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第58話 決別の分水嶺

(…………え?)


 レイは、突然何も見えなくなって、何度も目を瞬いた。否、自分の両手は見えている。違和感があるほどにはっきりと。だから暗闇ではない。でも、何も見えない。


(違う……何もない……?)


 次にそう気付いたが、見えないのは同じなので、結局確信が持てない。

 ただ、近く遠く、泣き声だけは続いていた。


 おぎゃぁおぎゃあ、えーんえーん……


 助けなきゃ、とそればかりを思って焦っていた。

 あの女児も、母親も、どちらも守らなければ。どちらが欠けてもダメなのだ。何の罪もないまっさらな赤子のためにも、女児が生まれたと知られては取り上げられるからと、秘密を抱えることを決めた彼女のためにも。

 彼女の愛が、彼女の娘にちゃんと辿り着くために。


 えーん……えーん……


 レイは暗闇の中を手探りで、泣き声のする方へと歩いた。

 助けなきゃ、助けなきゃ。そればかりを考えて。けれど体が重かった。まるで水中を掻き進むように、思ったように進まない。

 けれど、泣き声の主は、まもなく見つけることが出来た。

 闇の中にあってなお昏い深淵。今までの闇と違って、近付くことさえ躊躇われるようなつつ闇の真ん中に、その小さな男の子はいた。

 膝を抱え、顔を伏せて、声を押し殺して泣いている。

 最初、それが自分のように、レイは錯覚した。聖砦で、王宮で、居場所もなく震えるしかなかったいつかの自分。

 けれどそれが男の子のだと、レイは何故か分かった。

 孤独な男の子。誰とも並び立てない、取り合う手のない、寂しいばかりの男の子。

 レイは刹那にして胸が掻き毟られるほどの苦しみを覚えた。今すぐ抱きしめてあげたい、とさえ思った。

 重い足を必死に動かして、男の子のもとへと向かう。早く傍にいって、独りではないのだと安心させてあげたかった。男の子の求めるものを、レイも苦しくなるほど知っているから。

 けれどその手が届く前に、突然行く手にまるで霧が立ち上るように、女の背中が現れてレイを遮った。進みの遅かった足が、ついに釘でも刺されたようにぐっとその場に縫い留められる。

 レイの全身を絶望が襲う中、目の前に現れたその女が、男の子に歩み寄った。膝を折り、男の子の横顔を覗き込む。


『坊や、どうしたの?』


 声が、その声があまりに優しくて、レイは訳もなく涙が込み上げた。

 知っている、と根拠もなく思った。

 ずっと待っていた。その声を、この時を、気が遠くなるほどずっと、狂わずにいるのが辛くなるほど、ずっと待っていた。

 けれど口から零れる言葉はまるで違っていた。

 あのね、と言葉が勝手に喉元までせり上がる。


 そこで、意識は途切れた。




       ◇




 四十番目の娘(クァドラーギンター)に男と少女が触れた瞬間、三人ともが事切れたようにその場に頽れた。


「レイ!」


 喋る黒猫が、真っ先に少女のもとに駆け付ける。その頬に前肢の肉球を押し当てて強引に揺り動かす。


「い、一体、何が……?」


 それを最も間近で見ていた次期伯爵夫人メェリタは、震えあがって後ずさっていた。赤子の泣き声は、疲れたように段々弱々しくなっている。

 元々、屋敷の人手がない夜に、エストの妻が一人助産についただけだったせいか、赤子はずっと泣き声が弱かった。それでも男児だと言われ、伯爵も、ついに父となった次期伯爵も泣いて喜んだ。

 エストもまた、五百年の呪縛からついに解き放たれたのかと、この幸福を神に感謝した。

 その、はずだったのに。


「……罰が、下ったのでしょうか」


 初めて目撃した緊急連絡用の狼煙に、気付いたのは昼過ぎだった。当主である伯爵は先日から仕事で不在にしており、そこに嫡男である次期伯爵まで外出するという時だったため、対応は余計に遅れた。

 家政全般を取り仕切る妻には、朝の仕事を終えたら屋敷に向かうから、戻ってくるまでは警戒を怠らないようにと伝えていた。何かあれば全員で固まって、いつでも逃げられるようにと。


