第6話 華やかなりし舞踏会
(何で都合よく舞踏会があって、私に合うドレスがあるのよっ?)
レイは胸中で半泣きになりながら、二日前のレリア玉妃との会話という名の攻防戦を回想した。
『あの、折角のお誘いは嬉しいのですが、正装は生憎持ち合わせていなくて』
『ご心配ありませんわ。全てお任せ下さいな』
『……、でも今回はあの、何と言っても非公式な訪問ですし』
『こちらも内々の小さなお祝いに過ぎませんもの。ほとんど身内しか顔を出しませんわ』
『…………えっと』
『…………』
『…………では』
『まあ! まぁまぁ! 聖国の王女様にいらして頂けるなんて、娘も喜びますわ』
『…………』
最早絞り出したというより、絞り出させられたと言った方が正しかった。
(……これだから、これだから社交は嫌いよぅっ)
結局、相手は笑顔と社交と交渉がイコールで成立するような世界の貴婦人である。端から負け戦であった。
昨日はこの敗戦の反動から憤然としながらレテ宮殿内で例の男女を探したが、合間に採寸を取られるなどして、結局成果は皆無であった。
そして現在。
ハルウをエスコートに名を告げて会場に入り、「皇帝陛下並びに皇妃殿下御入来ー」の言葉と共に舞踏会が始まった後。
主役である第一皇女を中心に、父である皇帝は勿論、母である玉妃と令妃、皇太子、そして初日に案内してくれた第二皇子も幼い婚約者と並んで座る中、レイは何故か苦手な苦手なダンスの輪の中にいた。
相手はというと。
「俺の足を踏むなよ」
嫌味しか口にしないこの男であった。
(ほんと、この男さっきから……踊る気あるのっ?)
レイは皇帝夫妻に挨拶をして簡単な自己紹介を済ませば、食事を平らげるだけ平らげて壁の花でいるつもりでいた。が、それは御前を下がろうとした瞬間に失敗に終わった。去り際に次の曲が始まるからと急き立てられ、再び笑顔に押し切られ、気付けばこの有り様である。
そしてあれよあれよとダンス相手の前に立たされ、レイは目をまん丸に見開いた。そして大口を開けて叫ぼうとしたところを、むんぐっと手で塞がれた。塞いだのは、すかさず自分の体で皇帝一家から死角を作った目の前の男である。
(まったく、腹が立つほど美人なんだから!)
シャンデリアの下でも美しく輝く頬、すっと通った鼻筋と顎、形の良い耳と唇。切れ長の瞳は碧く、長めの前髪もやはり鮮やかに青かった。
相変わらず、女性と見間違うほどに美しい。
だが銀糸で刺繍された夜会服に純白のクラヴァットを着こなす姿は凛々しく、寄り添えば肩や胸の筋肉が意外にあることが分かる。頭一つ分高い場所から見下ろされる今となっては、何故女と見間違えたのかと自分に自信がなくなる。
何より周囲から向けられる熱い視線が、眼前の人物がこの会場で一、二を争う貴公子であることを暗示していた。
(……まぁ、少しは? 格好いいかもだけど)
何故か素直に認めたくないレイである。最初の出会いが最悪だったというのもあるが、王子様のお手本のようなリッテラートゥスを見たあとでは、本物はやはり違うと思わずにおられない。顔より中身だ。
だが今は、そんな値踏みをする余裕はなかった。
(視線が痛い……)
内輪の集まりとは言え、ここには皇帝一家を始め、皇家傍流や、臣下の頂点とも言える六侯爵たちが一堂に会している。婦女子の数も中々のものがある。
(ハルウ、助け……てくれなくていいや)
壁際で待っているパートナーに視線を向けると、何故か親の仇を見るような目があった。助け出してくれそうではあるが、ちょっと手加減してくれなさそうな気がする。
視線をさっと前に戻す。
(あーぁ。どうせ踊るなら、リッテラートゥス殿下の方がよか……って違う!)
