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第64話 平行線の水掛け論

 叩扉もなく現れたのは、ごてごてしい装飾がされた杖をついた、六十歳をとうに過ぎた老人だった。

 額と眉間には刻み過ぎて取れなくなった皺が目立ち、薄くなってきた髪も眉もほとんどが白い。唯一濃褐色(ブラウン)の瞳だけが往時の鋭さを残して野心的だが、そのせいで全体的に老獪という印象が強い。テオドラはともかく、レリア玉妃とは似ても似つかない。


(時間切れ、か)


 ダヴィドがどんなに引き延ばしてくれても、この男ならばアドラーティが来たと聞いた瞬間、不自由な足もものともせず飛んでくるのは分かっていた。

 ラティオ侯爵ルードゥス。この城館の主を止められる者など、ここにはいない。


「……お父様」


 テオドラが、ふらりとアドラーティから離れて歩み寄る。そしていじめられた子供が助けを求めるように泣きついた。


「お父様! アディを止めてくださいな! 皇帝になる気がないなどと言い出したのです!」

「……聞き捨てならんな」


 ルードゥスが、娘の嘆きに応えるようにアドラーティを睨む。往年よりも背は低くなったが、その濃褐色の双眸に宿る眼光の鋭さは健在のようだ。

 だがその矛先は、アドラーティを糾弾する前にすっと手前に戻された。


「だがそれよりも、先程の言葉は何だ?」

「まぁ……、先程って、何のこと?」


 父のどすの利いた詮議に、しかしテオドラは純真な眼差しでそう返した。

 まるで罪など何も知らないというようなその顔に、アドラーティは吐き気がした。ルードゥスへの説明は、絶対に受け入れるよう順を追って利を諭すつもりだったが、もういい。

 アドラーティは意識的に精一杯苛立ちを抑えながら、口を開いた。


「……取り替えたんですよ。は――」


 母上、とは言えなくて、アドラーティは寸前で言葉を変えた。


「レリア玉妃の長男が青眼でなかったことをいいことに、テオドラが自分の子供と入れ替えたのです」

「……まさか、そんな」


 躊躇のない告白に、さすがのルードゥスも色を失くしていた。アドラーティとテオドラを確認するように交互に凝視し、それから記憶を探るように呟く。

 しかしその皺の寄った口から零されたのは、拍子抜けするような内容だった。


「だが、テオドラ(おまえ)の子供は、娘が一人しか……」


 子供など政治の道具としか見ていない男には、死んでしまった孫のことを覚えておく隙間などないらしい。

 アドラーティは呆れを滲ませながら補足した。


「一歳で夭逝した男児がいたでしょう。レリア玉妃と同時期に里帰りしていた時ですよ」

「! あの……?」

「そんなこと、どうでもいいではありませんか」


 やっと思い出したらしいルードゥスを、しかしテオドラがむずがるように遮った。


「そんなことだと?」

「それよりも、アディが皇帝にならないのであれば、次は令妃の皇子ですよ。そうなったら、ラティオ家は終わりですわ」

「……うむ」


 それは、ルードゥスにとって最も重大なことだった。

 ラティオ侯爵家は、近年ではルードゥスの父の代が最も隆盛しており、以降その発言力を徐々に落としていた。ルードゥスにはそれが何よりも許せず、特に長い間力が拮抗していたはずのフィデス侯爵家に負けることを、何より危惧していた。

 だがそれもアドラーティとフェルゼリォンの存在により、やっと外戚としての発言力を取り戻せる未来がすぐ目前まで来ていた。

 それを根本から瓦解させようとするアドラーティの存在と考え方は、テオドラの発言よりも余程危険視すべきものだった。


「ねぇ、お父様? アディを皇帝に出来なければ、お父様の夢は潰えたも同然でしょう?」


 テオドラが、全て承知しているように祖父の思考を後押しする。こうなれば、しかめ面をしたルードゥスの出す答えも分かりきっていた。


「その通りだ」

「だから、一緒にアディを説得してくださいな?」

「…………」


 テオドラの年甲斐もないおねだりに、ルードゥスの目が導かれるようにアドラーティを睨む。

 予期した通りの展開に、アドラーティは頭痛すら覚え始めた。


「俺が即位して、フェルゼリォンを皇太子にしてって、それを何年以内に行うつもりですか」


 堪えきれない嘆息とともに、愚かな父娘を睨む。


「陛下はまだまだご健勝で、祖父上はたかが風邪に折角の社交の場を逃す体たらく……。あなたが生きている間に、そこまで都合良く進むとは思えませんが」


 ルードゥスは今年で確か六十六歳のはずだ。隠居して暮らす分にはまだ良いが、昔から足が悪く、最近は体調を崩すことも増えてきた。

 たとえ企みが成功したとしても、その頃には自分で歩くこともままならなくなるかもしれない。そしてその時に跡を継ぐのは、出世欲と一番縁遠そうな胃痛持ちの叔父ニックスだけだ。

