第46話 治療
光の先は、外ではなかった。
扉の向こうにあったのもまた石の壁と床で、等間隔に架けられた篝火の明かりで、ここが古い石積みの建物だということが知れた。
手押し車を押して、階段に並走する坂道を上りきっても、景色は変わらなかった。石壁は歳月を感じさせるように黒ずみ、ところどころ削れたり割れたりしている。床にも板ではなく石が敷き詰められ、初夏だというのに冷気が這い上がってくるようだ。
「ここってまだ地下ですか?」
「一階ですよ」
クァドラーはそう教えてくれたが、全体的に薄暗くて、地下から出られたという実感は薄い。ざっと見る限り、窓が一つもないせいだろうか。
(なんだか、閉鎖的な空間)
感じる雰囲気だけでも、やはりただの民家とは言い難い。外を確認できないのもまた、レイを不安にさせた。
「こちらの部屋を使ってくださいです」
そう言ってクァドラーに案内された部屋は、寝台と机と椅子があるだけの簡素な部屋だった。どちらかと言えば広いし、家具も立派で、安物ではなさそうだ。
しかしどれも古色蒼然としていて、年頃の娘が暮らす部屋というには少々不釣り合いだ。ここには窓があったが手の届かない高さで、しかも鉄格子がはまっている。
(なんか、いちいち不穏なのは何でだろう?)
茜色の四角い空を見上げながら、不安を深める。しかしここで嫌だと言ってもどうにもならない。
レイは嫌がるハルウの手を借りて、リォーを寝台に俯せに寝かせた。
「リォー。ここで休んでて。カーランシェを休ませたら、すぐ来るから」
「あぁ……。気を付けろ」
リォーが弱々しい声で応じるのに頷いて、部屋を出る。
再びクァドラーに先導してもらい、からからと手押し車を押す。次の部屋は、廊下を直角に曲がった先だった。
「あの、できれば近い部屋がいいんですけど」
「ここが一番近いですよ?」
どんな意図があるのかと警戒しながらの要求に、クァドラーはきょとんと答えた。
変な家、と片付けるには、不審な点が多すぎる。しかし今は確かめている時間も惜しい。
レイはハルウに頼んで、疲れ切ったように眠り続けるカーランシェをそっと寝台に横たえた。全身を慎重に触診し、大きな怪我などがないか確かめる。
(疲れただけ、かな)
思えばカーランシェにとっても、朝から二人の兄が消えたことで、心労が溜まっていたのだろう。数時間以内に目覚めるなら、問題はないはずだ。
「ハルウ。リォーの傷を診てくるから、その間カーランシェを見ててくれる?」
「……分かった」
室内にあった椅子に腰かけ、ハルウが力なく応じる。その様子に、レイは行くに行けず顔を覗き込んだ。
「ハルウも、どこか痛むの?」
今日は色々とありすぎて、こんなに顔を近付けることも随分久しぶりのように思う。普段なら、ここぞとばかりに抱きついてくるのだが。
「平気。怪我はしてないよ」
穏やかに答えるだけだった。
思えば、ハルウとは物心つく前から共に暮らしているが、病気になったのは見たことがない。軟弱そうではあるが、虚弱ではないのだ。こんな時だし、レイはますます心配になった。
だがそこに、ふさふさの黒い尻尾が割り込んだ。
「行きな」
「ヴァル」
思えば、ヴァルだけが平常通りのようだった。ヴァルがいればひとまず心配はないだろう。
「ヴァル。二人をお願い」
「平気だって言ったろ。それより、あたいは散策してくる」
「ヴァル!」
つれなく拒絶されてしまった。そのまま部屋から出ていってしまう。
レイは途端に不安に駆られたが、ここで悩んでいても事態が好転するわけではない。とにもかくにもと部屋を出た。
だが廊下を戻ろうとしたレイに対し、クァドラーは手押し車を押して反対側に歩き出してしまった。慌てて引き留める。
「クァド……さん、一緒に来てください」
「でも、治療具がないと何もできないですよ?」
敵か味方か分からないうちは、動ける自分と行動を共にしてもらうしか対処ができないと思っての発言だったのだが、返されたのは意外にも親切心だった。
「お、お願いします」
「すぐ戻りますので」
疑ってしまった後ろめたさから、おずおずと頭を下げる。その間にも、クァドラーが小走りで廊下の奥に消える。そして宣言通り、数分もせずに戻ってきた。手押し車には大小二つの木箱に、大量の白い布、蝋燭、水の入った桶まである。
