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幕間 一つの信仰

 ガギィンッ……!


 荒れ果てた森に、上下の歯列が乱暴に噛み合う音が響く。

 薙ぎ倒されてバキバキに折れた木々、木々を踏みつけて立ちはだかる黒光りする竜蜥蜴グアンロン……そのあまりに現実離れして凄惨な光景に、ネストル・フィデスは自分の出した命令も忘れて釘付けになった。


(喰われた……青の皇子も、王女も)


 悲鳴も呻き声もなかった。あの太い牙に体を貫かれるか、磨り潰されでもすれば、そんな余力は生まれる隙もなかったろう。

 今まで帝国軍が辛うじて逃げ遂せていられたのは、本気でなかっただけだ。それこそ、猫が鼠をいたぶる程度の。

 それ程に、太古より生きる魔獣は強大で、圧倒的であった。


 しかし呆然とする時間などなかった。

 青白い光ごと何人も呑み込んだ竜蜥蜴は、しかしまるで怒りが収まらぬというように凶悪な唸り声を上げ続けている。口の端からボロボロと土と赤い染みを零し、次の獲物を求めてたった一つの凶眼をぎょろつかせる。

 その怖気が走る程の殺意と、赤黒い染みが出来た地面の二つを前に、ついに帝国軍の戦意は瓦解した。


「――ぁ、ぅぁあああぁぁっ!」

「む、無理だあんなの!」


 絶望的な悲鳴があちこちから上がり、誰もが我先にと逃げ出す。そこに、上官命令には疑問は挟まず絶対服従の、徹底した規律と統率を重んじる屈強な兵士は見る影もなかった。


「て、撤退! 目標喪失! 一時撤退しろ!」


 声を枯らしてそう叫びながら、ネストルは誰よりも早くその場から逃げ出していた。護衛がついてきているかどうかを確認する余裕もない。


(く、食い殺された。皇族を、二人も……!)


 これは皇位継承権のみならず、エングレンデル帝国にとっても大きな問題に発展しかねない事態であった。帝国が、クラスペダ山岳地帯が目と鼻の先にある場所に首都を構えたのは、青帝サトゥヌスと竜蜥蜴との約定があったからだ。

 だがそれを、竜蜥蜴は躊躇いなく破った。

 否、破らせた。


(もしそんなことが知れたら……)


 帝国軍はここ一帯の魔獣討伐に本格的に乗り出すだろう。市街への被害も出るかもしれない。そうなった場合、ネストルへの糾弾はどうなるか。考えたくもない。


(あぁ、くそっ……第三皇子が生きていれば全てが丸く収まったのに……!)


 リッテラートゥスの助言通りフェルゼリォンを生きて捕獲できれば、皇太子殺害の容疑だけでなくクラスペダ山岳地帯への過剰介入や危険行動などの名目で、今回の全ての罪を擦り付けた上で継承権も確実に剥奪することができるはずだったのに。

 だがこうなってしまえば、仮定の話は最早無意味だ。


(今最も重要なのは、陛下になんと報告して自分の身を守るかだ)


 ネストルの頭にあるのは、ただただそれだけだった。




       ◆




 聖拝堂の中は、最も心が落ち着く。

 祭壇手前の天井から吊り下がる双聖神像を円で囲ったレリーフが、西日を弾いて、聖拝堂内のあちこちにかそけき光を散らしている。

 その光がごくたまに、祈りを終えて両手をほどいた掌の上で、優しく揺蕩っている時がある。

 それを見た瞬間、今までの祈りの全てを肯定されたような、見透かされたような、尽きることのない神の愛を感じるのだ。


「あぁ……やはり神はわたくしの行いをお喜びになっていらっしゃる」


 男は、熱い吐息混じりの声でそう呟いた。聖拝堂のアーチ型の高い天井に、張りの失せた掠れた語尾が二度、三度と響いて消えていく。

 若い頃であれば、神識典ヴィヴロスを読み尽くしたこの声はもっと朗々と長く幾重にも響いたのに。


(……老いたな。もはや時間はない)