つい出かけた本音に、ぶんぶんと頭を振って思考を本筋に戻す。
レイはこの場に踊りたくてきたのではない。ダンスなど嫌で嫌で仕方なかったが、相手がこの男だったから嫌々ながら応じたのだ。
「あんた……一体何なのよ」
睨んでいても曲は容赦なく進む。レイは仕方なく、差し出された手を嫌々取って会話の始まりとした。
互いに音楽に合わせて足を踏み出す。
「俺のことも知らないで近付いたのか」
「自己陶酔者なのは大体分かってた」
「誰がだ!」
気取った返事にすまして頷くと、くわりと怒鳴られた。頬がほんのり赤いのを見ると、どうやら本当にそういうつもりではなかったようである。
話が進まないのはこちらも困るので、レイは素直に知っている情報を示した。
「青い髪と目……先祖返りの第三皇子フェルゼリォン殿下でしょ」
「知ってんじゃねぇか」
「でも全然皇子らしくない」
「悪かったな!」
城下で見かけた後、大神殿の敷地を歩いている途中で思い出したことだ。
十六年前、エングレンデル帝国に先祖返りの赤子が生まれたと。目にも鮮やかな青い髪と目の皇子の話は、当時、聖国でも話題になった。
だが二人が遭遇したのは首都とはいえ下町だった。とても王族が出歩くような場所ではない。口も悪かった。きっと見間違いだと、レイは一人否定していた。
だがレテ宮殿での再会となれば、最早信じないわけにもいくまい。
青帝サトゥヌスの特徴を持って生まれた、期待の皇子。
同い年で似た境遇にありながら全てを持っている少年に、レイは顔も知らないまま嫉妬さえしたというのに。
(それがこんなに格好良くて、皆の注目の的で、王証まで持ってるかもしれないなんて)
あまりの違いにふつふつと怒りさえ湧いてしまうのは、致し方のないことである。踊りは先程から適当だが、どさくさに紛れて二、三回は踏んでやりたい。
「大体、何で皇子が下町を一人でふらふらしてるのよ」
ガッと足を踏み込みながら聞く。残念、避けられた。
「お前こそ、プレブラント聖国の第二王女だって? それがスリやっつけて何やってんだ」
ぐっと腰を引っ張られて背中が仰け反る。ぐいんっと気合で戻した。
「仕方ないでしょっ。あの日はやっと帝都に着いたところで……あ、城下に詳しい息子ってあんたのこと!?」
「息子って……母上か!」
「あんたに案内されるなんてまっぴらご免よ」
「誰がするか。大体ダンスだって、母上に言われなきゃ……あ!」
最早躍っているのか戦っているのか分からなくなってきた膝下の攻防の果て、フェルゼリォンが突然大声を上げて立ち止まった。レイは動きを止めきれず、再びその胸に顔から突っ込む。
「ちょっ、何で止まるのよ。危ないでしょ!?」
曲はまだ終わっていない。下手に止まっては他の客とぶつかってしまう。
抗議すると、フェルゼリォンは苦虫をかみつぶしたような顔ですぐにダンスを再開した。
「そういうことか。また面倒なことを」
「どういうことよ?」
「……つまり、厄介者同士、俺とお前をくっつけようとしてるってことだろ」
「くっつ…………は、はぁぁあ!?」
想定の埒外の回答に、レイはつい素っ頓狂な声を上げていた。
確かに和平条約を結んだ国同士であれば、結び付きの強化や裏切りに備えて婚姻政略が行われるのは良くあることだ。だが両国は、今まで一度も婚姻政略は行われてこなかった。ユノーシェルの娘が一度候補に挙がったらしいが、それも立ち消えている。
しかし隣国同士でもあり、自衛以外の武力を持たない聖国にとって、帝国との婚姻は十分価値があることであるのも確かだ。プレブラント聖国がこの先もずっと中立であるためにも、そういった政策は決して非現実的なことではなかった。
のだが。
「わわ私が、あんたと!? 絶対やだ!」
「何だその言い方! 俺だってお断りだ!」
途端、何でもなかった手の平や腕から伝わる温度をどうしていいか分からなくなった。顔が一瞬で熱くなり、パッと手を放す。
幸か不幸か、そこで丁度曲も終わりを告げた。フェルゼリォンが清々したとばかりに踵を返す。その服の裾を、反射的に掴んでいた。
「待って!」
次のダンス相手を求めて周囲の人の流れが入れ替わる中、声を潜めて言う。
「あんた、王証を持ってるんじゃない?」
フェルゼリォンが振り返った。片眉が跳ねている。当たりだ。
「――何だと?」
「返して。あれは聖国のものよ」
「……随分な言いがかりだな」
「あんた、王証が何のためにあるか知らないんでしょ。あれはただの宝物じゃないのよ」
魔王が復活するかもしれないとは、さすがに言えなかった。脅しでも冗談にならない。
だが返された言葉は意想外に冷たかった。
「お前こそ分かってない」
「な――」
何を、という反論はけれど、次の曲の始まりとともに別の声に邪魔された。
「フェルお兄様から離れてくださらない?」
「…………」
背後に立たれているなとは気付いていたが、振り返ってみるとそこには目を瞠る程の美少女がいた。