こうして、レイはクァドラーと共にリォーの待つ部屋に戻ったが、神法が使えないレイにできることなど何もなかった。聖砦で念のためにと習った応急処置くらいしか知識もない。
(と、とにかく、鏃を抜かなきゃ)
そう、意を決したところで、左肩を掴まれた。
「さ、座ってくださいです」
「へ?」
ぽんっと押され、そのまま後ろの椅子に座らされる。見上げるレイの目の前で、床にしゃがんだクァドラーがさっさと木箱を開いていた。
「あ、あのっ、治療はリォーを先に」
「背中の矢が刺さったままなので、まだ平気です。それより、先にあなたの傷口を塞いだ方が良さそうです」
「そんなこと……っ」
反駁しながらも、レイは自分の右の肩口を見てぎょっとした。浅いと思っていた傷口から染み出した血で、外套も下の服も真っ赤に染まっていた。貧血を感じたのは神法のせいと思っていたが、どうやらそれだけではなかったらしい。
現実を見てしまった途端、くらりと視界が揺らぐ。矢を強引に抜いたせいで、傷口の蓋がなくなって失血が悪化したらしい。
「で、でも、あの……」
「ひとまず包帯を巻いて止血するだけです。服を脱いでもらえれば、すぐ終わりますです」
子供を言い聞かせるように、クァドラーが優しく説明する。レイは考えるにも頭が痛い気がして、言われるがままに頷いていた。
寝台にいたリォーが黙って壁側に顔を動かしたが、レイはそれにも気付かなかった。
結果から言えば、クァドラーの治療は手慣れたものだった。
傷口はそれほど大きくないということで、消毒して清潔な布を当て、包帯で少し強めに圧迫して終わった。
だがリォーの治療は大変だった。
まずリォーは、苦そうな黒緑色の汁を飲ませるところから始まった。痛覚を鈍らせる薬草らしい。それが効いてくるのを待って、食い込んだ鏃を抜くために皮膚を少し切り、そこに血止めの薬を丁寧に塗り込む。これだけでもレイは顔を背けたくなったが、クァドラーは顔色ひとつ変えなかった。
リォーは最初から承知していたのか、自分から脱いだ服を噛んで苦鳴を堪えていた。そのリォーに、クァドラーは淡々と自分の作業を説明しながら進めていた。
レイはその間クァドラーの指示で、最低限の失血に抑えるためにと、傷口を布で押さえて圧迫止血していた。だが白い布はすぐ血で重くなり、レイは「ごめんね」と「押さえるよ」を何度も繰り返した。
最後は、傷口を針と糸で縫い合わせた。針の先を蝋燭の火で熱し、拭いても拭いても血が広がる皮膚をゆっくりと縫い合わせた。部屋には肉の焼ける臭いと血臭とが漂い、リォーの歯ぎしりと呻き声が断続した。
たった二ヶ所を縫われるのを見守るだけなのに、レイは心臓が破裂しそうなほど緊張した。無事終わったと言われた時には、両手が真っ赤になっているのも忘れて床にへたり込んでいた。
その間にも、クァドラーは左足の傷口が開いていると言って、そこにも同じように消毒と止血を施しながら、「それはそうと」と話題を変えた。
「ずっと気になっていたのですが、この甘い匂い、なにです?」
「……あ」
実はリォーの胸と左腕にも、鮮血のような赤い液体がべっとり付いていた。善性種の長老が餞別だと言って投げ渡した、血紅柑の果汁だ。
翼下避行の神法に間に合うよう、竜蜥蜴の牙で強引に押し出された時に潰れたのだろう。ズボンの裾にも飛び散って、割と酷い見た目になっている。
「果物の汁、ですね。あ、血じゃないですよ」
今更な補足ではあったが、レイは血紅柑について説明した。とは言っても、何故長老があんな大変な時にこんな果物を寄越したのかなどはさっぱり理解していないレイである。
「じゃあ、お二人の服はあとでまとめて見繕いますですね」
クァドラーが残った水と布で自分の手を拭きながら、そんな風に締めくくる。
手伝いだけですっかり疲労困憊になっていたレイは、その何でもない(わけでもないが、治療に比べれば何倍も平和な)会話に、ようやっと色んな緊張が解けてきた。レイもクァドラーに倣って、手についた血を拭う。
血の臭いは消えなかったが、肌の色はどうにか見えるようになった。それだけでも、精神的に落ち着いた気がする。
