第66話 奇妙な来訪者
ゴンゴーン……と、ノッカーの音がリハ・ネラ城に響いたのは、アドラーティが軟禁されてから二日目の昼を少し過ぎた頃であった。
妙な男が一人、扉の前に静かに立っていた。
四十歳半ばの、身綺麗な男だった。どこか疲れた顔で覇気がないながらも、纏う服は仕立てが丁寧で、庶民でも商人でもないことは一見して分かった。
だが、人の顔は一度見れば決して忘れないダヴィドも、その男のことは知らないようだった。立ち居振る舞いは貴族のようにそつがないが、先触れも紹介もなく、供もつけず、手荷物の一つさえない。
魔獣が街道にまで出ることはまずないが、それでも野犬や盗賊の類はどうしても出没する。護身用の武器もないのは明らかに不自然だ。
端的に言って、怪しい男だった。
それでも、その男はルードゥスの元に通された。その理由は。
「突然の訪問を謝罪します。こちらにフィデス侯爵家の手の者が入ったと伺い、無礼を承知で参上致しました」
「……なんだと?」
「その者の狙いは、皇太子殿下のお命です」
「…………」
ソファに座って用件を聞いていたルードゥスは、一昨日から険悪だった表情を更に険しくした。
次から次へと、要らぬ問題が猫の仔のように降って湧いてくる。アドラーティの告白だけで、もう十分頭が痛いというのに。
(テオドラめ、余計なことを……)
思い当たる者と言えば、一人しかいない。テオドラが供だと言って引き入れた情夫だ。締まりのない顔をした軟弱そうな男で、考えも存在も薄そうだとしか思わなかったが。
(アドラーティを狙っているだと? そんな大それたことが出来そうには見えなんだが)
思えば、レリアはあの性格のせいでしょっちゅう問題を起こしていたが、線引きを間違えたことはなかった。やってはならない問題を起こすのはいつもテオドラで、二人を等分に叱れば、いつも私ばかりとめそめそ泣き出すのだ。
反省しないレリアにも頭を痛めたが、テオドラは叱ること自体が億劫になる相手だった。
(テオドラには、今後監視を付けてどこかに閉じ込めねばならんな)
下手なことを口走らぬよう、人との接触も最低限にした方が身のためだろう。
しかし一方で、よくやったとも言える。
テオドラの元にいた息子は、確か一歳になる前に亡くなった。
乳幼児の突然死は、たとえ最先端の医術や神法が集まる帝都でも防ぐのは難しい。それがレリアの元で亡くなっていれば、皇太子はあの忌々しいリッテラートゥスになっていた。
(これを本人が知らねば、何の問題もなかったというに)
やっとしつこい風邪が治ってきたところだというのに、次々現れる頭痛の種のせいで、熱がぶり返しそうだ。
「……ダヴィド」
「はい」
ソファのすぐ横で彫像のように直立していた執事を呼ぶ。
ダヴィドは代々ラティオ侯爵家に仕える執事の家の生まれで、子供の頃から父に従ってよく動いた。働くことを嫌がらず、特に他者の顔色や機微に敏い所が、ルードゥスは気に入っていた。
ニックスは待望の後継ぎだったが、折角入れた書司室でもどうにもパッとせず、何度入れ替えたいと望んだことか。
「警備についていない衛兵の半分を、テオドラの部屋に向かわせろ。お前は、ここ一月の間に新しく入った者を広間に集めておけ」
「かしこまりました」
一番疑わしいのはテオドラと共に現れたあの優男だが、違っていた場合は厄介だ。
六侯爵の間では常に間諜を送り合っているというのは公然の秘密で、ために身元調査や情報管理には神経質なまでに徹底している。それを掻い潜って潜入に成功した者がいたとしたら、ルードゥスが動き出した瞬間に逃げだすだろう。
ダヴィドが扉脇に立っていた衛兵の一人に耳打ちし、共に退室する。
部屋に残ったのは、州長官の護衛を任とする州軍の衛兵隊が三人。
今はアドラーティの脱走を警戒して、城館の各所に兵を増員して配置していた。ダヴィドが集める方にも人手がいる。すぐに動員できる人数は十人を下回るかもしれない。
(間怠こしいのは好かん)
ルードゥスは杖を掴むと、痛む腰を重々しく引き上げた。
「乃公もテオドラの元に行く」
「し、しかし、間諜が手練れだと、閣下の御身が危険に……」
「職分を果たせ」
