
◆
レイが次に目を開けた時、そこは丘の上らしかった。山と違って視界を遮る背の高い木々はなく、エングレンデル帝国よりも少し肌寒い風が爽やかに吹き抜けていく。
足元に視線を移せば、なだらかな斜面に張り付くように背の低い木々が整然と並んだ茶畑が広がり、瑞々しい新緑で辺りをほのかに輝かせている。
そしてその茶畑が途切れる先に、町が広がっていた。帝都ウルビスとは比ぶべくもないが、大小の民家が肩を寄せ合うように並ぶ町は、見ているとなんだか猫になって迷い込みたくなるような温かみがある。
だが何より目を惹いたのは、町を二分するように流れる緩く蛇行した川と、そこから引いた水路に囲まれた石造りの城だ。五角形の外郭の中に森と水路が走り、ここから見ると政治や戦争のための建物というよりも、一つの庭園のように見える。
あの水路の傍で午後のお茶を喫すれば、どんなに清涼で心地良いだろうかと思われた。
「あれって、もしかして……」
レイはいまだに震えが残る声で、小さく呟いていた。隣に立ったハルウが、穏やかに答えをくれる。
「イリニス宮殿だよ」
その通り、目の前に広がるのは、見間違えようもない。プレブラント聖国の中心地である、聖都アステュだった。過去に数度しか見たことがないが、レイがいつも帰ることを夢見ていた場所。
街中を流れるディオリュクス川は魔王の鉤爪によって抉れ、流れが変わったという伝説を持っているし、他にも聖都の周囲に広がる山や丘に至るまで、魔王や双聖神に纏わる逸話が溢れている。
(帰って、きちゃったの……?)
王証を見付ければ、次は聖都だとは思っていた。けれどそこまでの道のりは気が遠くなるほど先のように感じ始めていたレイにとって、目と鼻の先にあるイリニス宮殿はあまりに唐突すぎた。喜びなどは一つも湧かず、ただ戸惑いだけがある。
「あの一瞬で、国境まで越えたの?」
数瞬前までレイたちがいたのは、ラティオ侯爵家の居城リハ・ネラ城――エングレンデル帝国でも北東部の地域だ。東に国境を接する聖国と、近いとは言い難い。
信じられない思いで隣を見上げれば、ハルウはいつもの笑顔でなんてことのないように言った。
「国境なんて穴だらけだよ」
「そんな……」
神法士でも、命の危険がない限り空間移動などの人体に直接施す神法は禁止されている。それでも行う者に対して、国境にはくまなく法術を施して不法侵入を防ぐというのは国防の基本だ。たとえその幾つかが劣化などの理由で破損していたとしても、簡単に突破できるものではない。
それに、レイが死ぬ気で行使した翼下避行の神法の時のような、内臓がひっくり返るような気持ち悪さを感じる暇さえなかった。いつの間にハルウが神法を使ったのかも分からなかった。
(やっぱり、ハルウは魔法使いなのかな)
魔法に、神法士のような資格はない。法科協会の基準では神法以外は全て邪法扱いで、どんなに効率的で優れていても、表立って取り入れる者は少ない。知られれば、異端として法科協会から追放されるからだ。
だが実際には、神法を極めたいと研究にのめり込む者ほど、魔法や禁法に傾倒していくのが実情だった。中には追放される前に自ら除籍し、世界各地に眠っているといわれる賢才種の研究資料や遺物を求めて放浪を続ける神法使いも一定数いると言われる。
だが、ハルウは魔法使い特有の道具を使っている様子もない。思い当たるものと言えばずっと外したことのない腕輪だが、あれを外した途端、ハルウは爆発的な力を揮った。これでは理論が逆だ。
「あの、腕輪……」
「ん?」
ぐるぐると慣れない考え事をしたせいか、つい声が出ていた。ハルウが、笑顔を変えずに先を促す。
レイは、覚悟を決めて質問した。
「あれって、何だったの?」
レイが黒泪の首飾りを御守りにしているように、ヴァルやハルウもそうなのだと勝手に思っていた。だが実際にはヴァルは勝手に変身してしまわないようにするための抑制装置だったし、ハルウも腕輪を外した途端人が変わったようになってしまった。
(ううん、違う。変わったのは……)
クァドラーの身の上話を聞いてから、だろう。正確には、ライルード伯爵家の名前が出た時、だろうか。だがその理由は、やはり分からない。
けれど、体力は人並みで、武術は並み以下で、神法は使うことすら出来なかった男は、あの瞬間に消えてしまった。腕輪を外したあの時から。
となると、一つの仮説が立てられる。
「セネが、気の塊だって言ってた。あれ、ハルウの腕輪のことだったんだね」
「……あぁ、善性種の」