「あとはよく食べ、よく寝るだけです。血になる食べ物を持ってきますですね」
クァドラーは悲惨な見た目になった手押し車を押して、普通に退室していった。外見的には優しそうな女性にしか見えないのだが、意外にも剛胆なようだ。益々謎が深まった気がする。
一緒に行動した方がいいのは分かるが、今のレイに彼女を追いかける気力は残っていなかった。
そのままリォーの寝台にもたれて、荒くなった呼吸を整える。何度も深呼吸をしてから、同じく息の荒いリォーに問いかけた。
「大丈夫?」
眠るか気絶できればまだマシだったろうが、残念ながらリォーはそこまで弱くもなかった。
「……手順は、間違って、なかったから、いい……」
少しの間を空けて、息も絶え絶えにそう答えが返ってきた。聞きたかったのはそこではなかったのだが、本人が良しとしているのでそれ以上の追及はやめておいた。
「……剣は?」
「え? あ」
突然言われ、レイはそういえばと身を乗り出す。
地下墓所で突然光りだしたリォーの剣のことだ。治療中もずっとその右手に握られたままだったが、どんなに観察しても剣身にも彫言にも光の残滓すらない。
「光ってないね」
「……。そうか」
レイの回答に、リォーはそれだけで応じた。何らかの見解があるかとも思ったが、その先はなかった。
「少し、眠る……」
代わりに小さくそう言うと、すぐに寝息が聞こえてきた。
呼気は熱く、額には大粒の汗が浮いている。レイは治療中に何度もしたように、手拭いで汗を拭き取った。
だがそれもすぐに終わり、部屋には自分とリォーの吐息だけが響く。
(大丈夫、だよね?)
リォーもクァドラーも、命に別状はないと言っていた。熱が引かないようなら熱冷ましの薬草も用意するとも言われたし、カーランシェにも、必要なら気付けの香を焚くとも言ってくれた。
あとはこの場所が安全かどうかを確認すれば、しばらくは安静にする時間も確保できるはずだ。
だが、レイの心が安らぐことはなかった。
(私が、帝国に来たから……だよね)
皆がこんなにも傷付いているのは自分のせいだという思いが、時間が経つにつれ強くなっていた。
王証が見つかったことがこの争いの契機だというなら、レイに直接の原因はないはずだ。
だがカーランシェを巻き込み、善性種の里にまで被害を出したのは、どうしても自分が関わったせいだという思いが消えなかった。
それが行き過ぎた被害妄想だということも、頭の片隅では分かっている。
だが九年前の式典での失敗や、その他の幾つかのことから、どうしても不幸の原因が自分なのではと考えてしまう、いわゆる思考癖が拭えなかった。
(客観的に見ろって、いつもヴァルに言われてるのに)
それが優しい慰めと厳しい戒めの半々でも、レイには必要な言葉だと分かっている。だからレイは意識的に呼吸を深めると、なるべく雑念を追い払うように意識した。
それは祈りの時間に似ていて、自然と襟の下に隠した首飾りに手が伸びる。
(双聖神が一柱、女神ユノーシェル。我らが聖大母様。私を心の苦悩から解き放ち、苦難から引き出す道をお示しください)
首飾りの先の黒泪を両手で握りしめて、迷いよ鎮まれと祈る。それはいつもただの気休めだったが、この時ばかりはレイの意識を別のことへと逸らしてくれた。
「? あったかい……?」
握りしめた黒泪が、ほんのりと温かい気がしたのだ。指を開いて見てみればいつもの通りだったが、よくよく意識を凝らせばささやかすぎる変化に気が付いた。
「うそ……脈打ってる?」
とくん、とくんと、左手の平の上で、石が震えている、気がした。
だが更に意識を集中してみれば、何もない右手も脈打っているし、何なら全身がどくどくと波打っている気もする。
どうやら、失血の影響でそう勘違いしただけのことらしい。
「なぁんだ」
びっくりした、とレイは大きな息を吐く。
そもそもこの黒泪は、最後の聖砦の祭壇にある宝玉、無退石を模した模造品に過ぎない。祖母の加護があるだけで、何の力もないはずだ。
(御守りって言われてるけど)
とりあえず、今までの度重なる危機に際しても何の変化もなかった。ただの装飾品が脈打つなど、あるわけない。
というか、今はこれ以上頭を悩ませるようなことは起きてほしくない、と心底思うレイであった。




