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第63話 偽りの母と子

 時は二日前に遡る。

 レイとリォーがクァドラーに助けられていた頃、皇太子アドラーティは侍従武官マクシムだけを供に、祖父であるラティオ侯爵の居城リハ・ネラ城に到着していた。


(やはりテグルム街道経由だと時間がかかったな)


 帝都ウルビスからエルゴンに向かうには、北門からアーウェルサ街道を北上するのが距離としては近い。だがそちらは北に広がるプリュト大森林を避ける形で、一旦フィデス侯爵家が州長官を務めるユウェニス州に入らなければならない。

 玉妃宮での襲撃のこともあり、アドラーティは遠回りを承知でテグルム街道を駆けてきた。

 主要街道沿いには、国からの援助を受けた貸馬屋が一定間隔で店を構えている。馬を乗り潰すことなく遠慮なく速度を出せた。お陰で馬車では一週間以上かかる道程も、随分短縮できた。


「アドラーティ殿下。お待ちしておりました」

「ダヴィド。急に訪ねて悪かった」

「いいえ。殿下のお越しはいつでも心より歓迎致します」


 黄昏迫る夕闇の中からの訪問にも、執事のダヴィドは昔と変わらぬ態度で出迎えてくれた。

 祖父の不意を突きたかったこともあり、今回は先触れなどは一切出していない。

 それでも待っていたというのであれば、理由は一つしかない。


「その口振りでは、あの方はもう見えているな?」

「はい。鹿の間にてお待ちです」

「すぐ向かう。誰も近付けるな。……と言いたいところだが、お前の有能さは承知している」

「……ご高慮、痛み入ります」


 苦笑と諦念で言葉を付け足すアドラーティに、ダヴィドが下げていた頭を更に深くする。

 ダヴィドはラティオ侯爵ルードゥスの執事だ。当主に秘密にしろなど、まずもって不可能な頼みと言えた。

 ダヴィドの采配にもよるが、二人きりで話せる時間は、そう長くないはだろう。


「マクシム。馬を繋いだら鹿の間の前室にて待て」

「その前に、傷の手当てをなさっては」


 背後で二頭の馬の手綱を持っていた侍従武官を肩越しに振り返ると、険しい顔を返された。

 確かに、玉妃宮でハィニエル派の襲撃を受けた時、アドラーティは左腕を負傷していた。だが簡易ながら治療は昨夜のうちに済ませたし、そもそも彫言のお陰で傷も浅かった。ここまで自力で馬を操ってきたのに、今さらな心配だ。


「既に血は止まっている。平気だ」

「……御意」


 マクシムが、渋々というように頷く。それを苦笑と共に見つめて、アドラーティは城内に足を踏み入れた。


(まぁ、本当は体の方が心配なんだろうが)


 喀血は、この二日の道中にも数度あった。薬は飲んだが、症状を抑えているに過ぎない。今ここで問答をしても時間を浪費するだけだと、マクシムも分かっているのだろう。

 何より、これからする話に比べれば、体調のことなど些事だ。


(手紙を、誰にも見せていないといいが)


 ダヴィドに先導されて赤絨毯の廊下を進みながら、アドラーティは内密に手紙を出した相手のことを考えていた。

 重要な話があるとリハ・ネラ城に呼び出したものの、アドラーティは相手のことを大して知っているわけではなかった。素性などは調べれば分かるが、その人となりの把握までは難しい。

 ただ、苦手だという意識だけが根強く残っている。

 扉を開けた先に待つのがどんな表情か、アドラーティは気鬱な思いで身構えた。

 そして。


「テオドラ様。アドラーティ殿下がお越しにございます」


 丁寧な叩扉とともに、ダヴィドが扉に向かって低頭する。その十数秒後、扉を開けて顔を見せたのは、


「……誰だ?」


 知らない男だった。癖毛か寝癖が判別できない焦げ茶色の髪に、流し目が特徴的な優男で、マクシムよりも少し年上といったところだろうか。色気のある男だが、明らかにこの場に不似合いだ。

 アドラーティが思わず上げた声に、ダヴィドがそっと耳打ちする。


「テオドラ様のお連れ様でございます」

「…………」


 望みは絶たれた、とアドラーティはその言葉を聞いて思った。

 そこに、やっと目的の人物が姿を現した。


「ファビアン? どうしたの?」


 だらしなく乱れた襟元を薄い羽織で隠してそう声を上げたのは、四十路過ぎの女だった。白い肌と細い体躯は実年齢よりも若く見えるが、明るい栗色の髪は乱れ、淡褐色ヘーゼルの瞳はどこか眠たげだ。

 この女が、テオドラ。

 ラティオ侯爵の第一子で、レリア玉妃の姉であり、アドラーティからは伯母にあたる。嫁ぎ先はウィーヌム州内第一の都市を統べる土豪だが、姉妹で帰省の時期を合わせるなどして数回の面識がある。