 しかし、ルードゥスは構わず首を横に振った。


乃公わしが生きているかなど関係ない。乃公の代でラティオ侯爵家が零落することが、あってはならんのだ」

「栄枯盛衰は世の習いです」

「御託は要らん」

無辜むこの民を騙すことに、何の呵責も罪悪も感じないのですか」

「? お前は皇太子のくせに、価値のあるものとないものの区別もつかんのか」


 そう言うルードゥスの目には、心底下らないものを見る冷たさしかなかった。


(これが、六侯爵の一人とは)


 今更ながら、アドラーティは落胆を禁じ得なかった。随分会ってはいなかったが、結局祖父も宮廷で会う貴族と何も変わらない。民の安寧よりも自己の保身と栄華ばかりを考えている、詰まらない存在だった。


(説得しようなど、愚かな考えか……)


 一抹の期待を抱いていた数分前までの自分を罵りたい。話し合いなどに時間を浪費せず、開口一番脅していれば良かった。


「何と言われようと、俺が皇位を継ぐことはありませんよ。そして俺が皇位継承権を放棄すると聞けば、リッテラートゥスは喜んで俺に手を貸すでしょう」

「……脅す気か」

「価値あるものの区別をつけているだけです」


 ルードゥスの低まった声に、アドラーティは宮廷で見せていた人好きのする笑顔など一つも見せず、そう返した。

 この場で、アドラーティが失うものなど何もない。品行方正も謹厳実直も、この二人には不要だ。


「俺が言えば、フェルゼリォンに皇位継承権を放棄させることも、その逆も出来るんですよ」


 青い髪と目を持つ本当の玉妃の息子に、嫉妬しなかったかと言えば、恐らく嘘になる。無邪気にレリアに抱き着く姿はいつも苛立ちを持って見つめていたし、青髪の意味をまだ理解できない頃、兄と違うのは嫌だと言って泣いた幼い弟を突き飛ばして泣かせたこともある。

 それでも懸命に兄を慕ってくれるフェルゼリォンに罪はないし、憎む理由などそれこそなかった。

 少なくとも、表面上は。


(こんなことのために優しくしたわけじゃない、というのは……少し、白々しいか)


 フェルゼリォンがアドラーティに懐いたのは、決して意図して仕向けたものではない。

 それでも今、優しく誠実な兄の仮面で弟を優しく諭せば、フェルゼリオンはきっと受け入れる。縛られるのを心底嫌いながらも優しさを捨てきれないあの弟ならば、アドラーティの苦悩を知り、全てを穏便に解決するためと言えば、きっと。

 弟の心を操っていると言われても構わない。利用できるのならば、アドラーティは利用すると決めたのだ。

 しかしこれに、ルードゥスよりもテオドラが激しく反発した。


「そんなのはダメよ! レリアの子供なんてダメ! 私の子供じゃなきゃ意味がないじゃない!」

「お前は黙っていろ」

「お父様! ダメよ、レリアはダメ! 私のアディじゃなきゃ!」

「お前の欲などどうでもよい!」


 先程の焼き直しのように今度は父にしがみつくテオドラを、ルードゥスが容赦なく突き飛ばす。それが先程の自分とまるで同じに見えて、アドラーティは眩暈すら覚えた。アドラーティはレリアの息子ではないのに、間違いなくルードゥスの孫なのだ。


(自分のことを棚に上げて……浅ましい)


 そしてそれは自分も同じだと、嫌悪感がいよ立つ。

 アドラーティは自分の望みのために、テオドラを振り払い、ルードゥスを脅し、フェルゼリオンを騙して操ろうとしている。

 現実にはアドラーティが廃太子され、フェルゼリォンが皇太子位に就いても、フィデス侯爵家が何かしらを仕掛けてくることは火を見るよりも明らかだ。行き場を失った第一皇子派は第三皇子派に併合し、第二皇子派との対立は激化の一途を辿るだろう。そしてフェルゼリォンやその妻子は、常に暗殺の危機に晒されることになる。