透き通るような白い肌、桃色の頬や尖った顎は芸術の女神が丁寧に彫り出したように完璧な線を描き、淡褐色に輝く勝ち気瞳も唇も他者の目を惹きつけてやまない。ハーフアップにされた深い亜麻色の髪もシャンデリアの光に艶やかで、その毛先が育ち始めた胸の膨らみを愛らしく彩っている。
会の始まりに主役として紹介された、第一皇女カーランシェその人である。
(さすがは兄妹)
つい感心していると、裾を掴んだ間にそのまま割り込まれてしまった。パッと手が離れる。
「プレブラント聖国のお姫様なのですよね? 改めて初めまして」
「えっ、いやいやあの、初めまして」
カーランシェが完璧な笑顔で手を差し出す。対するレイはお姫様という単語が肌に合わなさ過ぎて、戸惑いながら手を出した。
(フォルナも美人だけど、こっちの皇女様の方がお淑やかかな)
などと考えていたら、ぱしんっと手を払われた。
「ん?」
「フェルお兄様は特別なんですの。色目を使わないでいただけますかしら?」
「……はい?」
握手をするつもりだった手をわきわきと動かしながら、意味を考える。色目、という単語が、レイの実生活に一度も登場したことがなかったからだ。
だが兄を守るように立つ妹と、周囲から好奇よりも刺々しい視線を受けていることで、レイは実体験としてその意味合いを理解した。
(いろめ……色目……色の目で見る……つまり……)
カッと頬に朱が走る。
「バッ……そんなことするわけないでしょ!?」
「女は皆フェルお兄様に群がるのよね。婚約者がいないからって」
「知らないわよそんなの!」
最初の笑顔を綺麗に剥ぎ取って蔑むカーランシェの変わりように、レイは驚きながらも弁明する。必要だからダンスに応じただけなのに、そのせいでこんな男女に言い寄ったと思われては心外である。
「私はただこの男に用が」
「姫」
「ひめぇえ?」
突き付けた指の先から甘ったるく呼びかけられて、レイはついに鳥肌が立った。気色悪いものを見る目で睨むと、フェルゼリォンの口だけがぱくぱくと動いている。
(『ここでそのはなしはするな』?)
そう読み取った直後であった。
「カーランシェ皇女殿下」
輪の外から、新たな声がかけられた。振り向くと、数歩先から壮年の男性が二人歩いてくるところであった。
「この度は、十五歳のお誕生日、誠におめでとうございます」
そう言って慇懃に低頭したのは、令妃として紹介された女性の兄で、六侯爵の一つ、フィデス侯爵家の次期当主とされるネストル伯爵であった。
フィデス侯爵家は軍人家系で、ネストルもまた帝国軍の本隊兵団長を務めていたはずだ。その体格は、同年代らしいドウラーディ二世に負けず劣らず胸板が厚い。だが濃茶の髪と綺麗に整えた顎髭には、白い物がちらほら混じっていた。
(どっかで見た顔……)
と考えて、思い出す。
一昨日部屋を案内してくれた第二皇子リッテラートゥスと、その吊り上がった目許が似ているのだ。彼は令妃の第一子だから、目の前の人物とは伯父と甥の関係であろうか。
「大変お美しくなられましたね。おめでとうございます」
続いて挨拶を述べたのは、ネストルよりも一回り以上年長に見える男だ。対照的に体格も目も細く、撫でつけた髪はほとんど白い。
信仰心が篤いのか、左腕には神職者が付けるような細長い腕帛を垂らしている。布の端には双聖神教の象徴である、交差した二つの輪の中に弓と剣が描かれた紋章が刺繍されてある。
彼もまた六侯爵の一人で、ファナティクス侯爵だ。管轄はプレブラント聖国に接する三州の一つで、双聖神教の徒が最も多いと授業で習ったので、記憶に残っている。
「まぁ。ネストル伯爵様に、ファナティクス侯爵様も。ありがとうございます」
祝福を受け、カーランシェが先程の刺々しさが嘘のような完璧な笑顔で礼を返す。
妻が二人ということでフィデス侯爵家とは不仲なのかと想像したが、どうやらそんなこともないようだ。
(玉妃の父親が欠席っていうから、バチバチなのかと思ったけど)
カーランシェの祖父に当たる六侯爵の一つ、ラティオ侯爵家の当主は老齢で、一月ほど前から体調不良のために領地で静養しているという情報は、昨日の調査中にヴァルが仕入れてきていた。
「もうすっかり美しい淑女ですね。社交界の準備は順調ですか?」
「えぇ、勿論。最初は絶対フェルお兄様に踊っていただきますの」
「ほぉ。それは大変に絵になることでしょうね」
目の前で和やかに交わされる会話に、レイは頬を引きつらせながら一歩下がる。
(女って怖い……)
だが怖いのは女だけではなかった。
「フェルゼリォン殿下におかれましても、妹姫の成長は喜ばしい限りでしょうね」
カーランシェに形だけの挨拶を済ませたファナティクス侯爵が、周りの女性を素通りしてフェルゼリォンに最敬礼をしていた。腰を深く折り、左手の握り拳を右手で包んで腹部に宛てている。
(……なにゆえ?)
