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第56話 伯爵邸に迫る危機

 緊急連絡用の狼煙を確認して山の上の屋敷へと向かった、執事である夫の言いつけを、アーレアは恐ろしい思いで守っていた。


『それでは、行ってくる。戻ってくるまでは警戒を怠らないように。何かあれば全員で固まって、いつでも逃げられるようにしておきなさい』

『……お気をつけて』


 あの屋敷へと見送るのは毎月のことだが、こんなにも心細いのは初めてだった。妙に胸が騒いで、落ち着かない。

 それでも、ライルード家の家政を取り仕切るアーレアに、震えて待つという選択肢はない。

 息子のヤクタは、屋敷に残る夫人たち――前当主夫人であるロサと、現当主夫人であるマレ、次期当主夫人であるメェリタの三人に現状を説明しに行った。

 その間に、アーレアは山の上の屋敷が確認できる窓の前へと移動した。その数分後にはヤクタもその場所に合流し、二人で屋敷の動向を窺った。

 ヤクタの手には包丁が握られていた。台所から拝借してきたのだろう。この屋敷には剣や槍などの武器も保管されているが、執事の息子であるヤクタは護身術程度しか身に着けていない。慣れない武器よりも、使い慣れた包丁の方が幾分もましだろう。

 相手が屋敷の女児であれば傷つけるために振るうことは出来ないが、威嚇にはなる。

 そうして、息を詰めて見守ること、十数分。

 半分以上木々に隠れた屋敷から爆発音と白煙が立て続いて、アーレアは顔を覆ってその場にくずおれた。


「……あぁ、エスト!」

「父さん……!」


 真っ先に脳裏を占めたのはやはりほんの少し前に見送ったばかりの夫の安否だったが、アーレアはそこで踞りはしなかった。

 決然と顔を上げると、歯を食いしばる息子を伴って窓から離れる。


(あぁ、やっぱり……!)


 アーレアは、懺悔も後悔も出来ないまま主の部屋へと走った。

 夫と共に、むごい罪に見て見ぬふりをしてきた罰が、ついに下ったのだと。神は見ておられるのだと、ただそればかりが頭を巡る中、ノックも忘れて扉を開く。


「大奥様! 奥様! お逃げください、ここは危険です!」


 前当主の妻であるロサの部屋には、部屋の主である総白髪の老婦人と、現当主の妻であるマレとが揃っていた。

 恐らく、有事の際の意志を確認していたのだろう。二人の険しい顔を見れば、返事は容易に想像できた。


「……わたくしは逃げません」


 書斎机の前に座っていたロサが、先陣を切って言った。アーレアはやはりと悲鳴を上げた。


「大奥様! 屋敷が壊されたのですよ!?」

「それでも、ライルード家の人間は、この屋敷より他に逃げ込む先などもちません」


 こんな時だというのに、相変わらずロサの意志は鉄壁だった。一度決めたことは何があっても曲げず、隠し事や疚しいことを嫌い、潔癖なまでに清廉だ。

 加えて情に深い方で、執事である夫に嫁いできた当初、寂しさに参っていたアーレアを、実の娘のように労わってくれた。

 いつでも帰って良いのよと、あなたはあなたの好きにして良いのよと、事あるごとに言ってくれた。血縁のないアーレアまで罪を被る必要はないのだと、何度でも逃がそうとしてくれた。だからこそ、生まれた女児を取り上げる度に屋敷に閉じ込める非道から、目を逸らさないでいられた。

 だからこそ、十一年前に前当主である夫を亡くした時などは、目も当てられなかった。彼らは夫婦である以上に、戦友であり、共犯者だった。さぞ辛かったろうに、結婚した時に天寿を全うすると約束したからと、気丈に振舞った。涙を見せてくれないことが、アーレアには辛かった。

