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幕間 拍子抜けの顛末

 アドラーティがリォーと黒猫が足早に去ったのを見送ってすぐ、執事のダヴィドが現れた。

 どうやら諸々の片付けや采配は終わり、次は残されたアドラーティたちの処遇ということらしい。

 初めにオクトー・ライルードを個室に先導し、カーランシェには沐浴と着替えを案内する。護衛には、髪結いに立候補した侍従文官ラリスが付き添った。


 アドラーティとリッテラートゥスは、衛兵の人員の関係か、同室に振り分けられた。カーランシェも後でこの部屋に来るという。

 扉の外には衛兵と、室内にも侍従武官のマクシムが控えているが、一応兄弟水入らずだ。

 カーランシェが戻る前に事の顛末を説明して認識を合わせておいた方がいいと思いながらも、アドラーティは中々切り出せなかった。

 入室して真っ先に一人掛けのソファを占領した義弟とは反対に、いつまでも所在なく室内をうろつく。それが三周目に差し掛かったところで、先に我慢の限界を迎えた者がいた。


「申し訳ありませんでした、アドラーティ殿下」


 ずっと険しい顔をしていたマクシムだ。扉の前で片膝をつき、限界までこうべを垂れている。

 自分のことで頭がいっぱいだったアドラーティは、突然の謝罪にはたと首を傾げた。


「どうした、マクシム?」

「俺は……殿下を裏切りました。殿下の深謀遠慮に気付きもせず、目先のことに振り回され、殿下にご迷惑を……」

「あぁ、そのことか」


 謝罪を聞いて、そう言えばマクシムは利用されていたのだったと思い出す。それもオクトー・ライルードが虚言と断言したことで、アドラーティの頭の中の心配する項目リストから外れていた。

 だが義理堅いマクシムにとっては、それで終わらせられるものでもないのだろう。


「気にするな。それもまた計画のうちだ」

「それでも、殿下へ不忠を働いたことは事実です。殿下に仕える資格は、俺にはもう……」

「では、立て」

「……御意」


 僅かな沈黙の後、マクシムがゆっくりと立ち上がる。その目の前に立って、大男の顔が同じ高さに来た瞬間を狙って、その頬を力いっぱいぶん殴った。


「ッ」


 ガッと巨体がよろめき、そのまま後ろの扉にぶつかる。だがさすがに、体格差がまだあまりなかった王立専学校の時のように吹き飛びはしなかった。

 突然のことに目を白黒させるマクシムを見上げて、にやりと笑う。


「こういう時は、殴ればいいんだろう?」

「……アディ」


 提案者はお前だろうと言外に言えば、マクシムは赤くなった頬を押さえて目を伏せた。

 今回のことでマクシムに責任はないとアドラーティは分かっているが、本人はそう簡単に割り切れるものではないだろう。こればかりは、状況の完全な把握と時間の経過を待つしかない。


(俺のせいで、皆に要らぬ苦労と心労をかけてしまったな)


 マクシム然り、フェルゼリォン然り。やはり、自分は皇太子の器ではない。

 と、アドラーテが幾度目とも知れず落ち込んだ時だった。


「無能も道化も、時には必要ということだ」


 リッテラートゥスが、用意されていた茶を啜りながら、そんなことを言った。

 まさか慰めているのかと、二人が驚いてそちらを見ると、


「無論、小生は道化になるのも利用されるのも言語道断だがな」


 優雅に鼻を鳴らされた。やはりそんなわけはなかった。

 思わず、マクシムと顔を見合わせる。次には、堪らず失笑していた。


(思い出した)


 マクシムへの敵認定を解除したのも、専学校でリッテラートゥスと初めて顔を合わせた時のことだ。


『何ですか。もしや小生の前だからって険悪を演じてるんですか? そんな程度の小細工で、その脳味噌まで筋肉でできていそうな人材を知恵の必要な間諜に使おうなんて思いませんから、ご心配なく』


 最早原因が何だったかも思い出せないが、二人が構内で偶然顔を合わせて、またいがみ合っていたところに、丁度リッテラートゥスが通りかかったのだ。二人を冷ややかな目で一瞥して、そんな風に言うだけ言って去っていった。

 リッテラートゥスの相変わらずというか、意外に的外れでもない見解に沈黙を守っていたアドラーティは、同じく沈黙する大叔父を盗み見た。

 要約するとほぼ無能と言われたマクシムは、難しい顔をしてこう言った。


『演じてんのか?』

『俺に聞くな』


 割と何も考えていないかもしれない、とアドラーティは思った。あれ以来、喧嘩の代わりに世間話をすることが増えたのだった。


「相変わらず、リッテは言葉の選び方がいいな」


 懐かしい話を思い出して、自然と頬が緩む。と、リッテラートゥスが意外な言葉を返した。


「お褒めいただいたようなのでお返しですが」

「今の褒めてたか?」


 マクシムがぼそりと呟いたが、黙っていろと睨んでおく。


「本気で気付いていないようなので進言しますが、兄上は一度、玉妃殿下に直接聞いてみた方がいいですよ」

「!」


 藪から棒の進言に、アドラーティは驚きながらも苦笑した。やはりリッテラートゥスには既に推察されてしまっていたらしい。どう切り出そうかと悶々としていたのだが、徒労だったようだ。

