第60話 それは誰の罪か
廊下の途中で追い付くと、リォーがエストに幾つかの質問をしているところだった。
「当主は不在と聞いたが、他に男手や使用人はいないのか?」
「若旦那様――当主の御嫡男がいらっしゃいますが、やはり夕方まで仕事にて不在にしております。使用人についてですが……」
そこでエストは顔を曇らせたが、すぐに毅然とした表情を取り戻した。
「一通り部屋を見て回りましたが、それらしき遺体はございませんでした。持ち去られたか、逃げたか、今の時点では不明でございます」
「……悪いことを聞いた」
「いえ。お気になさりませぬよう」
リォーの気遣いにも、エストは感情を見せずにそう片付けた。
こんな隠れるように建てられた屋敷の使用人となれば、それ程人手があるとも思えない。少人数か、もしくは身内の可能性もある。その姿が見えないとなれば、不安は計り知れないだろうに。
(ハルウ、なんで……こんな酷いこと……!)
時間が経てば経つほど、兄とも慕っていたハルウの凶行の残酷さに身の毛がいよ立った。
クァドラーとの関係を話してから姿が見えないとは思っていた。けれど、まさかこんなことになるとは、思ってもみなかった。
悩んでいたのか、怒っていたのか。それさえも分からない。悩んで思い詰めていたのなら、話を聞いてあげれば良かったと、今更ながらに思う。遅すぎる後悔だ。レイ自身に余裕がなかったことと、ハルウがいつも通り飄々としながら辛い顔を見せなかったことで、無意識に後回しにしてしまった。そこに悪意がなくとも、そういった対応が相手を閉鎖的にさせてしまうと、レイは知っていたのに。
だが話してくれればと思う一方で、どんな理由を説明されてもとてもハルウを許す気にはなれそうもなかった。
「こちらをお使いくださいませ」
エストの声に、レイは詮無い思案から現実に引き戻された。
顔を上げれば、年代物の暖炉が中央に据えられた応接室らしき部屋が目の前にあった。
リォーがクァドラーをソファに促して、レイも隣の椅子に腰を下ろす。
それを確認してから、リォーが声を上げた。
「レイ。俺はカーラを呼んでくる」
「外で待たせてるの?」
「あぁ」
頷いて、リォーが踵を返す。
すると残されたレイにはするべきことがなくなって、代わりのように訪れた沈黙に押し潰されそうになった。だが、ここで押し黙っているわけにもいかない。
エストはクァドラーを見ているべきか、外の様子を見に行くべきかで迷っているようだが、その前にレイはこの二人にだけでも、まずは謝らなければならない。
「……あ、あの」
震える声を、どうにか押し出す。思った以上に声が出なかったが、クァドラーとエストが同時にレイを見たので、冷や汗を感じながら続きを絞り出した。
「こんな……こんな酷いことになって、本当にごめんなさい。皆さんを襲ったのは、私の……従者、で」
どんな存在なのかと、考えるだけで胸が苦しくなった。クァドラーの表情は変わらないが、エストが僅かに俯いたことで益々レイは辛くなった。
「どんな謝罪をしても償いきれるものではないって、分かってます。でも、あの、本当に……ごめんなさい。この罪は、どんなことをしてでも」
「レイ」
償うから、と言葉にする前に、ヴァルに止められた。泣きそうな顔でそちらを見るが、言いたいことは分かっている。
レイはプレブラント聖国の第二王女だが、権限など何もない。自分の身柄でさえ、自分の自由にはならない立場だ。何でもすると約束して、女王や斎王に迷惑をかけるわけにはいかない。
「……とは、言えないけど、でも、……ごめんさない」
無力さと惨めさで、レイはついに涙で視界が濁ってきた。自分は加害者で、被害者の前で泣くなど言語道断だと分かっている。それでも、この虚しさは止めようもなかった。
だというのに、エストは気丈にも首を横に振った。
「かぞ――使用人についての被害は、もしかしたらなかったかもしれません。奥様方については……覚悟なされていたことでした。わたくしめへの謝罪は不要にございます」
「そんな……」
覚悟や楽観の一言で片付けられるようなものではないことくらい、レイにだって分かる。だがそこに、これ以上謝罪を受け入れてもらえる隙がないこともまた、分かってしまった。これ以上食い下がれば、きっとエストは憎悪に顔を歪めて「やめてくれ」と言うだろう。そんな真似をさせてはいけない。
あまりにも情けない気持ちを持て余して、レイは隣のクァドラーを振り返った。
「クァドさんも……本当にごめんなさい」
「わたし? に、何故謝るのですか?」
しかし、クァドラーは驚いたように自分を指さした。
その問い返しに、レイの方こそ驚いた。
先程の惨劇があった部屋で見た、二人の女性の遺体。そのどちらかは、年齢的に考えてクァドラーの実母ではないかと思ったのだが、違ったのだろうか。
「だって……お母様、じゃあ……?」
「……ああ!」
レイのおずおずとした確認に、クァドラーはぽんと両手を合わせた。
「そうでした。そういうことになりますよね」
「……っ」