 今回わざわざ手紙で呼び出した相手だ。


(少しも似ていないな)


 妹である母と無意識に比較して、そんな感想を零す。少しずつ込み上げ続ける嫌悪感は、どうにか押し隠した。


「あぁ、お客様だよ。なんと、あの」

「ダヴィド」


 背後からの声に軽く答えようとした男を遮って、アドラーティは隣に影のように控える執事に呼びかけた。


「こちらの方にお茶を用意して差し上げてくれ」

「かしこまりました」

「終わったら呼ぶ」

「え? なに?」


 摘まみ出せ、というアドラーティの指示に、ダヴィドが恭しく男を別室に案内する。男はまるで状況が読めないようで、困ったように笑ったまま姿を消した。

 パタン、と背後で扉が静かに閉まる。

 途端、テオドラがにこにことアドラーティに抱き付いてきた。


「まぁ、アディ! 久しぶりだこと! ずっと会いたかったの――」


 当たり前のように首に回ってきた腕を、アドラーティは無表情にはたき落としていた。

 テオドラが、ぱちくりと自分の両手とアドラーティとを見やる。それから、四十歳を過ぎてるとは思えないあどけなさで、にっこりと笑った。


「そんなに怖い顔をしてどうしたの? アディも会いたかったのでしょう? だって手紙をくれたじゃあないの。私、とぉっても嬉しかったのよ?」

「…………」


 懲りずに、テオドラがアドラーティの手を取ろうと距離を詰める。

 生理的に、アドラーティは後ずさっていた。


(……無理だ)


 この女は昔からそうだった。一児の母だというのにいつまでも少女のようにあどけなくて、世間知らずで、気が利かず、他人の感情に鈍い。

 祖父もそうだが、それ以上にこの女に会いたくなくて、アドラーティはラティオ侯爵領に近付かなかったのだ。


「アディ? どうしたの? 私のアディ」

「……ッ」


 テオドラが執拗に手を伸ばす。その仕草がどこか母親というよりも女の気配が強くて、アドラーティは眉間にきつく皺を刻んでいた。


「……伯母上。今日は大事な話があると記したはずです」


 逃げるように場所を移動し、テオドラから距離を取る。用件を済ませて一刻も早くこの場から立ち去りたいと、強く願いながら。

 しかしその願いも空しく、テオドラはわざわざ追いかけてきて、情婦のようにアドラーティの右腕にしなだれかかった。


「そんなよそよそしい呼び方はよして。誰もいない時には……『お母様』と呼んでと、言ったでしょう?」

「……触るな!」


 その上目遣いの仕草と言葉にゾッとして、アドラーティはついに堪え切れずテオドラを突き飛ばしていた。


「お前が母親なものか! 俺の母上は、……ッ」


 鳥肌の立った腕を取り戻して叫ぶ。けれど言葉は、最後まで言い切ることは出来なかった。

 十四年前、この城の庭で囁かれた声が、呪いのように脳裏に蘇る。


『可愛いかわいい私の子。この目の色も目元も、とぉってもそっくり。レリアなんかとは、少しも似ていないわぁ』


 くすくす、くすくすと。その女は笑っていた。

 夏だった。母と弟と、一歳になったばかりの妹と共に、短い避暑に来ていた時のことだ。

 妹家族が来るならと、テオドラも一人で実家に帰ってきていた。そこで、アドラーティはテオドラに会った。物心ついてからは、それが初めてのことだった。

 テオドラは何故か他の兄妹には目もくれず、アドラーティだけを見詰めていた。レテ宮殿で常に感じる、皇太子に取り入ろうとするようなものとも違う。妙なのはそれだけでなく、誰もが興味津々で眺めるフェルゼリオンの青い髪にも触れず、よちよち歩きを始めた愛らしいカーランシェを抱こうとすらしなかった。

 それが幼心に怖くて、なるべく近寄らないようにしていたのに。


『アドラーティ殿下。私も、アディって呼んで良いかしら?』


 入道雲が高く厚く立ち上る盛夏だった。蝉が煩く鳴き続ける中、汗を流しながら薔薇園でメノンとかくれんぼうをしていたアドラーティの後ろに、いつの間にかテオドラが立っていた。

 太陽を背にして立つテオドラの顔は濃い影に潰れ、アドラーティは困惑して返事が出来なかった。本当は嫌だと言いたかったけれど、アドラーティには常に大人の顔色を窺う癖がついていた。それに相手は母の姉だ。失礼があってはいけない。

 返事をしないアドラーティに、しかしテオドラは怒るでもなく更に顔を寄せてきた。そしてまだ細かった子供の腕を痛いくらいの力で掴むと、特別な秘密を教えてあげると囁いた。