戸惑いながら制止する衛兵に、ルードゥスは苛立ちながら返した。ダヴィドがいればこんな無駄な問答をしなくて済むのだが、今は仕方がない。
「伯爵も、共に参られよ」
「喜んで」
着座を拒否してずっと直立していた男が、礼と共に後に続く。名はダヴィドから聞いていたが、聞き覚えのない家名で、すぐに忘れてしまった。
翼棟へ続く廊下を、ピリピリした空気を携えて進む。
テオドラの部屋が近付いた時、不意に伯爵が呟いた。
「殿下の御身が心配です」
ちらりと視線だけで振り返る。心配といいながら、あまり身の入っていない顔だった。
視線を部屋の扉に戻す直前、ルードゥスは右手に伸びる階段を一瞥した。静かだ。
「心配ない。殿下には州軍でも最も腕の立つ者をつけている」
「それは……安心です」
嫌な男だ、とルードゥスは思った。男の前後に衛兵を付けていなければ、決して一緒に歩きたいとは思わない。
だが事態は一刻を争う。
ルードゥスは、娘が滞在する部屋に到着すると、叩扉もなく踏み込んだ。
「テオドラ。ここに男を連れてこい」
扉を開け放ち、どこにいるとも知れない娘に低く恫喝する。数秒後、奥の寝台がごそごそと動いた。
「お父様? 突然何ですの?」
四十五歳になる娘は、もう昼も過ぎたというのに寝起きの様子で掛布から顔を出した。髪も服も、子供のように寝乱れている。
理由など、推察するまでもない。
ルードゥスは、同じ寝台の中で同じく今し方目覚めたばかりらしい優男を睨みつけた。
「その男の素性を検める」
「……はぇ? ――な、なな何なんだっ?」
男の間の抜けた声を靴音で掻き消して、二人の衛兵が男を寝台から引きずり下ろす。それでやっと、だらしない娘の頭も起き出したらしい。
「なっ、何をなさいますの!? お父様、やめさせてくださいな!」
「その男が潔白だと分かったらな」
「潔白って……何のことですの? 彼は私の大事な友人ですのよ」
何が友人だ、と胸中で吐き捨てる。
ウィーヌム州第一の都市を担う伯爵の妻だというのに若い男を漁っていることなど、この際どうでも良い。務めさえ果たせば、ルードゥスは遊び方を咎めたりはしない。
しかしその相手がみすみす敵の間者では、間抜けと罵っても足りるものではない。
「呼び方などどうでもよい。フィデスの狗が入り込んだと聞いた。必要ならお前のことも調べるぞ」
「まあ! 実の娘をお疑いになるの? あんまりだわっ」
「調べろ」
早速泣き真似を始めるテオドラは無視して、男の身ぐるみを剥がす。だがただの寝間着に家を特定する物などなく、今度は一人が男を押さえたまま、もう一人に脱ぎ散らかした服や荷物を見るよう指示を出す。
そこに丁度、ダヴィドの伝言を受け取ったらしい衛兵隊が続々と雪崩れ込んできた。
「やっ、やめてくれ! 僕は違う!」
「お父様! やめてちょうだい!」
男のくせに情けない悲鳴を上げる愛人に、テオドラが金切り声を上げてしがみつく。その絵面が既に目を背けたいほどの醜態だったが、家のためならルードゥスに容赦というものはなかった。
室内にある全ての荷物を、テオドラの物も構わずひっくり返す。
その一方で、ルードゥスは扉の近くでこの事態を黙然と見ていた伯爵に一応の確認を取った。
「こやつがそうか?」
「えぇ」
大方、手下から情報を得て、手柄だけ取りに来たのだろうと見ていたルードゥスは、伯爵の迷いのない肯定に目を細めた。
「顔を知っているのか」
「名も知っています。ファビアン・カルバン。確かフィデス家の遠縁で、多額の借金があるはずです。職か金か……ともかく、ラティオ侯爵家に繋がる人間に接触するように言われたと思われます」
「…………」
怪しい、とルードゥスは思った。
貴族とはいえ、色々と副業に手を出している者はいる。特に貴族内の噂や、水面下での動きを情報屋のように売り買いする者は、ルードゥスにも幾つか伝手がある。
しかし、こんな男のことは聞いたことがない。伯爵という身分も、偽りかもしれない。
だが、その情報はどうやら正しかったようだ。
「な、なんで知って……あっ」
衛兵に押さえ付けられていたファビアン・カルバンが、口が滑ったというように間抜け面を晒す。どうやら、証拠品の有無など大したことではなさそうだ。