 ロサはいつだって、誰かのためを思っている。だからこそ、こんな時ばかりは自分のことを最優先に考えてほしかった。


「わたしの実家があります。ご案内しますから、ひとまずだけでもそこに」

「それで、あなたの生家にまで被害が及んだらなんとするのです」

「そんなこと!」

「これまで何十年とライルード家に……わたくしたちに仕えてくれたあなたに、恩を仇で返すような無様は堪えられません」

「大奥様……!」


 違うのだと、アーレアは叫びたかった。恩を受けたのは自分の方だ。今こそ、恩を返す時なのだ。

 けれどそう言葉にする前に、傍らに立つマレまでが同調した。


「お義母様がそう仰るのなら、わたくしも残りますわ」

「奥様まで!」


 アーレアは目を剥いた。

 普段は陽気で冗談を好み、この屋敷の雰囲気を明るくしてくれていたマレまでが、真剣な目をしてアーレアを追い出そうとしている。


「お逃げなさい。メェリタを連れて。あの子だけなら、息子が戻る夕方まで外に出ても、……神様も、お許しくださるでしょう」


 まだ嫁いできて一年にも満たない次期当主の妻は、十七歳とあまりに若い。いざとなれば、離縁という形で生家に戻すことも出来る。

 二人の考えは分かったが、アーレアには他にも懸念があった。


「赤子は……どうなさいますか」


 赤子は生まれて二週間と少しの新生児だ。当主が戻ってからということで、名前もまだ候補はあるが未定のままだ。


「あの子は……わたくしが預かります」


 マレが、悲痛な顔を隠せずに、言った。


「ですが、それは……」

「ライルード家の子供は、男でも女でも、外に出すことはまかりなりません」

「そんな……」


 アーレアは、それ以上説得する言葉を探せなかった。

 ライルード伯爵家の女児は言わずもがな、男児でさえも、その血を残すことを最重要課題としてはいない。男児が七歳になれば、その後の不慮の事故や病気の発生率を考慮せずに女児に死の宣告をするのも、そのためだ。

 七歳前は神の内。その後に男児が絶え、一族が滅びるのなら、それもまた神の御意志だと。

 だが、アーレアは別の不安が胸を過った。


(まさか……奥様は、ご存知なのでは……)


 アーレアが、この屋敷に来て初めてした隠し事を。誰にも、夫にさえ打ち明けてはいないのに。

 しかしそれを質すよりも先に、扉の外で待っていた息子のヤクタが入ってきた。母の手を、恐ろしいほどの強さで掴む。


「母さん、逃げよう」

「ヤクタ! そんな馬鹿な真似ができるわけ――」

「大奥様、奥様、感謝します」

「いいえ。それはこちらの言葉よ」

「若旦那様がお戻り予定の時刻には、戻ってまいります」

「えぇ。アーレアを頼むわね」


 ヤクタの事務的な声に、ロサが穏やかに微笑む。アーレアは堪らず息子を突き飛ばした。


「おやめ! こんなこと、神様だってお許しにならな――」

「死んじまったら、許すも許さないもないだろ!」

「ッ」


 息子の怒声に、アーレアはひゅっと首を竦めた。山の上の屋敷から報復が訪れると思っていたのはアーレアだが、具体的な惨事など一つも考えていなかったのだ。

 だが息子の言葉に、アーレアは嫌でも爆発に巻き込まれた可能性の高い夫のことを想起してしまった。無理やり抑え込んでいた恐怖が、油然とアーレアに襲いかかる。


「し、死ぬなんて……そこまでは」

「それに、旦那様だってこうしろって言うはずだ」

「……ッ」


 現当主であるライルード伯爵オクトーのことを持ち出されてしまえば、アーレアにはもう反論の余地もなかった。

 オクトーもやはり母であるロサを見習うように、使用人たちに無理強いも無体もしたことはなかった。領民はいないながら爵位は古くから続く由緒ある家門だというのに、見栄に大金をかけることもなければ、狩猟や社交に大半の時間をかけるでもない。

 当主としての仕事がない時は、アーレアたちも含めて本当の家族のように分け隔てなく接してくれた。帝国貴族の誰よりも優しい良い主人だと、夫のエストと口を揃えて言ったものだ。

 アーレアは涙目になりながら、息子に引っ張られて廊下に出た。廊下の奥の、若夫婦の部屋へと向かう。


「若奥様。避難します、こちらへご一緒に」

「!」


 ノックと同時にそう言ったヤクタに、次期当主の妻であるメェリタは慌てて赤子を抱き上げた。丁度汗を拭き、服を着替えさせていたところだったようだ。赤子を包むおくるみが、酷く乱れている。