 窓から飛び込んできたことは予想外だったが、彼は弱いながら神法が使える。どこかに潜んでいて話を聞いていても不思議ではない。

 とは言っても、テオドラは大した情報は喋っていなかったはずだ。あの少ない情報で正しい答えに辿り着けるのならば、やはりリッテラートゥスは優秀だ。


「そうだな……。もう事を起こした後だ。最後に聞くくらいなら、もう気兼ねは要らないな」


 まだ十歳程度の婚約者以外全く他人に興味がないリッテラートゥスが忠告をくれるなど、滅多にあることではない。レテ宮殿に戻って皇帝に報告したあと、許しが得られるようなら、レリア玉妃に面会を求めてみてもいいかもしれない。


(会ってもらえるなら、だが)


 その胸中を見透かしたように、リッテラートゥスが呆れの声を続けた。


「兄上は、どう見ても先程の女より玉妃殿下の方に似てますよ。顔の違いが分からない小生が言っても、説得力はないでしょうがね」

「……まさか、今度こそ慰めてくれているのか?」

「どういう意味です?」


 予想外の台詞に、アドラーティは反応するのが一拍遅れてしまった。実際、人の顔を覚えるのが何より苦手な弟だ。気の迷いにしてもちょっと信じられない。


「打ち所が悪かったのか?」

「失礼な」


 窓から飛び込んできてから治癒を施すまでに、大分時間が空いてしまったせいかと心配したのだが、半眼で睨まれた。「大体」と、リッテラートゥスが呆れ切って続ける。


「あのレリア玉妃が、あんな頭の悪そうな女の単純な策略にころっと騙され続けるとは思えませんがね」

「!」


 それはアドラーティには考えつかなかった観点で、素直に驚いた。

 リッテラートゥスは、テオドラがどんなやり方で赤子を入れ替えたかまでは知らないはずだ。それなのに何故違うと断言できるのかと、反論するのも忘れるほど驚いた。それほど、アドラーティはレリア玉妃という人物について今まで考えが及んでいなかった。

 確かに、言われてみればその通りだ。

 テオドラの言ったことは一見起こり得そうなことだが、それにはレリアが赤子の顔を見分けられない、という条件が必須だ。だがレリアはフェルゼリオンの時もカーランシェの時も自らあやし、一緒に昼寝もしていた。母乳こそあげてはいなかったが、毎日胸に抱いていた赤子の顔の違いくらい、気付かないわけがない。

 そもそも、レリアはそこまで愚鈍でも平和主義者でもない。

 宮廷でおっとりした貴婦人の振る舞いをしているのは、その方がやりやすいだからだ。本性は目端が利いて気持ちを察する力に長け、周囲の悪意にも敏感で、その上負けず嫌いだ。後手に回ることはあっても、やられたままで終わる性格ではない。それは相手が皇帝であろうと必ずやり返すと、ヘレン令妃から聞いたことがある。

 テオドラ程度に遅れを取るようでは、いつまでも二妃の座に居座って三人の子供を無事に育て上げられはしまい。


『こんなことをするのはテオドラね。どうして気付かれないなどと思うのかしら』


 笑ってしまうわと、意地の悪そうな顔で仕返しを考える母が、勝手に脳内で再生されるくらい簡単に想像できてしまった。


「母上が、気付いていた……?」


 自分の子供でないということに? とは、もう思わなかった。

 出産で里帰りしていた期間は一月以上あったはずだ。それだけの時間があれば、あの母ならば何とでもする気がする。気付かないふりをして、有頂天になっているテオドラの元からもう一度赤子を取り替えるくらい、笑ってしそうだ。

 目から鱗の新説に、アドラーティは処理が追いつかなくて頭痛がしてきた。頭を押さえて視線をずらせば、マクシムが苦笑と共に頷くのが見えた。どうやら、大叔父も同意見らしい。


「兄上よりも策略家として数枚上手の御母堂を、少しは信じてみてはいかがですか?」


 最後とばかりに、リッテラートゥスが言い結ぶ。それは、思いやりとか優しさという非合理な感情では動かないリッテラートゥスだからこそ、信じてみようと思える言葉だった。


(青の王子でなくとも、いいのか……?)


 誰もが、青の王子を望んでいる。

 根深い劣等感がそう思い込ませていることは、自覚していた。だが多少なりとも事実であることもまた、きちんと理解していたつもりだった。

 だから、こんな風に自分の価値を認められると――認められていたと知る日が来るとは思わなかった。それはずっと夢見ていながらも、決して信じていない夢物語のように感じていたから。


(俺はまだ、ここにいてもいいのか……)


 皇太子アドラーティという人間は、嘘ではないと。

 次期皇帝になるために努力してきたことは、まだ価値はあると。

 そのままの自分で生きていていいと、許されることが。


「……、……ッ」


 涙が滲むほど、嬉しかった。



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