 至上の青の子を望み続けて、早数十年。夢にまで見た青帝の復活が、もうすぐ現実になるかもしれない。果てしない祈りと、少しの労力で。

 手の平の光を優しく包み込みながら、男はその場に立ち上がった。

 見上げた先に、人はいない。司祭が立つはずの祭壇は無人で、通常信徒が座る身廊には椅子さえない。

 この聖拝堂に限っては、これが常の正しい姿だった。

 神識典を読む者も聞く者も、ここにはただ一人しか必要ない。


「ファナティクス侯爵様」


 だというのに、気配もない場所から呼びかけられ、ファナティクス侯爵コギートーは少々不機嫌になりながら振り向いた。

 半開きになった扉が作る影に溶け込むようにして、全身を黒い服に押し込んだ男が立っていた。黒髪の中肉中背で、僅かに覗いた肌が青白く浮かんでいる。


「バレト殿」


 コギートーは、この男のことをよく知らない。最初は二十代ほどかと思っていたが、ふとした時に四十代にも見えることがある。

 そもそも名前からして、古語で「つまらない」という意味だ。そして、ハィニエル派の人間はえてして素性や本名を明かさない。気にする価値もない。


聖拝堂ここには入ってこないで頂きたいと、前にも申し上げたでしょう」


 左腕に垂らした腕帛マニプルスを翻して、何もない身廊を通り、扉まで進む。今すぐにでも出て行けという意思表示だったが、男は身動ぎすらしなかった。


「しかし、外で私のような人間と会っていたと知られても、困るのはそちらでしょう?」


 笑っているのかいないのか判然としない顔で、男が言う。

 双聖神教が広く信仰されている地域において、その土地土地の特性や習慣と融合して様々な派閥が生まれるのは、何もエングレンデル帝国に限ったことではない。

 総本山であるプレブラント聖国が宗派や教義について言及したことは今までに一度もなく、ハィニエル派もまた幾つもある内の一つに過ぎない。

 そして誰がどの宗派に帰属しているかは制限されるものではなく、また見ただけで分かるものでもない。

 だからこの脅しは、まるで見当違いなのだ。

 コギートーは憤懣やるかたなく白い眉を吊り上げた。


「私の信仰は崇高なものです。やましいことなど一つもありません」

「えぇ、勿論。私たちには、ね」

「何が言いたいのです」

「私たちの崇高な信仰は、誰しもに理解されるものとは限らない、ということですよ」

「…………」


 バレトの言葉に、コギートーは余裕を残しつつも押し黙った。

 腹が立つものの、それは至論であった。誰しもが理解しないからこそ、双聖神を崇めるはずの信仰は幾つもの派閥に分かれてしまった。

 しかし最も尊く神聖な存在は、本来であればたった一人しか存在しないのだ。

 コギートーは発作のように背後のレリーフに向かって振り向くと、右手で左手を包み込んだ。


「おぉ、我が心の導き手、地上において最も尊き青き御方よ。あなたへの信仰が、何故こうも歪められてしまっているのか!」


 それこそが何よりも嘆かわしいとでも言うように、熱を込めて祈りを捧げる。

 実際、ハィニエル派にとって至青を重んじないことは何よりの罪であった。

 今でこそ青の王子は貴重と言われるが、青帝サトゥヌスの実子は皆青い髪と瞳を持っていた。兄妹婚や近親婚をしていれば、青き血筋は守られていたはずなのだ。


「やっとお生まれになった純粋な青の王子が神の御意志であると、私は正確に理解しております。今こそ、間違った道を歩む者たちを正しき道にお導き下さい」


 明朗と、恍惚と。篤信者の陶然とした声が、彼のためだけの聖拝堂に響く。それは実にさまになり、そして完璧であった。

 入堂許可を与えていない、この男さえいなければ。


「加えて、の人物の所には今、もう一人の神の子がいます」


 バレトが、高潔なる祈りを邪魔して言う。

 コギートーは仕方なく手を解くと、先日レテ宮殿で見た少女のことを思い出した。


「双聖神が一柱、ユノーシェル神の末裔、レイフィール王女殿下ですか」


 彼女がもし朱金の髪と太陽色の瞳を持っていれば、それこそ伝説の再来といえたが、あのみすぼらしい色合いでは、とてもフェルゼリォンとは釣り合わない。

 しかしバレトの方は、全く違う感想を抱いているようであった。


「もし二人がつがうことになれば……、天上がお赦しにさえなれば、再び神性を取り戻すことさえ、叶うかもしれませんよ」

「神性を……? おぉ、そうなれば……!」


 青帝の戴冠、聖大母との結婚。そうなれば、この世は再び神代となるではないか。

 コギートーは天啓のように脳内に煌めいた妄想に、頬を上気させてレリーフを仰いだ。他者がいなければ、今にも小躍りしたいほどに気分が良かった。

 子供の頃に夢見た世界が、自分が生きているうちに現実になるかもしれないとは。


「待ち遠しいですねぇ」


 扉の影に身を沈めたまま、バレトが同意する。その顔は微笑んでいるようにも、その道の険しさに今から思い悩んでいるようにも見えた。

 だが、どうでもいい、とコギートーは思った。



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