第65話 裏切り者
ダヴィドが用意した部屋に通され、マクシムと二人きりになった途端、アドラーティは激しく咳き込んだ。無理に飲み込めば喉が灼けるように痛み、よろめいて壁に背を預ける。
「殿下!」
マクシムが慌てて荷物から薬と水を取り出す。それを押し込むように喉奥に流してやっと、アドラーティは浅いながら呼吸が出来るようになった。
口を押えていた手を離せば、べっとりと血が付いている。
「これをお使いください」
部屋に着くまで無言だった反動のように、マクシムが心配顔で布きれを取り出す。
心配役のメノンがいないからか、普段は動じることの少ないマクシムが顔を青くしているのは、妙な感じがした。それを苦笑と共に受け取ってから、アドラーティはついに言わなければならないことを切り出した。
「……聞いたか」
何を、とは言わない。だが、返事はあった。
「……えぇ」
薬と水を片付ける手を止めて、マクシムが目を合わすことなく端的に答える。
そうなるよな、とアドラーティは苦笑を禁じ得なかった。
メノンもマクシムも、皇太子の侍官だから傍にいたのだ。それが本当は皇子ですらなくて、しかも近い内に処刑されるというのだから、二人にとってはこの十数年を無駄にしたようなものだ。
こんな秘密を、こんな厄介な状況と時期で知るなど、マクシムにとっては実に迷惑な話だろう。
それでも、マクシムには聞かれても良いと思ったから、前室に来るようにと言ったのだ。メノンでは随分動揺するだろうが、マクシムならと思ったのもある。
マクシムはラティオ侯爵家の分家の生まれで、血筋では大叔父に当たる。三歳年上ということもあって、初めて出会った頃は随分大人に見えたものだ。
最初の印象こそ悪かったが、侍従武官になってからは実直に、誠実に接してくれた。いつも周りの顔色を窺っていたアドラーティを、時に諫め、時に大らかに笑い飛ばしてくれた。皇太子ではなく甥として接してくれたマクシムは、アドラーティにとって初めてで、貴重な人物だった。その家族思いで情に厚い気質を、思えば侍官になって早くから頼りにしていたものだ。
だが、過信しすぎていたようだ。
「悪かった」
手と口元を拭った布を握り潰しながら、アドラーティはそう言った。
何がといえば、無数にある。だが……騙していて、黙っていて、裏切って――どれも、言葉にするにはまだ難しすぎた。
「……いえ、俺こそ」
ついでに荷解きを始めていたマクシムが、こちらを振り返らぬまま言葉少なに応じる。それきり、部屋には沈黙が落ちた。
普段なら、何が『俺こそ』なのかと、問い返していただろう。しかし今のアドラーティに、それに気を回す余裕はなかった。
がさごそと、衣擦れの音だけが鳴る。咳も収まったアドラーティは、自分の外套を脱いでしまえば、やることもなくなった。
呼吸を整えて手近な椅子に座り、マクシムの肩幅の広い背中を無為に眺める。それから、少しの寂寞を飲み込んで呼びかけた。
「マクシム」
従軍の経験もある大男の手が、ぴたりと止まる。いつもの明朗な返事はなかったが、アドラーティは構わず続けた。
「一両日中にはここを出る」
「……ですが、閣下が」
「隠れ場所も抜け道も既に把握済みだ。ダヴィドさえ攻略できれば、問題はない」
「避暑地に何をしに来てたんですか……」
振り向いたマクシムに、アドラーティは下手くそに笑ってみせた。
リハ・ネラ城に避暑に来ていたのは子供の頃だけだと、マクシムも知っている。八歳の子供がすることではないと言いたいのだろう。
あの頃のアドラーティは、劣等感を意識しだした頃でもあったが、弟のフェルゼリォンもいて、やんちゃの盛りでもあった。レテ宮殿よりも自由が利くリハ・ネラ城は、普段は抑圧されていた勉学以外の好奇心を満たすには格好の場所だった。
マクシムと初めて顔を合わせたのも、確かこの城でだった。気兼ねない挨拶ということで顔を見ただけで終わったが、最初の印象はなかなかに悪かった。
(恐らく、未来の主人だとでも言われていたんだろうな)