「避難って、エストの身に、何か……」

「分かりませんが、とにかくここにいては危険です。何事もなければ、父が知らせに来るでしょう」

「わ、分かりました」


 ヤクタの迫力に、メェリタは気圧されたようながら頷いた。

 メェリタの産後の肥立ちは良く、そろそろ小走りできるくらいには体力も回復しているはずだ。だがその力がなくとも、彼女が赤子を抱く手を緩めることはないだろう。

 まだ生まれて一月と経たないが、彼女の中には妊娠中からしっかりと母親としての意識が築かれていた。

 しかしそれは、ヤクタに伴われてロサの部屋に入った途端、弊害となった。


「メェリタ。赤子をこちらへ」

「な、何故ですか?」

「ライルード家の赤子は、性別に関係なく外には連れていけません」

「そんな……」


 決然と述べた義祖母に、メェリタがふらりと蒼褪めた。こんな状況でもむずがるだけの豪胆な赤子を抱く手に、ますます力を込める。


「できません! この子は、あの方と私の子供です。手放すなんて、そんな」

「エストが戻ってくるまでの間です」

「それでも……出来ません」


 頑迷に首を縦に振らない若妻に、ロサとマレは困ったように顔を見合わせた。

 この若夫婦は、仕事で外に出ていた時に運命的に出会ったとかで、二年経った今もその熱が冷めることがなかった。ライルード家に嫁ぐのは大変なことだからと何度も説得したが、元々身寄りがないということもあり、二人の意志を曲げることは出来なかった。

 そんな二人の子供だ。引き離すのは容易ではない。

 ロサは緩慢な動作で椅子から立ち上がると、扉の傍に立つメェリタに歩み寄った。小柄な少女を、慈しみの瞳で見下ろす。


「ここにいては、殺されるかもしれないのですよ」

「でも、何事もないこともあるのでしょう? あの屋敷にいるのは、今はお義姉様お一人だって……」


 それは、誰にも否定できない可能性であった。ために、ロサたちもそれ以上の説得が困難を極めることを承知していたのだろう。


「……分かりました」


 マレと目顔で頷きあうと、ロサがそう言った。そのあと、視線をアーレアたちに向むた。


「アーレア、ヤクタ。ひとまず、あなたたちだけ先にお逃げなさい」

「ですが、それでは」

「メェリタには、生まれ育った村に向かうよう説得します」


 有無を言わせない言葉に、肚を決めたヤクタでさえ一瞬返事に詰まった。

 いくらメェリタが平民育ちとはいえ、ここから一人で下山するのは危険だ。

 しかし、ヤクタは頷いてしまった。


「……心得ました」

「ヤクタ!」

「いいから!」


 思い留まらせようと縋ったアーレアの腕は、反対にヤクタに掴まれて部屋から引っ張り出されてしまった。そのまま、母の声も聞かずに裏口から外へ出る。

 馬車が通るように常に整備されている前庭と違い、裏庭は菜園があるほかは、狩りや採集、墓参りに行くための細い道しかない。表の通りに合流する道は、屋敷の者にしか分からないだろう。

 息子に手を引かれて走りながら、アーレアは徐々に小さくなっていく屋敷を振り返った。


「……若奥様は、ご納得すると思うかい?」

「…………」


 ヤクタからの返事はなかった。答えなど分かりきっていた。

 メェリタは、きっと拒否するだろう。赤子と離れるくらいなら、共に残ることを選ぶだろう。

 彼女はまだここに来たばかりで、山の上の屋敷の中に五百年凝り続けた憎悪の深さなど、知る由もないのだから。

 そしてロサもマレも、まだ何も分かっていないメェリタを――息子がやっと得た大切な女性を、なんとしても守ろうとするだろう。

 彼女は、ライルード家の罪と希望の両方を、その身に宿しているのだから。


(エスト……奥様方……どうかご無事で……!)


 山を下りるまで、アーレアは歯を食いしばって全ての神に祈り続けた。



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