「大事なもの、だったの?」
セネがあの洞窟で寄越せと言った気の塊とは、リォーが隠していた王証と、レイの首飾りだ。それと並んで、ハルウの腕輪でも良いと言った。王証の代わりになれるというのなら、もしや王証に匹敵する程の力を秘めた法具の類いだろうかと仮説を立てたのだが、ハルウは少しだけ眉尻を下げてふるふると首を横に振った。
「別に。ただの……形見、みたいなものだよ。お節介な、さ」
「形見? もしかして、ライルード伯爵家の……?」
思わぬところからハルウの秘密に辿り着けそうで、知らず身を乗り出す。が、ハルウはあっさりと笑って否定した。
「まさか。全然別だよ」
「そう、なの?」
その笑顔を、今までなら見た通りに受け取っただろう。けれど今のレイは、クァドラーの殺して隠して無かったことにした感情の虚無を見てしまった。とても、真っ正直に頷くことなどできない。
その俯いた視線を、けれどハルウは別の意味に取ったようだ。
「欲しいならあげるよ。もう空っぽだけどね」
ポケットにでも仕舞っていたのか、ハルウが金の腕輪を眼前に差し出す。だがそれは、レイの記憶にあるものに比べ、緑色が分からない程に薄くなっていた。
レイが手を出すにも出せずまごついていると、
「でも、あの猫にだけは絶対に渡さないで」
「猫って、ヴァルのこと? どうして?」
奇妙な釘を刺されて、レイは首を傾げた。ヴァルがハルウのものを欲しがるなど、想像できない。どういう意図なのだろうかと思ったのだが、
「……勿論、ただの嫌がらせ」
返されたのは、本気とも冗談ともつかない答えだった。にへらと笑っている。
そのふざけた態度に、レイはずっと押し込めていた怒りが再びふつふつと煮え立つのを止められなかった。
(私は、真剣に聞いているのに……!)
ハルウのことを知りたくて、悩んで苦しんでいたことを少しでも分け合えればと思っているのに。
「私……ハルウがしたこと、許してないからね」
腕輪を差し出すハルウの手をぐっと押し戻して、緑と栗色の虹彩異色を睨む。
「なんのこと?」
「ライルード伯爵家でしたこと! 女の人を、二人も……っ」
「あぁ」
すっかり忘れていたとでも言うようなハルウの声に、レイは益々腹が立った。今さっきもリハ・ネラ城で女の人の腕を躊躇なく切り落としたし、カーラをずっと人質にしたことも、レイには許せないことなのに。
「これが全部片付いたら、一緒に謝りに――」
「あんな連中、滅べばいいのさ」
「…………ッ」
レイの言葉を遮って吐き捨てたハルウは、やはり笑っていた。いつもの通り、飄々と。けれどその双眸の奥には、背筋が震えるほど残忍な陰が落ちていた。
それがどこかクァドラーと重なって、レイはそれ以上何も言えなかった。
ハルウがライルード伯爵家の人間で、女児を隔離するというあの悪習の被害者ならば、その言葉を頭から否定することは出来ない。被害者と加害者を――善と悪を、部外者のレイが決めることは出来ない。話を聞いたら同情して揺らいでしまいそうな程度の信念では、反論などとてもしてはならない。
(ハルウにとっては、正当な復讐だったら……)
それでも、レイは人殺しを正当化も許容もできないのだ。
「……もらえない」
「そ」
他に言える言葉がなくて、レイは腕輪を更に押し返すことで話柄から逃げた。情けなさに頭痛さえ覚えながら、丘の下に視線を戻す。
(やっと、ここまで来たのに……)
レイは今、念願の王証を右手に持ち、帰りたいと願った聖都を前にしている。だというのに、少しも心が湧き立たない。
(あの女の人、大丈夫かな)
自分を人質に取った相手を心配するというのも変な話だが、とても暴れて出血も酷かった。適切な処置をしなければ、命に関わる。
それに、心配事は他にもある。
(リォーも……)
カーラは何とか無事に取り戻せただろうが、ハルウに吹き飛ばされ、顔色も悪かった。
他にも、アドラーティとリッテラートゥスを殺し合わせるという物騒な話の途中でもあった。とても意気揚々と聖都に向かうことは出来ない。
(ヴァルも、残してきちゃった)
お目付け役のようなヴァルは傍にいれば口煩いばかりだが、いないと考えると途端に心細くなる。
何より、ハルウが王証を求める理由が分からない。今はレイの手から強引に奪おうという様子もないが、女王に渡すのを黙って見ているはずもない。このまま王証を持って行こうとすれば、ともすれば女王にまで火の粉がかかる可能性もある。
不安は、数え上げれば切りがない。
(ダメダメ! 悩むのなんか何の役にも立たない!)