言われて初めて気が付いたとでも言うように、うんうんと頷く。それは、屋敷に男物がないと気付いた時と全く同じ温度だった。
だからこそ、余計に悲しい。クァドラーにとっては、親と実感できるものなど何一つなかったのだと分かってしまって。
「……クァドさんって、これからどうなるんですか?」
こんな時に言ってはならないと分かっていながら、堪えきれずに聞いてしまった。
痛ましい顔をしていたエストが、ついに眉根に深い皺を刻んで、瞳を背けた。
「山の上の屋敷が機能するなら……戻って頂くか、無理なら修復が済むまでこちらでしばらく暮らして頂くことになると、思います」
「それよりも、気になることがあるのですけど」
しかし続いたのは、エストの沈んだ声調とは正反対の、あっけらかんとしたクァドラーの声だった。今後一生幽閉されるかどうかの瀬戸際だというのに、まるで興味がないとでもいうように勝手に話柄を変えてくる。
エストは明らかに戸惑っていたが、クァドラーは気にせず続けた。
「あの赤ん坊って、どうするのですか?」
「…………」
クァドラーが発言するたびに、エストの表情がどんどん辛そうなものになっていく。それはエストがクァドラーをただの忌まわしい存在と見ているわけではないことの証左ではあったが、だとするとなおさら哀れだった。
「本当に女児であれば、乳離れする頃に、山の上の屋敷に連れていくことになると、思います」
「そうですか。では、わたしも自室に戻りますです」
「えっ」
突然の承諾に、レイだけでなくエストまでも瞠目した。
「い、いいんですか? だって、折角出られたのに……」
「えぇ。出てみたはいいけど、あまり変わり映えもしないようだし」
それはまだ山から出ていないからではとレイは思ったが、口には出せなかった。
ここで食い下がって山の外にどんなものがあるかを熱弁することはできるが、それが本当にクァドラーの望みなのか分からなくなったのだ。そもそもクァドラー自身からは、一度も外に出たいといった類の発言を聞いていないではないか。
レイだけが、一方的に自分に重ねて、熱くなっていた。
「それに」
と、落ち込むレイを励ますように、クァドラーが先を続ける。
「元はといえば、わたしのせいなので」
「……何が、ですか?」
「エストさん、でしたか? が刺されたのは、わたしが鋏を持っていたからなのです」
突然の告白に、レイはすぐには意味を飲み込めなかった。
代わりに、映像が閃光のように脳裏に点滅した。エストを刺した鋏。布の裁断に使う大きな刃が、全て鮮血に染まった鋏。それを握る、ハルウの右手。
「ッ」
レイは衝動的に椅子から立ち上がっていた。様々な感情が一気に弾けて、体が震えた。それが怒りなのか後悔なのか恐怖なのかさえ判然としない。
ただ、確かなことが一つだけあった。
(私に、責めらるわけがない……)
外に出ようと、曖昧で無責任な希望をちらつかせたのはレイ自身だ。クァドラーはそんなことを望んでいなかったもしれないのに、レイの言葉により実現可能な方法を考えてしまった。邪魔なのは使者だけで、それを排除してしまえば、レイにはクァドラーを外に出す力があると。
罪と言うならば、それこそが罪だ。
しかしクァドラーは思い止まった。彼女の意思の力で。
だというのに、ハルウがそれを横から踏みにじって、彼女の罪を作ってしまった。
「それは……クァドさんのせいじゃない」
レイは、喘ぐようにそれだけ言うのが精一杯だった。まるで自分の周りだけ空気が薄くなったかのように、上手く呼吸ができない。
そんなレイを憐憫の眼差しで見上げて、クァドラーはいつもの顔で笑った。
「そうです? でも、本当の理由はそれじゃないのです」
「え?」
「わたし、誰の負傷も、死も、悲しくないのですよ。悪いなぁとは、思いますですけど」
「……っ」
少しだけ困ったように眉尻を下げるクァドラーに、レイはかける言葉がすぐには出てこなかった。
実の母や祖母の死を悲しめないのは、クァドラーのせいではない。共に暮らすどころか、接した記憶すらない相手に、血が繋がっているからという理由だけで好感情を抱けるものではない。
「でも、それはクァドラーさんのせいじゃ……」
「そんな女は、やはり外に出るべきではないなぁって気付いたのです」
「そ、そんなこと……!」
「それに」
まるで優しい否定は受ける資格がないというように、レイの言葉を遮ってクァドラーが語を繋ぐ。
遮って、クァドラーがどこか晴れがましく語を繋ぐ。
だがレイがそう続ける前に、クァドラーはふるふると首を横に振って「それに」と語を繋いだ。
「赤ん坊がくるのなら、育てる者が必要でしょう?」
「クァドさん……」
にっこりと、クァドラーがほのかに頬を染めて微笑む。
その晴れがましい笑顔はまるで生まれて初めての宝物を貰ったかのように純粋で屈託がなくて、レイはそれ以上何も言えなくなったしまった。だって、それがクァドラーが初めて見せた心からの笑顔だと分かってしまったから。
何より、それを聞いていたエストが、ついに瞳をきつく閉じて背を向けてしまったから。
レイにできることなど、やはり、何もなかった。