『誰だって、あんな所に閉じ込められたくはないものさ』


 屋敷への物資搬入を父から引き継いだ時、気を付ける幾つかのこととともに、そんな声を拾った。常に穏やかで愚痴をこぼすのも聞いたことのない父の言葉に、エストはあの屋敷に赴くときには常に気を張るようになった。

 もしかしたら、いつか刺されるかもしれないと。それが、今日なのかもしれないとさえ思って向かったのに。


(まさか、ここまでの事態になるとは)


 想像もしていなかった。いつか報いがあるとしても、どうか自分だけにと、願っていたのに。

 それが時が来てみれば、ずっと無体を強いてきた自分が生き残り、罪に苦しんできたロサとマレが惨たらしく殺されてしまった。こうならないために、代々の執事だけがあの屋敷に接触してきたというのに。


(だが、若奥様はまだご無事だ)


 メェリタさえ生きていれば、ライルード伯爵家の血はまた繋ぐことができる。それが誰もが望むところかどうかは別にして。

 とにもかくにも、今はメェリタと赤子の無事だ。

 刺されたらしい傷は神法士に治癒を施してもらったと説明は受けたが、失血や尾を引く鈍痛のせいで体の動きは鈍い。それでも無理やり伸ばした手は、空を切った。あちこちに返り血を浴びたメェリタが、エストからも尻をずって逃げたのだ。


「違う……違うのよ! お願いエスト、この子を取り上げないで! 屋敷にやらないで!」

「…………」


 未来の伯爵夫人の懇願を、しかしエストは聞き入れることはできそうになかった。

 エストは、ライルード伯爵家に代々仕える忠実な執事の子として生まれた。主人の命は絶対だ。

 けれどその身には、執事の家に受け継がれた使命もまた刻み込まれていた。

 ライルード伯爵家の娘は、魔を惹きつける。それは、どんなことがあっても変えられなかった。出生を隠したり、里子に出したり、男児として育てるなどあれこれと手を尽くしても、娘が生まれれば何かしらの魔が寄ってきたと、記録にはあった。


「若奥様。この件は、旦那様が戻られましたらお話致しましょう。今は」


 この男から離れましょう、と強引にでもその腕を取ろうと更に一歩踏み込んだ時だった。


「……何なんだ、今の……」


 緑髪の男が、むくりと起き上がった。眩暈を堪えるように顔を押さえている。

 その目がゆっくりと倒れたままの少女を見、クァドラーギンターを見た。その横顔に、エストは知らず戦慄した。

 当主と同じ、栗色の瞳。誰にも似ていないはずなのに、誰かに似ているような輪郭。そしてそこに宿る、人とは思えない凍えた殺意に。


「っ」


 エストは本能的に、メェリタと赤子を引っ張って背中に隠していた。この男は、エストを一度刺している。握手をするのと同じ仕草で、熱量で。

 そして十中八九、部屋の両側に無言で横たわる二人の女性――前当主の妻ロサと、現当主の妻マレ――も殺している。

 その目が、こちらを向けば終わりだ。


「若奥様、お逃げに――!」

「ハルウ」


 叫ぶ声に意図的に被せるように、声がした。中性的な、少ししゃがれた声。

 緑髪の男が、ゆっくりと視線をずらした。床に座る黒猫のような生き物を、無機質に見下ろす。その凶器のような視線をものともせず、黒猫は続けた。


「ここまでだ」


 何がここまでなのか、エストには分からなかった。男の目的がライルード伯爵家への復讐なら、メェリタも赤子も、逃れることは出来ないだろう。

 だが男の眼中に、既にそれらは入っていなかった。


「なら、奪うまでだ」


 答えよりも早く、男の手が意識のない少女に伸びる。その手の前に、黒猫が尻尾を揺らして歩み出た。紅玉のような瞳が、瞳孔を最大に広げて睨み上げる。


「いま奪ったら終わりだって、分かってるだろ。お前の望みも、何もかも」

「…………」


 一触即発だった。両者のどちらかが動けば、この屋敷くらい消し飛ぶのではという程の圧が、そこにはあった。

 しかし、それは起こらなかった。


「……知らないくせに」


 自らの手を力なく引き戻して、男がそう吐き捨てる。そこにはまだ殺意も敵意もあったが、エストには頑是ない子供の言い分のように聞こえた。

 それを黒猫は十分に分かった上で切り捨てた。


「あぁ。知りたくもないね。粋がって自分探しばかりして少しも周りをかえりみない、視野の狭い臆病者の考えることなんて」


 それは、決別の言葉だった。歩み寄ることはもうないと告げる、狭量で卑怯な大人の言葉。

 エストの胸にまで、ちくりと刺さる。

 しかし男は、傷付いた様子などは見せなかった。あるいは、ただの強がりだったかもしれないが。


「お前も結局、あの人の手駒に過ぎない」

「……それでも、いいのさ」


 ふんと挑発的に鼻を鳴らす男に、黒猫が自嘲を混ぜてそう返す。それを詰まらなそうに一瞥すると、男は手も触れずに奥の窓を破壊すると、重さを感じさせない動きでそこから飛び出した。