その素人臭さに、ルードゥスは急速に気力が萎える思いだった。
あとでダヴィドから聞いたが、テオドラがリハ・ネラ城に来たのはアドラーティに呼び出されたかららしい。そんなことは、この二十二年で初めてのことだ。そのたった一回のために間者を用意したとは、とても考えられない。
対立相手の行動を予測し、接触すると考えられる相手に先手を打つのは政治の基本だが、テオドラは皇太子位にとって大した重要人物ではない。二人の本当の関係を知らなければ。そしてその関係をフィデス侯爵に知られていたとなるなら、ルードゥスは既にこの世にいない。
どうせ、無駄に捨て置くくらいなら有効活用しようとあちこちに撒いておいたうちの一つが、今回偶然役に立ったというだけのことであろう。
「フィデス家は、お前のような人間を幾つも用意している。使い捨てられたな」
「そんな……いや、ですから、僕はちが――!」
「問題は、これで全員片付いたかどうかだが」
愕然とする一方で嫌疑を否定するという忙しいファビアンへはもう一瞥もくれず、扉の前で左右を衛兵に囲まれたままの伯爵を振り返る。
この間抜けな間者が一から十まで承知の上で仕組まれた者なら、それを察した者が現れても不思議とまでは言わない。だが偶然に仕掛けがはまっただけの罠にまで目を光らせて反応したとなれば、話は別だ。
路傍の石のようにファビアンを見ていた伯爵の目線が、ゆっくりとルードゥスに返される。
その意味を、間抜けな素人も察したらしい。
「ま、まさか、あんたも……」
両手を拘束されたまま、ファビアンが唇を震わせる。その先が続く前に、伯爵が懐に手を差し込んだ。
両脇の衛兵が、瞬時にその首に白刃を当てる。
「これは親切心からの言葉ですが」
そう言って懐から取り出したのは、少しよれた紙片だった。
「こういった手紙を馴染みでない者に預けるのは、よした方が賢明でしょう」
「あっ、それ……!」
「どうして……っ」
ファビアンとテオドラが、実に素直な反応をする。それだけで、昨夜のうちに二人が一体どんな会話をしたかが想像できた。
堪え性のないテオドラは、アドラーティの暴挙を赤の他人に訴えた。フィデス家の狗は自分が手柄を立てられると喜び勇んで、テオドラを唆した。愚かな言質でも引き出して、手紙に署名でもさせたのだろう。
浅はかな二人の盛り上がりようが、目に浮かぶようである。
額に青筋を浮かべ始めたルードゥスにと、伯爵が衛兵に手紙を渡す。数人を介して手元に届いた手紙を読めば、案の通り、内容は想像から大して外れてはいなかった。
ぐしゃり、と手紙を握り潰す。そして左手に握っていた杖を振り上げた。
「この、恥知らずめが!」
「きゃあっ」
「ひぃぃっ」
ガッと、杖の先がテオドラのくるぶしに当たる。テオドラに覆いかぶさるように守られていたファビアンまで、情けない声を上げた。
それが余計に、ルードゥスの怒りに火をつけた。
「お前は、浅ましい嫉妬でこの父を、ラティオ侯爵家を潰す気だったのか!」
「潰すだなんて、私はただ、レリアが……」
「家を栄えさせる者こそが強者であり正義だ! そんなことも分からないのか!」
「きゃあ! やめてっ、やめてお父様!」
「ひぃっ、た、助け……っ」
怒りが収まらずに何度も杖を振り下ろすルードゥスに、テオドラとファビアンが手を取り合って悲鳴を上げる。
それを止めたのは、見かねた衛兵だった。
「閣下。それ以上は……」
ぶたれるテオドラたちに血が滲み出していたのもあるが、それ以上に病み上がりのルードゥスはぜぇはぁと息が上がっていた。
「全く、愚かな身内が最も手に負えん……!」
大きく肩で息をつきながら、忌々しく吐き捨てる。その足元では、顔を涙で濡らした娘が、子供のように聞き苦しい言い訳を続けていた。
「違うのよ……私は、ちゃんと……手紙だって、私の名前で出したのに……」
「そうだよ、それを……あの男の方が絶対怪しいのに……」
煩わしいほどの泣きべそに、ルードゥスは最早視界に入れたくもないと踵を返す。次はこの手紙の入手方法を問い質さなければならないと眉間に皺を寄せる。
だがそこで、ルードゥスは瞠目して足を止めた。
「……いない?」
衛兵に見張られていたはずの伯爵が、どこにもいなかった。