初対面で睨みつけてくる年長者に、アドラーティは内心でびくびくしていた。数秒でこいつは敵、と分類したことを覚えている。
今はそんな反発心はないが、元々侍従職に向いていないと本人も言っていた。他人に従うのも、規則ばかりの中に閉じ込められるのも嫌いだが、気に食わない相手に笑顔で腹の探り合いをするのが最も嫌だと、真っ向から言われたこともある。
結局、甘えていたのだ。
手放すには、丁度いい頃合いかもしれない。
「お前は、ついてこなくてもいい」
淡々と言い添えた言葉に、ついにマクシムが手を止めた。威圧感のある大きな目を更に大きくして、アドラーティの淡褐色の瞳を見返す。
「何ですって?」
「西に行けば、フォルミード――お前の生家だろう。この件が片付くまでそこに戻ってもいい」
共にレテ宮殿に戻っても、王証やメノンの件もある。面倒事や悶着は一つや二つでは済まないのは目に見えている。マクシムを巻き込む必要はない。
「侍従長には俺から言っておく。次はカーラ辺りがいいだろうな。フェルでは、気苦労が増すだけだから。望むなら、また軍に戻ってもいいし、フォルミードで兄たちの酒造りを手伝ってもいい。あそこは州境だから、戦闘要員はいくらあっても」
「それは」
と、マクシムが強引に言葉を差し挟んだ。
罪の意識を誤魔化すように饒舌になっていた口が、ぴたりと止まる。
「ご命令ですか」
「……命令権など、俺には最初からないよ」
珍しく硬い声に、アドラーティは忸怩たる思いで否定した。
今更だと思う反面、ならば受け入れないと言ってほしいとも思っている。
アドラーティがこれからすることは、茨の道だ。後をリッテラートゥスに任せるにしてもフェルゼリォンに託すにしても、信頼できる部下は一人でも多い方がいい。
自分の命を最大限に活用できる時まで、アドラーティは生きねばならないのだから。
その身勝手な感情が、嫌でも滲み出ていたのだろう。
「お前は、分かってないよ。昔から……」
マクシムが、敬語をやめてそう言った。最後は歯切れ悪く途切れたが、言いたいことは分かる。
『命令なんか関係ない。俺は、やりたくないことはしないんだよ』
侍従武官になってすぐの頃に言われた言葉が蘇る。あの時はまだ信頼関係などないに等しかったが、それでも好感が持てると思ったものだ。
「お前の人の好さに付け込んで、悪いと思ってる」
「…………っ」
苦々しい思いを呑み込んで謝罪する。
途端、マクシムは傷付いたような、怒りだす寸前のような顔で眉間に皺を刻んだ。けれど結局何も言わず、背を向けて再び荷解きに戻ってしまった。
その背をぼんやりと眺めながら、あんな顔を前にも見たことがある、とアドラーティは勃然と思った。
(いつだったか……)
あれは確か、王立専学校に入ってすぐのことだ。
質の悪い相手に皇太子の大叔父であるということが知られたらしく、その仲介のために二人は再会した。
紹介された男のことはものの見事に忘れたが、どうもマクシムが当時懇意にしていた女性の家の立場上、断れない相手だったらしい。ほぼ脅しに近かったのは記憶にある。
あの時も、マクシムは眉間に皺を寄せ、怒りだす寸前の顔でアドラーティを見下していた。しかし別に脅されたからと泣きつくわけでもなく、その時は今後ともよろしくで終わった。が、結局その男とそれ以降会うことはなかった。
その数か月後、マクシムとは偶然校内で再会したのだが、
『俺は、俺を利用されたくない』
その時の第一声がそれだった。
まだ敵認定が解除されていなかったため、アドラーティは胡乱な目で端的に会話を打ち切った。
『別に、用はない』
しかし、大叔父の用件はまだ済んでいなかったらしい。一秒で回避に移ったアドラーティの進路を塞いで、話を続けた。
『そんなのは分かってる。だから俺もお前を利用したくなんかない』
『……どうやら、叔父上は難儀な性格のようだ』
『次にその呼び方をしたら、俺はお前を殴る』
『……そりゃどうも』
『だが今はお前が俺を殴れ』