 誰の視線も、その行く先を追うことはなかった。




       ◆




 時は少し遡って、レイがハルウを追いかけていった直後のこと。

 リォーは、カーラが持ってきた布でクァドラーの埃をはたき、血痕を慎重に拭い取った。瓦礫に押し潰されていた足や、他にも幾つもある大小の裂傷は、傷だけなら完全に塞がり、出血も止まっている。あとはクァドラーが歩けるかどうかだが。


「クァドラーさん、起き上がれますか」


 リォーは、まだぼうっと正面――格子のない青空を見ているクァドラーに、少し強めに語り掛けた。

 栗色の目が数度瞬き、それからゆっくりとリォーに滑る。あぁ、と気の抜けたような返事をした。


「えぇ、起きられ、ます」


 痛みというよりは崩落に巻き込まれた衝撃が残っているのか、ぼんやりと頭を振る。

 その横でも、同じく体を起こした使者の男が似たような仕草をしていた。カーラは気を利かせて水も持ってきていたが、男はそれどころではなさそうだった。


「屋敷が……」


 蒼い顔で眼前の瓦礫を見上げて、それきり言葉を失ってしまった。刺されて気を失っている間に目の前の視界が随分開けたのだから、致し方はあるまい。

 リォーはカーラに下がっているよう目配せしてから、男の前に膝をついた。


「俺の連れのせいで、誠に申し訳ないことをした。傷は神法で治癒したが、大事を取ってくれ。それ以外の損害についても、相応の補償は約束する」


 正確にはレイの供だからリォーは関係ないのだが、相手はエングレンデル帝国の民だ。第三皇子として、国民を慮るのに理由は要らない。

 だが、弁償するとか、屋敷を建て直すとまでは、流石に言わなかった。

 父である皇帝がライルード伯爵家をどのように認識しているかは不明だというのもあるが、それ以上にクァドラーのような身の上の女性が今後も発生し続ける施設や慣習を助長するようなことはしたくないという思いがあった。


「だから今は気にせず体を休めて……」


 くれ、と続けるつもりだったのに、男は身を翻して立ち上がると、一目散に坂の下へと駆け出した。


「おい、待て!」


 咄嗟に制止の声を上げるが、止まるどころか振り返る気配もなかった。しかし女二人を残しては追いかけられない、と振り向くその横を、今度はクァドラーが走り抜けていった。

 男とは違いよたよたとして、怪我のせいだけでなく走り慣れていないのがよく分かる。

 リォーは一瞬止めようとしたが、すぐにカーランシェの手を引いて共に坂の下に見える建物へと向かった。

 クァドラーは古色蒼然とした館の前に辿り着くと、僅かに戸惑うようにしながら初めて見る生家を見上げていた。だがそれも数秒で、玄関扉が半開きであるのに気付くと躊躇なくその隙間に身を滑り込ませた。どうやら、男も既に中に入ったようだ。

 だがリォーは、扉の隙間から漂う微かな血臭に気付いて、否応なく足を止めた。


(あいつ……ハルウって、何なんだ?)


 リォーが抱いた印象は、レイだけが大切で、レイにだけ従うという中身のなさそうな優男だった。実際そこに嘘はないようにリォーには思えたし、逃亡中も戦い慣れている気配は感じさせなかった。逆を言えばレイ以外にはまるで興味がないとも言えるが、それはヴァルも同じことだ。

 ヴァルはレイに追いかけるなと言ったが、それは恐らくハルウがここまでのことをするだろうと見越した上での発言だったはずだ。それは畢竟ひっきょう、この屋敷の住人は見殺しにしろと言ったも同然だ。


(大事なものとそうでないものの線引きが、危ういほど明確すぎる)