悩むたびにヴァルに言われてきたことだ。全部を考えるなと。お前の脳味噌はどう見ても小さいのだから、すぐ目の前にある、自分の手が届くことから片付けていけと。
説教に罵倒を入れるとはなんたることかと思ったが、今はその教えに助けられる。
「まぁいいや。とにかく行こうか」
一人悶々とするレイに、ハルウがにっこりと笑って丘の下を指し示す。レイは愁眉を開けないながら頷いて、後に続いて歩き始めた。
丘を小道に沿って少し下れば、道の両側には聖国特産の香茶畑が規則正しく並んでいる。間を通る道には、荷車が何度も行き来したのが見てとれる、均一な轍がどこまでも続く。
(これは、働き者の道だ)
今は世話が終わった時間帯なのか茶畑に人の姿はないが、きっと毎朝日の出よりも早く畑に出て、レイには及びもつかない大変な仕事を様々こなしていくのだろう。
そんな人たちが作る轍の間を、ぐずぐずしたまま歩くのは、何だかとても失礼な気がして居心地が悪い。
「ハルウは、王証をどうするの?」
今レイに出来るのは、右手に握り締めた王証をハルウに渡すか渡さないか、それを考えることだけだ。それが可能かどうかは、まだ考えない。
しかし返されたのは、少々的外れな回答だった。
「王証が神の気を奪って出来たものだっていう話、覚えてる?」
「え? あ、うん」
確かヴァルの話では、地上に残ると告げた双聖神は神気を奪われて一般的な人間種となったが、二人を憐れんだ四双神がその神気に質量と加護を与えて返したのだとか。
「それってさ、要は残り滓でしょ? そんなものに、大したことが出来るとは思わないんだよね」
「ん? うーん……」
ヴァルに歴史や伝説の類いを説明すると大概残念な感じになるが、どうやらそれはハルウも同じらしい。興国の逸話が台無しである。
「神気がどんなに凄くても、人ひとり分の命には、全然足りない」
「それは、まぁ」
人体に施す神法で唯一汎用が許されているのは治癒法だけだが、それも瀕死の状態では確実とはならない。ましてや、死の淵に落ちてしまえば、それを呼び戻すことは不可能だ。
魔法などでは蘇生術として密かに研究されている分野だが、いまだに成功したという話は聞かない。
それほどに、命というものは難解で繊細で、掛け替えのないものだ。たとえ体と魂と心を全て揃えても同じ命にはならないとは、神識典や、禁法の所以を纏めた書にもある。
「でも、それが二つだったら?」
「二つ?」
予想外の問いを返され、レイは何のことかと目を瞬いた。
王証は唯一無二だ。そんなにホイホイあるようなものではない、と考えて、あっと声が出た。
「ま、まさか帝国の王証も奪うつもりなの!?」
無謀にも程がある。衝撃的な発言に目を剥いたレイだったが、
「まさかー」
発言した張本人は、何とも軽く否定した。
「あんな所、もう二度と行きたくないよ」
「そう、なの? なら……」
「地上に降り立った神って、その二柱だけだっけ?」
安堵しつつも困惑するという厄介な状態になったレイに、ハルウがまるで聖砦の教師のように問い返す。レイの頭に更に疑問符が増産された。
「え? そりゃ、そう……」
魔王による地上の荒廃と混沌を憐れんで天上より遣わされた、慈悲深き一対の神々。しかし他の神々は、何千年も前に傲慢な人々を見放して決して以来、決して救いの手を伸ばそうとはしなかった。
後にも先にも、地上に降り立った神々は英雄と讃えられた双聖神だけ。
「……じゃない」
そこまで順繰りに考えていって、違う、とレイは気付いた。
双聖神は、魔王を討伐するために地上に降りてきた。だがその魔王は、元々は天上において異端ながら孤独の神だった。
そしてその神は、殺される代わりにその力を奪われて、聖砦の下に封印された。
つまり地上に降り立った神々は、三柱だ。
「もしかして、魔王の王証がある……とか?」
「王証とは、呼ばないみたいだけどね」
導き出された答えに、満点と誉めるようにハルウが頷く。だが、とても喜べる気分ではなかった。
「まさか、ハルウの目的って……」
人ひとり分の命には足りない。けれど二つになれば、誰かを――何かを蘇らせることが出来るのではないか。
そして、その命とは。
「魔王の、復活……?」
代々の斎王が危惧していたことが、五百年の時を経て、ついにレイの前に現れた。