場違いな挨拶の仕方に、レイは内心で首を傾げた。ファナティクス侯爵がしたのは、双聖神教での基本の神拝だ。しかしここに神像も象徴も他の神職者もいない。
「ありがとうございます。妹も喜びます」
目をぱちくりさせるレイには構わず、フェルゼリォンが無難な返事をする。だが顔を上げたファナティクス侯爵の細い瞳は、まるで啓示を受けたようにうっとりと蕩けていた。今にもフェルゼリォンの手を取り、口付けでもしそうな勢いがある。
「あぁ、本日もなんと麗しい。日に日に逞しくなられるお姿は、まるで神識典から抜け出した英雄神そのものです」
「いえいえ、私など到底及びもつきませんよ」
フェルゼリォンが笑顔で謙遜する。だがその表情筋は完全に固定されていた。
(な、何なの?)
先祖返りとして注目を集めていることは聞いていたが、ファナティクス侯爵の眼差しなどはまるで狂信者のそれである。
だがそれは、彼だけに留まらなかった。
「ええ、本当に、フェルゼリォン様のお美しさは本日も光り輝いていますものね」
背後から別の女性の声が聞こえて、レイは今度こそ驚いて振り返った。
気付けばいつの間にこんなに集まっていたのか、周囲に壁を作る程に女性たちが群がっていた。
「カーランシェ様。おめでとうございます」
「本日は久しぶりにフェルゼリォン様が参加されて、本当にようございました」
「お二人が並び立つと、本当に一幅の絵画のようですわ」
「フェルゼリォン様は、今回はどちらまでおいでになりましたの?」
ドレスと宝石と香水と笑顔の波が、圧倒的な勢いで五人を取り囲む。ネストルたちがカーランシェに話しかけたのを好機と見たのだろう。本命がフェルゼリォンであるのは明白であった。
(げぇ、マジか)
これでは妹が警戒するのも頷ける、と納得する内にも、フェルゼリォンを囲む輪はどんどんと狭まってきていた。レイなどはあからさまに邪魔そうに右へ左へと押しのけられているのだが、レイの方はか弱そうな女性たちを押し返すわけにもいかず、ついにバランスを崩してしまった。
その肩を、大きな手に支えられた。
「!」
「麗しのご婦人方」
フェルゼリォンのよく通る声が響き、女性たちの動きがぴたりと止まる。
「聖国のお姫様はまだ来たばかりで、まだこちらに馴染んでいないご様子。是非皆様の可愛らしいお声でお話を伺いたいそうですよ」
「……は?」
完璧な紳士が、笑顔でわけの分からないことを言った。
あとは怒濤であった。
「まぁ、可愛らしいだなんて!」
「フェルゼリォン様がおっしゃるなら是非」
「えぇ、あちらで一緒にお喋りしませんこと?」
「リッテラートゥス様と可愛らしいご婚約者様もご一緒ですのよ」
「え? リッテ……?」
右に左に手を取られ、あっという間に第三皇子から引き離される。
自分が逃れる方便に使われたのだと気付いた時には、青い皇子の姿は会場のどこにも見当たらなかった。