 リォーは周囲を注意深く見回すと、すぐ後ろでハァハァと小さく息を切らしている妹に向き直った。


「カーラ。中に入るのは危険だ。ここで……」

「?」


 待っていろ、と言いかけて、それもまた出来ない、とリォーは口を噤んだ。

 すぐ近くに魔獣の気配はないが、ここは場所も分からない山中だ。しかも法術の外に出たことで、いつネストルがリォーたちに気付くか分からない。


(それに、ハルウの奴も)


 見境がなくなったのか、明確な目的があるのかもリォーには分からない。今までの鈍臭い様子とも違うから、行動速度も読めない。

 だがだからと言って、惨状が待っていると分かっているところに連れていくこともまた、躊躇われた。

 室内では、長剣は不利なだけだ。カーラを守れる自信は、確実ではない。


(どうする……!?)


 逡巡は長くはなかったが、リォーは決めきれなかった。

 レイの身が心配ではある。それ以外にも身を危うくする者がいるならば、助けるべきだ。だが、最も大事にすべきものは、ここに全てある。

 王証と、第三皇子じぶんの身柄と、妹。

 行くべきでない、と理性が告げる。

 その正答を、瞭然とした声が蹴飛ばした。


「フェルお兄様。今ここでわたくしを理由におねえさまを追わないのであれば、お兄様のこと、一生嫌いになります」


 カーラが、宮廷で見せる自信満々の笑みで、リォーを射抜いていた。

 非公式な晩餐や舞踏会でリォーにすり寄る貴婦人たちを、鉄壁の笑顔で蹴散らす時の高慢なまでの勝気な瞳。いつもは横から眺めていたそれが、初めてリォーに向けられている。

 それが少し驚きで、けれど不思議と気分が良かった。


「……お前、俺の前では結構猫被っていたな?」


 苦笑と共に、遅すぎる名推理を突き付ける。妹は、やはり艶やかに笑った。


「淑女は、殿方の前では可愛くなければなりませんでしょ?」




       ◆




 兄の背が、扉の向こうの薄暗がりへと消えてゆく。

 子供の頃からあの背中を見送るたびに感じてきた漠然とした不安が、今は押し潰されそうな程にカーラを苛んだ。


(あぁは言ったけれど)


 本当は、手の震えを堪えるので必死だった。兄に気付かれないようにと気丈に笑みを作ったが、もしかしたらカーラの不安などお見通しかもしれない。兄は結局、優しいから。

 だからこそ、今は怖いなどと弱音を吐いていられる状況ではない。

 カーラは言われた通りに前庭の噴水に向かうと、リォーが全開にした扉が見える位置に身を潜めた。何かあれば噴水を盾にして逃げ、必ず大声で兄を呼ぶようにとも言われている。


(……善の神アレティよ)


 カーラは、震えを止めるためにも、右手で左拳を強く握り締めた。祈りと幸運を司る善の神へと、兄たちの無事を願う。


(あなたの恵みを求める者がいます。あなたのたった一つの吐息の欠片で良いのです。私たちを追いかける危険を遠ざける幸運をお与えください……!)


 折角着替えた新しいドレスの裾が土で汚れるのも構わず、地に両膝をつく。


(お兄様、おねえさま、無事でいて……!)


 その後は、ひたすらに見えない扉の奥を凝視した。微かに悲鳴や物音が聞こえるたびに、恐ろしさから肩を揺らした。

 カーラにはその時間が永遠にも等しく思われたが、実際にはそれほど長くはなかった。


 バリンッ


 と、甲高い破砕音が庭に響いた。


「ッ!?」


 本能的に出そうになった悲鳴を、両手を塞いで抑え込む。淡褐色ヘーゼルの瞳を必死で動かす。

 薄い陶磁器か、食器か、窓か。目に見える窓には変化はない。と見ていた視界に、人影が飛び出してきた。


「ッ!」


 その男は、鳥が空を飛ぶように、当たり前のように宙に浮いていた。

 碧空を睨み上げ、更なる飛翔のために僅かに体を屈める。その時、緑眼が不意に動いて、異分子――カーラを視界に捉えた。

 ゾッと、全身が総毛立った。


(……こえを)


 声を上げなければならないと、頭では分かっていた。けれどその緑眼の前では、そんな思考は何の役にも立たなかった。


「…………」


 にぃ、と。その薄い唇が、小さく動いた。



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