 だがそれはリッテラートゥスが皇太子となっても同じことだ。リッテラートゥスの嫡男に継承権が回るよう、フェルゼリオンとその子供はゆっくりと事故死させられる。そんな一生を、フェルゼリォンは拒むに決まっている。

 それらを防ぐための第一条件として、ルードゥスにリッテラートゥスの立太子を認め、妨害しないことを暗々裏に結ばせなければならない。

 その取引材料として、王証はとても重要になる。


 ラティオ侯爵家が王証を発見したとなれば、フェルゼリォンの即位は覆しようのない確定事項になる。逆にフィデス侯爵家に渡せば、ラティオ侯爵家が権勢一位を誇ることは二度とない。

 だがリッテラートゥスは、自分が死んだ後のことに固執する性格ではない。まだ生まれていない子供にどれだけの愛情を見せるかは未知数だが、皇帝になるだけが生きる道だとは言わないだろう。

 交渉次第で均衡バランスを保つことは可能だと、アドラーティは考える。

 そのためにも、この布石は必要だった。


「加えて、もし今後フェルゼリォンが王証を見付けてきた場合も、ラティオ侯爵家は決して所有を主張しないことも、ここでお約束頂きます」

「なに?」


 ぎろりと、痩せ衰えた眼窩から鋭い眼光が放たれた。年に見合わぬ荒々しい声で食って掛かる。


「そんなことが出来るものか! あれが我が家の手柄となれば、今後どの皇帝であろうとも頭が上がらぬことは必定。そうなれば、我がラティオ侯爵家の繁栄は未来永劫約束されたも同然だ!」

「…………」


 口を開けば、欲、欲、欲。

 そこから飛び散る唾に瀝青タールのようにどろどろの欲が乗っているようで、アドラーティは知らず顔を顰めていた。頭が痛くなるほどの嫌悪感があるのだと、初めて思い知らさせた。


「祖父上……いえ、ラティオ侯爵閣下。是非、よくお考えになってください」

「考えることなどない」

「そうでしょうか」


 どこまでも頑なな老人だ。怒りと苛立ちで憎悪が沸き立つ反面、家のこと以外何も見えていない幸せな男の在りように、失笑を禁じ得ない。どんなに嫌だと言い張っても意味はないのにと、憐みさえ抱く。

 気付けば、言うつもりのなかったことまで舌に乗せていた。


「足りないようだから付け加えますが、俺は肺の病で、もう長くないようなんです。その間にリッテラートゥスを出し抜けるとは、思わない方がいいですよ」

「なに……?」

「……どういうことなの?」


 ルードゥスとテオドラが、それぞれに反応を返す。

 本当はずっと堪えていた咳をここで見せつけても良かったが、二人の前で醜態を晒すことは、アドラーティの矜持が許さなかった。

 アドラーティは、出かかった咳を無理やり飲み込んで、踵を返した。戸惑う二人を置き去りに、扉に手をかける。


「マクシム」


 そして既に前室に到着しているであろう侍従武官に向かって呼び掛ける。

 その背を、呼び止められた。


「アドラーティ」


 ルードゥスだ。険しい目を更に細くして、アドラーティを睨み据えている。そこに、死期が近いと告白した孫を思いやる祖父の面影は、毫もない。


「お前の考えなど関係ない。これは、家の問題なのだ。短命な人間種ピリトスは、そうすることでしか繁栄を築けない種族なのだ」

「繁栄が、必要ですか?」


 その愚かな料簡に、アドラーティは最後に残っていた家族への気持ちが底の底まで冷めるのを止められなかった。

 地べたを這ったこともないくせに、民草のことを考えてもいないくせに、繁栄などと語る。この男の繁栄とは国中が豊かに栄えることではない。己だけが他者を押しのけて勝利し、決して見下されず、心地よい優越感を味わうことなのだ。

 しかしルードゥスは、全ての事柄を力で捩じ伏せて思い通りにしてきた者特有の傲慢さで、これを切り捨てた。


「その不見識極まる青臭い魂胆、必ず正してやる。それまで、部屋からの一切の外出を禁ずる」


 アドラーティは今し方費やした時間の途方もない徒労感に、怒りを通り越してどうしようもない虚しさを感じるしかなかった。



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