『あなたは、本当は私の子なの。レリアの子供とあなたを、私が取り替えてあげたのよ』


 吐息混じりに耳元でそれだけを囁くと、テオドラはすぐに去っていった。メノンが探しに来たからだ。

 だから、その時は、意味が分からない、ただそれだけだった。それからアドラーティは二度とテオドラに近付かなかったし、逆もまたそうだった。

 だがその後、テオドラには夭逝した子供がいて、生まれた日がアドラーティと近かったという話を知り、急に怖くなった。


『……テオドラ伯母さまって、どんな方なの?』

『覚えてないわよね。あなたを出産する時に里帰りをしていて、丁度テオドラもまだリハ・ネラ城に滞在していたの。だから、本当は赤ん坊の時にもう会っているのよ』


 アドラーティの問いに、母は笑って思い出話を語ってくれた。アドラーティは震えて逃げ出した。

 アドラーティは物心ついた頃から、青い目を持たない自分に酷い劣等感を持っていた。八歳の頃には、過去の王族たちの肖像画や歴史書を紐解いては、青い目を持たない皇族の数を数えたりもしていた。

 皇太子でも皇帝でも、青い目を持たなくても、立派な人物はちゃんといたと自分を鼓舞するために。

 だが、答えはまるで違うところにあった。


(俺は……父上の子でも、ましてや母上の子ですらなかった)


 だというのに、アドラーティは当然のように立太子し、二十二歳になった今も平然と皇太子の座に収まっている。

 恐ろしいことだった。

 自分は父母だけでなく、国民全員を騙している。ハィニエル派から襲撃を受けるたび、自分の出自がついにばれたのではと愚者のように怯えた。

 だがアドラーティはいまだに皇太子で、その上今まさに王証までもが揃おうとしている。


(意気地なしめ……!)


 弟の真っ直ぐな好意を、ついにアドラーティは受け止められなかった。

 懸念を排除すると言い訳して、フェルゼリォンが持ち帰った王証を受け取らなかったのも、最悪の事態を少しでも遅らせようとしただけだ。

 逃げたのだ。

 フェルゼリォンは皇位を嫌っているから、決して自分の手柄にはしないだろう。そして父に報告しようものなら、アドラーティは確実に皇位を継ぐ羽目になる。

 そうなれば、全てが終わる。

 神の血を受け継いでいないアドラーティが玉座に収まれば、一体どんな災厄がこの国に襲いかかるのか。

 魔王討伐は異例中の異例で、神々が人の世に関与することは決してないと、頭では分かっている。たかが一種族の、たかが島の一部を治める王の血筋など、神々には些事だ。正しいまつりごとを行い、民の声を聞き、賢君たれば、災厄など起きない。

 だがその異例により遣わされた二柱の神々が特別な恩寵を受けたこともまた、目の背けようもない事実。それを偽ることでついに逆鱗に触れるのではないかと、一生怯え続けることもまた自明であった。

 そうなる前に、アドラーティは最も穏便な方法で回避しなければならない。

 真実を、血を、正さなくてはならない。


 王証発見の報を既にネストルに握られていたのは誤算だが、リッテラートゥス相手ならば、まだ交渉の余地はある。

 人質とされた侍従文官メノンのためにも、一刻も早くケリを付けて、帝都に戻らなければならない。

 そのためにも、こんなところで頭のおかしい女相手にたじろいでいる時間はないのだ。


「俺は……サトゥヌスの血を引いていないことを、陛下に告白します」


 アドラーティはずっと考えていたことを、ついに口に出した。

 ドウラーディ二世がこの先もずっと健勝で、王証も発見されず、アドラーティが先に息を引き取るのであれば言わずに済むのにと思っていたことを、ついに。

 そして、眼前の女は案の定金切り声を上げた。


「ダメよ! いけません! そんなことをしたらどうなると思っているの!?」

「あなたも俺も、反逆罪で処刑でしょう。……遅すぎたくらいだ」


 みっともなく縋ろうとするテオドラを振り払って、アドラーティは当然の答えを口にする。皇帝をたばかっていた上、皇帝の本当の子供を誘拐した上でみすみす殺しているのだ。死罪は免れない。

 だがこれが、最も平和的で穏便な方法なのだ。テオドラを引きずってでも皇帝の前に連れていき、アドラーティの出生について明らかにし、処罰を求める。そうしなければアドラーティは、皇帝はもとよりフェルゼリオンの前にも、王証の前にすら立てない。

 しかし、そんな正論でテオドラが引き下がるはずもなかった。


「あなたは皇帝になるのよ! レリアの子供ではなく、私の子供が! そうでなくてはいけないのよ!」

「……ッ、だから、それが……!」


 なおも食い下がるテオドラに、アドラーティが顔をしかめて辛うじて怒声を飲み込んだ時だった。



「……どういうことだ?」



 扉が開くと同時に、険しい声が室内に割り込んだ。



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