『は?』
『あと、あいつを紹介したことは忘れてくれていい』
『…………』
そこまで言われれば、マクシムの言いたいことも大体察しがついた。どうやら、自分でけじめをつけたらしい。
アドラーティは、少しだけ考えてから、遠慮なく右頬を殴った。マクシムが最初から人気のない場所を選んでいたと理解したのもある。
『悪いが、もう忘れた』
そして、ついでに補足して、その場を去った。
その時はそれで終わったが、それから不思議な縁は続いて、今に至る。
敵認定を解除したのは、いつだったか。
「……本当に、すまない」
もう一度、そう言った。応えは、やはりなかった。
◆
まともな部屋が一つもない、とテオドラは忌々しく思った。
リハ・ネラ城はエングレンデル帝国が王国だった時代からの遺物で、その土地柄、昔から狩猟を好む城主が多かった。お陰で城内には至る所に牡鹿や猪や鼬の角やら剥製やら毛皮やらが飾られ、見ているだけで獣臭くてかなわない。
一番酷いのは、魔獣だけを蒐集した部屋だ。祖父の書斎の隣にあり(というよりも魔獣の間の隣を書斎にしたのだが)、知能も気位も高い灰孤狼の毛皮や、魔獣の中でも最も醜いと言われた酉鬼亥の剥製、面三つ羽の人面のような色彩の尾羽が、さも有り難いもののように飾られている。
テオドラは気味が悪くて近寄りたくもなかったが、妹のレリアは興味津々という顔で父にそれらの来歴を尋ねていた。そのために妹は玉妃になり、テオドラは姉だというのにがさつな土豪の伯爵夫人になった。
「本当、忌々しいわ。どうして廊下を歩くだけで鹿や狐に睨まれないといけないのかしら」
この城に来てこれらの戦利品を見るたびに、計算高く父の歓心を買った妹を思い出して嫌になる。
「まぁ、そう怒らないで。君の美しい顔が台無しだよ」
焦げ茶色の髪と瞳を持つファビアンが部屋に戻ってきた途端、テオドラは刺々しい声で吐き捨てるとともにその胸にしなだれかかった。
夫とはまるで違う長くしなやかな指先が、丁寧にテオドラの髪を梳る。寄り添う体もまるで役者のようにすらりと細く、むさ苦しい体臭とは無縁だ。
一人娘が婿を取り、領主である夫が娘婿にかまけるようになって、テオドラはやっと解放された気分だった。元々仲の良い夫婦ではなかったが、無関心に拍車がかかり、テオドラは遅れてきた春を存分に謳歌した。
このファビアンもその一人だ。
城下で偶然出会い、その洗練された装いと美しい顔にすぐに虜になった。話を聞けば随分な苦労人で、特に弟ばかり可愛がられて、しまいには家を追い出されたといったくだりに、テオドラは痛く共感したものだ。
「ねぇ、聞いてちょうだい、ファビアン」
「あぁ、勿論。テオドラの話なら何だって聞かせておくれ」
テオドラの手を引っ張って、ファビアンが手近な長椅子に座る。その力に逆らわず、テオドラはファビアンの膝の上に腰を下ろした。
「あの子はね、アディは本当は私の子供なのよ」
「……は? またまた、そんな」
「本当よ」
ファビアンが反応に困る冗談を聞いたような顔をするから、テオドラは可笑しくなって笑ってしまった。
アドラーティから手紙が届いた時は、別に秘密を打ち明けるつもりはなかった。テオドラはアドラーティを愛している。こんな所で誰かに真実を知られて、可愛い息子の邪魔をするつもりは毛頭ない。
だが今までのテオドラの献身に対してあのアドラーティの態度は酷く、テオドラは早くこの辛い気持ちを分かってほしいという気持ちが抑えられなくなっていた。
テオドラはぐっと顔を近付けて畳みかけた。
「レリアと丁度お産の予定が近くてね、髪の色も目の色も同じだったから、こっそり取り替えてしまったの。誰も気付かないんだもの、笑ってしまったわ」
レリアのところにばかり見舞いに行く父が恨めしかったのは、最初だけだ。見舞いと称して訪ねた隙に赤子たちを取り替えたあとは、その姿を見かけるだけで心がうきうきした。
未来の皇帝だと信じて愛想を振り撒いているが、実はただの伯爵令息だなんて!
あれは本当に滑稽で、胸のすく出来事だった。
「だから、あの子は私の子なの。あの子は皇太子で、未来の皇帝なのよ。私は皇帝の母になるの。レリアは偽物なのよ!」
きゃらきゃらと、テオドラは声を上げて笑った。外に声が漏れることも、ファビアンが徐々に蒼褪めていく顔も見えていなかった。
ただ、ずっとレリアに勝ちたかった。
いつも両親の愛情を独り占めしていたレリアに。当時皇太子だったドウラーディに最初に会ったのはテオドラだったのに、要領よく立ち回って玉妃になったレリアに。
テオドラを、憐みの目で見てくるレリアに。
(やっと勝てるのに)
アドラーティが即位して、祝福に行ったその時に、自慢げにしているレリアに真実を教えてあげるつもりだったのに。
お前は偽物なのだと。本当の国母はこの私なのだと。
その時にやっと、レリアの絶望する顔が見られると思っていたのに。
「それなのに……皇帝にならないなんて!」
「ならない!? 継承権を放棄するってことかい!?」
「レリアの子ではないと告白すると言い出したのよ。まったく愚かしいことだと思わない?」
「あ、あぁ……本当に……」
素っ頓狂な声を上げるファビアンに、テオドラは猫撫で声で同意を求めた。
ファビアンはまだ三十歳手前と若いからか、時折胆の据わっていない反応をすることがある。だが年の離れた夫への反動からか、そこがまた可愛らしくて気に入っていた。
すっかり黙ってしまった年下の愛人に、テオドラはゆっくりとしなだれかかった。アドラーティの前で一度は直した羽織を、再び肩から落とす。
その手を、熱いくらいの手で握られた。
「な、なぁ。こういう可能性もあるんじゃないか?」
「なぁに?」
テオドラは、逞しい胸の向こうから聞こえる心音にうっとりと耳を澄ませながら、相槌を打つ。
言いたいことを吐き出して、テオドラは随分すっきりしていた。愚かな息子の愚痴も妹への恨み辛みもまだまだ山とあるが、今すべきはファビアンの腕の中で体温を分け合うことだけだ。
ファビアンも当然そうだろうと思っていたから、続いた言葉がすぐには理解できなかった。
「君が、玉妃に成り代わるのさ」
「……どういうこと?」
委ねていた身を起こし、すぐ上にある男の顔を見上げる。笑っているのに目を見開いているような、奇妙な表情だった。
「君たちは双子のようにそっくりじゃないか。妹を亡き者にして、君が玉妃になっても、誰も気付かないんじゃないのか?」
「まぁ。さすがにそれは気付かれるわよ」
何を言い出すのかと思ったら、あまりにも突拍子もない発想に、テオドラは笑ってしまった。どれも同じ顔に見える赤子とは訳が違うのだ。
テオドラとレリアは三歳差だが、テオドラの方が細く長身で、流し目が美しい。遠目には誤魔化せても、近付けば近しい者は皆気付く。
しかし、珍しくファビアンの提案は続いた。
「だ、だったら、第三皇子を先に殺してしまってはどうだろう? そうすれば、皇太子も馬鹿な真似はしなくなるかもしれないよ」
ファビアンは名案だというように勢い付いた。
いつもテオドラの愚痴を聞いて二、三慰めたら、すぐに終わってしまうのに、珍しいものだ。こんなに具体的な提案をされたのは、もしかしたら初めてではないだろうか。
どうしたのだろうかと思いながら、一方でそれはそこまで非現実的ではないかもしれないと、ちらりと思う。
たとえば、第三皇子の殺害を第二皇子の仕業にみせかければ、アドラーティは復讐のために皇位に就くと言うかもしれない。少なくとも、大事な弟を殺した者の手にみすみす望むものを渡しはしないだろう。
「そう、かもしれないけれど……」
「だってこのままだと、君の息子は皇帝にならず、妹の息子が即位してしまうかもしれないんだろう? そうなったら、君はまた妹に……」
「そんなのは嫌よ!」
有り得る未来を提示され、テオドラは鳥肌が立った。自分は息子を失うのに、妹は稀代の青の王子の横に立って得意気に笑っている。
そんな未来は、たとえラティオ侯爵家が滅んだとしてもあってはならない。
「そんなの……冗談じゃないわ!」
「そうだろう? でも何もしなければ、いずれそうなる」
「でも、殺すなんて……」
「じゃ、じゃあ、例えば第二皇子に皇位をくれてやるのはどうだろう? 妹が国母になるくらいなら、その方がまだましじゃないかい?」
「……そう、ね。その通りだわ」
ウィーヌム州第一の都市といえども帝国の一地方で平凡に暮らしてきたテオドラにとって、殺人などは別世界の話だ。第三皇子を殺す方法も、その罪を第二皇子に被せる方法も、見当もつかない。
それよりも、第二皇子に接触して協力するくらいなら、社交界の延長で出来そうな気がする。
しかし、ラティオ侯爵の娘であるテオドラに、敵対するフィデス侯爵家との繋がりはない。
結局具体的なことは何も分からず、テオドラは上目遣いでファビアンを見遣った。
「でも、それってどうすれば良いのかしら?」
「実は、君に嫌われたくなくて黙っていたけど……僕は幾代か辿ればフィデス侯爵家の遠縁なんだ」
「まぁ! そうなの?」
それは初耳だった。
フィデス侯爵家は西隣の州長官でもあり、地理的には近いが、その分州境には緊張感がある。特にフィデス家所縁の人間には、厳しく目を光らせていると思ったのだが。
「だから、僕が取り持つよ。それで、皇太子の秘密を知ってるって伝えるんだ。そうすれば……!」
ファビアンが、優しげな目元に熱を込めて言葉を繰る。握られたままの手が酷く熱くて、微かに震えているようで、あぁ、自分と同じだとテオドラは益々嬉しくなった。
「完璧だ……!」
感極まった声でそう結ぶ情夫に、テオドラもまた満足げに頷いた。
「えぇ。完璧ね」




